みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

しんちゃん

堀と土橋が見所 (2025/05/06 訪問)

田野城は松山川に面した丘陵の鼻先に築かれています。対岸の公園からの距離はさほどではありませんが、ここにたどり着くまで田野フィールド(演習林)の中を延々と迂回してこなければならなりません。訪問時は縄張図が無かったので、手探りで回って来ましたが、余湖さんの縄張図がネットから出てくるので、これを参考に散策されると良いと思います。細部に多少の差異はありますが、おおよその配置は合っていると思います。
藪に覆われた登城道を進んでいくと東西の丘陵の中央部分に出るので、まずは東を目指します。尾根上に西から一郭の腰郭、一郭、二郭、三郭が連なっています。腰郭の南側からスロープが付いているので、これを使えば楽に腰郭まで登れます。一郭から三郭の間は大きな堀切で断ちきってあり、それぞれに土橋がかかっています。この堀と土橋はなかなか見事で、この城の見どころだと思います。
三郭の南に腰郭が付いており、三郭の先端あたりまで続いています。その先は藪に覆われ良く見えませんが川が流れている気配を感じます。縄張り図を見ると城址の下側は川に沿って崖が続いているようですが、城内からはそれを確認することは出来ません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

カメラ派? スマホ派? コンデジ派に援軍!

もはやコンデジ派は絶滅危惧種なのかなぁ…と思っていましたが、心強い援軍がお二人も! 困難な状況に変わりはないとしても、お仲間がいるのは嬉しいことです。ありがとうございます。

> トクさん

なんと、スマホで光学5~7倍とは! 光学となるとスマホ本体からレンズが突き出てくるんですかね? 引っ掛けて壊してしまいそうで怖いですし、どうせ同じくらいのお金を出すのなら素直に一眼を選ぶかな、うん。もし外付けレンズを試されましたら、レポートお願いいたします。

> にのまるさん

やはり電車派にはサイズや重さは大事な要素になってくるようですね。スマホに全てを集約すれば身軽になる一方で、そのスマホに何かあったら全てが破綻する……難しいところです。それにしても、やはりスマホにおいても高額な機種で撮った写真は出来が違いますか…。これまではカメラ性能は全く求めていなかったので格安の機種ばかりでしたが、その点も考えないといけないなぁ。

> ヒロケンさん

カメラとしてなら一眼が、手軽さを追求するならスマホがベストということで、カメラが良いんだけど手軽さも、というコンデジは半端な立ち位置となって衰退してしまったのかな、とも。新機種もほとんど発売されないとなると、現有機を大事に使っていくしかなさそうですね。

> とある煩悩の登城目録さん

挙げておられる5つの主な理由、全くもって同意いたします! 1から3はスマホで代替がきくとしても、4と5はカメラ(特に4はコンデジ)ならではなんですよね。市場的にはそれだけでは弱いからコンデジは衰退してしまったんでしょうけど…。

> しんちゃんさん

今回の一件も、カメラ破損後はスマホで撮影することで何とか乗り切ることができましたし、荷物になる点を除けば、どちらをメインとするかはともかく、カメラとスマホの二刀流が一番確実なんでしょうね。破損はそう滅多にはないとしても、容量不足や充電切れや熱暴走(スマホ)はそれなりにあり得ることなので。

> todo94さん

デジタル一眼を自分のものとして使ったことはありませんが、コンデジを現有機に買い換えた際に、ピント合わせが前機より速くサクサク撮れるので驚いたことがありました。思ったタイミングで撮れるのが当たり前になると、もう戻れないというのはその通りなんだろうな、と思います。あと、バッテリーの持ちが良いというのは意外でした。やはり重くてもかさばってもそれ以上の価値があるということなんですね。

+ 続きを読む

カズサン

志知城-2/3 石碑・案内板・展示物編 (2025/05/15 訪問)

 志知城-1/3 保存会の竹林伐採整備で見易い編の続です。

 先に本丸西側竹林伐採整備の本丸土塁切岸?広い犬走?残存石垣の栗石?残存石の写真を投稿しましたが、史蹟志知城趾石碑二基、志知城跡案内板、太閤石と同説明板、TV番組堀、池の水抜きで志知城跡水堀の水を抜いて発見されて石垣の石展示とも有り写真投稿致します。

