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じゅんじん

善光寺よこ (2024/07/09 訪問)

13年ぶりでした。

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しんちゃん

樺山資久 (2025/05/07 訪問)

樺山城の詳細ははっきりしませんが、島津宗家4代・忠宗の五男・資久が日向国樺山を領し、樺山氏を名乗って勝山城を築いて住んだとされているので、樺山城も近い時期に築かれた可能性はあります。勝岡城は明応4年(1495)に伊東氏の城となったので、樺山城も同じ経緯をたどったのではないでしょうか。城址自体も公園化されていて形態が解りづらいです。
上米公園の宮田池の南東の丘陵の鼻先が城址と見られ、遊歩道を通って主郭を目指します。途中、工事のため通行不可の場所があるので、そこを北に迂回し、行きついた場所の頂部が主郭と見られます。主郭には土塁のような土盛りがあり、そこに城址碑が立っています。
主郭周辺と丘陵上の扁平地に城址の面影はありますが、遺構などは見当たりません。

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しんちゃん

整備がされれば、見ごたえのある山城になる。 (2025/05/08 訪問)

郡山城の麓には文字通りの「麓」があるので、山城への入口はあります。かつての麓は集落になっていて、そこから城山南部の谷間に向かって道が伸びているので、その東側脇(向かって右)から入って行きます。山全体が藪に覆われていて、特に麓は酷いですが、なんとか荷物を最小にして通過していくしかない。頂部の主郭から東西の尾根上に郭が展開していると思いますが、全部は見切れていません。
グーグルマップを見ると、西の尾根先が詰ヶ城跡、中央の中腹あたりに郡山城跡群(弥五郎城跡)のマーカーが付いています。東の尾根先にも郭が有りそうな場所があります。私が確認したのは谷筋の郭群、東の尾根筋の腰郭群、山頂部の南東の主郭から北西に続いていく郭で、これだけでも十分なボリュームがありました。竹藪の整理さえされれば、それほど登りづらい城ではないので、楽しく散策できるとは思うのですが。ちょっと現状では「しんどい」ですね。

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しんちゃん

湯野田城 (2025/05/10 訪問)

湯野田城の続きです。一度本丸から降りて歩いていると途中で案内板を発見して、北側にも郭が有ることを知りました。下側からも道が続いているので、北上して階段を登って行くと、出丸を経由して本丸に出ました。戻って来ちゃった・・。
改めて縄張り図を見ると、本丸からも北の郭に道が付いているので、迂回して北の郭にたどり着きました。これでひとしきり城内の探索は終わったわけだ・・やれやれ。
この日は、日在城の訪問は取りやめにしました。この二日ほどの訪城で本調子で無いことを実感しています。だいたい65%くらいの状態です。日在城は岩場(崖?)の有る城で、藪の中を直登しなくてはいけない。道を間違えて岩場から落ちると危ないので、体調と装備をしっかり整えておく必要があります。この状態で登っても、9割がた大丈夫だと思うけど、残り1割が不明です。少なくとも8割以上の状態を維持して登りたい城ですね。
今回の旅行で、だいたいゾーンに入って維持できるのが5日くらいだということが解りました。その間なら、たいがいの城はクリアできるけど、そこから外れると危険な城は避けた方が賢明ですわ。今回の旅行は、今の自分の状態を確認できたのが最大の収穫でした。

最後の写真は、二日前に鹿児島のコンビニで食べたゴディバのストロベリーフラッペです。一つ500円で、なかなかのお値段ですが、自分へのご褒美に買いました。サンプルの写真がおいしそうだったので、購入してかきまぜてみたのだけど、なんか写真のようにならない。ストロベリーなのに全部茶色でイチゴ感が無い・・。適度な抵抗のあるブツをずっと、ぐるぐるかき回していたら、なんか・・・「肥だめ」をかき回しているような気分になって来た・・。いや、確かに美味しかったんだけど。

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ぴーかる

正光寺城 (2025/03/22 訪問)

【正光寺城】
<駐車場他>駐車場はなし。<32.970356,130.751129>道路脇に停車しダッシュで行きました。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目8城目。現地説明板によると正光寺城は菊池十八外城の1つで別名加惠城といい、菊池能隆の子隆時が加惠氏を名乗って居城したのが始まりとされます。
 現地には遺構は残っておらず、田んぼの真ん中の用水路の脇に説明板と五輪塔が残されています。

<満足度>◆◇◇

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小城小次郎

砲術一筋で命拾い (2024/10/12 訪問)

