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しんちゃん

千頭峯城  各曲輪 (2024/04/29 訪問)

千頭峯城は登城道が東の尾根筋に繋がっていて、いくつかの扁平地を経由して堀切の先の東曲輪にたどり着きます。堀切道を北上すれば井戸曲輪に到達しますが、それは帰りに寄るとします。最高部に本丸が置かれ、本丸北半分を回り込むように二の丸が配されています。
ルートは東曲輪→二曲輪(東)→本曲輪→二曲輪(西)→西曲輪と西方向に移動し、帰りは逆のルートです。南曲輪には本丸の南から道が続いているようです。西曲輪の手前の堀切は形状が良く、西曲輪の周囲には土塁が残っています。
登城道近くには駐車場があり、城域に入ってすぐに遺構にたどり着ける、散策しやすい山城です。

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チェブ

『行った』をポチっ。 (2024/05/04 訪問)

粟野氏の「沖野城」は住宅街になっていました。
「沖野城」に向かう途中、『舘西公園』があり、「沖野城」由来の地名が残っているのだと期待しました。到着した場所は、畑とビニールハウス横の道。
近くを回りましたが、石碑や案内板はありません。

二重堀を巡らしたと言われる「沖野城」。
良く耕された畑が、堀に見えて欲しい「沖野城」攻めでした。

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朝田 辰兵衛

ゲオ稲田堤店奥より潜入しました…🐾 (2024/04/28 訪問)

私の潜入した入口は,団地住民の裏道のようでした。団地の中にある「寺尾台廃堂跡」とは,ほぼほぼ団地内の対角線奥という位置関係で,苦笑いが止まりませんでした。

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カズサン

戦国期まで和賀氏の本城 (2024/05/22 訪問)

 黒岩城を終えて北上川を渡り約3km程、岩手県1日目の8城目、二子城別称飛勢城(トバセ)を初登城、北上川が当たり蛇行南下する西岸の二峰の飛勢の森、頂から麓の広いエリアが城域と成るようです。

 駐車場:二子八幡神社南下の駐車場、1郭南切岸下数台は可能、トイレ有。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 駐車場に上がる斜め道の入口に「史蹟飛勢城趾」の標柱、駐車場には顕彰碑「和賀氏盛衰の跡飛勢城」、二子城跡解説板、解説板の下に二子城(飛勢城)見取図(縄張図)が有ります。
 1郭南側の切岸の間に神社への階段が有り神社境内へ諸神社、祠、一段上がって二子八幡神社鎮座、夕刻近くでしたが参拝の方が多く見受けられました。
 1郭本丸北奥へ広場に成っており立派な松に、忠魂碑、北端展望台、1郭北下に2郭、間に堀切と土塁、西下の降りると横堀が南に伸びて居る様子。
 展望台より北を眺めると遠くに岩手山が微かに見える、北上川が二子城の山塊に当たり東に蛇行し南下する様子が見えます、東北新幹線が東を走り、はやての走行が目に入ります。
 探訪は1郭本丸と2郭のみ周辺の郭、麓の屋敷跡は探訪して居ません。

 和賀氏は顕彰碑裏面趣意書、和賀氏400年祭実行委員会作成によると
 和賀氏は奥州藤原氏滅亡後、豊臣秀吉の全国統一まで、三百数十年にわたり和賀郡地方を治めた。
 と言ううことは、源頼朝の奥州征伐に始まって、秀吉の奥州征伐奥州仕置きで小田原攻めに参陣しなかった葛西氏大崎氏とともに滅亡したという事です。時代の趨勢を見定める事は大変なことで大事な事のようです。
 でも地元の方々に愛されて400年祭、顕彰碑の建立と慕われている事が分かります。
  

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びーこ

地元愛溢れる岡崎城 (2024/05/21 訪問)

朝、ホテルを出発し、まずは三河一向一揆の舞台となった本證寺(遠かった・・・でも行って良かった!)を見学して、午後から岡崎に向かった。

まずは腹ごしらえ!ということで、岡崎公園前駅近くのうどん店で「家康公が愛したうどん御膳」をいただく。いきなりテンションが上がるメニューではないか!駿府記に記載されていたレシピを元に再現したうどんには、生姜が練り込んであるのだとか。健康オタクの家康らしい一品である。汗をかきながら美味しくいただきました。冷たいビールも飲んで充電完了!いざ岡崎城へ!

