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しんちゃん

一部の郭以外は秘境化が進んでいる。 (2025/05/07 訪問)

酒谷城は酒谷川に向かって伸びている丘陵の先端部分に築かれています。飫肥城から都城に通じる交通の要衝にあり、飫肥城を巡る抗争に伴い、しばし島津氏と伊東氏の間で所有者が変わっています。
城址は案内板を参考にすると11の郭で構成され、郭8に至る途中には腰郭が二つついています。6.7と8~11はある程度の高低差を持った、同じ区分けとされ、それ以外の郭はシラス台地の城郭特有の独立した郭で、間に堀切が付いています。
主郭と推定される郭8の周辺は草が良く刈られていて歩きやすいですが、それ以外の郭は入り口まで藪草が密集していて訪問する気になりません。ほぼ住宅地と言って良い立地に有るのですが、帰りに通った舗装路に若いクマのものと見られるフンが大量に落ちていました。
正直、人身事故にならないのが不思議なぐらいで、宮崎県でも特に過疎化が進んでいる日南市で熊が繁殖している事実には不穏な物を感じます。草を刈って城址を整える以前に、この地域ではいろいろ対応しなければいけないことが有るような気がしますね。

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宗春

堀川クルーズ+名古屋城 (2025/05/04 訪問)

帰省すると、地元の友人と一緒に城めぐりをしたりするのですが、この日は一人で巡ってきました。
登城前には、JR東海ツアーズの堀川クルーズ(名古屋おもてなし武将隊の案内+特別御城印付)に参加しました。今年案内して頂いた武将は前田慶次殿で、昨年の徳川家康公とはまた違う案内をして頂き、面白かったです。
名古屋城公式の御城印も、新しいものが出たという情報を得たので、入手してきました。

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しんちゃん

佐伯城 (2025/05/05 訪問)

佐伯城・本丸から西の丸まで。山上の城はそれほど広くありませんが、堂々とした総石垣の城で本丸には天守台も備えていました。天守からの眺めはさぞや壮観だっただろうと思いますが、本丸自体は狭く居住には適していないようです。普段は二の丸に居住していたのではないでしょうか。
2017年の調査で本丸北曲輪の北斜面に、ひな壇のような「はばき石垣」と言うものが見つかったようです。正直見ておけば良かったな~と思ってます。佐伯城に来るのは三回目で、本丸には二回登っているので、おそらく次も有るでしょう。ただ「はばき石垣」までたどり着ける道があればですが。
本丸から二の丸、西の丸と訪問して下山しました。余湖さんの縄張図を見ると北の丸南西に門がついているようなので、そこから「はばき石垣」を見に行けるかな?

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しんちゃん

思ったより遺構がある。 (2025/05/11 訪問)

桜尾城の続きです。一応、町の史跡には認定されているようで、それらしい道はついているんだけど、解りづらいうえに人がほとんど訪れていない様子。部分的に道が荒れているのは仕方がない。標高378m・比高およそ200mの山頂に築かれていて、本丸の周囲に腰郭を複数配し、標高361m地点にも曲輪があります。また本丸の南側に馬場とされる腰郭があり、本丸周辺に二つ、道中に一つ、堀切が有りました。
案内板には「基壇の跡」「城門跡」「櫓跡」とされる箇所もありますが、正直標識などを立ててくれないと解りません。
本丸周辺を周遊する堀道も遺構かもしれません。
ひとしきり周囲を散策して、戻ることに・・途中でさっき逃げたやつが待ち伏せしていると困るニャ・・。途中で二匹の動物が逃げていくのを発見。カモシカかな? あとで麓でコサばらいをやっているオトンやオカンたちと話をしたところ最初に逃げた奴がイノシシで、後で見た奴がシカだと判明しました。しばらくカモシカに会えないで寂しい思いをしていた私ですが、この後訪問した和歌山の田尻城の尾根上でカモシカに会えました。クマスズを鳴らしていたので早めに逃げられてしまったのが少し残念。

