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カズサン

安倍貞任を偲んで (2024/05/22 訪問)

 青森では安倍氏安藤氏を偲んでの福島城、唐川城、十三湊遺跡の探訪をしましたが平安末期、前九年の役安倍貞任と源義家との抗争、歌合せを偲んで唯一未踏になっていた厨川柵を初探訪しました。弘前から結構遠く約140km程あり途中にはSAで雄大な岩手山を見る事が出来ました。

 駐車場:特に無し、厨川八幡宮の手前参道横の原っぱに路駐(39°43'14"N 141°07'34"E h=150m)
 参考資料:城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 厨川八幡宮の地が城びとの厨川柵の指定地、背後は北上川の崖となっているが樹木が茂り良く分からない、県道220号線に出て道沿いに壕が確認できる、同じく道沿いに安倍館遺跡(厨川柵、厨川城跡)の解説板と安倍館遺跡の標柱が在る、そこから50~70m南に進み東の北上川方向へ進むと赤い鳥居の稲荷神社、隣接してこじんまりした宗任貞任神社があります、此処が城郭放浪記さんグーグルマップの厨川柵指定地と成っていますが同じエリアでしょう。
 少し南に安倍館公民館が有りますが公民館の南側は東の北上川に伸びる横堀が確認できます、もう一本安倍館遺跡標柱の処から同じく東に伸びる横堀が在ります。
 神社鳥居の額に宗任・貞任の名が見えますと胸が熱くなります、貞任の思いが後の奥州藤原氏、中世安倍安藤氏へ奥州日之本将軍に、十三湊の繁栄に繋がったのでしょう。

 解説板に依りますと
 発掘調査によると中世工藤氏の居城厨川城跡と確認されている、厨川城は文治5年(1189年)源頼朝の御家人工藤行光が地頭に任じられて以来、天正20年(1590年)廃城に成るまで約400年岩手郡を治める拠点となっていた。今も残る深い堀は工藤時代のもの、と記されていました。
 
 語り継がれた思いを大切に貞任の厨川柵で脳内整理。
  

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VagaryBoy

仕事の空き時間に

大濠公園のほうが記憶に残る。

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VagaryBoy

何度かお伺いしています。

最近は自宅が斜めってます。

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VagaryBoy

仕事の合間に

割とこじんまり

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VagaryBoy

暇なので、散歩しました。

大変疲れました。

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トク

104【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政の初陣(1/2)-高天神城に登城する前に) (2024/02/16 訪問)

(26人目)「井伊直政」の続き⑥です。
直政初陣の地、高天神城を訪れました。今回はその登城前の様子から先にお伝えします。

まず、JR掛川駅の構内にある「掛川観光ビジターセンター」に寄り情報収集をしました。駅からのバスの時刻表(平日30分毎、土日祝1時間毎)や乗り場(写真⑥)、降りてからのルートや縄張り図(②③④⑤)などたくさんの情報をいただきました(ありがとうございます)。そして何と!ここには「続100名城スタンプ」がありました。途中のスタンプ場所になっている大東北公民館で降りなくても駅のここで押せば、最寄りの 「士方(ひじかた)」のバス停までバスで直接行く事ができます(写真⑧)。荷物も預かってくれるようですが、5時に閉館で、それまで戻れるかわからなかったので、念のためすぐ前にあった駅のコインロッカーに入れました。すると何やらいい匂い、おいしそうなメロンパンを売っている店が目の前にあり買って行きました。これが正解! バスを降りて高天神城まで、店は一軒もありません(写真①のように何もない所です)。食べ物必要なら駅で買って行くべし!

掛川駅北口(写真⑥)から静鉄バス浜岡営業所行に乗り、車窓から掛川城を横目でちょこっと眺めつつ(写真⑦)20分、士方のバス停(写真⑧)で降り、追手門→本丸→岩窟→井戸曲輪(三日月井戸→かな井戸)→西の丸(高天神社)→馬場平(休憩)→堂の尾曲輪(堀切)→搦手門→バス停、のルートで歩きました(参考地図②③)。4時間くらいかかるかなと思っていたのですが、意外と2時間くらいで回れました。

登城後にまたバスで掛川駅に戻って駅前にあるホテルに宿泊。夜は掛川名物「まぐろ丼・茶そば・静岡ビール」で疲れを癒しました。特にまぐろは新鮮でおいしかったです😊(写真⑨)。どうやら掛川は、「まぐろ」と「お茶」と「メロン」の街のようです。

では次は高天神城の登城内容に続きます。万千代(直政)は、いったいどうやって水の手を断ったのでしょうか? そこに着目して登ってみようと思います(解るかな?🤔)。
 

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赤い城

少しだけの立ち寄り (2024/05/19 訪問)

