南北朝期に南朝方として活動した岸和田氏が拠点とした城館(岸和田古城)を前身とし、戦国期に現在地に拠点を移して築城したと考えられます。その後は細川氏や三好氏のもとで松浦氏の城となり、織田信長の雑賀攻めの後は津田信張、次いで蜂屋頼隆が城主となりました。本能寺の変の後には羽柴秀吉が中村一氏を城主とし、小牧長久手の戦いの際に攻め寄せた紀州勢(根来衆・雑賀衆ら)を撃退しています。翌年の紀州攻めでは秀吉が岸和田城に入って周辺の紀州勢の城を攻略し、紀州平定後には小出秀政が城主となって五重の天守を建てるなど大改修しました。豊臣氏が滅亡すると、松平康重が入って外郭・防潮石垣・城下町・紀州街道を整備し、伏見櫓を移築して近世城郭として完成させました。そして江戸前期に岡部宣勝が入封すると、岡部氏が13代続いて明治を迎えています。
隣接する市役所には仕事で何度か来ていますが、ようやく登城することができました。近くの駐車場から大手櫓門を抜けてまずは本丸へ。櫓門に打ち付けられた鉄板は程よく錆びていて、復興ながら雰囲気があります。門をくぐった正面には岸和田城址碑があり、大正に立てられたものらしく全文漢字でした。本丸には岸和田城庭園として諸葛孔明(三国志)の八陣法をテーマにした「八陣の庭」が広がっています。諸葛孔明と岸和田城に何の関係が? と思わなくもないですが、八陣の庭越しに眺める天守はなかなか見栄えがしますし、天守にしてからが往時の五重を三重で復興したものなんですから、細かいことを言っても仕方ありませんね。
天守に連結された小天守から天守内に入城(大人300円)。続100名城スタンプを押すと天守1階展示室の常設展「岸和田藩と岡部家」を見学しました。駕籠以外は撮影禁止でしたが、岡部家歴代の藩主像に胴具足や陣羽織、所用の品々、描いた書画などが展示されていました。その他、様々な岸和田城図や積善寺城などをめぐった際に目にした「根来出城図」、「明智光秀公肖像画」に目を惹かれました。明智光秀公肖像画の原本は岸和田城から北東約600mの本徳寺に所蔵されていますが、通常非公開なので複製でも見られて良かったです。2階展示室では企画展「久米田寺と称名寺」が開催されていて、最上階には岸和田城のジオラマが展示され、高欄がめぐる展望台からは眼下に八陣の庭を俯瞰し、その先には城下町と大阪湾を見渡すことができます。天守を出ると、復興された多聞櫓と隅櫓に展示されている岸和田城と蛸地蔵絵巻のパネルを見学して、二の丸へ。
二の丸から内堀越しに本丸を眺めると、櫓門~土塀(背後に天守)~多聞櫓~隅櫓と見える全てが復興建物ですが、これはこれで見応えがありますね。かつて二の丸にあった二の丸御殿と伏見櫓は失われて広場になっています。北隅の伏見櫓跡には説明板が立てられているのみです。広場東隅に二の丸多聞と題した櫓風の建物がありますが、復興櫓ではなく模擬櫓のトイレでした。広場西隅にある なまこ塀の建物は心技館。趣のある武道場ですが、耐震性の問題から廃止が決まっているそうです。そして、南隅の観光交流センターでひと休み。展示されている火縄銃や岸和田藩の鉄砲関係の資料を見学して、石垣めぐりに向かいます(続く)。
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