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天守無しがアツい

標高536メートル (2025/06/07 訪問)

(参考URL)
https://kojodan.jp/castle/1029/#section-access-info

しとどの窟を見学した後に土肥城へ向かう
しとどの窟バス停から20分ほど

この日、土肥城(土肥城址)には私1人しかおらず…まるで貸し切りのような気分…石の上に荷物を乗せて…城址内をまず散歩…それからスクワット20回(せめてもの筋トレ)して…家から持参した御城印帳を眺める

土肥城の御城印は、小田原城三の丸交流館にて…石橋山の戦い・船出の浜(両方とも合戦印扱い)と3枚セットで販売されていたのを購入

御城印は予め御城印帳の空きページに収めており…城址への到達により目標クリアしたので…この地にて撮影。これにて御城印帳の全ページが埋まったので…端から端までのページをこの地で読み返して…その軌跡を再認識

城址には「土肥城址」の石碑・標高536Mの立札・ハイキングコースの案内板くらいしか無い…屋根付きの場所はあるが…ベンチは無く休憩するには不向き

ただし…ここからの景色は絶景✨
湯河原駅方面の海…森林に覆われた足柄の山々…神奈川にもこんなに自然が残っているのかと思わせられる🌲🌲

ここに土肥城の石碑があるという事は…鎌倉時代あたりにここに武士の館があったということだろうか?現代ほど道が整備されておらず…その現代でもここまで登るのに麓から1時間はかかる場所

館を作るための資材を運びながらこの場所まで登るなんて…想像しただけでも筋肉痛しちゃう😅

あと…土肥城址の石碑…これもどうやってここまで運んだんだろう🪨?帰り道でハイキングコースを歩いたが…舗装された道は途中までしかない。その途中まではトラックに乗せて運べばいいが🚚

その先は…ガチの人手💪
腕力に秀でた者たち数人が力を合わせて…この場所まで…こんなに重そうでデカい石を運んだのか?

ご苦労さんです…😅

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しんちゃん

田原礼幡(レイマン) (2025/05/31 訪問)

田原城は大和国と河内国の境に位置し、北の古堤街道を押える重要な位置に築かれています。城主の田原氏は南北朝の時代より田原の地を領していたとされ、当時の居館は北方500mの「古城」と呼ばれる地にあったとされています。
田原城は戦国時代に築かれたとされ、キリシタン武将である田原レイマン(礼幡)が城主を務めていたとルイス・フロイスの「フロイス日本史」に記されているようです。
北側に城址に入る道が付いているので、車を空スペースに寄せて駐車します。こちらは搦め手のようで水路が横切っていますが橋がかかっているので、そこから入ることが出来ます。
東側の主郭を目指していくと両側の郭に挟まれて堀切となっており、主郭西の細長い郭から入って行きます。そこから主郭に至ると、かつてあった祠は無くなっていて、大きな田原譲の看板があります。東が二郭跡で、そこからかつての大手跡とみられる畑地を見渡し、堀切道を戻って行くと、西側の郭に入れそうな場所が有りました。その先が第三の郭と見られ、大土塁を挟んで西側にも郭があり、そこから中央の道に降りて行きます。周囲の郭跡を見ながら帰途につきました。三郭の周辺は結構な藪ですが、思っていたよりは楽しむことが出来ました。

今日は8度5分の熱が出て完全にダウンしています。どうやら、先週の城攻めで疲れが出ていたところに社内で、おかしな風邪(?)をもらったようです。コロナじゃないだろうな‥? でも食欲は旺盛に有るのでそれが救いか、味覚も有るし。
かかりつけの病院でもらった薬が全然効かないのでロキソニンを飲んだらだいぶ沈静化しました。ロキソニンすごいな、でも薬の飲み合わせには気を付けないと。

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しんちゃん

高山右近 (2025/05/31 訪問)

