日本100名城

こうふじょう

甲府城

山梨県甲府市

別名 : 舞鶴城、一条小山城
旧国名 : 甲斐

投稿する
甲府城
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

天守無しがアツい

稲荷櫓 (2025/01/12 訪問)

(甲府城HP)
https://www.city.kofu.yamanashi.jp/welcome/rekishi/kofujyou.html

甲府城(天守)を訪れた事は(平成28年に)あるのですが、その時はまだ100名城スタンプの存在を知らず、スタンプ帳も持ってなかったため…まさにやり残しという存在でした。その回収をするために甲府市に来た今回の私🚃

スタンプ設置場所は2つあり、そのうちの1つが稲荷櫓(1枚目)という場所でした。今回はそこに入場…靴を脱ぎスリッパに履き替えて中に入ると…すぐそこにスタンプはありました

スタンプ帳に捺印(2枚目)…今回も試し押しして大丈夫と確認してからの本押しでした。他用あったため、手短に櫓内を見学

(HPからの案内文コピペ)
天正10年(1582)甲斐国は戦国大名・武田氏の滅亡後、まず織田信長の領国となり、本能寺の変の後は徳川家康の支配するところとなりました。しかし、豊臣秀吉が天下統一をなしとげると、秀吉の命令により甥の羽柴秀勝、腹心の部下である加藤光泰らによって築城が始められ、浅野長政・幸長父子によって完成をみました。また、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い以降は再び徳川の城となり、幕末まで存続しました。

甲府城は江戸時代の初めは、将軍家一門が城主となる特別な城でしたが、宝永元年(1704)時の城主・徳川綱豊が第5代将軍・徳川綱吉の養嗣子となり江戸城西の丸へ移ると、この後に祖先が甲斐出身で側用人の柳沢吉保が城主となり、大名の城として最も整備され、城下町とともに大きく発展しました。しかし、吉保の子・吉里が大和郡山城主として転封された後は、甲斐国は幕府の直轄地となり、甲府城は甲府勤番の支配下におかれました。その間、享保年間の大火により、城の本丸御殿や銅門を焼失するなど、次第にその壮麗な姿は失われていきました。

明治時代になると、甲府城も廃城となり、明治10年前後には城内の主要な建物はほとんどが取り壊されました。まず内城全体が勧業試験場として利用されはじめ、さらに翌年、鍛冶曲輪に葡萄酒醸造所が設置されるなど、城郭としての機能は失っていきました。また、現在の山梨県庁が旧楽屋曲輪内に設けられ、中央線敷設に伴い屋形曲輪、清水曲輪が解体されるなど、さらに城郭が縮小され、現在では内城の部分のみが城跡としての景観を保っています。

櫓は二層から成り立っており、1階には(上記コピペとほぼ同じの)説明パネルが何枚もありました。石落とし(床下の隅から石を落として敵兵を妨害する為の設備)も…🪨

その他には鯱鉾の展示がありました(3枚目)。鯱瓦というものがこの城には使われていたそうで、装飾性の高い…金の鯱を施した瓦(展示品)が使用されていた…ゴージャス感ありますね✨

ちなみに甲府城の城主には徳川家光の弟…忠長も。甲府藩主として238000石を拝領するも元服前(当時数え年で12歳あたり)という事で実際入府することはなく、藩の運営は家臣団により行われていたのが実情だそう…

その後彼は猿を殺し過ぎたり酒に酔って罪なき者を次々と手打ち…ご乱行が過ぎて庇いきれなくなり…親父(二代将軍秀忠)に勘当されたり改易(領地没収)されたりし…最期は幕命により切腹(享年29)という自業自得かつ悲劇的な運命を辿った男💀

2階にあるのはジオラマだけでした(4枚目)。これは江戸時代あたりの城郭を再現したものと思われ…この中の本丸部分しか当時の面影を残すものは無い

(4枚目の手前側に見える御殿のような建物は)県庁や駅に取って代わり現在に至るわけです🏢🚉 赤い目印がここ稲荷櫓🏯

ここには天守台こそあれど…天守は無い。それに関する説明が無かった気がするので(城主の変遷はあっても)、存在自体よく分かってないのではないでしょうか?それにこの櫓が天守の代わりを務めてるのかもな…と2階に上って窓から外を見た時に何となく思いました

+ 続きを読む

まさお

甲府市 甲府城跡 (2025/01/04 訪問)

