(甲府城HP)
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html
甲府城(天守)を訪れた事は(平成28年に)あるのですが、その時はまだ100名城スタンプの存在を知らず、スタンプ帳も持ってなかったため…まさにやり残しという存在でした。その回収をするために甲府市に来た今回の私🚃
スタンプ設置場所は2つあり、そのうちの1つが稲荷櫓(1枚目)という場所でした。今回はそこに入場…靴を脱ぎスリッパに履き替えて中に入ると…すぐそこにスタンプはありました
スタンプ帳に捺印(2枚目)…今回も試し押しして大丈夫と確認してからの本押しでした。他用あったため、手短に櫓内を見学
(HPからの案内文コピペ)
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。
甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。
明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。
櫓は二層から成り立っており、1階には(上記コピペとほぼ同じの)説明パネルが何枚もありました。石落とし(床下の隅から石を落として敵兵を妨害する為の設備)も…🪨
その他には鯱鉾の展示がありました(3枚目)。鯱瓦というものがこの城には使われていたそうで、装飾性の高い…金の鯱を施した瓦(展示品)が使用されていた…ゴージャス感ありますね✨
ちなみに甲府城の城主には徳川家光の弟…忠長も。甲府藩主として238000石を拝領するも元服前(当時数え年で12歳あたり)という事で実際入府することはなく、藩の運営は家臣団により行われていたのが実情だそう…
その後彼は猿を殺し過ぎたり酒に酔って罪なき者を次々と手打ち…ご乱行が過ぎて庇いきれなくなり…親父(二代将軍秀忠)に勘当されたり改易(領地没収)されたりし…最期は幕命により切腹(享年29)という自業自得かつ悲劇的な運命を辿った男💀
2階にあるのはジオラマだけでした(4枚目)。これは江戸時代あたりの城郭を再現したものと思われ…この中の本丸部分しか当時の面影を残すものは無い
(4枚目の手前側に見える御殿のような建物は)県庁や駅に取って代わり現在に至るわけです🏢🚉 赤い目印がここ稲荷櫓🏯
ここには天守台こそあれど…天守は無い。それに関する説明が無かった気がするので(城主の変遷はあっても)、存在自体よく分かってないのではないでしょうか?それにこの櫓が天守の代わりを務めてるのかもな…と2階に上って窓から外を見た時に何となく思いました
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