残存しているのは半分くらいと言われるが残っているところだけでも素晴らしいし何しろ比高がほとんどないのが嬉しい。城主の稲富氏は時の天下人にその砲術を認められあちこちで命拾いしている。そういう生き方もあるんだな。

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朝田 辰兵衛

埼玉県の途中下車は続く…🚉 (2025/04/29 訪問)

越後と首都圏の中間地点なので,埼玉県は途中下車に都合が良いエリアです。今回は,JR南浦和駅のコインロッカーにキャリーバッグを入れて,3つぐらい廻ろうかな…と。
まずは,うなぎ屋さんを目指します。食べるワケではないですが…<笑>。

余談ですが…
埼玉県では東武鉄道も使いますが,コインロッカーがショボく,JR線での途中下車が有効です。すでにロックオン済の岩槻城になかなか行けないのも,コインロッカーが原因。岩槻駅のコインロッカーは「小」のみしかありません。あくまでもネットで調べた範囲内ですが…。

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イタさん

江ヶ崎城址 千葉県旭市江ヶ崎 (2025/05/22 訪問)

 子安神社鳥居前の駐車場を利用。神社辺りが城の中心だったらしいが、詳しいことは分からないようだ。旭市のHP等を見るが載っていない。鳥居先の境内に入る場所に堀跡らしい水路がある。橋の両側が高く土塁上になっている。社殿の右に土塁、外側には堀が確認でき、裏にも土塁、堀が見られる。左奥は民家に続く通路になり遺構はないが、左には低い土塁状と、堀跡と思わせるものが見られる。郭としてかなり狭いが、西の道路に確認しなかったが、土塁があるらしく、かなりの規模だったようだ。

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イタさん

北の雷神社と併せて (2025/05/22 訪問)

 城址の北にある雷神社(らいじんじゃ)の駐車場をお借りする。拝殿の前に神職さんがいて、神社の由緒、見広城関連の武士、城址の説明等を聞くことが出来た。またA4サイズ両面印刷の見広城址説明書を戴いた。説明書には、城址の位置・・・。詳らかな資料はなく、地元の伝承などによれば、嶋田三河守義広の居城と伝わる。永禄年間に里見義弘の臣下の勝浦城主・正木時忠によって東総一帯が席巻されたおり、落城したと云われている。城址の構造説明・・・などが記載されている。

 用紙を帰宅後に読んだため、遺構の確認が不十分だったのが残念。神社駐車場から民家脇を行けば、直ぐに台地を区切る空堀があり、先の鳥居から階段を上がれば主郭の北隅にでる。浅間神社の祠がある場所が高く櫓台跡とある。主郭は南北に細長く、狭い郭が二段続く手前に城址碑が立っている。先に広い郭がある。端に隅に物見台があったらしいが、見落としてしまう。東側には幾つかの腰郭が見られる。主郭以外の南は藪ではないが竹林になっている。神職さんに一周できると言われたが、思い返せば主郭周辺が周回なのだろうか。

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WEST

江戸城探訪 (2025/05/23 訪問)

江戸城を訪問しました。目的は皇居東御苑に入場し、本丸、二の丸等を散策するためでした。しかし、金曜日は閉園とのことで城内の見学は断念しました。
皇居東御苑は、月曜日の他に金曜日も閉園とのこと注意が必要です。
そのため、折角ですので、内堀の周りを時計方向に巡りました。
そのルートは、巽櫓前を起点に反時計回りで、大手門前、平川門前、竹橋御門跡、北桔橋門前と進み、そこから代官町通りを渡り、北の丸公園に入り、清水門、田安門を見学し、千鳥ヶ淵、半蔵門前、外桜田門、正門前を通り、巽櫓前とほぼ一周しました。約6kmのルートとなりますが、江戸城の大きさを実感してきました。
ところで、半蔵門前から外桜田門までの途中に江戸城跡碑があるんですね。あまり目立たないところですが、初めて見ました。

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todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑥ (2025/05/03 訪問)

小波城からの転戦です。富長神社がその故地となります。神社を巡る空堀はなかなかの深さを誇っていて見ごたえがありました。満足な写真は撮れませんでしたけれども。土塁も良い感じで残っています。

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赤い城

五福芝生スポーツ広場 (2025/04/29 訪問)

城跡は五福芝生スポーツ広場となっています。
パークゴルフ場ですね。
脇に説明板が立っていました。
早朝でもあり中には入れません。
説明板によると唯一残る東土塁もスポーツ広場の走路下で保存されているとのことです。
高低差がなんとなく往時を偲ばせています。

