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天守無しがアツい

古河歴史博物館 (2025/05/30 訪問)

お休み処坂長にて御城印・(古河宿の)御宿場印・足利成氏の武将印を購入

(お休み処坂長 HP)http://sakacho.com/

それから古河歴史博物館へ…江戸時代には宇都宮城と共に、将軍が日光まで参拝する際の重要拠点…臨時的な幕府という意味合いもあったらしい

けれど現在は…城の遺構はほとんど残っておらず…古河歴史博物館の諏訪曲輪跡くらいしか…痕跡がない

博物館ではストリートオルガンが唯一の撮影OK
中で鷹見泉石の生涯ならびに肖像画(西洋画法で割と有名)を見学

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天守無しがアツい

清明台 (2025/05/11 訪問)

宇都宮城本丸の土塁北西部にあった櫓で、江戸時代の絵図には二階建て瓦葺きで描かれており、広さ三間(5.9m)×三間半(6.9m)と記録されています。清明台のあった部分の土塁は、ほかの部分よりも高く、天守閣の役割を果たしていたのではないかと言われています

清明台の案内文(1枚目) 富士見櫓の見学後にここも見学。宇都宮城址公園に天守閣は存在しないのですが、遠くから見ると…この櫓がそれっぽく見えるかもと言えばそうなので(2枚目)…「天守閣の役割を果たしていたのではないか」と言われると…そうかもしれない🏯

城址公園は橋を渡って外に出てみると…水堀に囲まれた造りになっている事が分かる…水堀の外から清明台を見てみると(2枚目)天守のように見える…かつ高い土塁の上にあるため、堅固な守りをしているようにも見えますね

城址公園は中庭が清明館ならびに芝生となっており、そこでサッカーをして遊ぶ若者がこの日もいたのですが⚽️富士見櫓と清明台は高い土塁の上にあり、階段もしくはエレベーターで移動する形になってました。行きは階段で、帰りはエレベーターで行き来した私🛗

清明台の中(3枚目)…富士見櫓と同様…ここも2階は非公開…階段自体が封鎖されていました。ここには(富士見櫓と違って)櫓の模型もなく…学校の教室程度の広さの空間があるだけ

そしてここでも…やりました腕立て伏せ😁富士見櫓で20回…体力も回復したのでもうワンセット💪20回×2→40回この日取り組んだ自分。家でやる時と回数は変わらないのに…一回一回の腕への負担が違うせいか…質の濃い筋トレが出来たかなと思えました✌️

家に帰ってからでも出来るっちゃできる…けれど何でしょうね?外でやる腕立て伏せは格別みたいな…この感覚…宇都宮城に昔いたであろう先人達の御加護を私は受けているのでしょうか?

サッカーしたり腕立て伏せしたり…今はすっかり平和なムードの…ここ宇都宮城⚽️💪⛲️しかし戊辰戦争において…この城は激戦地となった過去があるのを貴方はご存知でしょうか?

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

詳細は↑のWikipediaをチェックしてください。要点だけ紹介すると…
・慶應四年(1868年)の宇都宮城の戦いにおいて、城の建物は(二の丸御殿や三の丸の武家屋敷など)ほぼ全て焼失
・旧幕府軍と新政府軍の戦いは2度おこなわれ…初戦は幕府軍の勝利。政府軍の方が軍備は最新式というイメージあるが、この時は幕府軍の方が(フランス製の)最新式兵器を備えており、政府軍の方が旧式で脆弱だった
・政府軍は一度城を明け渡し撤退…20000の味方と合流してから2戦目がおこなわれた⚔️🔫💣幕府軍の兵数は2000…数の暴力もあり次第に劣勢になる幕府軍
・首の無い死体が幾つも転がる…城だけでなく二荒山神社など周辺の建物も多くが焼失するカオスな状況…そんな中、幕府軍の1人が敵前逃亡を図るも、新撰組鬼の副長に斬り捨てられる💀
・逃げようとする者は斬る…という恐怖で戦線を維持しようとする新撰組副長ならびに幕軍首脳。しかし戦局の波には逆らえず…宇都宮からの撤退を決意。以後…会津→函館と(幕軍は)北へ転戦するわけである

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しんちゃん

肝付氏の意地 (2025/05/08 訪問)

加瀬田城は標高200m・比高50mの位地に築かれた山城です。輝北高原の中心、火山灰層が100m以上も堆積した所を川によって浸食され今の形状になっています。東にはこの地形を造りだしたとみられる堂篭川が流れ、城址南東は急斜面となっています。北側はシラスの絶壁とされ自然の要塞となっていて、山城と言うよりは平山城に近い形態です。
詳細は不詳と言えど、肝付氏によって築かれたと見られます。延元元年(1336)4月、足利尊氏の命で北朝方の島津貞久が肝付兼重の甥・肝付彦太郎兼隆の籠る平房城(加瀬田城)を攻めています。6月に落城するものの、城主兼隆は死亡と見せかけ生き延び、後に平房を奪還したとの事です。肝付氏衰退の後には島津の城となりますが、城址からは戦闘民族島津人に抗った肝付氏の意地を感じます。

中央に谷があり西と東に城址が分かれているようです。東の方が散策しやすいようなので城址東側を散策(西側はヤブ)。こちら側は良く整備されていて歩きやすい。個人的にこの城は好きです。
最上部が一郭で主郭と見られます。下に二郭、三郭と檀状に続き、腰郭も付いていて、途中には土塁も残っています。一郭は二段構造になっていて、西に土塁が残り祠が立っています。じっと見ていると、祠が何か言いたそうにしているようにも見えます。
「島津だけじゃないんだよ」   ・・肝に銘じます。

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しんちゃん

島津家久・豊久 (2025/05/06 訪問)

佐土原城は建武年間(1334~1338)に伊東氏の一族である田島氏によって築かれたとされています。応永34年(1427)伊東祐賀が入り佐土原氏を名乗ったとされ、後に伊東48城の一つとなります。天文5年(1536)に焼失するも、新たに鶴松城として再建され、島津氏によって伊東氏が豊後国に追いやられると、伊東家久が入りました。「ドリフターズ」で有名な島津豊久は家久の息子で、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定の直後に家久が急死すると、後を継いで城主となっています。
この日は朝から雨ですが、佐土原城は傘をさしながらでも訪問できました。最もこのあと、ヤブきつめの那珂城や田野城を攻略しているのですが・・。宮崎市佐土原歴史資料館 鶴松館の裏より大手道が城山まで続いており、本丸までたどり着くことが出来ます。残念ながら台風被害の影響で南の城、松尾ノ丸は立入禁止になっています。本丸の入り口は枡形と記載があり、土塁も残っています。北側に天守台跡とされる場所があり、そこから東屋のある郭を経由して麓に降りてきました。
個人的には豊久がモンタージュ顔のままなので、オリジナル顔になるといいなと思っています。

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ぴーかる

打越城 (2025/03/22 訪問)

【打越城】
<駐車場他>駐車場はなし。道路脇<32.961123,130.740372>に停車していきました。
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目11城目。現地説明板によると打越城は菊池十八外城の1つで菊池氏氏族である林原与三隆益の一族が防備にあたりました。1379年九州探題の今川了俊との戦い板井原の戦いで陥落しました。
 現地は小高い丘の上に城跡碑と説明板がありますが、周辺は竹藪が酷くてどうにも中に入れませんでしたので退散しました。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

森つながり (2025/05/05 訪問)

佐伯城は標高144m・比高135mの城山山頂に築かれた山城です。慶長7年(1602)佐伯藩初代藩主・毛利高政によって築かれました。
毛利高政は豊臣秀吉の子飼いの武将で、元々は森氏を称していましたが、後に人質として送られた毛利輝元より毛利姓を賜り、毛利氏を称しています。このあたりのいきさつは元ネタである城郭放浪記さんのサイトにも記載があります。本家公認というやつですね。
高政は関ヶ原の合戦では西軍に属し、丹後田辺城攻めに参加しています。西軍が敗れた後も改易を逃れ、慶長6年に佐伯へ2万石で転封となりました。佐伯城は翌年、当時八幡山と呼ばれた城山に築かれたものと見られます。
九州はまだニッポン城めぐりで本格的に攻略が出来ていないので、武将集めに近くまで寄ったのですが、晴天にそびえる本丸の石垣の引力に逆らえず、そのまま登城と相成りました。これは仕方のないことだと思います。
江戸期に藩主の住まう所となった三の丸を通過し、登城道を登って、本丸の石垣にまで到着しました。やはり晴天の下で眺める本丸下からの眺望と、山上の石垣は素晴らしかったですね。

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朝田 辰兵衛

3年連続でGWに上田です… (2025/05/03 訪問)

何か真田に惹かれるモノがあるんでしょうね…。気がつけば,3年連続でGWに上田です。3年前と比較して,真田方向への路線バスの本数は減っています。来年以降もどうなっていくかわからないので,かなりの余裕を持った計画が必要です。
さて,横尾城ですが,別名の尾引城で表記されているケースが多いです。ご注意ください。見どころは,主郭背後の二重堀切です。雨天時や雨上がりはかなり滑ると思いますので,慎重に。最奥の土塁背後は直角に近い切岸となっています。油断は禁物です。

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イオ

西の城・出城 (2025/01/26 訪問)

(続き)

東の城から続く細尾根を進むと、土橋を備え両端が竪堀となった堀切がありました。ここからが西の城です。堀切を越えて上って行くと、西の城の主郭が広がっています。主郭は北辺を土塁で囲み、北裾と北西尾根を堀切(北西尾根は二重堀切)で遮断しています。主郭から南へは二段の細長い曲輪が尾根沿いにのび、南西尾根には3条の堀切が設けられていました。各堀切の両端は竪堀となって落としていて、それぞれになかなか見応えがありました。

西の城・南西尾根の3条の堀切を越えて、南に5分ほど進んだピークが出城です。出城は周囲に帯曲輪といくつかの小曲輪があるくらいで、目立った遺構は見られません。

そして出城から下ること10分ほどで入口Ⅰに出ました。入口脇にはまだ新しそうな説明板が立てられています。前回もここに出てきていますが、その時はまだ説明板はなかったような…。説明板の鳥観図はとてもよく描かれていて、これがあれば縄張図がなくても見どころを押さえられるんじゃないでしょうか。

東の城も西の城も、曲輪群からのびる尾根を堀切で遮断するだけの単純な縄張ですが、各尾根にはもれなく堀切や竪堀が設けられていて、単純ながらもなかなか見応えがありました。前回の見落としもひととおり回収できましたし、再訪した甲斐がありました。
 

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todo94

ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑩ (2025/05/04 訪問)

田内城からの転戦です。農道脇に説明板があり、城までの案内図もあるのですが、この案内図がかなりわかりにくかったです。休憩小屋から先、標柱を見つけることができず、しばらく竹林の中をさまよってしまいました。竹林の中では、猪が筍を食い漁ったであろう痕跡がそこかしこに見られました。標柱と階段を見つけ城跡に立つことはできたのですが、先達の皆さんの投稿を拝見しておかなかったばかりに、石垣、櫓台は見逃してしまいました。鳥取県の城びと登録物件コンプリートを期して数年のうちには鳥取県に来ることになるでしょうから、その際にはぜひ、再訪したいと思います。

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赤い城

爺神山城 香川県三豊市 (2025/05/04 訪問)

城びと未登録城です。
標高214mの爺神山は地元でバレンタイン山と呼ばれています。
麓の大師堂前の駐車スペースに車を置き、大師堂の裏手に登城口があります。
登山道には○合目表示のほか、地元の小学生が書いた励ましの板が設置されています。
微笑ましく地元でも愛されていることがわかります。

山頂部が城跡ですが、採石により遺構は消滅。
眺望を楽しんで下山しました。
城主は詫間弾正、長宗我部氏の讃岐攻めにより落城してしまいました。

【見どころ】
 ・山頂からの眺望

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シェル

夏見山 長福寺 (2024/05/30 訪問)

米ヶ崎城から転戦。夏見城周辺は住宅地になっています。所々で工事が行われていた関係で住宅地の中で道に迷いましたが、なんとか長福寺を発見。
長福寺が夏見城跡ということです。長福寺にある市指定文化財の木造聖観世音菩薩立像の説明板をよーく読むと、下の方に長福寺が夏見城跡の一部であり、土塁が残っているという記述があります。
 夏見城の土塁は墓地の裏手側に残存していました。土塁の先にも道がつづいていましたが、柵が設置され、入ることができなくなっていました。


ここからは、大遅刻ですが、イオさんのカメラ派?スマホ派?についてです。
自分は、基本 スマホ派です。
 ただし夏場に限り、カメラ派になります。
 スマホは画質も良く、スマホ1台で写真を撮りつつ、縄張図なども確認できるのが便利なので、使用しています。
 ただ夏場は、過去に炎天下でスマホのカメラ機能を長時間利用したところ、スマホがダウンしてしまうスマホ熱中症になったことがあるので、それ以降、夏はデジカメを使うようになりました。
 デジカメは、山城対策で軽くて、持ち運びしやすいという観点で、CASIOのコンデジを利用しています。

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シェル

畑の中に立派な土塁 (2024/05/30 訪問)

 高根城跡から転戦(高根城からの道中の県道8号は、一部、道幅がかなり狭く、交通量が激しいので、徒歩での訪問の際は十分気をつけてください。)
 城跡の周辺は畑地で、道路は未舗装の道になっています。城跡に向けて進んでいくと、畑の中にポツンと森みたいになっている所があり、そこが城跡の米ヶ崎意富比神社です。
 神社のさらに西側に進むと、畑の奥にかなり大きい土塁が残っていました。

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シェル

住宅地に紛れて土塁がある (2024/05/30 訪問)

 金杉城から県道8号を南下し、高根城跡へ。
周辺は高台になっています。グーグルマップを参考に住宅地の路地に入ると、道路脇に土塁が残っていました。
あとあと皆さんの投稿を拝読させていただくと、県道8号を挟んだ反対側の高根寺側にも遺構があるようですね。
 訪問時の私はリサーチ不足でスルー… いずれ再訪問して確認したいと思います。

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シェル

神社脇の土塁 (2024/05/30 訪問)

東武アーバンパークライン 馬込沢駅から徒歩20分。
城跡には櫓台や土塁が残存しているという情報がありましたが、住宅地のため、見学は断念し、城跡の一部という金杉神明社へ
皆さんの投稿にもある通り、神社の東側に城のものなのかは不明ですが、確かに土塁が確認できました。

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諏訪神社 (2025/05/29 訪問)

 戦国時代にこの一帯を領有した島津氏が、対立関係にあった高梨氏に対して築いた城と推定されています。近くにあった千曲川の渡し場を管理していたようです。主郭跡には諏訪神社社殿が建っていて石碑がありました。

 内堀舘より徒歩にて登城しました。朝田辰兵衛さんのアドバイスを参考に「徒歩の1駅スルー」を実行しました。50分くらいかかったでしょうか。高低差もあまりなく舗装された道を歩くので、ストレスは少ないと思います。JR立ヶ花駅からは徒歩10分~15分くらいです。

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しんちゃん

平松城  鹿児島県曽於市末吉町 (2025/05/07 訪問)

平松城は鹿児島県曽於市末吉町の県道109号沿いのシラス台地の突端に築かれています。北郷氏による築城、もしくは肝付氏によるものとされています。現地の案内板によれば平松城周辺で大きな戦いが二度起こっていて、一度目は島津氏と相良氏が戦った正平の戦い(1359)で、この時は島津軍は利が無いとして退いています。
二度目の合戦は、天正の戦い(1573)で北郷氏(都城)と肝付氏の間で行われ、肝付軍は大敗し、弱体化した後は島津氏に仕えることになりました。主郭近くの郭に駐車場が有りますが、ここまでの道は狭いので、養鶏場近くの空きスペースに駐車させていただいて、そこから徒歩で訪問しました。主郭までの途中にある扁平地も郭跡で少なくとも5つ以上は有りますが、いずれもかなり藪化が進んでいるので散策しても仕方が有りません。途中にある堀切などを見ながら進んでいくと、駐車場があり、その北側で道は搦手と七曲りに分かれています。搦手は堀切道になっているようですが、藪で進めそうもないので、七曲りから主郭を目指します。主郭の南側は三重の土塁と堀切で守られ、西には腰郭があり主郭の北側まで回り込んでいます。主郭の西側には枡形虎口があり、そこから主郭に到達します。
全体的に藪化が進んでいますが、主郭周辺は藪が刈られているので散策はしやすいです。

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しんちゃん

主郭北側の遺構 (2025/05/08 訪問)

溝辺城の北側にある小山を右手に迂回していくと登り口が付いているので、主郭を攻略した後に登って見ました。ある程度の高さを登ってはみたものの、堀切の両側にそびえたつ頂部は、まだそれなりの比高を持っています。既に主郭を攻略しているし、この城址の写真は十分撮れたので、ここで引き揚げることにしました。小山の前の堀切の仕掛けを見た時点で、あまり深追いはしない方が良いと判断しています(先もあるので)。できれば、整備がされて安全なルートを示す標識が設置されると良いと思うのですが、やはりここは万人向けでは無いですね。

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しんちゃん

猪を追い払って進む (2025/05/11 訪問)

桜尾城は標高378m・比高200mの山頂部に築かれています。太田の栗栖氏の一族の城とされていますが詳細は不明です。城郭大系には記載が無く縄張図もないので手探りでの登城になります。周囲はフェンスとコンクリで囲まれているので、一見攻城は難しそうに見えますが、実は一か所入れる場所が有ります。ヒントはニッポン城めぐりの口コミで、だいぶ昔に入った人が一人いました。小学校から城址に向かっていくという記載があったので、それを頼りに登城口を見つけることが出来ました。帰りにはコサ払いをやっている地元のお母さんたちと話が出来たので、個人宅の中を通らせていただいています。登城口が見つかりにくかったら、地元の方に尋ねてみると良いでしょう。

町の史跡に指定されているので、一応道はついています。ほとんど訪問者がいないので道は荒れています。近くでガサガサやっている奴がいる。スズで威嚇すると、でかくてずんぐりした獣が逃げて行きました。猪・・熊か? もう茂みの先にもいません。
逃げたのならかまわん、攻城続行です。遅めのGW最終日なので残った気力を絞り出して登って行きます。
ちなみに逃げていった動物は猪のようです。あとで地元のオヤジに聞きました。登っているうちに堀や土塁が見えてきました。案内板には本丸を中心に10か所近い腰郭があり、西側の尾根を遮断する堀切、馬場と呼ばれる弧状の細長い郭、基壇の跡、城門跡、櫓跡と考えられる箇所もあるようです。

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ぴーかる

亀尾城 (2025/03/22 訪問)

【亀尾城】
<駐車場他>駐車場あり<32.956368,130.762245>
<交通手段>車

<感想>2泊3日西九州旅3日目10城目。現地説明板によると亀尾城は菊池十八外城の1つです。鎌倉時代、相良一族がこの地を領して板井氏をとなえ、菊池氏の配下にありましたが、その後関部氏の名がみえます。南北朝時代には九州探題である今井了俊の菊池氏攻略の駐屯基地として2年間使用されました。
 現地説明板によると城跡は堀で囲まれた細長い2段の連郭構造がある所と神社のある削平地がある所の2局の主要部を備えているそうです。神社の方はあまり主要部感はなかったが、堀のある連郭構造の曲輪と北斜面にひな壇構造のある曲輪群は城跡の感じがありました。万を超える軍が駐屯していたというので、城跡南の台地一帯に陣が置かれていたのでしょうか。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

前田家発祥の地との説アリ… (2025/03/21 訪問)

実際に荒子城と張り合っているのかどうかはわかりませんが,前田家発祥の地との説アリ。自己主張満々の前田速念寺の本堂は兜を意識したビジュアルです。

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