一泊二日の山陰旅で少しだけ立ち寄りました。
ニッポン城めぐりの国宝5城イベントのためです。
今回は天守の写真はありません。
休日は県庁の駐車場が開放されているのは嬉しいです。

千鳥橋を渡り南口門から二の丸へ、櫓を見ながら天守のところまでは行きました。
今回は天守には入らず北惣門橋へと降り、武家屋敷、小泉八雲旧居、堀川を見ながら一周、駆け足での登城でした。

このあとはお昼、出雲蕎麦です。
美味しいお店はいくつかありますが個人的に好みの上田そばさん。
美味しかったです!

番外、写真10枚目の八重垣神社は夫婦の神様。
裏手の池に硬貨を乗せた紙を浮かべ婚期を占うことで有名なパワースポットです。
早く沈めば婚期は早い。
若い女性に人気のスポットです。

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しんちゃん

宗良親王ゆかりの山城 (2024/04/29 訪問)

大平城には三回行ってます。一回目は道が良くわからなくて断念しました。比高はそれほどでもありませんが、なかなか手ごわい山城です。もうちょっと草を刈ってくれたらと思いますね。
なかなか由緒がありまして、南北朝の時代、三岳城が落城した際に宗良親王が逃げ延びて来ています。しかし高師泰、仁木義長らに攻められ、暦応3年(1340)に落城し親王は信濃に落ち延びています。
五体力神社に入口があり、神社の東(右側)背後から出曲輪に道が続いています。出曲輪から本丸への道が最大の難関で北東側に道がありますが、ヤブシダで覆われていて良く見えない上に急坂が下に続いています。ここを下ってから本丸に登って行きますが、ここも雑草が生い茂っています。心が折れそうになりますが、本丸まで到達すると雑草もめっきり無くなるので、散策がしやすくなります。
東に曲輪が続いていて先に堀切がかかっています。これらの遺構から戦国期に今川か徳川の改修を受けているようですが、それほど凝った構造ではないです。本丸の西側にも曲輪が続き先に堀切があります。

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イタさん

天神山城跡・神奈川県鎌倉市山崎 (2024/06/12 訪問)

大船駅辺りから南西に低いが三角錐の山が見える。ここが北野神社の建つ天神山城跡になる。大船観音寺から23分ほどで神社参道入口に着く。参考資料は覚えていないが、文献等はないらしく、玉縄城の出城だったと伝わる、とあった気がする。

参道は石段が折れながら続く。石段の斜面は急で如何にも城跡を思わせ、斜面に後世の改変かも知れないが、狭い平坦地も見られる。最後の鳥居への石段の左に、斜面を斜めに上がる古い石段があるが、こちらが虎口跡だったら面白い。社殿の右奥から土塁状の遺構があり、先に行くと神社左奥の10mほど高い場所に出る。物見台でもあったのだろうか。先は木々が密生し踏み入れない。鳥居の両脇にも土塁跡らしき高まりがある。鳥居下から北にかけて腰曲輪らしきものがあり、下りてみたが草刈りがしてあり、先は狭いが下の道路に出られたので、単に参道なのかも知れない。

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しんちゃん

無印投稿  水城 (2014/01/16 訪問)

水城は白村江の戦いでの敗戦後、大宰府を守護するために大野城、基イ城と共に築かれました。国の特別史跡に指定されており、続百名城にも選ばれています。現在でもかなりの部分が残り、全長1.2km、高さ9mの土塁が延々と続き、基底部の幅80m、上部の幅25mの二段構造になっているようです。香川源太郎氏の「よみがえる日本の城」を参考にすると、かつては幅60mの水壕が並行し、土塁の高さは13mもあったようです。香川氏のイラストを見ると水城がただの土塁でないことがわかります。城壁の間に門が築かれ、城壁の上には物見台などが建てられています。城壁の開口部から御笠川が流れ大宰府まで通じており、その風景はいまも変わっていません。

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イタさん

長尾砦跡・横浜市栄区長尾台町 (2024/06/12 訪問)

 案内板に、長尾砦は玉縄城の出城。長尾氏は源義家に従い後三年の役に活躍した鎌倉権五郎景政の子孫がこの地に移り、長尾次郎と称し長尾氏の始祖となる。執権北条氏と三浦泰村の乱では安村に与し敗れ自刃し、鎌倉長尾氏は滅亡する。ただ一族はこの地に住み続け・・・と記されている。
 居館跡から南西に60メートル位に、長尾砦跡の案内板がある。周囲は長尾台と呼ばれる台地の端になり、南側からは高低差がある。多くは畑地で、他は竹藪などで遺構があるのか分からない。竹藪内を覗き込むと、これは遺構かと思える地形もあるが、恐らく違うのだろう。

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しんちゃん

マルマル モリモリ 福束城と関ヶ原 執念の丸毛サミット (2024/04/14 訪問)

関ヶ原の前哨戦と言えば、7月18日に端を発した伏見城の戦いや、田辺城の戦い、安濃津城の戦いなどの一連の攻城戦が有名ですが、福束城周辺の津屋城、駒野城、高須城でもパチパチやってたんですね。ちなみに福束城は一番最初に落城しています。
福束城は揖斐川ぞいに築かれており、本丸を中心に郭が配されていた連郭式の平城と見られています。遺構は残っていませんが、案内板のある福満寺や白髭神社の周辺に深い壕があって、城郭の雰囲気を醸し出しています。
関ヶ原の合戦の一月前、旧知の仲の横井伊織の誘いを断って西軍に味方した丸毛兼利を、福島正則の命を受けた徳永寿昌らが攻撃、西軍の伊藤盛正らが加勢に来ますが、福束城は8月16日に落城し、兼利は大垣城に逃亡しました。
その後、高須城、駒野城、津屋城、加賀野井城、竹ケ鼻城ら西軍に味方する城は次々と落とされ、23日には岐阜城も落とされてしまいました。西軍、弱すぎねーか?
正直、いいとこ無しなのですが、去年の2月19日、輪之内文化会館で 「丸毛サミット」なるものが開催され、なんと広島大学名誉教授・三浦正幸先生が「幻の名城・美濃福束城」という題で長尺の講演をされているんですね。しかも短編のアニメーションまで作成したらしく、えらい力の入れようです。まさにマルマル・モリモリです! 盛りまくってますね!
ユーチューブでショートアニメを一部拝見しましたが、真ん中のイケメンが丸毛兼利として、後ろのハゲとスカシは誰? なになに‥西脇香右衛門? 渋谷多左衛門? 知らんがな‥。
表題の候補はいくつか考えました。
「丸毛戦記」
「丸毛兼利と愉快な仲間たち」
「関ヶ原前哨戦、丸毛兼利奮戦す!」
最後のやつがいいかなと思いましたが、結局マルマルモリモリになりました。なにせ、マルモとフクつながりでもありますし。(なんのこっちゃ)


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覚鑁上人 (2024/06/13 訪問)

 根来寺の大塔など主要施設付近を散策した後、道の駅ねごろ歴史の丘近くにある根来寺遺跡展示施設を見学しました。半地下倉庫や階段と通路のレプリカなどが展示してありました。半地下倉庫の赤く焼けた範囲は羽柴秀吉の紀州攻めに伴う火災の跡と書いてありました。
周囲にも遺構がいろいろと見つかっているようですが、由緒ある大寺院としてだけでなく軍事施設としてどのような規模で、どのような防御施設があるか興味があります。

JR紀伊駅からバスに乗り根来東バス停下車。徒歩15分くらいで行くことができます。

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イタさん

長尾氏居館跡・横浜市栄区長尾台町 (2024/06/12 訪問)

 案内板に、平家打倒を掲げた頼朝に当初敵対していた長尾氏だが、その後頼朝・北条氏・鎌倉公方などに従い勢力を伸ばす。上杉謙信の先祖、長尾氏発祥の地と載っている、が長尾砦跡の案内板の方が詳しい。
 東に御霊神社参道がある。石段を上がった先は広い平坦地で、北東隅が児童公園になり、そこからも来られる。一段高く社殿が建ち、南側辺りの斜面は如何にも館跡に思えるが、平地は公園等の造成により削られた跡かも知れない。神社右から裏手は更に一段高く、住宅・畑になるが土塁跡を思わせる地形が見られる。

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カズサン

復元光信公館と牡丹 (2024/05/21 訪問)

 亀ヶ岡石器時代遺跡を終えて南下鰺ヶ沢へ約30km弱、探訪を長年願って居た津軽藩発祥の地なる種里城へ初登城。

 駐車場:麓の休憩所駐車場、トイレ有(17時に閉まります)
 参考資料:グーグルマップ、パンフレットに依る。

 16時半を過ぎていましたが登城開始、光信公の館は大扉は閉まり脇扉が開いており入館OK、電灯も灯して頂き見学できるようにしてくれました。
 延徳3年(1491年)光信公南部下久慈から部下を伴い津軽種里へ勢力の拡大し津軽藩統一の基礎固め、歴史勉強、種里城の模型、発掘調査、光信公の胴丸鎧レプリカなどの館内展示を見学して、光信公の像、裏の本丸跡、建物跡の地表展示見学、光信公の御廟所を本丸跡から拝み終了、5時を回って居ましたので登城口はロープで閉鎖、潜って出ましたが、トイレも17時閉鎖中でしたが待っていただき用を足しました。
 当日は火曜日でボタン祭り(5月下旬~6月上旬)中は無休と有りましたので見学出来たようです。開館期間は5月1日~10月31日
 開館日は金曜日、土曜日、日曜日となっています。が城跡、御廟所の見学は自由との事。

 開館日、開館期間を知らずに訪ねたまたまボタン祭り期間に入って居たので見学出来ました。色とりどりの牡丹が咲いていました久しぶりに牡丹を鑑賞しました。
 
 種里城の光信公の館は1990年平成2年の光信公入部500年祭のイベントに合わせ、事前の発掘調査、復元光信公の館設計等プロジェクトを組み建設したそうです。
 30年前に光信公の館復元は認知して居たのですが中々青森は遠く、鰺ヶ沢までは弘前中心部からも遠く、やっと今回の企画に入れて探訪が叶いました。

 弘前の帰路は館の方に聞き岩木山を北に廻って帰る県道31号線ルートを選択、昼以降晴れていましたので岩木山を、西から北から東から眺めての走行約40km、駐車出来る所で写真を撮りたかったのですが適当な駐車エリアが見つからず撮れず。脳内にバッチリ残しました。
 十三湖から鰺ヶ沢、深浦、岩木山、岩木川と廻ると津軽を歌う演歌に地名が出てきて、何か懐かしくまた初なのに久しぶりと言う感覚に成りました、鰺ヶ沢からの日本海も本州北の日本海は初めて、ふるさと鳥取と比べ感慨深い、城廻も地域めぐりと一緒でありがたく楽しい事です。

 種里城の探訪で青森県2日間は終了しました。明日は岩手県、岩手山が待っている。
 

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日本三大水攻め (2024/06/13 訪問)

 羽柴秀吉に水攻めにされたことで有名な城址です。来迎寺付近が本丸であったと伝わっています。石碑と説明板がありました。来迎寺の北東にある小山塚は戦死した籠城衆の首を埋めた塚のひとつで、土地区画整理により前にあった場所から移されたものです。今回は移築門や水攻め堤には行っていません。

 JR和歌山駅から徒歩10分くらいで行くことができます。

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紀俊連 (2024/06/13 訪問)

 戦国時代には太田城の支城であったと伝わっています。以前は堀跡などがあったようですが、なくなっています。グーグルマップの示す位置とイオさんの投稿を参考に写真を撮りました。堀跡があったのは吉野家やマクドナルドがある付近でしょうか。

和歌山駅より徒歩約20分弱でした。

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零汰

ここなんだけど (2024/05/15 訪問)

旭川にあるチャシです。旭川にいらっしゃる際に訪問するのは大変ではありません。

写真2の奥が目的地です。写真3の大きな岩を回って行くことが出来ました。写真4~7がマーカー周辺です。確かに平削している感じではありますがやけに狭い。西南には何かの施設があってフェンスで仕切られています。マーカー誤差かもしれないのでフェンス沿いを探りましたがやみくもに動きまわっただけに終わりました。

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ぴーかる

飯田城 (2024/04/20 訪問)

【飯田城】
<駐車場他>飯田合同庁舎駐車場に駐車しました。庁舎が休みの日は観光駐車できます。平日は不可。
<交通手段>車

<見所>桜丸御門
<感想>日帰り伊那郡河岸段丘平山城の旅3城目。飯田城は13世紀初め頃に坂西氏が築城したとされます。1554年に武田氏が下伊那に侵攻してから30年間武田氏の城となります。1582年織田信長の甲州征伐にて城は落城しますが、明治維新まで城が残りました。
 桜丸御門から本丸跡の長姫神社までゆっくりと散策しました。本丸が河岸段丘の先端部分にあたります。城跡内はほぼ現代の建物が建てられています。水の手御門跡やら移築門などは見落としてしまいました。

<満足度>◆◆◇

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零汰

ここなんだけど (2024/05/19 訪問)

こちらと上名寄チャシは内陸にあるチャシで主要都市より随分距離があります(名寄市の皆様すみません)。ルートに組み入れるのが難しい場所でした。

写真2から入って行って、写真3.4のマーカー部分に辿り着きました。確かに平削してありますが首を捻るだけ。マーカー誤差もあるので移動して見渡しましたが安定の熊笹だらけ。

転んだついでに山菜が生えていたので撮っておきました。

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