まずは、復元天守閣内の博物館へ。
現存する礎石や城下町のジオラマ、参加型の岡崎城シアターなど、展望室以外にも楽しめるコンテンツがたんさん。館内のスタッフの方(地元愛深し)と石垣が好きだという話をしていたら、石垣に関する色々な資料を出してきていただき、その一部を頂くことができた。感謝!

「三河武士のやかた」
ここの一番の見所はなんと言っても関ケ原の戦いのジオラマシアターだ。ジオラマとプロジェクションマッピングを駆使して、時系列で東軍、西軍の各部隊の動きを再現している。これは分かり易い!子供の様にかぶりついて見てしまった。その他の展示物も見応えがあり、かなりの時間を費やしてしまった。

最後は園内のカフェで武将パフェと決めていた。カフェに近づくと「準備中」の文字が・・・まさか?駆け寄って「今日はおしまいですか??(汗)」と店の方に訪ねると15:00で終了だとのこと。時計を見ると15:01だった・・・営業時間のチェックをしていなかったとはなんたる不覚。私が相当ガッカリした顔をしていたようで、お店の方が「せっかく来てくれたのだから、良いですよ~」と言ってくれた。店員さんを拝むように店内へ・・感謝!(本日2回目) 徳川家康パフェと井伊直政パフェをいただく。疲れた体に染み渡る~美味しかった!

さて、本日最後の訪問先は大樹寺。行き方を確認していたら拝観時間が16:00までということに気づいた!受付は15:30までなので絶対に間に合わない・・なんたる不覚(本日2回目)
これで岡崎の再訪は決定的になった。👆でいただいた石垣巡りマップも制覇できていないし、岡崎城も含めて絶対に再訪しなければ!!

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牛若丸

遺構らしきものは残っていません (2024/06/15 訪問)

現在は金剛寺になっています。周辺を歩きましたが遺構らしきものはありませんでした。

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駿府城

駿府城跡天守台発掘調査現場来場者100万人達成!

駿府城跡天守台発掘調査現場の来場者数が令和6年5月9日(木曜日)に100万人に達し、現地で記念式典が開かれました。 
記念すべき100万人目は、静岡市葵区の城内中学校に通う古川奏翔さん(13)で、静岡市歴史文化課課長と共にお祝いのくす玉を割り、記念品として発掘調査現場オリジナルグッズが贈られました。
※詳細は静岡市公式ホームページ(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012603.html)をご覧ください。

駿府城跡天守台発掘調査現場および「発掘情報館きゃっしる」は、平成28年8月に開館し、今年で8年目を迎えます。
県内外の多くの方に足を運んでいただいたおかげで100万人を達成することができました。
現在は天守台をより間近で見学できる野外展示施設の建設計画が進行中です。
今後も石垣の保存や発掘現場の維持管理を行いながら、みなさまに何度も訪れたいと思っていただけるような魅力的な場所となるように努めてまいります。

ぜひ見学してみてください。

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イオ

大手側(大手口~馬場~火薬庫) (2024/04/27 訪問)

室町中期に伊勢国司・北畠満雅が築いた城で、弟の北畠顕雅が入って大河内御所と称しました。東は阪内川、北は矢津川、西と南は深い谷に囲まれた要害の地であり、織田信長の伊勢攻めでは北畠具教が多気(霧山城)から大河内城に本拠を移して籠城するも、信長二男の茶筅丸(後の織田信雄)を養子として家督を譲る条件で和議となりました。その後、信雄が田丸城に居城を移したことにより廃城となったようです。

