赤塚城は赤塚公園の一角にある丘陵が城址のようで、城址碑のある場所が本丸、梅林のあたりが二郭になるようです。道沿いにどこからでも入れそうですが、麓から登ってみました、比高もさほど無く、すぐに本丸にたどり着きます。
康正2年(1456)古河公方足利成氏の軍勢に攻め込まれた千葉実胤・自胤兄弟は関東管領上杉家の助けを受け、市川城を逃れて赤塚城と石浜城に入場したと本丸の案内板には書かれています。
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2025/01/17 19:41
武蔵千葉氏の拠点 (2024/12/23 訪問)
赤塚城は赤塚公園の一角にある丘陵が城址のようで、城址碑のある場所が本丸、梅林のあたりが二郭になるようです。道沿いにどこからでも入れそうですが、麓から登ってみました、比高もさほど無く、すぐに本丸にたどり着きます。
康正2年(1456)古河公方足利成氏の軍勢に攻め込まれた千葉実胤・自胤兄弟は関東管領上杉家の助けを受け、市川城を逃れて赤塚城と石浜城に入場したと本丸の案内板には書かれています。
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2025/01/17 19:26
とぜう食べたい (2024/12/23 訪問)
領ヶ谷城址には名物の鰻料理で知られる幸楽園が建っています。私はどちらかというと珍しい「どぜう」や「なまず」の料理を食べたかったので寄って見たのですが、店の掃除のためにあけてあるだけで、まだ開店はしていませんでした。許可を得て何枚か写真を撮らせていただいています。源頼朝の蜂起に呼応した佐々木三郎守綱公がここに出城を造り、平行盛を破ったと案内板には書かれています。
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2025/01/17 13:34
急斜面の岩山 (2025/01/13 訪問)
花崗岩の急斜面の山体です。南東側から見ると、巨岩がたくさん露出しています(写真1)。鞍部で雨山城とつながってますが、独立性が高いです。まずは土丸城が作られて、その後、雨山城が作られたとあります。
土丸バス停近くの広場に説明板があり、その先のお宮の前の道に道標があります。道標に従って真っ直ぐ進み、高速道路の高架下の車道を渡った先に、土丸城、雨山城登城口表示があります(写真4)。保存会の方々が登山道に道標を設置し、道脇のシダを刈ってくれています。雨山城麓から登る登山道は、ハイキング向けに手が入ってますが、こちらは激しく登って行きます。途中に関空方面が見渡せる箇所や南東の大木地区(農村風景)が見下ろせる箇所が設けられています。
竪堀、土橋で守られた尾根から進入します。頂部の郭も急斜面を利用して、切岸が高いです。城びとレポートの本丸下の土塁はシダがこんもりした所か?
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2025/01/17 09:02
美しい眼鏡橋が残る諫早氏の城 (2024/12/11 訪問)
戦国時代に諫早の地を統一した「西郷尚善」が築き、高城と呼ばれたのが始まりだそうです。天然の岩盤の地形を巧みに利用した平山城で、今では諫早公園となっていました。
その西郷氏は、有馬氏・大村氏・龍造寺氏などから度々攻められるも何とか切り抜け、龍造寺隆信が沖田畷で敗れ死去した後、一時鍋島氏の配下となりますが、その後に豊臣秀吉の九州南下に従わなかったため、秀吉から所領を没収されます。
代わって城主となったのが龍造寺家晴(龍造寺の分家)です。家晴は蒲池城や柳川城の城主となって、本家の隆信とは少し距離をおきながら筑後を治め、攻めて来た大友勢の立花道雪や高橋紹運と戦います。秀吉が九州を制圧すると家晴は所領を没収されますが、秀吉に嘆願し、鍋島配下として諫早の地を与えられました。そして江戸時代に入りその子の直孝は独立した一万石の大名となり、龍造寺氏を改め「諫早氏」を名乗るようになります。しかし、病弱で江戸参勤が出来なかったためすぐに廃藩とされ、その後一国一城令で諫早城は廃城となったようです。しかし直孝は、佐賀藩の家老となる事で、諫早の地に居館を構える事が許され、諫早氏は存続する事ができしました。
天然の掘としていた本明川ですが荒れ川で洪水が多く、橋を架けてもことごとく流され続けたため、住民はかなりの不便を強いられたようです。江戸後期の1839年に、時の領主「諫早茂洪」は「絶対に壊れない橋を造れ!」と家臣に命じて石橋を造らせました。昭和に入り河川を改修し、川の流れは橋を通らないよう改善されたため、江戸期の橋は180年経った今では、庭園と共存する美しい橋として諫早市民に愛されています(写真①②)。
二の丸からは諫早市街を眺める事ができました(写真⑥)。中央の黄色い列車は島原鉄道(島原行)です。また現在は西九州新幹線もここ諫早駅に停車します。