神保長職が白鳥城の東に築いた平城で秀吉の佐々成政攻めでは前田家家臣の片山伊賀守が入り居城としました。

この日の朝駆けはこれで終了。
一旦ホテルに戻り、ガラス美術館を見学。
お昼は大喜の富山ブラック、美味しいけど塩っぱかったです!
ライスを付けるのmustです。

【見どころ】
 ・高低差

撮れ高が少ないので前日行った砺波のチューリップを出しておきます。

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朝田 辰兵衛

笠寺小学校と秋葉社… (2025/03/21 訪問)

笠寺小学校と秋葉社の両方に碑があるということで向かいましたが,どちらも見つけづらかったです…。自分との相性は悪いなと感じました。どちらも1度通り過ぎてるし…。
振りかえると,市街地でけっこう相性の悪さを感じます…。

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しんちゃん

嬉野氏の城 (2025/05/10 訪問)

湯野田城は標高106m・比高45mの丘陵上に築かれており、丘陵全体を巧みに城塞化していて、思った以上の城域を持っています。現在は嬉野公園として整備されていて、主郭には権現社が祀られており、麓より石段が伸びていますが、この石段は経年劣化で安全性に問題が有るため使用することが出来ません。迂回路にそって登って行くと副郭の南東に腰郭が有って、そこから副郭(二郭)に登ります。副郭は主郭の東に在り、広く居住性も良さそうです。主郭から副郭の北側に沿って土塁が伸びており、そこを登って行くと権現社にたどり着きます。
権現社の先が主郭とされ、見張台の様な巨石があり、裏側に登り口が付いています。主郭周辺は貯水施設になっていますが、南東まで回り込んでいくと、道が郭の外周に沿って付いていて北の郭まで行くことが出来ます。北の郭は上下二段になっていて、それぞれが十分な広さを持っています。大まかに北郭と南の主要部に分けることが出来、間を城谷と呼ばれる天然の堀が横切っています。副郭の北東には出丸もあり、案内板を見ると竪堀が付いているようです。コンパクトな丘陵上に築かれていますが、郭の総面積は大きく、思った以上に見ごたえのある城址です。

湯野田城は別名・権現山城や嬉野城ともいい、応永12年(1405)には反室町幕府の勢力の城として「宇礼志野」という記載が残っているため、このころから城が有ったともされています。嬉野(宇礼志野)氏の城とされますが、稲佐城の嬉野通久が天文2年(1533)に当地に移って築いたとする説もあるようです。嬉野氏は湯野田城の他に日守城を本城としており、初めは有馬氏に従っていたが天文4年(1576)に龍造寺氏に寝返ったとされています。

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T-Shionoya

岩村城 見どころ満載の石垣遺跡 (2025/03/30 訪問)

メモリアルな200城目として3月末に訪れた岐阜県恵那市の岩村城。

木曽川や東山道の南に位置する岩村盆地南端の比高約180mの山に築かれた城。
江戸期の城では最も高い標高717mに建てられた日本三大山城の1つ。
古くからの遠山荘の中枢で、戦国期には勢力争いのポイントとなった地。

源頼朝家臣の加藤景廉から始まる遠山氏が鎌倉期から統治し、1500年代初期には山上の城が築かれていたのだとか。
戦国期には武田家臣の秋山信友や織田方の森氏などが治め、森氏時代に各務兵庫が近世城郭に大改修した模様。
江戸期になると大給松平家乗が入り改築し、以降は大給松平本家2代・分家7代が主な城主。

現在は、江戸期の藩主邸跡に太鼓櫓(復元)などが建ち、山城エリアには石垣が残る日本100名城の城跡。

山の南側から本丸に隣接する出丸まで車で入ることも可能だが、訪問時は藩主邸跡から徒歩で本丸へ。
一の門から本格的な石垣エリアとなり、右の崩れそうな石垣は、いにしえの世界への入口を感じさせるもの。
個人的な最注目ポイントは畳橋。建物は残ってないが、外枡形と三重櫓から横矢が掛かるL字状の橋の防御システムはまさに技巧的。
また後から知ったのだが、古絵図を見ればシンボルの六段壁の手前には二重櫓があり、2階から二の丸門へ渡り廊下が掛かっていたとのこと。
更に本丸では長局埋門と埋門がとても魅力的。

結局、石垣未使用エリアを含めて4時間滞在した、見どころ満載の私の城郭巡りの200城目でした。

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しんちゃん

粟野氏の城 (2025/01/02 訪問)