年末に車を入れ替えたので、新車チェックを兼ねて山梨県甲府方面にドライブしました。
要害山城・武田氏館・甲府城を訪ねる予定でしたが、初詣時期で大渋滞に巻き込まれ
要害山城跡には辿りつけませんでした。
甲府城はJR甲府駅を挟んで大規模でよく整備されていました。
帰りも中央道の事故渋滞に巻き込まれてしまいました。
今年は「名城巡り」2年目ですので頑張りたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しげ

甲府城 (2024/12/22 訪問)

甲府城跡に行ってきました。

+ 続きを読む

にのまる

お楽しみチャレンジ3つ (2024/08/14 訪問)

2週間前に身延線各駅停車での完乗と勝山城訪問で行ったばかりですが、また甲府です。リニア見学センターに行ったあとに大月から移動しました。

【チャレンジ①:信玄公像と風林火山マンホールを一枚の写真に収める】
甲府に行ったらやってみたいと思いつついつも忘れてしまっていました。信玄公像は駅南口。風林火山マンホールは横断歩道を渡ったところにあります。
リュックを背負っての電車旅が常で、手回り品を少なくするべく数年前にデジイチを手放し、最近はコンデジすら持たなくなったのでカメラはスマホのみ。しかもシングルカメラのiPhoneSEなので機能に頼ることもできず。結果、裸眼で見たままで、かっこいいコラボ写真には程遠い写真しか撮れませんでした。でも目的は果たせたのでOK🙆‍♀️です。

【チャレンジ②:甲府城と東横インのベストアングルを探る】
午前中に岩殿城でも《城と東横インチャレンジ》をしたのでこの日2城目です。
真っ先に天守台に上がりました。「東横イン甲府駅前」は風林火山マンホールの少し先。遮るものもなくいい感じで収まります。銅門そばのお手洗いが視界に入りますが、このお手洗いが本丸防御の如く建つL字の隅櫓の体を成していて、瓦、壁、窓どこを見ても“たかがトイレ”と言わせない本気の作事ぶり。城のトイレのアイコンともいえる海鼠壁模様も採用しておらず景観を壊すことなく周囲に溶け込んでいるので、写り込んでも全く気になりません。
本丸に下りてみました。天守台の上からだと石垣を大きく捉えることは難しかったのですが、下からだと銅門石垣の中にちょうど収まりました。

【チャレンジ③:武田三代の銅像を一日でまわる】
それぞれ何度も行っているので同じ写真がたくさんあるのですが、振り返ってみると一日で三代すべてを撮ったことはなかったかも?ということでチャレンジです。
甲府駅北口の信虎公、南口の信玄公は余裕でいけます。勝頼像があるのは上り方面・甲斐大和駅の北口。甲斐大和は通過待ちをしたりしなかったりで停車時間も長かったり短かったり。今日はどうかな?と思いながら帰りの電車を時刻表で調べると12分の停車!12分あれば改札を出て写真を撮って余裕で戻ってこられます。(※乗り降り自由の18きっぷ利用です。)
これで難なく三代コンプリートできる(^^)と思ったのですが、折しも“南海トラフ地震臨時情報”の発表で電車は減速運転中。甲府を出てから少しずつ遅れていき、甲斐大和駅には8分遅れで到着。これにより12分の停車予定が4分になり、遅れを取り戻し定刻発車できるのは嬉しいことではあるのですが、勝頼像まで行って戻ってこられるかは微妙。ということでチャレンジは諦め、コンプリートならずでした。

また何か楽しいお城あそびを思いついたらやってみたいと思います(^O^)/

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

概要

武田氏滅亡後に豊臣秀吉の重臣である浅野長政・幸長父子らによって、一条小山の地に築かれた平山城。関ヶ原合戦後に徳川家康が一門のための城とし、後年に城と城下町がさらに整備されていった。粗割石を用いた野面積による高石垣や、穴蔵があり平面が不整形の天守台など、見事な石の造りが目立つ。

城郭情報

城地種類 梯郭式平山城
築城年代 天正11年(1583)
築城者 徳川家康
主要城主 浅野氏、徳川氏、柳沢氏
文化財史跡区分 国史跡(甲府城跡)
天守の現況・形態 不明
主な関連施設 櫓、門、塀、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)、虎口、枡形
住所 山梨県甲府市丸の内1-5-4
問い合わせ先 甲府市観光開発課
問い合わせ先電話番号 055-237-5702