大河内地区市民センターの駐車場から登城開始。駐車場の国道沿いには大河内城跡の説明板と石碑が立てられています。市民センター前には大河内城の資料や縄張図、手書きの御城印が備え置かれ、大まかな位置関係がわかる案内図も掲示されているので、ここで登城前の情報収集をおすすめします。

案内図の順路に従って北側の大手口から登城します。大手道は城内に大きく切れ込んだ谷筋を上って行き、両側の支尾根から狙われ続けている感があります。大手道にせり出した曲輪からも麓を回り込む間ずっと横矢が掛かる造りになっていました。大手道を上りきったところには馬場と呼ばれる広大な曲輪が広がっています。馬場のあちこちに石垣が見られますが、畑地として改変された際のもののようです。馬場からは大手口の東側と西側に支尾根が派生し、東側の支尾根にはいくつかの曲輪が連なっているほか目立った遺構は見られませんでした。西側の支尾根は付け根に土塁(土壇)があり、その先には小曲輪群と堀切や竪堀が見られました。大手口を見下ろす位置にあることから、堀切付近に散乱していた石は投石用のつぶて石と思われます。

大手口西支尾根から馬場北辺の犬走りを通って北西端の火薬庫へ。馬場の北西端は堀切(石垣は後世の改変と思われます)で区画し、堀切の北側は竪堀となっています。そして火薬庫と呼ばれる曲輪の手前には城内最大規模の大堀切がある…にはあるものの、笹に覆われてしまっています。火薬庫は三方を土塁で囲んだ造りのようですが、笹藪に沈んでいてよくわかりません。それでも笹藪は堀切周辺だけかもしれない、と笹藪に突入して土塁上を半周するも、笹藪が途切れることはなく、土塁上にあるというつぶて石の集積場も見付けられませんでした…。「松阪の城50選」には笹藪が刈られた状態の火薬庫の写真が掲載されていますが、その後また伸び盛ってしまったようです。

火薬庫から馬場まで引き返して、今度は本丸に向かいます(続く)。
 

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赤い城

十河氏の居城 (2024/05/26 訪問)

称念寺周辺が城趾です。
お寺の山門前に広い駐車場があります。
山門前に標柱が立っていて、内側の本堂が建つ所が主郭です。
お参りしてまずは南側へ、元はこちらが大手だったようです。
ただ、民家と農耕地となり遺構はなさそうです。
西側には鷺池、堀の一部だったとのこと。

北側には堀があり、からくり橋という橋があります。
敵に攻め入られた際に橋桁を外し、中に入った敵軍を閉じ込め攻撃するための仕掛けです。
現在は土橋状になっています。

当時は三方に五重の土塁があったとされる大規模な城だったようです。

北側の曲輪の先には手作り感溢れる資料館があるのですが時間が早すぎ開館前でした。
近いのでまた行ってみます。



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朝田 辰兵衛

愛川中学校と三増合戦場… (2024/04/28 訪問)

愛川中学校,田代古城だけではショボいと思い,三増合戦場まで抱き込みました。けど,ほとんどの方が同じ選択をされていました…。

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しんちゃん

再現された石垣は必見 (2024/04/13 訪問)

小牧山城は本丸周辺の石垣の復元が完了し、南側の大手から登った時の光景は感動ものです。私の知っていた小牧山城とは大きくイメージが変わりました。現在なら他の百名城にも引けを取っていないと思います。歴史的重要度や遺構の再現度を考えると続百名城の中では頭一つ抜きん出た存在だと思います。
小牧山城は見たところチャートの岩山のようで、頂部の岩盤を加工してその上に石垣を段々にして積んでいたようです。当時は石垣を高く積む技術が発達していなかったからなのですが、実に良く再現されています。本丸周囲に石垣が再現されていますが、大手側の方は特に見応えがあります。後世に徳川家康の築いた土塁(再現)と合わせて、実に堂々とした名城ぶりです。
そういえば土曜日に美濃金山城に行ってきたのですが、ここも本丸石垣を露出したチャートの岩盤の上に積んでありました。織田信長と森蘭丸の城の本丸石垣には、そのような共通点があったんですね。