北目城は元は粟野氏の城でした。5代の粟野忠重の時代に、茂ヶ崎城より北目城に移り天正年間まで粟野氏の城でした。9代の粟野重国は天正19年(1591)伊達政宗との戦いに敗れ、伊達氏の支配下に組み込まれています。
その後、北目城は関ヶ原の戦いに際に上杉軍と対峙する拠点として使われています。規模は東西約370m、南北約280mの平城で、平成4~5年の発掘調査によって堀跡が発見され、上幅10~14m、下幅2.5~3mの大きさで、堀底に段差や「障子」などが備えてあったようです。
現在は完全に市街地になっており、国道4号線と広瀬河畔道の交差を北に100mちょっと行ったところに案内板が有りました。
城址近くの「焼肉冷麺やまなか家仙台郡山店」で食事を取りました。盛岡冷麺が看板メニューの一つですが、温麺もあるようです。この日はちょっと寒かったので温麺を頼みました。個人の好みもあるけど、私としては冷麺の方が好みですね。 

※内容を修正・加筆の上 再投稿させていただきました。申し訳ありませんがご了承お願いします。

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しんちゃん

亘理伊達家 (2025/01/01 訪問)

千葉常胤の子孫・武石氏がこの地に移り、暦応2年(1339)には亘理氏を名乗るようになり小堤城を築いたとされています。亘理氏は伊達氏・国分氏・相馬氏と争うようになりますが、亘理宗元の代に伊達氏に従うようになり、天正年間(1573~92)元宗・重宗のころに亘理城を築いて移って行ったと考えられています。
現在は大雄寺の境内となっていて、後に亘理城主となった亘理伊達氏の墓所が有ります。墓所のある城址南側には土塁も残っておりました。
大雄寺は亘理伊達家初代の伊達成実が菩提寺である雄山寺を居城に移し大雄寺と改称したとされています。

※申し訳ありませんが、内容を一部修正・追加し再度掲載させていただきます。一度なら偶然で済むのですが、連続して発生する場合は故意の可能性が有るとして、遺憾ながらこのような対応を取らざるを得ません。
四県コンプの時の事例も有りますので、なにとぞご理解いただければと思います。小堤城の投稿に関しては再投稿は、この先何が起きようと一度のみにさせていただきます。先の投稿で「いいね」をつけてくれた方々には申し訳ありませんがご了承願います。

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しんちゃん

稗貫氏最初の居館 (2025/01/04 訪問)

小瀬川館は鍋割川と台川の合流部に近い台地状に築かれていて、東に伸びる台地を堀切で断ち、主要な郭は北と南の二郭に分かれていたようです。現在は宅地と畑地になっていて案内板が立っていますが、遺構を確認することは出来ませんでした。
稗貫氏の最初の居館とされ、ここより本館(十八ヶ城)に移り、さらに鳥谷ヶ崎城(花巻城)に移ったとされています。稗貫氏は鎌倉時代に当地に移ったとされますが、出自も含めて詳細は不明とされています。中条氏から派生したとも言われ、南北朝時代に北朝方であった稗貫氏は暦応3年(1340)に南朝に転じた河村氏の一族に攻められ、翌年には南朝方の連合軍によって当主である稗貫出羽守が討ち取られるなど苦戦を強いられています。

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しんちゃん

国分盛重 (2025/01/02 訪問)

松森城は元は国分氏の城でした。後に伊達政宗の叔父の国分盛重が国分氏を継ぎますが、家中をまとめきれず改易となり、盛重が佐竹義宣の元へ出奔してからは伊達氏の城として整備されているようです。
最高所が主郭で、尾根上に南北と東に城域が伸びていることから鶴ヶ城の別名を持っています。南の城域は駐車場として転用され、そこから本丸めぐりの遊歩道が伸びています。主郭の南側は堀切と見られ、南東にも郭が伸びています。地形図を見ると、北側の郭は中学校造成の際に削られているようです。遊歩道に沿って歩くと堀切を渡って、本丸を一周してから元の場所に戻って来るようです。
この日の夕食はファミレスで牛タン定食を頂きましたが、全国チェーンなので、どこで食べても同じような。

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ぴーかる

西郷家発祥の地 (2025/03/22 訪問)

【増永城】
<駐車場他>西郷南州公園駐車場<32.974648, 130.763492>あり。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目7城目。現地説明板によると増永城は菊池十八外城の1つで別名西郷城といいます。菊池氏初代則隆公の長男政隆公が西郷氏として移り住み菊池氏一族の重臣として居城しました。26代西郷昌隆のとき薩摩に移り住んだという記録があるそうです。現地は神社・公園となっており遺構の堀はよくわかりませんでした。

<満足度>◆◇◇

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