高槻城は元は入江氏の城でしたが、永禄12年(1569)本圀寺の変で入江元秀は足利義輝の屋敷を攻めた際に討死し、その後は和田惟政が城主になりました。元亀4年(1573)惟政の子・惟長が高山右近を謀殺しようとして斬り合いになり、右近は駆け付けた高山家の家臣に誤って斬りつけられ、首を半分ほども切る重傷を負うも奇跡的に回復したそうです。
かなり眉唾な話なのですが、この後右近は荒木村重に属し高槻城4万石を領しました。
高槻城は多くの遺構を失ったものの、堀の一部が残っているようです。
大阪府立槻の木高校が本丸跡で、芸術文化劇場南館が二の丸跡で駐車場はここを借りています。本丸・二の丸を囲うように三の丸があり、高槻市立第一中学校と高槻城公園は本丸の東側に位置しています。芸術文化劇場南館の北側の堀はちょうどかつての水堀の位置と一致しているようです。

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ぴーかる

尼子十砦9城目 (2025/03/30 訪問)

【高尾城】
<駐車場他>城福寺駐車場<35.288112, 133.248113>に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸
<感想>日帰り尼子十砦旅3城目。城びと初登城投稿になりますので案内から。城福寺の山門に城跡碑があります。境内に入り、左手にコンクリートブロックの階段がありますので上がって祠の最上段、北西側山の方向に2重堀切が降りてきているのが見えますので登ります。右手の堀切の方が登りやすいです。
 降雪がひどくてカメラをかばいながら散策したのであまり隅々まで散策してはいません。城跡は主郭の北側・東斜面は藪化してちょっと入れない。西側に堀切があり南北に竪堀となって落ちています。主郭南側から登り口になり切岸の南側が2重堀切になっています。堀底に案内板があります。2重堀切の南側山上と東側斜面が南曲輪群となっていて、更に南側にも2重堀切があります。
 とにかく主郭の南側の堀切群が圧巻で、南端の堀切に取り付くと堀切渡りが息を切らしながら楽しめます。堀切が主体で堀切の間や尾根の側面の隙間に腰曲輪が点在している感じで堀切の面積の占める割合の方が大きい、この地方、尼子のお城では珍しい堀切の城で見応えありました。いい山城です。

<満足度>◆◆◇

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虹の駅から (2025/06/07 訪問)

 摩耶ケーブル虹の駅から散策を開始しました。摩耶花壇跡を過ぎて摩耶山方面へ行ってしまい途中で気がついたのですが、せっかくなので摩耶山史跡公園まで行って来ました。階段が続いていて途中で後悔しました。気を取り直して峠茶屋跡まで戻り城跡の散策を開始しています。曲輪と思われる削平地、竪堀らしい地形、石垣の跡らしい場所を見つけました。それらしい地形はありますが、どこまでが城域なのか、どこまで遺構なのかよくわかりません。縄張りもわからず、本当にここでいいのだろうかと半信半疑で散策しました。ぴーかるさんも投稿されていた謎のコンクリート建造物を発見したときは、ここでよかったのかなと少しホッとしました。

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シャンシャン

松山城の石垣 (2025/06/06 訪問)

松山城は3回目の訪問。
夕方だったため天守は閉まっている時間だったけど、その分人がほとんどおらず本丸内をじっくり見学することができた。
本丸の屏風折になっている石垣は圧巻の一言!また今回、県庁裏登城路の途中にある登石垣は初めて見ることができた。
近隣にある伊佐爾波神社は全国に3つしかない八幡造りの珍しい楼門があり、ここから見る松山城も趣がある。

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太閤の愛した湯 (2025/06/07 訪問)

 神戸電鉄有馬線有馬温泉駅より徒歩で跡地といわれる念仏寺、極楽寺付近を散策しました。太閤の湯殿館、石垣・帯曲輪などを観て来ました。
 有馬温泉には久しぶりの訪問です。また泊まる機会があればついでに行こうと思っていましたが、なかなか機会はなさそうなので行って来ました。