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カズサン

中世和賀氏の居城 (2024/05/22 訪問)

 樋爪館、寺林城、毒沢城を順次終えて東北城探訪岩手県1日目7城目の黒岩城初登城。

 駐車場:正洞寺東山門下の駐車場を利用
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 黒岩城は千曳城とも呼ばれて居り主郭がそれに当たる、正洞寺の郭は主郭を南の郭から東、北の伸びる囲い郭につなっがっている。主郭の千曳城は館神社が有り鳥居の前に案内板、堀が六角形の主郭を囲んでいた、内部は畑と住居、館神社の西奥は北上川に落ち込んでいる。東側には広い堀が残ってる、南の正洞寺との間にも堀跡が残って居る。正洞寺の南にも堀切道で東西の道に成っている。
 城域は南北約1000m、東西150mの細長い北上川東岸の自然段丘を堀を刻んで郭化してる、今回は主郭部と正洞寺の郭当たりのみの探訪で南側については訪ねていない。
   

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小城小次郎

鍬作りから戦国武将とは (2023/12/09 訪問)

この城に拠った曲渕氏は一介の鍬作り(つまり鍛冶屋?)から成り上がったとされ、龍造寺氏の安楽平城攻めに際しては龍造寺方についた原田氏の指揮下で道案内を務めたとか。変わった経歴の武将が出るのも戦国の世ならではか。

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天守無しがアツい

大日本史の功罪 (2024/05/11 訪問)

1枚目右が水戸城の御城印…3種類販売されてましたが、「スタンダードタイプだけ買えばいいかな」と思ったのでそれにしました。北澤売店という土産店で…それ以外に城カードと徳川光圀のマンガも買いました

(Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%B0%E8%80%83%E9%A4%A8

徳川光圀が「大日本史」の編纂を始めたのは30歳(数え歳)の時…兄と弟がお互いに家督を譲り合って…しまいには2人とも国を出るという兄弟愛の物語などが描かれた史記(司馬遷が書いた中国の歴史書)に感銘を受けて「もっと書に触れて人としての道を極めよう」「史記のような国の歴史を1つにまとめた壮大な歴史書を私も作りたい」と考えたのがきっかけだそう

その編纂施設は彰考館と名づけられ、館員の佐々十竹(助さんのモデル)に史料収集のため諸国を調査させ、貴重な古記録や文書を写して江戸へ持ち帰らせた…一方で安積澹泊(格さんのモデル)には佐々および他の館員が全国から持ち帰った多くの収集史料をさばいてもらい、編纂に貢献してもらったわけです

大日本史はその膨大なる量のため、光圀の生存時までに完成することはなく、過程の途中にて彼は病没👼 そもそも「大日本史」というタイトル名が決まったのも彼の死後(1715年)

彰考館(2枚目、なお正確に言うなら跡地。現在ここは市立第二中学校の敷地となってる🏫)は当初…江戸の小石川にあったものを光圀の晩年に、水戸城内に移転。大日本史は本紀と列伝の主に二つから構成されており、光圀の存命中に本紀は「百王本紀」として完成📖…彼の死後…50年もの中断期間も経て事業は継続され、1906年に本紀73巻…列伝(后、皇子、皇女、群臣などについて記録したもの)170巻…その他154巻…全397巻226冊が完成

明暦の大火をきっかけに編纂施設を設けて事業を開始したのが1657年…完成が1906年…巻数は397巻…連載年数および巻数を意識するとワンピースやこち亀を軽く超えるハードボリュームと言えましょう😂

3枚目は弘道館にて撮影した大日本史の原本。これがこの藩校にてテキストとして使用され、藩士がこれで学んでいった

ざっと見ると…大日本史二の表紙に「仁徳天皇…雄略天皇…」と記載があります。仁徳天皇とは(仁徳天皇陵との説で有名な)大仙古墳に関係すると思われる歴史上の人物…古墳時代…ということは二巻では古墳時代の日本史について記述がなされている?と推測できます

