大聖院は厳島(宮島)で最古の歴史を持つ寺院です。弥山の登山ルートの入り口に位置しますが、実は弥山には行ってないんですね。摩尼殿の二階から見た景色に満足して下に戻ってしまいました。一番の目的は厳島神社だったのですが、宮島もなかなか奥が深いです。
またいつか捲土重来(再訪)したいですね。
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2025/08/23 12:26
2025/08/23 12:11
厳島・塔の岡 大聖院 (2013/10/03 訪問)
実はけっこう神社仏閣も回っています。名所旧跡もけっこう廻っているんですね。犬山・名古屋・岐阜・岡崎と回って城の魅力に気づいて、岩村・古宮・長篠・苗木・大給と回って城の奥深い魅力にハマりました。まずは近世城郭や眺望の良い城から回ってます。
その意味では犬山城は最高でした。眺望が良く、近世の現存天守でしかも国宝です。
その上で岐阜城の眺望を見たら城好きになる人も多いのでは?
宮島の厳島神社も感銘を与えてくれました。城と一緒に多くの神社や寺も回ったのですが、結局城が残りました。神社はあまり変わらないし、寺はボウズがめんどくさい・・(特に延暦寺)城びとを始めてから、ほぼ城です。3000もありやがるから寺や神社を廻ってるヒマが無いですわ。
厳島の五重塔がある丘を「塔の岡」といいます。弘治元年(1555)9月21日陶晴賢は大軍を率いて上陸し、ここに本陣を構えて毛利方の宮尾城を攻撃しました。元就は主力を以て、夜に暴風雨をついて包が浦に上陸し、翌朝未明「博奕尾」を越えて陶軍に襲い掛かり打ち破りました。まさに西の関ヶ原といわれる所以ですね。五重の塔の周辺の景色も素晴らしいです。
「大聖院」は江戸時代厳島神社の別当職の役割を担い、仁和寺との関係も深く現在は真言宗御室派の大本山になっています。
かつては平清盛が参詣し、豊臣秀吉もここで和歌の会を行っています。
※「あ んまり」と書くと「あ んま」と間違われてエラーを出されます。差別用語じゃねー!
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2025/08/23 10:41
【赤色立体地図かるた】 (2024/03/01 訪問)
①「西東 一城別郭 高天神」(にしひがし いちじょうべっかく たかてんじん)
②「小笠山 四尾根郭の 高天神」(おがさやま しおねくるわの たかてんじん)
③「断崖の 尾根を活用 高天神」(だんがいの おねをかつよう たかてんじん)
高天神城は遠州中央、掛川南の小笠山丘陵南東に突出た断崖尾根を利用した一城別郭の城で「高天神を制するものは遠江を制する」と言われている重要な城郭です。
東峰には本丸、三の丸を配して南の追手門から登城します。西峰には西の丸を中心に北尾根に二の丸、堂の尾曲輪、堂郭の西下に有名な長い横堀を配し、西尾根には馬場平と甚五郎の抜け道と言われる細い尾根道を配し、南尾根は見張台への断崖尾根道が続き、南で尾根を断ち切る大堀切が控えてる、覗くとぞっとします。西峰と東峰間はかな井戸の有る井戸曲輪で繋がっており、井戸曲輪から北へ搦手門へ断崖壁沿いに登城路階段が続く、断崖上の曲輪群を見ながら登ったり降りたり圧巻の登城路です。
高天神城は今川氏の築城、今川氏が滅びると徳川氏の領有に成るが、武田勝頼に攻城されて武田氏側へ、武田氏対織田氏徳川氏の長篠・設楽原合戦で武田氏が大敗してから6年後に武田氏から徳川氏へ、落城時に武田氏軍監横田甚五郎が西尾根の細道を抜けて甲府の勝頼に報告に行ったと言う謂れから甚五郎の抜け道と言われている。
この一年後には武田氏の滅亡、本能寺の変で信長が亡くなっています。戦国の激動期でした。
駐車場は搦手門側が収容能力大、トイレ有、大手門側は10台程トイレ有。
投稿写真の1、3,4,5,8,10は2023.5.25登城撮影。
投稿写真の2,6,7,9は2024.3.1登城撮影。
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2025/08/23 08:07
【赤色立体地図かるた】 (2016/03/23 訪問)
「駿河府の 西方守る 丸子城」(するがふの せいほうまもる まりこじょう)
丸子城は駿府の西に位置し安倍川を越えて宇津ノ谷峠手前の東海道沿いに峻立する要害の地に在り、四方からの敵対勢力を抑える山城です。初めは今川氏の城として築かれ、武田氏が駿河に進攻してからは武田流の築城術で改修されて、徳川氏が駿河を征して家康が駿河に入ると、対豊臣対策として徳川氏の改修がされた様です。
丸子宿の東手前に駿府の工房匠宿が有り、有料駐車場を利用して、西側の山手が丸子城です、匠宿に案内板、進入路指示板等ありそれに従って急峻なつづら折り道比高100m程を登って行くと、丸子神社に着きます、案内と道筋に従っていくと尾根に造られた遺構に遭遇します、東の曲輪・大手曲輪の横堀が三日月堀に観えます、竪堀、虎口を経て北の曲輪、北の曲輪から南に折れて二の曲輪、本曲輪に付きます各曲輪間には虎口と土塁、土橋が付き、西側下には本曲輪から二の曲輪間に長横堀が塁を以て続いています。
技巧的にも大変見応えの有る山城です。
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2025/08/23 07:37
お盆帰省の城めぐり③ (2025/08/14 訪問)
唐沢山城からの転戦です。説明板のペンキがベロベロにはがれていて内容を読み解くことはできませんでした。それでも城址碑が建っているだけでも御の字です。夏場の攻城にはうってつけの城でした。漢字で「小谷城」と表記する城はいくつもありますが、「こやじょう」と読む城はここだけですよね。
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2025/08/23 02:40
2025/08/22 23:19
2025/08/22 22:18
2025/08/22 21:42
広島城 (2013/10/03 訪問)
「水堀に 浮かぶ鯉城の 大天守(みずぼりに うかぶりじょうの だいてんしゅ)」
広島城の別名は「鯉城」といいます。あの「広島東洋カープ」の名前の由来にもなっています。
アメリカの投下した原爆の爆心地から1kmの距離にあり、一帯に約1万の兵士がいましたが、城内の建物と共に壊滅しています。天守も倒壊し、残ったのは水堀と石垣、戦争で最も大きな被害を受けた城郭ではないでしょうか。
現在は広島の街とともに復興し、その見事な佇まいは鯉城の別名に相応しいものだと思います。
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2025/08/22 20:52
【赤色立体地図かるた】 (2024/06/29 訪問)
「かな井戸に 願いを懸ける 高天神(かないどに ねがいをかける たかてんじん)」
高天神城の築かれている城山は、水はけが良すぎて井戸を掘るのに向いていません。雨の降った翌日に訪問すると、良く解ると思います。道の脇からどんどん水が染みだして来ます。実際、かな井戸のある付近の二の丸からは貯水用の大量の瓶が出土しています。
第二次高天神城の戦いでは、水の手を絶たれ、城内に残されているのは「かな井戸」だけになりました。この井戸がいつ掘られたのかは不明ですが、いくら掘っても水が出てこないため「金井戸」と名付けられたとする説もあるようです。
城兵の願いは「かな」わず、敵陣に向かい突撃して城将の岡部元信をはじめ、688名が討死して果てました。
彼らの無念を心に留めつつも・・かな井戸が「願いのかなう」「叶井戸」としてパワースポットになるといいな、とか考えています。
どうですか掛川市観光協会さん・・ちょっと、おどろおどろしすぎますかね。
ちなみに、この井戸の深さは13mあり、落城時に姫が身投げをしたという、伝説もあるようだけど・・・
「かな井戸で 願いが叶う 高天神(かないどで ねがいがかなう たかてんじん)」
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2025/08/22 19:49
【赤色立体地図かるた】 (2020/01/03 訪問)
「後世へ 戒め残す 名護屋城(こうせいへ いましめのこす なごやじょう)」
江戸時代初期、島原藩松倉氏と一部の幕臣の間でマニラ遠征が計画されていたようですが、絶妙のタイミングで島原の乱が勃発して、計画は頓挫してしまいます。幕府もいささか懲りたのか、この後 急激に鎖国に舵を取ります。
名護屋城の石垣の破却はこの時期ではないかと思います。大陸の情勢次第によっては有用性のある城だと思いますが、それ以上に他国との争いを避けるようにという後世への戒めにも感じます。豊臣秀吉の朝鮮出兵の失敗と、島原の乱に至る経緯を考え、リスクの高さを考慮したのかもしれません。この後、江戸時代を通して幕末まで、国内での争いは限定的で、他国との争いが無かったのは僥倖と言えるでしょう。
将軍や王・皇帝による支配体制の徹底(王道楽土を理想とする)と相互不可侵のもたらした平穏だったと思いますが、植民地支配に味を占めた欧米列強には、その理屈は通じませんでしたね。
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2025/08/22 18:54
もしも花巻のホテルがリザーブできていたら… (2025/06/22 訪問)
もしも花巻のホテルがリザーブできていたら,この投稿は花巻城になっていたハズ…。今はクマが血気づいているようなので,東北地方では市街地であっても油断できません。
この日は余裕をかまして空堀の中まで入り込みました。もう,随分昔のような感覚になっています。しんちゃんさんの投稿から間隔を空けたので…。
赤い城さんへ…
コメントありがとうございました。赤い城さんもいくつか採用されるといいですね…。私のお気に入りは「徳島城」です。たぶん,かまぼこ再び…はないと思います。
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2025/08/22 17:28
【赤色立体地図かるた】
「右郭より お入りください 安田城」
(みぎくるわより おはいりください やすだじょう)
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2025/08/22 17:25
【赤色立体地図かるた】
「杉木立に 潜む馬の背 増山城」
(すぎこだちに ひそむうまのせ ますやまじょう)
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2025/08/22 16:27
【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)
「白漆喰 復元進む 小田原城」(しろしっくい ふくげんすすむ おだわらじょう)
小田原城は中世戦国期は土の城、高土塁に深い堀を廻らした惣構の造りでした、小田原征伐後徳川氏の勢力範疇に成り、江戸の西側を守る箱根の抑えとして小田原に近世城郭なる総石垣、白漆喰建物として天守閣に、櫓門、多門櫓、平櫓、白土塀が並んでいた事でしょう。
現在、復興天守として天守閣、復興櫓門として常盤木櫓門と多門櫓、復元櫓門として銅櫓門と枡形土塀、二の丸復興隅櫓、馬屋曲輪馬出門枡形土塀と維新後取り壊られた建物が当時の真っ白い白漆喰建物として甦っています。
今後は関東大震災で崩落した本丸石垣と囲み土塀を甦らせて貰いたいものです。
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2025/08/22 14:07
石垣の玉手箱や〜 (2025/08/12 訪問)
待ちに待った1年3か月ぶりの登城だ。皆さんの投稿を指をくわえて読む日々、長かった・・・(苦笑)
盛岡城は2度目である。今回は、NHKの「最強の城スペシャル」で紹介された所を巡ってみた。
[石垣]
まずはやはり立派な石垣に圧倒される。高さはもちろん凄いが、1つ1つの石の大きさが目を惹く。
櫻山神社の烏帽子岩を見ても分かるが、この場所で豊富な花崗岩が採掘されたことで、これだけの石垣を実現できたのだとのこと。
また、番組内でも紹介されていたが、矢穴が表に現れているのも特徴的である。確かに他の城と比べると矢穴の出現率が高い。ちょっとしたアクセントになっていて、見ていてなかなか楽しい。
更にガイドマップによると、盛岡城は、「野面積」「打込接」「切込接」の全ての技法が見られるほか、「算木積」「笑い積」だけでなく「三角錐の角石」という盛岡城でしか見られないものもあるとのこと。この三角錐の角石の写真が取れてなかったのは不覚だった・・
[榊山稲荷曲輪]
三角形に飛び出した区画は、守りを固めるための仕掛け。上からも下からもしっかりと見学した。
[渡雲橋]
本丸と二の丸はそれぞれ石垣で囲まれており、この赤い橋で繋がれている。このような形態になっているのは珍しいらしい。この橋は自分で渡れるだけでなく見た目も鮮やかなので、見学者としては気分が上がるアイテムの1つだ。
[グルメ]
さて、今回の登城後のグルメは盛岡三大麺の1つである「じゃじゃ麺」である。じゃじゃ麺の優しい味が登城後の疲れた体に染み渡る〜最後に「ちーたんたん」も食して空腹もようやく満たされた。1つ残念だったのは店にビールが置いてなかったこと。仕方がないのでクラフトビールの店で二次会を開催!こちらも美味しくて大満足。良い一日の締めくくりができた。
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2025/08/22 11:53
【赤色立体地図かるた】 (2017/06/04 訪問)
「北条の 畝堀見所 河村城」(ほうじょうの うねぼりみどころ かわむらじょう)
8年前頃城探訪の未踏城郭が山城に成って来始めて、河村城、足柄城の余湖図コレクションの情報、俯瞰図を眺めて認知はしていましたが中々足が運ばずでしたが、日帰りで高速を飛ばし大井松田IC経由して河村城と足柄城を初探訪。
河村城はJR山北駅南側、登城路を登り詰めた所に駐車場とトイレ完備されて居り大変便利、急な登城路をつづらに登って行くと、茶臼郭へ着く、茶臼郭の南端より小郭間の畝堀が見下ろせる、小郭へは登れない、茶臼郭を降りて横道より畝堀を眺める、本城郭は虎口に冠木門柵が復元、本城郭へ入り、北端より本城郭と小郭間の畝堀を見下ろす、草刈がされて居て良く確認が出来ました、感激の畝堀対面でした、本城曲輪には神社が祀られて居り、立派な城名石碑が立っています、本城郭と蔵郭間にも堀切が有り堀底は畝が掘ってある、木橋が架かっています、その先は近藤郭、大庭郭と成っており整備したばかりの様でした、その先西側には駐車場が見えて、西側駐車場より河村城に比高さ無く登城できるようです。
探訪しませんでしたが本城郭の南側に馬出郭が備わっています。
河村城の歴史は古いようですが、北条氏の領有に成って対武田、対豊臣戦で北条流の山城に成り堀切に畝堀が多用されたようです。
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2025/08/22 10:27
【赤色立体地図かるた】 (2025/03/26 訪問)
三方を 海が囲んだ 玖島城
(さんぽうを うみがかこんだ くしまじょう)
あれこれ考え、やはり清正は外せなかったのですが、カズさんとだぶってしまうのであきらめました。この大村公園は、「さくらの名所100選」にも選ばれていて、堀沿いに咲く大村桜がとても綺麗でした。
大村と言えば日本初のキリシタン大名「大村純忠」を思い浮かべる方が多いと思います。しかし玖島城の築城者である子の「大村喜前」は、キリスト教を嫌って、父とは全く正反対の人生を歩んだという事は、以外と知られていないようです。
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以下、興味ある方はお読みください
【大村喜前の人生】
喜前は19才で父に代わって秀吉の元へ参陣し、名護屋城や壱岐勝本城の築城に携わりながら、そこで築城技術を習得します。また朝鮮出兵では順天倭城での籠城戦で3倍の敵に勝てた経験から、三方を海に囲まれた地は守りやすく攻めにくいという事を学びます。そこで帰国後の1598年、新たに三方を海に囲まれた玖島城を築城して大城城より移り、城下町を発展させて行きました。
父の純忠の時代の大村は、教会が建ち南蛮貿易で栄えました。しかし秀吉よりバテレン追放令が出ると同時に純忠が死去し家督を継ぐと、いち早く棄教して宣教師を追放してキリスト教を禁じます。
そして1600年の九州の関ケ原では、順天倭城で籠城を共にした松浦鎮信や有馬晴信らを説得してキリシタン大名の小西行長を裏切り、加藤清正の東軍に付いて宇土城を攻めたため、家康からは所領を安堵されました。
その後1602年には加藤清正に指南を仰ぎ、その助言により大手口を城の南側に移して高石垣を備えた大手門を造り、大手門から二ノ丸や本丸へは連続桝形にして攻めにくい構造とします。また海からの攻撃に備えた板敷櫓を造り、周りに水堀を巡らせるなどして大改修し、さらに強固な縄張りにしていきました。特に板敷櫓の石垣は、熊本城を思わせるような見事な扇勾配の高石垣で、ここに最も清正の助言の跡を見る事ができます。
しかし築城中に家康から長崎を没収され、大村藩は貿易による利益を失い財政難に陥ります。ここで喜前は1607年、逆らう父純忠一門の家禄と利権を没収する(御一門払い=粛清)を行う事で藩政を立て直したようです。そして家康が発したキリシタン禁教令によりさらにキリシタン弾圧を行い、教会をことごとく破壊していきました。その結果1616年、弾圧を恨むキリシタンから毒殺され、48才で波乱の人生に幕を閉じたようです。
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2025/08/22 10:22
【赤色立体地図かるた】 (2022/05/23 訪問)
①「北条へ 威圧をかけた 石垣山」(ほうじょうへ いあつをかけた いしがきやま)
②「一夜にて お城現る 石垣山」(いちやにて おしろあらわる いしがきやま)
③「関東に 石垣広めし 一夜城」(かんとうに いしがきひろめし いちやじょう)
石垣山城へは3度ほどの探訪見学ですが、最近小田原城の天守閣リニューアルオープンしてから石垣山城と小田原城を訪ねました、デジカメでの写真が少なかったので出来るだけ多くの遺構を写真に納まました。
石垣山城は一夜城とも呼ばれて太閤秀吉が小田原征伐の総仕上げとして小田原城の対面の山に総石垣、漆喰下見板張黒漆建物、金箔瓦の豪華威圧ある城を築き、完成後樹木の伐採、天幕を外して一夜に出来たようにしたとの謂れの有る城郭です。
かるたの読みが絞り切れず3文投稿しました。
石垣の崩れは関東大震災時の影響が大との事でしたが、南曲輪角の巨石を使った石垣は圧巻で見応えがあります、修復復元出来たらなぁ~とも思いますが、関東大震災も歴史の1頁、保存整備どうしていくのでしょうか?
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