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シャンシャン

貴重な古代山城跡 (2025/06/06 訪問)

愛媛県にある古代山城のひとつ。
白村江の戦いで日本が敗れた後、国防のために築城されたとのこと。
国指定史跡となっており、登城路はよく整備されているため登りやすく、随所にある案内板で城跡について丁寧に説明されている。
山頂からの景色が非常によく、もし敵が瀬戸内海を通ればすぐに発見できたと思われる。
一部復元された城壁もあり、さらに現在も整備を進めているようなので、これからどう発展していくか楽しみ。

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小城小次郎

キャンプ客を掻き分けて (2024/10/12 訪問)

鋸崎台場とともに国史跡の台場だが鋸崎台場は原発敷地内にあって近寄れない。キャンプ場内にある松ヶ瀬台場はタイプの異なる1号・2号台場いずれも見学可能だが楽しそうなキャンプ客を掻き分ける勇気が求められる(笑)

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しんちゃん

鷹山氏 (2025/05/31 訪問)

高山城は富雄川の北の丘陵に築かれていて、東側に河川と街道が沿って北上しています。一条院方衆徒の鷹(高)山氏の城で、応仁の乱から戦国時代初期にかけては越智・古市方に属し、天文13年(1544)には筒井氏に味方して柳生城を攻めますが、筒井・松永両氏が争った際には松永方についています。
案内板には畠山氏や細川氏とも通じ、周囲の武士と敵対と連携を繰り返したと記載されています。畠山氏の重臣・遊佐長教に仕えた鷹山弘頼は山城上三郡の守護代に任じられるほど勢力を増しますが、天文22年(1553)に羽曳野市の高屋城で弘頼が安見宗房により自害に追い込まれると、鷹山氏の勢力は衰退していったようです。
豊臣秀吉による筒井氏の伊賀転封に伴い、鷹山氏も高山を離れますが、後に大和に戻って来たようです。

東の街道沿いに北上して行くと城址北側から西に向かって道が続いていて、標識もついています。登城口の前の空スペースは個人所有の土地かも知れないので、車はどこか余裕のあるスペースに停めておいた方が良いでしょう。登城道に沿って南に進むと西側に扁平地と入口のよな場所があるので、そこから城址に入ります。尾根上には浅い堀のような箇所があり、南に進んでいくとすぐに主郭らしき場所に至ります。主郭は東側と、南側に郭を持ち、その間に腰郭がついています。
南の郭を先に進むと石碑や鳥居のある郭が有り、そこから南側は通行止めのロープが張ってあるので、引き返すことにしました。
南側には土塁を備えた郭が有るようで、南の尾根伝いに訪問できるかもしれません。

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しんちゃん

郭Ⅲ・主郭西側の堀切群 (2025/05/31 訪問)

郭Ⅱのエリアから郭Ⅲのエリアに移動しますが、やはりここにも堀があります。そのまま北に向かうと、竪堀となって下に続き、東側に土塁と堀切があります。このまま竪堀に沿って降りて右手(東)に回り込んでいくと畝状の堀群が有るようですが、訪問していません。ちょっち爪が甘いです。
郭Ⅲの南の腰郭を確認した後は、主郭北西の遺構を目指して進みます。城址の見どころはやはり、主郭の周辺に集中しているので、ここだけはしっかり見ておきたい。主郭の二つ目の腰郭の脇から西下に道が続いています。目の前には堅土塁があって、大堀切が南北に続いています。高所が土橋になっていて、その先には郭Ⅰ-13が有ります。そこからでは大手道に戻れないので、サブコースに戻って下山と相成りました。

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トク

黒田六端城を行く:(4城目)益富城 (2025/02/16 訪問)