4枚目は3枚目の反対側から撮影したもの。八十一にて「比企能員…北条義時 三浦義村」の記載が表紙にあり、つまりこの巻では鎌倉時代前期についての記載がなされてる🥴

ちなみにこの大日本史…(私自身はそれを1冊も読んだ事ありませんが、聞いた話によると)南北朝の騒乱においては南朝(つまり後醍醐天皇側)を正統と見做し、その中でも天皇に最期まで尽くし殉じていった楠木正成をベタ褒め…尊皇の鏡として扱っているそうです

そう表現された作品を江戸時代に、多くの人間が読み…強く影響された人間が尊王攘夷志士となり…彼らからリスペクトされ理想とされていた存在が正成…そして明治維新からしばらくして、明治政府の役人(その多くが元尊王攘夷志士)によって皇居の側に正成像が造られたと…(過去記事URL)http://tsukimushi.blog.jp/archives/24056840.html

余談として大日本史に対する個人的見解を盛り込ませていただくと…

良く捉えれば尊王攘夷思想を作り上げて維新志士に大きな影響を与えて明治維新の礎となった日本が世界に誇る歴史長編物語📖

悪く捉えれば多くの若者を尊王攘夷思想に染め上げて幕末の日本をカオスに陥れた悪魔の本👿…その一例が天狗党👺

と言った具合かな?😅

(館内で放映されているアニメ)
https://youtu.be/LvtlE7Pu1NA?si=Xss3s2ygCaKGXb8i

彰考館の隣に「二の丸展示館」という無料で入れる施設があり、入ってみるとテレビが置かれており、アニメが繰り返し放映されてました。それが↑URLの動画

小学5年の男子(水戸光)と女子(千波葵)が剣道の試合中ぶつかった際にタイムスリップ…七郎麿(後の徳川慶喜)と徳川斉昭(葵からは烈公様と呼ばれてる)と出会い、出来たばかりの藩校…弘道館で「弘道館の名の由来」を斉昭が問い、七郎麿が「人よく道を広む、道人を広めるにあらず(人が道を広めるのであって道が人を広めるのでは無い…事を行うのは人、弘道館は道を広める人を育てる)孔子の論語の言葉です😏」と模範解答…

葵のスマホ見て「印籠か?」と不思議がる斉昭と七郎麿…「気を張るのが弘道館なら気を休めるのが偕楽園」と一張一弛を語る斉昭。スマホで記念撮影(撮影した時に葵の腕先が太くなってる…ちょっと作画崩壊?😅)…それから現代に戻るも、撮影画像にはきちんと4人の姿が写っており「夢じゃないみたい…😆」と不思議な体験をする…内容

館内には展示スペースもあり、(弘道館と同じく)大日本史の展示がここにもありました。あと水戸城のジオラマ(5枚目)も🏯…それを見るとこの城には弘道館だけでなく、他にも二の丸に大きな屋敷(屋形)があったりと、城としての政治的機能が備わっていたようですが、今は別の建物…二の丸には水戸第三高等学校…本丸には水戸第一高等学校🏫…が存在

年表(6枚目)…水戸城に関連する出来事がここに紹介されており、この右下に数行だけ…天狗党および諸生党の騒乱が記載されてます。けれどあくまでそれだけ…

実は天狗党、浪人や農民を中心として集めた貧民集団…尊攘のヤル気だけあれど金が無いために近隣の住民から略奪や放火などをおこなった犯罪的集団でもあり、それが民衆から嫌われて当事者は皆世を去ってしまった今もなお、その悪評が受け継がれてタブー扱い…「天狗党特集なんてとんでもない」なのかもしれませんね👺

展示館とは直接の関係はありませんが、水戸城からの帰り際に水戸駅前の水戸黄門像(7枚目)を目にしました。黄門様…助さん角さん…全国を旅して、悪党を目にすると「この印籠が目に入らぬか!」というのはかなり有名なセリフですが…所詮それはドラマのフィクション

