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ぴーかる

座光寺城 (2024/04/20 訪問)

【座光寺南城】
<駐車場他>麻績神社駐車場に駐車しました。北の登城口<35.537884, 137.852259>にも1台駐車できます。それぞれの入口に城の冊子が置いてあります。
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁・曲輪
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅4城目。現地に置いてある城の冊子を要約すると、座光寺南城(以下南本城)と北東に位置する北本城と合わせて上野城と呼ばれています。上野城の築城主体は在地豪族である座光寺氏といわれています。北本城は伝承では鎌倉前半に築城され、広い丘陵地に曲輪が段状にあったようで、城主・家臣屋敷があったと考えられています。現在は小学校になっています。詰めの城が南本城となっていますが、規模の大きさや縄張りからみて座光寺氏単独で築城したとは考えにくく、大きな勢力の手が加えられているようです。冊子には4つの説が挙げられていますがここでは割愛、私の見た感想では北と南の入口に馬出しを備え、深く複雑な堀の造り、座光寺氏は武田氏が伊那郡に侵攻してから武田氏に仕え、秋山虎繁の配下になっていることから武田氏の助力があったように感じました。
 城跡はおおむね南北に広がっていて、中心の主郭のすぐ北側を谷を利用した大堀切で南北に分けています。主郭は南面以外の3方に土塁があり北側に虎口が残っています。主郭から帯・腰曲輪が何重かに取り巻いていて主要部の防備は鉄壁です。主要部の南側に西曲輪と東曲輪が独立していて竪堀・横堀が複雑に入り組んでいて堀底を通る者は惑わされます。主要部の北側は北曲輪群となっていて、北曲輪は主郭程の広さがあります。北曲輪群の東側丘陵地上に巨大 Π状土塁が2連あります。佐久市平賀城で見た遺構とよく似ているので、何の施設か分からないが同じ施設(馬舎かな?)があったと思いました。思いのほか大規模城郭にびっくりしました。堀底を散策する楽しさ、スケールの大きな遺構に大満足しました。

<満足度>◆◆◆

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カズサン

広大な徳丹城初探訪 (2024/05/22 訪問)

 厨川柵を終えて南下約12km程、途中に盛岡城がナビに出てチョイ寄りしたい気持ちを抑えて徳丹城跡北西の広い砂利駐車場に駐める。志波城が水害により南東の北上川段丘に遷立徳丹城を造営(弘仁3年812年の頃)、征夷将軍文室綿麻呂(フンヤノワタマロ)によりおよそ1200年前。
 
 駐車場:矢巾町歴史民俗資料館の駐車場(此処がベター)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 徳丹城西側の駐車場に駐めたので、城名石碑、幅広の国史徳丹城跡の地図付きガイドを確認して、あまりにも広い(城域は南北約350m東西約350m)ので散策Mapを求めて、矢巾町歴史民俗資料館へ、前に駐車場、北隣に佐々木家曲家(茅葺)、係りの方に散策ルート、Mapを訪ねましたが親切に教えて頂き且つ沢山資料を頂きました。
 本来はゆっくり館内見学、ビデオ視聴、勉強して城域を探訪観察するのがよいのですが、時間に余裕なく、マップ片手に城域見学、先ずは陸橋を通り、東の政庁跡を眺め、西の官衙一帯を眺め、遠くに岩手山を望み、天気も良く長閑な眺めです。
 草が茂っているので徳田小学校校門よりグランド沿いを通って徳丹城政庁跡へ掘立柱建物なのか半柱列で正殿、西脇殿、東脇殿、南門、両脇建物、板塀跡が地面表示されている、正殿横に政庁の解説盤がある、全体草に覆われているが半柱で良く分かる。
 陸橋を通って西側の北官衙地面表示を見学、最近設置されたらしく地面はモルタル表示と半柱、解説板も真新しい、「木製冑」出土井戸跡も確認、徳丹城西門跡続く板塀跡の微高地表示を確認して初徳丹城を終了。