黒田六端城を行く、4城目は「益富城」です。嘉麻市の標高190mの眼下に街道が見渡せる地に、黒田長政は「後藤又兵衛」に16,000石で与えます。大河ドラマ軍師官兵衛では「塚本高史」さん、真田丸では「哀川翔」さんが演じられていましたね。

JR篠栗線「新飯塚駅」から大隈行のバスに乗り終点で下車、そこから国道211号線沿いにもう100m程進むと「一夜城」の標識があり、そこから舗装路を40分程歩いて登った場所に益富城はあります。よって車の方は直接山頂付近まで行けます。またバス停のすぐそばにある「麟翁寺」には、益富城の搦手門(写真②の場所にあった門)が移築されており、又兵衛の後に城主となった母里太兵衛の墓もありました(写真⑩)。

駐車場前から二の丸までは5分程の登りです。途中には一国一城令で破却された石垣や(写真③)、竪堀(写真④)や空堀(写真⑤)の跡などがよく残っていました。二ノ丸に入ると(写真①)。搦手門の跡の桝形虎口(写真②)や、櫓台も残っていました。

さらに本丸まで進むと(写真⑥)、大手門跡や建物礎石(写真⑦)もありました。ここで又兵衛は暮らしていたようです。さすが戦上手の又兵衛ならではの城だと思いました。

又兵衛の前には、秋月種実が隠居城としていましたが、豊臣秀吉に従わなかったため、秀吉は村じゅうの戸や襖をかき集め、(写真⑨)の場所で一夜にして城が建ったように見せかけたそうです。麓にいた種実はこれに驚き降伏したという逸話があり、それで地元の人は一夜城と呼んでいるようです。

後藤又兵衛は、父を亡くした後に伯父が黒田を裏切ったため追放されてしまいます。仙石久秀に従いますが戸次川の戦いで久秀は秀吉の命令に違反したため改易。又兵衛は官兵衛の下に戻る事を許され、8才年下の長政と兄弟のように育てられました。しかし長政とはあまり合わなかったようです。1604年に官兵衛が亡くなると、1606年には又兵衛がこの益富城にて、長政と犬猿の仲である細川忠興と密通していた事がばれ、立場が悪くなった又兵衛は黒田家を出奔し益富城を出ます。一時池田輝政の世話になりますが、結局京都で浪人暮らしをしていたようです。しかし1615年大坂冬の陣が始まると大坂城に参陣し豊臣方として活躍します。しかし奮闘及ばす、同年の大坂夏の陣の道明寺川原の戦いで命を落としたとされています。しかし近年、実は生き延びていたとの説もあり、この益富城を目指すも、玖珠の角牟礼城の北にある耶馬渓あたりまで着いた所で豊臣秀頼が死んだ事を知り、そこで悲しみのあまり自害したとの言い伝えがありその墓も残っています。どっちが本当なのか興味深い話です。
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・因幡の城めぐり⑦ ~山上ノ丸 (2025/05/05 訪問)

久松山に登るのはこれで6回目です。2002年、最初に久松山に登った時は、とてもきつい山城に感じ、青息吐息でしたが、今はさほどに体力を消耗しません。天球丸から山上ノ丸の本丸まで15分の所要でした。老いてますます盛んといったところです。今回、ラッキーなことにピクミンブルームの山デコ、まだ持っていなかった赤ピクミンと羽ピクミンをゲットすることができました。久松山の文字が入っていてうれしい限りです。山上ノ丸の本丸は、昔に比べてその下の郭がよく見えるようになっているように感じました。時間にはもちろん余裕があるので山上ノ丸の二ノ丸まで戻って太閤ヶ平を目指します。

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しんちゃん

どこへ行ったか芥川氏 (2025/05/31 訪問)

芥川城は芥川氏の平城(館)であったとされ、平安時代から存在し、芥川氏が勢力を拡大するにつれ城の規模も大きくなっていったようです。応仁の乱以降は芥川氏の勢力も衰退していったようで、永正13年(1516)1月に細川高国の命を受けた能勢頼則によって芥川山城(新城)が築かれ、芥川城は細川氏勢力下において麓の居館(平城)として活用されたのだと考えられています。