黄門のモデル(徳川光圀)は全国旅なんかしてないし、助さんのモデルだけが大日本史編纂のための史料集めに全国を巡った…だからこの像もウソと言えばそれまでなのですが、せっかく来たから…ということで解説文を読み撮影したわけです

今回の水戸城訪問…「朝から夕方近くまで時間あるから、城全部巡れるだろう😚」と最初は考えてました。けれど思ったより展示品見物およびスマホ雑務に時間をかけてしまい、二の丸展示館までで終わりました

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天守無しがアツい

昔は渋谷城 今は金王八幡宮 (2024/06/16 訪問)

(渋谷城wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%9F%8E

今や大都会の渋谷…しかし平安時代末から16世紀にかけてまではこの辺りにも城が存在していたそうです。渋谷氏という一族の居館があり、天然の要塞じみた場所に存在していた

しかし1524年に北条氏と上杉氏の交戦の最中に、北条側の別働隊の攻撃により焼き払われた(おそらく渋谷氏は上杉側だったのでしょう)。武蔵高輪原…今で言う高輪プリンスホテルの辺りで侍どうしの戦がおこなわれた…なんか現代のイメージとのギャップを感じざるを得ませんね⚔️

(金王八幡宮wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E7%8E%8B%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE

渋谷城の面影を今に伝える物は(1枚目の)石1つ🪨 現在ここは金王八幡宮という神社になってます⛩️ 金王とは金王丸…土佐坊昌俊(源義経を暗殺しようとしたが捕えられて処刑された)の幼名であると、境内にある御影堂(2枚目)の案内板にはあったのですが、wikipediaによるとそれを裏付ける証拠は無いそうです

(土佐坊昌俊wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%9C%9F%E4%BD%90%E5%9D%8A%E6%98%8C%E4%BF%8A&diffonly=true#%E9%87%91%E7%8E%8B%E4%B8%B8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

土佐坊と言うと「義経様お命頂戴😁」と義経に切りかかるも避けられて取り押さえられ、頼朝に暗殺を命じられたとゲロって斬首される…悪役というイメージがどうしてもあるため、案内板の「勇ましい最期をとげられた」という無理矢理ポジティブな表現にどうしても違和感を覚えました😂

渋谷城の御城印(3枚目左側)。おそらく中央の家紋は渋谷氏のものなのでしょう

境内には宝物殿(神輿などを収納した小さな部屋)もあり、そこに(4枚目の)中世の渋谷城ミニチュアも展示されてました。國學院大学のどなたかが作成されたとも書かれており(おそらく日本史関係の方)、展示品を見る限り…

昔のこの辺りは小高い丘になっており、周りを柵に囲まれて…敷地内に神社の本堂があり、そして武家の館が存在した…典型的な天守閣が設けられる前の城…城というよりも砦…と呼んだ方が妥当かもしれませんね

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ぴーかる

松岡城 (2024/04/20 訪問)

【松岡城】
<駐車場他>松源寺・松岡城跡駐車場10台分程あり。
<交通手段>車

<見所>空堀・堀切・土塁・切岸
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅5城目。現地説明板によると松岡城は南北朝時代に市田郷の領主松岡氏によって築城されたとされます。戦国時代に大改修が加えられたと考えられ、1588年に徳川家康によって松岡氏は改易され廃城となりました。
 城跡は天竜川によって削られた河岸段丘の城で、南東端の谷から北西側の丘陵地に連郭の曲輪が5つあります。各曲輪は空堀で遮断していて曲輪と同じ5つの堀があります。北と南が深い谷になっています。北西側の丘陵地と城を遮断する「5の堀」は深い幅広で見応えがあります。主郭は最奥の南東端にあり広大です。主郭虎口跡から大手道もそのままの遺構のようで、主郭には直線に段状になった所があります。建物があったと思われます。虎口跡や主郭内部に石列が残ります。主郭には帯曲輪が巻いていて帯曲輪からの主郭切岸は見応えあります。主郭の南東斜面は谷のやや緩斜面になっていて、ひな壇状の小さい曲輪や竪土塁で防御を固めています。現地縄張り図にある畝状竪堀群は見るために降りましたが、表面観察では見受けられませんでした。城跡は公園整備されていて非常に散策しやすく、堀底に降りてスケールの大きさを楽しめます。いい城跡でした。
 松源寺は井伊直政の父、井伊直親が9歳から10年間避難先となったお寺で当時は現在ある位置より2㎞程西方にあったそうです。