夜は、諫早から北の海岸にある崎野自然公園のコテージに宿泊しました(写真⑧⑨)。海沿いで眺めがよく、コテージから見えた朝焼けの大村湾はとても綺麗でした(写真⑩)。
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2025/01/17 07:14
【大阪城残石記念公園】【寒霞渓】 (2025/01/12 訪問)
いよいよ星ヶ城攻略の日を迎えました。三連休の中日だけあって格安のニコニコレンタカーの予約をとることができず、不安を抱えての小豆島行きだったのですが、無事、レンタカーを借り受けることができました。星ヶ城に向かう前に大阪城残石記念公園に立ち寄ってみました。道の駅としてのポテンシャルはさほど高くはありませんが、大阪城石垣の石切場であった小豆島を知ることのできる資料的な価値はかなり高いと思います。近くにはいくつもの丁場跡がありますが、今回は割愛して寒霞渓へと向かいます。寒霞渓が近づくと路面に凍結部分が増えてきます。レンタカーはノーマルタイヤだったので少しでもスリップしたら引き返してロープウェイを利用しようと思っていました。安全運転に徹して無事、寒霞渓の駐車場にたどり着くことができました。展望台を巡る遊歩道は雪道でしたが、雪道には慣れているので転ぶことなく、日本三大奇勝の一つ、寒霞渓の絶景を楽しむことができました。
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2025/01/16 22:50
寿能城 (2024/12/23 訪問)
寿能城は岩槻城の支城として永禄3年(1560)ごろに築かれたとされています。かつての見沼が三方を囲み自然の要害であったとされ、寿能公園一帯がかつての本丸跡で、墓碑の建っている塚が物見櫓の跡と言われています。
岩槻の太田資正の子である潮田出羽守資忠の居城とされ、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城したとされています。近くにある大和田公園(大宮第二公園?)にも遺構があるというので、一応見に行ってみましたが、はっきりとわかる遺構は見つけられませんでした。土塁といえば土塁に見えないこともないし、違うと言えば違うし・・
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2025/01/16 22:37
2025/01/16 22:30
ぶらりと登城 (2025/01/16 訪問)
ぶらりと岐阜城へ行って来ました。昨年は岐阜の街は散策しましたが、山頂へは行かなかったので1年とちょっとぶりになります。岐阜城に最初に登城したのは小学生のときですが、高校生の頃、司馬遼太郎の「国盗り物語」を読み、この城に興味を持ち何回か登城しています。司馬遼太郎は国盗り物語の中で「美濃を制する者は、天下を制することになる」「美濃は、郡のかずでいえば十数。コメのとれ高は六十五万石はくだらない。その上、京に近く、かつ、街道は四通八達し、隣国の尾張に出れば東海道、関ケ原付近からは北国街道、東山道、伊勢街道が出ており、天下の交通の要地で、兵馬を用いるのにじつに都合がいい。」と書いています。小説の主人公である斎藤道三と織田信長が美濃の拠点としたのが、この岐阜城(稲葉山城)でした。
いつものように散策しようと思いましたが、この日は山頂施設解体にともない資材運搬用モノレールを設置作業のため本丸下の井戸を通るルートが通行止めになっていました。井戸周辺にいい石垣があるのに残念でしたが、仕方ありません。
平日でしたが多くの観光客の方がみえていました。
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2025/01/16 20:44
小栗一族 (2024/12/23 訪問)
大成館は十三歳で徳川家康の小姓となった小栗忠政の館とされています。忠政は近江姉川の戦いで攻めてきた敵に対し、家康所有の信国の槍を取って渡り合い、その褒美として信国の槍を賜ったとされています。後に武州安立郡大成村550石を含む2550石の領地を与えられ、死後は普門院に葬られました。
幕末に活躍した小栗上野介忠順は、本家政信の子孫で、新政府軍に徹底抗戦を主張し陸軍奉行及び勘定奉行を罷免されると、家宝の信国の槍などを普門院に預け、領地である上州権田村へ隠棲しますが慶応4年(1868)4月6日朝敵として捕えられ斬首されました。
館跡とされる普門院には忠順の供養塔と、野球のボールのような形状をした小栗上野介招魂碑が建てられています。
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2025/01/16 19:34
平城に匹敵する陣屋跡 (2024/12/23 訪問)
赤山城は現地案内板には赤山陣屋と記され、伊奈忠治が新たに赤山領七千石を賜ったことから元和4年(1618)に構築を始めた大規模な陣屋だったようです。城址碑と案内板のある場所の北側一帯が広大な陣屋跡(本丸に相当)で西側に二の丸、陣屋の北側に出丸が配され、周囲一帯に家臣屋敷地が配された、平城に匹敵する陣屋だったようで、城址碑の東西に整備された空堀跡が残っています。
