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カズサン

南美濃未踏の城探訪4/7 八神城 (2024/10/14 訪問)

 加賀野井城を終えて、木曾川沿い南に約3.6km程の所に在る八神城を訪ねる、竹ヶ鼻城跡の羽島市歴史民俗資料館特別展で八神城は学習しましたので、銀杏の木が遠くから見えて判り易い。

 駐車場:特に無し、八神城跡銀杏の南前がジャリ地で駐車可能
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 銀杏の南前土塁に、八神城跡のイチョウ標柱、八神城跡のイチョウ、八神城跡、八神城絵図の案内板が立っている、又銀杏の下に石碑が立ってるが刻んだ文字が黒くて読み取れないが情報では八神領□館跡?、西下に八神尋常高等小学校跡の石板碑が立て居り、明治期に成って八神城の館が小学校に利用された歴史が刻まれている、南の用水前建屋の東前庭に八神城跡標柱が立っている。
 今もご子孫の方が住まわれていると歴史民俗資料館の係り員の方に聞き、もし表に出て居れば話を聞きたいと思いましたが見当たらず、周辺撮影して移築一の門が更に木曽川沿い約1.6km程南の眞福寺の山門として残ってるとの事で訪ねる。
 眞福寺(岐阜県羽島市桑原町)
 駐車場は無く山門の東前木曾川堤防道路下の道路に幅寄せして一時路駐(交通量は少ない)、山門を表、裏と撮影して本堂参拝し早々に引き上げる。

 八神城の歴史は、イチョウの大木樹齢約300年が目に留まるここの在地の領主として明治までの400年余にわたって領地を守ってきた、清和源氏の嫡流八幡太郎義家からの家柄で、土岐氏、織田氏、豊臣氏、徳川氏に仕え、江戸期に入り尾張徳川氏の随身(宿家老)が叶い、八神の地(3000石)を長く治めて明治を迎える。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:鹿伏兎城 (2024/09/26 訪問)

鍛冶ケ坂城(城びと未登録 三重県亀山市)から徒歩10分弱で、神福寺門前(34.841670、136.339431)に着きました。
今回は時間の都合で、鹿伏兎城への攻城は諦めました。

鹿伏兎城は亀山城主・関盛政の四男である鹿伏兎讃岐守盛宗が築いた城です。盛宗を祖とする鹿伏兎氏は以後10代にわたって鹿伏兎谷を支配しました。
当初は牛谷城と呼ばれていましたが、7代・定好のときに改修して鹿伏兎城と呼ばれるようになり、さらに定好の子である定長が、将軍・足利義晴に白鷹を献上したことから白鷹城と呼ばれるようになりました。
1583年(天正11年)に起きた織田信雄と神戸信孝との跡目争いでは、鹿伏兎定義は信孝方に与したため信雄方の羽柴秀吉の軍勢に攻められ落城しました。

山麓にある神福寺が居館跡といわれており、電車の時間の都合上、そこで説明板と石碑を確認して攻城としました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福地城を目指す為、加太駅から電車で柘植駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:鍛冶ケ坂城(城びと未登録 三重県亀山市) (2024/09/26 訪問)

加太駅から徒歩15分弱で、石碑前(34.840425、136.332445)に着きました。

1543年(天文12年)鹿伏兎城7代城主の鹿伏兎近江守定長の弟の鹿伏兎蔵人定住が築城し、坂氏を名乗りました。
1583年(天正11年)織田信雄,羽柴秀吉軍の攻撃による鹿伏兎城落城と運命をともにしたようです。

城跡は居館跡とされる常光寺の後方の山になるようですが、時間がないので城址碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鹿伏兎城へは徒歩で向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:新所城 (2024/09/26 訪問)

西の追分バス停から徒歩5分くらいで、城山登口標識付近(34.855055、136.382086)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に亀山城主の関盛信によって築かれたようです。
1583年(天正11年)関盛信が年賀のために羽柴秀吉のもとを訪れている隙に、関氏の家臣で反羽柴派の岩間七郎左衛門などが亀山城を奪い、新所城も亀山城と同じく滝川一益に渡されました。
これに対して秀吉は大軍を率いて北伊勢に侵攻するが、このときは新所城のある鈴鹿峠を通らずに峯城と亀山城を攻め落とし、その後にこの新所城も奪い返しました。
新所城を奪い返した秀吉は浅野長政や朽木元綱らに命じて普請させ城を固めさせたそうです。