極めて写真の撮れ高の低い城で、周囲が写らないように城址碑の写真を撮ることしかできません。周囲の道も狭いので、あまり入り込まないように気を付けないと・・すごい狭い道をくぐってキューブが入って来る。地元民強ええ・・。

このあと豊中市の「大坂らーめん 秀吉」に向かいました。こじんまりとしているけど、歴史好きなら何度も足を運びたくなる店です。
私は看板メニューの「太閤ブラック」をライス付きで注文。地鶏の出汁を使ったしょうゆラーメンで、そんなにしょっ辛くないのが良い。他にも
信玄らーめん・・塩 地鶏出汁
信長らーめん・・煮干魚介豚骨出汁
家康らーめん・・味噌豚骨出汁
利休・・利尻とろろ昆布と鯖を効かせた塩らーめん
茶々・・地鶏出汁醬油台湾らーめん 0~1辛
茶々ホワイト・・地鶏出汁塩台湾 1~3辛
謙信・・つけめん・和風醬油出汁
政宗・・まぜそば
以上、替え玉は2分かかります。お値段一律リーズナブル円

清正「わしは?」 正則「わしも」 三成「拙者も」 ・・キリが無いので。
秀頼「ボクは??」 そうですな、なんでいないんだろ。茶々さんは2種類もあるのに。 他にも誰か大事な人を忘れているような・・



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しんちゃん

郭Ⅰ(主郭)・郭Ⅱ (2025/05/31 訪問)

畝状竪堀群を堪能した後は郭Ⅰ(主郭)に、向かいます。主郭の虎口は南についていて土塁が西に続いています。東辺一帯には櫓台と呼ばれる一段高い扁平地が南北に続いています。櫓台は北西にも築かれていて、そこから北の腰郭(Ⅰ-5)を経由して水の手(井戸跡)を訪問し、そのまま主郭東の切岸を眺めながら、郭Ⅰと郭Ⅱのエリアを切り分ける堀切を確認しました。
郭Ⅱの西腰郭の間を通る堀道を通って、腰郭をいくつか経由して郭Ⅱに到達しました。郭Ⅱは東西をⅠ・Ⅲの郭に挟まれているので竪堀などの仕掛けが少ないですが、腰郭も多く、東西の境界を仕切る堀切もあるので、独立した郭としても成立すると思います。

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しんちゃん

見ごたえ十分の畝状竪堀(空堀)群 (2025/05/31 訪問)

鹿背山城は木津氏によって築かれたと考えられています。15世紀には南都興福寺の傘下の武将である古市氏らによって使用され、16世紀後半には松永久秀によって改修を加えられ、北方の防御の城として重視されたと考えられています。
南山城でも最大級の山城とされ、西から一郭(主郭)、二郭、三郭が並び、それぞれに腰郭が付いています。理想的な一城三郭の形態を持っています。余呉さんの縄張りを見ると、各郭の麓には池があり、主郭の北には水の手があります。東西の主要な郭には畝状の竪堀が付き、その縄張りの美しさを合体ロボで例えるなら「アクエリオン」実用性は「ダイオージャ」といったところでしょう。
なんのことかわからん?・・ググってくだされ。
西念寺の脇から大手道が続いていて、サブコースから回れば、すぐに城址に入ることが出来ます。早く畝状竪堀(空堀)を見たかったので腰郭群を登って行って西脇から訪問しました。比較的大きめの土塁が三条続いていて、その北側にも二条の土塁が竪堀と一緒に二条続いています。こちらの土塁は上の方で繋がっていて、西側を守っています。良く考えられた高度な縄張りで、隠れた築上名人として松永久秀の名を記憶する必要がありそうです(多聞山城・信貴山城・鹿背山城・龍王山城)。ちょっと地味かな・・。

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