<満足度>◆◆◇

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零汰

(2024/05/21 訪問)

〇〇館など遠い昔武士の発生の頃に存在していて、特に平地に数多くあった方形型の館跡は開発で消滅しており、私は部分的に残っている遺構の断片しか見た事が無かったです。開発から逃れた地域ではしっかりと残っているのでしょうけど。

陣屋ですが、基本構造は鎌倉時代の館跡を大きくしたようでした。平地にあり、2か所の門・四方を土塁と空堀で囲っていて書物でよく見る武士発生当時の館の図の実物が目の前にあるようでした。

館の出来始めた時点を1200年代としてこちらの陣屋は1800年代、600年経っても基本形状は変わらず築造するのは何故なんだろう?この形状が最強だからなのでしょうか?それとも日本人の特性で慣例だからとか〇〇藩もこうだからそれに合わせよう等の理由なのでしょうか?確かに江戸時代末期で戦の心配は想像できない時期だったので前に倣い他藩に倣いもあったかもしれませんね。それにしても600年変わらずって首を傾げたくなりますがきっとこの形状が最強だったのでしょう。

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チェブ

土塁は遊び場? (2024/05/04 訪問)

仙台市の住宅街にある「富沢館」はフェンスで囲われた公園でした。立派なL字の土塁があります。
近くの住宅は比較的新しく、幼い子供のいる ご家族がなん組か遊んでいました。
説明板がありましたが、少し遠くに車を路駐して歩きました。
説明板の写真を写し、土塁へ。

わわわっ、崩されている (゚Д゚)!!
近くに置いてあるプラスチック製のシャベルには、かわいいお名前が書いてありました。
こんな子供用のシャベルで、土塁って崩れてしまうのか?はたまた、子供武将たちの執念か?

土塁の中を、こんな状態で見たのは初めてだった「富沢館」攻めでした。

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しんちゃん

良い城跡だとは思うんだけど。 (2024/04/29 訪問)

大平城は本丸にたどり着くまでが大変ですが、ひとたび裏手に回り込めば、比較的楽に散策が可能です。尾根上に東西に曲輪が連なり、先を堀切で防いでいます。本丸の周辺にも腰曲輪が配され、北西にも曲輪が続きます。この時は、まだ気候が良かったので気持ちよく散策が出来ました。問題は帰り道です。行きと同じようにヤブシダが行く手を塞ぎます。
とにかく出曲輪までたどり着かないといけません。ルートがわかっているのに、非常に進みづらい。案内板も文字が消えかかっているし、ちょっと手入れが必要だと感じました。

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しんちゃん

柿本城 (2024/04/29 訪問)

元亀3年(1572)10月、盟約を破って武田信玄が徳川家康の治める遠江に侵攻してきました。戦国時代の約束なんてこんなもんです。この時、山県昌景の率いる5千の軍勢が5百の兵が守る柿本城に押し寄せてきました。当時15歳の城主・鈴木平兵衛重好(重時の嫡子)は満光寺の玄賀和尚らの仲介で和議を結んで開城し、伊平小屋山砦に逃れたそうです。
この時、満光寺と山県昌景の間にパイプが出来たのかは不明です。でも三方ケ原の合戦で逃げてきた家康はニワトリが鳴かなかったら命を落としていたかもしれないわけで、なにか引っかかるものがあるんですね。いやいや、人を疑っちゃいけないよ!‥でも戦国時代 お人よしだと命が幾つあっても足りません。寺領三石って結局ニワトリのエサ代だったんですかね?

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