周囲は道が狭いので離れた場所に車を置いてきたのですが、この日はハンドルロックのトラブルが継続的に続いて往生しました。
原因は大き目の変換機をソケットに接続していたためで、スターターが一時的な電力不足に陥っていた可能性があります。エンジンをかける際にソケットからプラグを抜くようにしてから、トラブルが無くなりました。
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2025/01/16 19:18
まるごと将軍山城 (2024/12/15 訪問)
【城域2:曲輪群[2-4]】
<登城路>前投稿の曲輪群[2-1]の北面がハイキングコースになっているので曲輪群の東端からゆるやかに北方向に向かって進むと土橋に着きます。ここからが曲輪群[2-4]になります。
<見所>土橋
<感想>北東方向に伸びる尾根上に築かれた曲輪群で、南から進んで行くと上記の土橋が現れます。ここから城跡のようで、土橋は土塁上を渡るようになっています。土橋の北側に腰曲輪、南側は扇状の谷の削平地になっていて、土塁土橋はこの削平地の背後の渡り廊下的な感じになっていたようです。そこから北東方向に尾根斜面を登りますが、だいぶ曲輪段は薄くなっていてほとんど山になってしまっています。最頂部の主郭とその南下段(倒木が多い)曲輪は良く残存しています。主郭から北方向に下る小さかったろう曲輪群も今はほとんど無くなっています。さらに北側は広い平坦地の曲輪になっていて、北端に土塁と竪堀が残り、城域2全体の北側の虎口になっています。比叡山に抜ける最北の曲輪群なのでガチガチの堀切等の防御遺構は見受けられずちょっと緩めの基地感がありました。次の投稿はいよいよ主要部に入ります。城域1曲輪群[東ゾーン]です。
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2025/01/16 19:16
鎌倉公園 (2024/12/23 訪問)
鎌倉公園が館跡とされています。ここには岩槻太田市の家臣・松野氏がいたとされ、天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に岩槻城主太田市に従って防戦したが敗れ、秀吉の軍門に降ったとのことです。翌年8月、徳川家康が関東に移封になると徳川氏に仕え、200石の旗本として旧領の御蔵村を賜り、幕末までこの地を支配したとのことです。
かつては東西に長さ40mほどの土塁があったようですが、現在は見当たりません。空堀も失われてしまったかな?
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2025/01/16 14:02
2025/01/16 13:53
2025/01/16 13:04
国指定史跡 日本遺産 日根荘 (2025/01/13 訪問)
JRが和歌山行きと関空行きに分かれる、日根野駅。変わった名前と思い調べると、五摂家の一つ、九条家が開墾したという日根荘があり、現在にも遺構が残り、土地の利用も当時とあまり変わっていないとされています。ずいぶん前から、気になっており、土丸城、雨山城登城とセットにして訪問しました。
日根野の少し北を流れる近木川畔の積善寺城を訪れたときにも驚いたのですが、山中でもないのに、川が激しく台地を侵食して川面がかなり下の方にあります。日根荘の樫井川も川面がかなり下にあり、水利に使えません(写真1)。代わりに溜池がたくさん作られています。高野山が開拓に失敗したあと、1234年、九条家に開拓を請け負わせました(命じたのはだれ?)。樫井川から取水し、5mほどの高低差で3km程を流す、用水路:井川(ゆかわ)を作るなどをして開拓に成功し、自家の荘園にしました。九条家最大の荘園であり、また、荘園は寄進による所有が通常なのに、自ら開拓したところが貴重とのことです。1501~1504年には、京都の戦乱を避けて当主がここに滞在していました。また、土丸城、雨山城は、住民が戦から避難する「山入り」「山上がり」に利用されていました。その関連性がみとめられ、雨山城、土丸城も日本遺産に指定されました。
樫井川の川面と台地の高低差が小さくなった所に堰を設けて取水口にしています(写真2~3)。堰は近代化してますが、機構そのものは昔と変わらず田畑を潤しています。日根荘散策後、土丸バス停から土丸城にアプローチしていきます。
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2025/01/16 12:00
「とみか歩け歩け大会」~加治田城攻略編~ を開催します!
『加治田城跡』を目的地に歩け歩け大会を開催します。
富加町B&G海洋センターから出発し、清水寺を通り加治田城を目指します。
加治田城跡からの眺めを楽しみながら堂洞合戦などの歴史を解説します。
山城の竪堀では「城攻め攻防戦」の実演を行います!