 志知城は賤ヶ岳七本槍の一人、加藤嘉明が城主(1585~1595年)あったとの事も有り是非見学したいとの思いが有りました、秀吉が信長の命で淡路島を攻略、本能寺の変を経て黒田官兵衛孝高が預かり天正13年(1585)加藤嘉明が15,000石の城主で入城、約10年在城して文禄4年(1895)伊予松崎へ6万石で転封、以降秀吉の直轄領で代官石川紀伊守が入城して川口の叶堂に新城(志知城から北に約3km程)を築き志知城は廃城と成った。
 加藤嘉明はこの間、秀吉の九州攻略、小田原征伐、朝鮮出兵には淡路水軍を編成して出陣しており志知城は瀬戸内海に出る、淡路水軍の重要基地であった。
 (案内板による)
 グーグルマップを見ると、大日川へ近く、大日川も以前は褶曲し、スーパーマルナカの北側には水路水堀跡?の様なものも在り、北側、南側に舟入りが大日川に接して設けられていた様子が窺える。

 登城中、家内はスーパーマルナカ南あわじ店駐車場に車を駐めて留守番、買い物土産として旬の玉ねぎを購入、帰ってからの酒の肴(玉ねぎスライスおかか掛け)と成りました。
  
 志知城-3/3 搦手側より駐車場編に続く。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

志知城-1/3 保存会の竹林伐採整備で見易い編 (2025/05/15 訪問)

 淡路で2城目、西淡三原ICを降りて北の叶堂城を探訪し、南に約3km程の志知城を訪ねる、以前城郭放浪記さん昨日のTop10紹介で認知しまた最近城びとの投稿で是非訪ねたいと思っておりました、家内の要望で鳴門大塚国際美術館、阿波祖谷のかずら橋訪問のし、淡路島に寄り念願が叶いました。
 城郭放浪記さんの情報で、南の声明寺さん側大手から鉄板橋を渡り登城開始、草刈されたルートを歩き、本丸南西側の竹林伐採で堀跡?傍の「史蹟志知城趾」石碑観察、本丸へ竹林伐採されて通路が出来ている、北に当たり石積?(後に保存会の方の後世の畑土の目石かと?)本丸北側に桜が多数植わって青葉が茂って居る辺りに、石碑、案内板、古地図、太閤石、同説明板、幟旗が翻っているエリアに着くと、伐採した竹を柵状に造作されてる方が居り、お声掛けしたら「志知城守る会」の代表と会員2名様、暫く話をして、残存石も有り案内頂ける事と成りました。
 本丸やや高の北下に手作りの志知城看板は保存会製、水堀の水を抜いて発見されてた石垣石、水堀も草を整備してよく見渡せる、本丸西に進み、やや広の犬走?帯曲輪?の竹藪を伐採されて見やすく歩きやすく成って居る、本丸の西土塁も大変見易き、暫く案内頂き、残存石垣の栗石が散見される、石垣が有った事を物語る、感激の観察、暫くして残存石1ヶ石が木の根元に残って居た、このまま進んでいくと南の大手へ、先に観た竹林伐採堀跡?かの処へ繋がるらしいが、ちょっと狭く急道なので取り止めて搦手に戻る。
 帰り際に志知城資料があるからお渡ししますとありがたい言葉、今年3月30日に志知城跡桜まつりが有り、現地説明会で配布されて小冊子「天正10年(1582)~天正13年(1585)頃の志知城の主は誰?著作「前田卓也氏」(南あわじ市文化財審議委員)によるものでした。大変ありがたく感謝申し上げます。
 投稿写真は竹林伐採されて奇麗に観える本丸西土塁、残存石垣?整備された水堀、南大手鉄板橋を掲載いたします。

 私は今回大手の南側から登城しましたが、志知城守る会ご尽力で北側の県道477号線側スーパーマルナカ南あわじ店からの登城路が整備されていました、二階建て事務所の駐車場が志知城守る会の専用駐車場として利用できる、県道沿いに志知城の手造り看板がある、一部畦道も有りますが木製チップを敷き詰めた搦手登城路、南竹林に沢山幟旗は翻って良く分かります。

 志知城守る会 代表 関口様、本当にありがとうございました、皆様のおかげで楽しく見やすく観察でき感謝申し上げます。
 今後も体に気を付けながら志知城の整備を宜しくお願い致します、発掘調査をされて市の文化財、県の文化財、国史へと「織豊期城郭、水軍拠点」として保存されることを願って居ます。
 
 志知城-2/3 石碑・案内板・展示物編に続く。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

豊橋の名城 (2024/12/09 訪問)

よい石垣です。近くでの仕事ついでに寄りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

献血後 (2024/12/28 訪問)