 矢巾町歴史民俗資料館の方にお礼申し上げます。
   

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しんちゃん

平氏の末裔なの? (2024/04/13 訪問)

中根氏は築城者である平右衛門盛清や忠良の名前から見ると、平氏の流れをくんでいるか、末裔を自称しているのではないでしょうか?
ひょっとしたら山上の扁平地も1428年以前から使われていたのかもしれません。祭ってある石仏の土台も崩した石垣を転用してあるようにも見えますが、どうでしょうかね。戦国時代であれば、ここに詰の城があるのが妥当だと考えます。なんとなく雰囲気はありますね。正直、城郭大系に記載はないし、詳細がよくわからないです。三河の土豪で、家康に仕えたということは譜代の扱いで良いのかな?
平右衛門盛清で調べてみたら「平右衛門」という東小金井のラーメン屋が出てきました‥

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しんちゃん

詰の城(推定)へレッツゴー ♪ (2024/04/13 訪問)

箱柳城は麓の方に石垣の城があるんだけど、久しぶりに行ったら勢いで山の上の方に行ってしまいました。地形図を見ると城址の雰囲気があるんですね。石仏遊歩道が通じているんだけど、登れるところから登ります。途中に竪堀と見張り台のような岩がありました。
麓の居館に対して、山上は詰めの城になっているようで、限定的ですが石垣や堀切のようなものがあります。なんと矢穴石まであるんですね。どうやら詰の城&石切場でもあるようです(推測)。ここで石を切り出してせっせと麓に運んで行ったんじゃないでしょうか。城址を生かして、仏像やらエビスさんやらを祀って有るようです。上は案外広いんですよ。
箱柳城は室町時代正長年中(1428~29)に中根平右衛門盛清が築き、中根肥後守忠良は、城を拠点に道根六郷(箱柳・小呂・田口・板田・岩谷・中畑の六村)を支配したとのことです。忠良の次男、平左衛門正照は徳川家康の家臣として二俣城の城主となり、三方ケ原の合戦で壮絶な討死を遂げたと石碑の裏側に刻まれています。

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小城小次郎

九州探題と大宰少弐の死闘の地 (2023/12/09 訪問)

安徳天皇御座所とされる安徳台から奴国との関連が指摘される甕棺墓が多数出土する等ただでさえタダモノではないエリアにあるいかにもな名の城は九州探題渋川氏と大宰少弐武藤氏との相打ちに近い死闘の舞台でもあった。

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しんちゃん

調査捕鯨開始! (2024/02/23 訪問)

櫛羅と書いてクジラと読みます。櫛羅陣屋は櫛羅藩(クジラはん)の陣屋なんですね。ネーミングが最高です。クジラの竜田揚げ旨いですよね~。さあクジラ狩りとしゃれむか! 緑豆が現れたらカニ玉に放り込んでやりましょう。
‥櫛羅陣屋跡地は私有地で入れません。ズン‥。
でも移築された遺構が残っています。櫛羅の民家に南門が移築されているんですね。気まずそうにうろついていたら、親切に案内してくれました。有難うございます~。
御所市の楢原にある浄土宗九品寺には御殿の玄関が移築されていました。本堂の横にちょこんと収まってる感じが良いですね。福眼でございました。ごきげんよう。

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朝田 辰兵衛

小沢城 to 小沢城 (2024/04/28 訪問)

「小沢城 to 小沢城」神奈川県内でこんなアソビができます。しりとりリレーと呼ばないでネ。
愛川町の小沢城は「かなちゅう」頼み。橋本駅南口から出発。時間帯とルートにより効率的なバス停をチョイスした方がいいです。最寄りは,小沢バス停。ですが,乗り換えを要します…。なので私は,相模川対岸の,高田橋入口バス停から徒歩で攻城しました。全然気にならない距離です。渡船場跡は見落としがちだと思います。

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しんちゃん

周囲に比べ微高地にある陶昌院が城址 (2024/04/13 訪問)