令和7年2月23日(日)午前8時30分~正午ごろ
★全行程約8km(山道・急傾斜・階段があります)
富加町B&G海洋センター 8時30分集合
↓
清水寺
↓
加治田城跡(解説)
↓
加治田城竪堀群にて関高校地域研究部による城攻め実演
↓
清水寺へ下山
↓
富加町B&G海洋センター 解散
★持ち物 水筒・ティッシュ・手袋 (双眼鏡などがあればお持ちください)
★参加料 100円 当日に受付でお支払いください。
★参加対象 先着60人。どなたでも。
小学3年生以下は大人が同伴してください。
★その他 雨天(雪)中止
※中止の場合、当日午前7時30分に富加町広報無線で放送します。
※前日までの雨、雪の状況で中止する場合があります。
<申し込み先・問い合わせ>
令和7年2月16日(日)までに、富加町B&G海洋センターに、電話・FAX・直接窓口でお申し込みください。
また、添付しました二次元コードからもお申込みいただけます。
富加町B&G海洋センター 富加町夕田238番地
電話:0574‐54‐2886 FAX:0574‐54‐2928
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2025/01/16 08:09
別城一郭の城 (2024/10/20 訪問)
築城時期等は不明ながら在地土豪の米原氏が築いたとされ、東側を東山道、西側を北国街道が通る交通の要衝だったことから、美濃の斎藤妙椿の侵攻を受けたり、京極氏・浅井氏と六角氏の境目の城として争奪戦が繰り広げられたりしましたが、織田信長の近江攻めで佐和山城が開城すると、太尾山城も開城し廃城となりました。
お城EXPOの後、米原市役所駐車場(120分無料)から登城開始。太尾山城は北城と南城からなる別城一郭の城で、湯谷神社の登城口から10分あまりで南城北端の堀切に到着。堀切の東側は竪堀となって落ちていました。堀切から南城に入ると、北辺を土塁で囲んだ曲輪(副郭)があり、北東隅は櫓台だったようです。副郭から東にのびる尾根にも堀切があるようなので行ってみましたが、藪に沈んでいてよくわかりませんでした。南城の最高所が主郭で、説明板によれば主郭の土壇からは礎石建物が検出されているそうです。主郭から南西方向に下りて行った先には堀切を設け、尾根筋からの侵攻を遮断しています。
南城南西端の堀切で引き返して北城へ。南城から北城への尾根筋は自然地形であり、少々藪化している堀切からが北城になります。階段状に設けられた曲輪群を抜けた最高所が主郭で、北辺を土塁で囲んでいます。主郭には説明板が立てられ、その脇からは琵琶湖方面を見渡すことができました。主郭から東にのびる尾根にはいくつかの腰曲輪と堀切があり、東尾根から北側に回り込むと、主郭直下に土塁囲みの小曲輪がありました。この小曲輪からも礎石建物が検出していて、櫓もしくは倉庫と考えられるようです。そして北城から北側に下りて行き、盗人岩からの眺望を堪能したりしつつ、青岸寺に下山しました。
米原駅からも徒歩圏内であり、随所に説明板や案内表示が設けられて登城しやすい城でした。あとはもう少し藪が刈られていれば、もっと見応えがあるんでしょうけど…。
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2025/01/16 07:13
星ヶ城攻城前日の観光 (2024/01/11 訪問)
直島城から地中美術館へは徒歩でアプローチしましたが、地中美術館から宮ノ浦港へも徒歩で向かいます。直島パヴィリオン、赤かぼちゃ、宮浦ギャラリー六区、I♥湯と巡って昼食をとり、宮ノ浦港から豊島へと渡りました。家浦港から豊島美術館へも徒歩。豊島美術館は美術館自体が作品そのものという感じで、しばし、水の動きに見とれていました。道すがら、アート作品を鑑賞しつつ、心臓音のアーカイブ迄、豊島を味わってから唐櫃港へ。そこから小豆島にわたって土庄にて泊をとりました。
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2025/01/15 22:25
じょうじょうじょう (2024/04/27 訪問)
全国にちょいちょい存在する「じょうじょうじょう」のひとつ。越後守護・上杉房定や関東管領・上杉顕定をも輩出した上条上杉家は上条政繁の代に上杉景勝から離れて幕臣になっている。相当プライドの高い家柄だったのだろう。
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2025/01/15 22:02
江戸城夜景 (2024/12/30 訪問)
茨城に向かう前に江戸城の夜景を拝んでいきました。夜の江戸城もなかなか良い味出しています。台東区浅草橋三丁目にある甚内神社は武田家家臣・高坂弾正の子・甚内を祀っています。宮本武蔵に師事し、奥義を極めるも武田家再興のために幕府開府早々に治安を乱したため、瘧(おこり=マラリア)にかかって苦しんでいるところを捕縛され鳥越の刑場で処刑されたようです。
現在は病の治癒を望む人々の信仰を集めているとされ、8月12日の命日は多くの参拝客が集まるようです。
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