ちょいと運動でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

本屋大賞 (2024/12/19 訪問)

「成瀬は天下を取る」は膳所の物語ですね。城門がいくつか現存してます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

17年ぶり (2024/12/18 訪問)

意外に久しぶりでした。石垣の一部が現存しています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

753 (2024/11/09 訪問)

賑わっていました

+ 続きを読む

じゅんじん

立ち入り禁止 (2024/10/28 訪問)

まだ禁止でした。

+ 続きを読む

じゅんじん

市原稲荷 (2024/09/07 訪問)

刈谷城の南側に市原稲荷神社があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

二丈岳で城キャンプ (2025/05/26 訪問)

二丈岳の中腹にある「真名子木の香ランドキャンプ場」でキャンプをしてきました(写真⑦)。平日のせいか宿泊者は私だけ、なのでどこでも泊まっていいよとの事。キャンプ場を一人占めして、今夜は「ぼっちキャンプ」です。

きれいなログハウスを見て心が動き、今夜はテントはやめてログハウスのバンガローに泊まる事にしました(写真⑧)。その名の通り、木の香りに包まれた森林浴と、夜はキャンプファイヤー(写真⑨)、翌朝は小川のせせらぎや鳥のさえずりを聞きながらの目覚めは、とても気持ちがよかったです。

そして翌朝このキャンプ場のから、二丈岳城のあった二丈岳山頂(標高711m)を目指し登城しました。ここからだと高低差は残り200m、山頂まで50分程で登る事ができました。過去の先人方の投稿を拝見すると、零汰さんやRyuさんが高低差350mの「ゆらりんこ橋」から登られていて、そこからは峡谷もある人気のハイキングコースになっているようです。車で来られる時は、ゆらりんこ橋まで道は広いですが、その先キャンプ場まではとても狭いので注意して下さい。

二丈岳城では室町時代の1431年に、大友・少弐氏と大内氏の戦いが行われました。その後は高祖山城の原田氏の支城で草野氏が守っていましたが、豊臣秀吉の九州征伐で原田氏とともに降伏したという歴史があるようです。

山頂の城跡からは玄界灘を一望できるすばらしい眺めでした(写真②③)。山頂は大きな岩で形成されていて曲輪は狭く(写真④)、石積がわずかに見られてここに城があった事を伝えていました(写真⑤)。登山道は結構急斜面で木の根が多いので、つまずかないよう注意して下さい(写真⑥)。

写真②の眼下に見える湾の中央で手前に小さく突き出た半島が、昨年の大河ドラマ「光る君へ」で紫式部(まひろ)が訪れ、周明とともに刀伊入寇に巻き込まれた地「船越の津」です。つまり藤原道長の時代の1019年に朝鮮の賊が上陸した地点があそこだったという事です。

帰りに麓の「まむしの湯」で疲れを癒しました。やはり山登りの後の温泉は最高ですね(写真⑩)。ちなみにここは、まむしに噛まれて困っている人を、通りがかった空海(弘法大師)が見て、念仏を唱えると温泉が湧き出し、その湯に浸かると傷が治ったという言い伝えがあるようです。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

翡翠

広島城 (2025/01/13 訪問)

小学校の修学旅行で行ってから行ってなかったので久しぶりです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑧ (2025/05/03 訪問)

石井垣城からの転戦です。説明版はすぐに見つかりました。その奥になかなか規模の大きな空堀と土塁が潜んでいます。ぴーかるさんの投稿、非常にありがたかったです。ありがとうございました。倒竹を踏み分けていかなくてはなりませんが、一見の価値のある空堀、土塁かと思います。近くに、山陰唯一の特別史跡、法隆寺式伽藍配置の斎尾廃寺跡があったので、16年ぶりに立ち寄っていきました。この日の攻城はここまで。泊は、倉吉のホテルに取りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

翡翠

松江城 (2024/05/02 訪問)

松江城何回行っても良いですね。今回は、舟には乗らなかったのですが、また、乗ってみたいです。5月ナンジャモンジャの花が満開で綺麗でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

【登城注意】主郭北の小山は迂回して進むべし (2025/05/08 訪問)