戦国時代、尾張二宮の祠官・重松秀村の三男落合勝正によって築かれたとされています。勝正の子・安親と孫の庄九郎は小牧長久手の戦いの時に、池田恒興父子および森長可が家康の本拠・三河に中入りを仕掛けようとした際に先達の役割を果たしたとされます。結果はご周知の通り惨敗で上末城も後に廃城になったとのこと。竹藪の中に8mほどの堀が残っているようですが未確認です。
城址は陶昌院の周辺とされ、境内に落合安親の墓が残っています。

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しんちゃん

タケノコ兵が道を塞ぐ。 (2024/04/13 訪問)

西尾式部道永が文安年間(1444~49)に築いたとされています。道永は西尾の出身で、岩倉織田氏に仕えたとのこと。大草城は天文17年(1548)に廃城になったとのことです。白山神社のあるあたりが本丸と見られ、かつては背後(北側)に大堀切が存在したようです。東に向かって道が続き、空堀や土塁が連なりますが案内板とは縄張りが異なる様子。本丸南側の竹藪が三の曲輪と見られ、その先は堀切が周回しているようですが、入れる場所も限られています。尾張の城にしては、比較的城址としての雰囲気を感じとることができました。

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零汰

場所の確定で終わりました (2024/05/22 訪問)

こちらのチャシは頂上ではなく一段下がった中腹の平場がチャシ跡ではないかと思います。

マーカーが低地の場所を指していますがちょっと違うかなと。見あげると平場があり、草の生え方からそこまでのスロープがあるように見受けられました。

こちらは上まで登って確認してくる気が起きなかった場所です。

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零汰

場所の確定で終わりました (2024/05/20 訪問)

自宅が仮に城跡入口に面した場所として、不定期に城訪問で他人が訪れるとなると煩わしいと気が付きました。どおりで素っ気ない、面倒くさそうな対応をされるんだなと。それ以来、訪問自体を諦める事も選択肢に入れるようになりました。

こちらのチャシもそんな場所です。案内板と外観と撮って終わりとしました。

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零汰

場所の確定で終わりました (2024/05/20 訪問)

入口が住宅密集地で地主や住民に断って城跡を見る事の出来る方は流石だと思います。

こちらのチャシは運送会社の駐車場の背後にありました。案内板も同敷地内に設置してあります。建物裏の高低差の低い場所からよじ登れる感じでした。数名の方々がいらしたのですが、声を掛ける気にもなれず場所の写真を撮って終わりとしました。

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みつるん

清洲城 (2024/06/14 訪問)

職場の人達とドライブに出かけました。青空と城が映えていました。

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イタさん

主郭部及び周辺はほぼ学校・住宅地 (2024/06/12 訪問)

七曲坂からスタート。入口右奥にはマンションが建つっているが、七曲殿と言われた館跡になる。以前の写真には坂の先に冠木門が建っているが、今はなく七曲虎口跡だったのか、標示もなかった。武者溜まり址を過ぎ、坂上に出れば先一帯は住宅地。坂上手前には旧道が図に標示されているが、確認しなかった。宅地の間に大手門址の標示がある。門先は高くなり本丸跡だが学校の敷地になる。戻って太鼓櫓址に。曲輪内は3段で奥が高く、櫓があったのだろう。下に平場が見えるが、南に堀切を挟んで硝煙蔵址があるらしいが分からず。櫓址と宅地の先から下りられる道があるが、植木1号市民緑地内の整備のため、柵に鍵が掛けられている。情報不足のためか、多くを観られなかった。帰りに大船観音を参拝(300円)する。

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VagaryBoy

仕事の合間に

電車通りから見た天守閣が印象的でした。

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VagaryBoy

仕事の合間に

広瀬川のほとりも歩いてみました。

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VagaryBoy

仕事の合間に

広瀬川のほとりも歩いてみました。

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VagaryBoy

学校に組み込まれている

情緒がわかないでした。

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VagaryBoy

たまに、トイレをお借りします。

裏の豪徳寺の方が立派ですね。

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VagaryBoy

私と同姓の人が城主

北陸は苦手です。

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