城山登り口標識は見つけましたが、ウロウロして迷子になりそうになり、途中で断念して引き返しました。
投稿した写真はまったく関係ないかもしれません。ご容赦願います。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=鍛冶ケ坂城(城びと未登録 三重県亀山市)を目指す為、電車で関駅から加太駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:正法寺山荘 (2024/09/26 訪問)

津駅からJRで亀山駅に向かい、そこから三重交通バスで白木口バス停に着きました。
白木口バス停から徒歩30分ちょっとで、正法寺山荘(34.865806、136.390242)に着きました。

築城年代は定かではないようが、永正年間(1504〜1521年)に関盛貞によって築かれたようです。関氏が当初京都大徳寺の末寺として創建したそうです。

土塁、井戸、石組用水路、建物跡が確認できます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=新所城を目指す為、徒歩で鷲山バス停に向かい、そこから三重県亀山市コミュニティバスを利用して西の追分バス停を目指しました。
ちなみに、鷲山バス停から西の追分バス停方面に向かうバスは1日3本です。65歳以上の方の運賃は半額の100円になります。(自分も半額になりました。)

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)5日目:上津部田城 (2024/09/26 訪問)

ホテルの朝食前に上津部田城を攻城しました。
宿泊先のホテルから徒歩25分ちょっとで、城址入口標識前(34.745589、136.49997)に着きました。

詳細は不明のようですが、発掘調査の結果から戦国時代の城のようです。現在は公園となっています。

到着した時は、真っ暗でライトを照らしても、よく確認できませんでした。
ピンボケしていますが、投稿に耐えられそうな写真を投稿しますので、ご容赦ねがいます。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=正法寺山荘を目指す前に、ホテルに戻って朝食を取りました。

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じゅんじん

よい眺め (2024/03/30 訪問)

立地がよきです。

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じゅんじん

朝の部 (2024/03/30 訪問)

さくらまつり当日だが咲いてませんでした。

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じゅんじん

夜の部 (2024/03/29 訪問)

光が強いんだよね。結構走ってる人がいました。

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じゅんじん

眺めよし (2024/03/29 訪問)

尾引城で説明板がありました。

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じゅんじん

登山 (2024/03/30 訪問)

なかなか急でした。主郭が精いっぱいで遠見番所はとても無理。

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HKISD

下津井城跡散策 (2024/10/24 訪問)

どこから上がって良いのか迷った。
最終的には天守跡迄行きました。
途中、瀬戸大橋がみれる所があったり
遊園地が見れるところがありました。

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HKISD

高松城跡散策 (2024/10/13 訪問)

高松城を散策しました。
園庭も整備されており天守閣の石垣は見事でした。
そして一番は舟に乗ってコイのエサやりは最高でした。

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小田原城址公園 (2024/10/19 訪問)

 近くまで来たので寄ってきました。時間の都合もあり主要部分をさらりと散策しました。この日は土曜日で、それなりに人が多かったですね。
 本丸の売店で三福だんごをいただき帰って来ました。

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三浦の晃ちゃん

雨が・・・ (2024/10/19 訪問)

麓の歴史資料館まで、行ったところで、激しい雨に振られてしまい、期待していた石垣を見ることが出来ませんでした。リベンジしたいです。

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ぴーかる

竜泉寺城 (2024/09/23 訪問)

【竜泉寺城】
<駐車場他>駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅5城目。現地説明板によると龍泉寺は天台宗、伝教大師の創建といわれ、尾張四観音の一つで、馬頭観音を本尊とする。1584年長久手の役に豊臣秀吉がここで陣し、寺堂に火を放って焼失させたとあります。また城びとの城郭情報には築城年1556年、築城者は信長の弟・織田信勝となっています。
 祝日だったので本堂奥にある模擬天守(100円)に入れました。内部は円空仏等の展示品があります。城跡の遺構はあまり分かりませんでした。

<満足度>◆◇◇

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シェル

周辺は東京大仏に加えて、謙信ゆかりの地もあります。 (2024/09/24 訪問)

東武東上線 下赤塚駅から徒歩20分。都営三田線 西高島平駅から徒歩15分ほどです。
 城跡は、赤塚公園(本丸跡)・赤塚溜池公園(本丸北東側)・蓮乗寺(二の丸跡)の3ブロックに分かれています。
 赤塚城本丸跡に石碑と説明版が設置されています。また赤塚溜池公園から本丸へ向かう階段のところにも説明板があります。
 本丸のすぐ南側は谷になっており、城の雰囲気が残っています。溜池公園のトンボ池や溜池が外堀の遺構といわれているみたいです。また本丸の山の周囲の西側と北側の区立郷土資料館の間には、堀のような遺構がありました。
 南の東京大仏がある蓮乗寺は、赤塚城の二の丸跡らしく、参道の階段の最上段右側に石碑が立っています。東京大仏は戦後の寺院の移動をきっかけに作られたようです。
 また下赤塚駅からの道中 少し迷っていたら住宅街の中で「松月院大堂」という都指定史跡をたまたま発見。
 説明板を読んでみると、“上杉謙信”の文字‼ まさかの謙信ゆかりの地の登場で、とてもびっくりしました!!
 元々は七堂伽藍をもつ大寺院だったようです。永禄四年の長尾景虎(のちの上杉謙信)が小田原の北条氏康を攻めた際に焼き討ちにあって焼失したようです。そのため、現在は鐘撞・本堂のみとなっています。
 東武東上線側から行く際は、ぜひ立ち寄ってみてください。

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チェブ

俵屋 玄蕃の道場跡って? (2024/10/12 訪問)

東京水辺ラインの船に乗り、海上から「品川台場」を見学して両国で下船しました。
目的はなく終着点だったから下りた、が正解です。

両国といえば国技館と江戸東京博物館ですが、お相撲もシーズンオフ。江戸東京博物館も休館中で駅前は静かです。両国駅の近くに『両国ー江戸NOREN』という江戸の町屋風の商業施設があり向かって歩いていると
『俵屋 玄蕃の道場跡』
という高札があり、写真をパチッ。
城びとのお陰で、石碑や説明板に引き寄せられる力がそなわりました v(´▽`)
でも、よく読むと、俵屋 玄蕃さんは忠臣蔵に登場する架空の人物なんだそうです。
架空の人物の道場がここにあったのか~?
なんのこっちゃ?頭ん中がごちゃごちゃします。

『両国ー江戸NOREN』の中は江戸グルメのお店が連なってました。中央には土俵があります。横に土俵と同じサイズにペイントされていて、外国の方々が代わる代わる『のこった!のこった!』とお相撲をとってました。

最近、お城行けてないから、幻の道場でも投稿しちゃおうと思った『俵屋 玄蕃の道場跡』攻めでした。

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大六天バンガロー (2024/10/19 訪問)

 地蔵平・城ヶ尾峠を越えて甲斐に抜ける道と中川・箒沢を経て白石峠、犬越路に向かう道の分岐点に当たる交通の要衝でした。前面の河内川を天然の堀とし、背後に急勾配の山に守られた場所にあります。上下2段の平場で構成されていました。日本城郭大系を見ると石垣があったようです。
 現在は立入禁止となっています。先人が撮影している「許可なく立入をしないでくださだい 大六天バンガロー」の看板の写真を撮って退却しました。

 新松田駅より富士急モビリティバスに乗り中川橋バス停下車。ゆっくり歩いても15分くらいで行くことができると思います。午前9時35分のバスに乗車して予定では午前10時29分に到着するはずでした。帰りのバスは午前11時12分の予定で、乗り遅れると次は午後2時57分になります。ところが交通事情によりバスが15分以上遅れてしまい、滞在時間が25分くらしかありません。迷いましたが、速足で何とか往復することができました。立入禁止の看板以外はほとんど見ていません。

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とばつびしゃもん

佐渡島の城4 (2024/09/08 訪問)

「きらりうむ佐渡」で世界遺産「佐渡島の金山」を学習した後、佐渡奉行所跡へ。専用駐車場に駐車し入所。
住居、役所、工場で構成されていた奉行所で役所部分が復元されている。建物内には屋内版のお白洲が見られる。採掘した鉱石を砕いて金を選鉱していたセリ場と呼ばれる工場の跡地には展示施設があり、施設内には作業場や器具が並ぶ。
奉行所から車で数分の所にある佐渡金山の宗太夫坑を30分ほど歩き、大佐渡温泉で宿営。夜、北沢浮遊選鉱場跡のライトアップを見学。

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