案内板には看初城とあり、溝辺孫太郎の居城であったという。延文3年(1359)畠山国明より肝付越前守兼国が代わって城主となり明治新政府までつづいたとのこと。城址は左右を河川に狭い間隔で挟まれた、南北に長い丘陵上に築かれていて斜面は急になっています。
先にネタばらししますが、主郭のある丘陵の北側は高い小山になっていて、そのまま登るのは危険です。主郭の北にある丘陵も城址を構成する部分と見られ、幾段かの扁平地が有りました。北の丘陵と小山の間は深い堀切になっていて、小山をうかつに攻めて落ちると高低差で大けがをするかもしれないので注意が必要です。
宮崎県、鹿児島県の城址は危ない城をほったらかしにしているケースがけっこうあるので、攻略には注意が必要です。
溝部町麓から城址近くまで車道が付いています。案内板のあるあたりから城址に向かって道が付いているので、それに沿って歩いていると北側の郭に取りつけそうな道や踏みしろが幾つか有りました。腰郭などもあり、北の郭もなかなか広いのですが、藪が多くて全体を見渡すことが出来ません。尾根伝いに主郭のある丘陵まで行けるかと思い進んでみたが、たどり着けません。一度側道に降りて進むと主郭との間は深い堀切で断ちきられていました。目の前には小山が鋭くそそり立っていて、威圧感たっぷりです。小山に向かって道が付いているようですが、そこに行っては行けないと肌で感じます。先ほども書いたけど、鹿児島の城は「土の城」とはいえ本気で「殺す」気で縄張りをしているので注意が必要です。
こういった場合、迂回して回ればたいがい、安全に登れるルートが付いていたりします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

馬渡城 (2025/03/22 訪問)

【馬渡城】
<駐車場他>駐車場はなし。七城温泉ドームに駐車しました。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目9城目。馬渡城は菊池十八外城の1つで、城びと情報によると築城年と築城者は不明、主な城主に蛇塚氏となっています。城跡は七城温泉ドームの東側一帯であるらしく、菊池川を背に水路を巡らした城であったようです。城びとポイントは古墳の土壇が残っていますが、私有地のようで道路から望遠で撮影するのみにしました。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

しんちゃん

主要部は削り取られているようだ。 (2025/05/10 訪問)

鳶ノ尾城の現状は惨憺たる状態ですが、城郭大系にも記載があり、縄張りも確認することが出来ます。下城氏が小国に来て最初に本拠とした城とされています。古城盛衰記さんの記事を参考に登城しましたが、本来は尾根伝いに道が付いていたようです。どうやら林道工事の際に尾根上の主要な遺構が削り取られてしまっているようです。現存する土塁を備えた郭は城址北側になりますが、これは見張台か櫓台のような郭だった可能性が有ります。縄張りを見ると消失した部分に広い郭(推定主郭)が有り、東に枡形のような虎口を有し、南にも土塁を備えていたようです。櫓台の東南に登り口があり、主郭と繋がっています。これなら、さほど苦労せずに登れたはずです。
現状は急な斜面を登って、残された郭に登るしかなく、下りの際にも注意が必要です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

島津忠将 (2025/05/08 訪問)

廻氏の祖は城州・宇治橋の戦いで父・源頼政と共に戦死した源仲綱の子、宗綱・広綱・有綱のいずれかと思われます。廻氏は廻城を拠点として、当地にて繁栄しました。15代久元が盲目となり、子の頼員がまだ幼かったことに付け入り、永禄4年(1561)に肝付兼続が城を略奪しました。島津氏と廻氏は友好関係にあったため島津貴久は長子・義久と弟・忠将と共に大軍を以て出陣しました。
貴久父子は大塚に陣を敷き、忠将は馬立(現在の古城)に陣を敷き、遊軍を竹原山(高原陣)に置きました。肝付の軍が竹原山を襲撃したため、忠将はこれを救援に向かいますが、敵勢に囲まれ、討死してしまいました。
怒った貴久父子によって、肝付勢は敗れ恒吉に落ち延びて行ったとされています。城址の南約700mあたりの道沿いに忠将の供養塔が有りますが、情報が足りず訪問していません。いずれ、廻城を再訪した際には、参らせていただきたいと思います。できればその時には本丸周辺の藪が刈られていると有難いのだけど・・無理でしょうな。駐車場から本丸に向かう道(?)はかなり危ない、崖近くを通る踏みしろですが、本来は海側西方に大手道が付いているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

こんな広大な遺構があるとは… (2025/04/29 訪問)

JR南浦和駅から武蔵野線で東川口駅へ。東川口駅で埼玉高速鉄道線に乗り換えて戸塚安行駅へ。赤山城は近隣住民のウオーキングコースになっているようでした。予想以上に広大な遺構でした。キャリーバッグがあったら泣きます…。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ113