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しんちゃん

諏訪原城 ほか (2024/06/22 訪問)

「しんちゃん」に戻っていますよ(期間限定です)。紛らわしくてすみません。
諏訪原城の投稿ではカレーで話がそれましたが、食べれる「城」もあるんですよ。熊本城は「食えます」
城内の建物の壁には「かんぴょう」が塗り込められており、畳には芋茎(ずいき)を使っていたようです。さすがは清正公! ぜひ「熊本城」スープを飲んでみたい。芋茎なんてどこで売っているんでしょう。他にも食べられるお城はないでしょうか?
また話がそれた。諏訪原城と言えば「馬出」のイメージが強いですが、本丸の周囲の「内堀」二の曲輪の周囲の「外堀」も見事です。徳川方に改修を受けているのですが徳川方にもかなり「城造り」に精通している人物がいるようです。
古宮城、岩略寺城、諏訪原城などは、いわば時間稼ぎのために改修を受けているのですが、個人的には古宮城の主郭の中に土塁を設けて郭数を増やしたのは武田か徳川か気になる所です。防御力は増しますが、最後まで死力を尽くして抵抗せよ、というような「圧」を感じます。馬場美濃守ではないような気がしますね。
「もののふ」であれば戦いの中で「死ぬ」覚悟は当然持ち合わせていると思いますが、だからこそ「生」への執着も尚強いものだと思います。他人に「死」を強要されるのなど「まっぴら御免」だと思いますね。

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ぴーかる

小田井城 (2024/07/27 訪問)

【小田井城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>地下鉄舞鶴線庄内緑地駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾ラスト7城目。小田井城の築城は応永年間(1394~1428年)に織田大和守家当主の織田敏定によって築城されたとされます。敏定が清洲城に本拠地を移すと、弟とされる織田常寛が城主となり織田藤左衛門家という庶流になります。織田信長の弾正忠家が台頭してきた時の城主織田信直は織田信秀の娘婿だったので一門として重んじられていました。1584年頃の城主織田忠辰の時小牧長久手の戦いで秀吉に城を追われたようです。
 現在城跡公園にある石碑は移したもので、本丸跡はJRの線路を越えたもう少し西にあるようです。本丸跡も宅地と交差点になっていて遺構はないようです。
 地下鉄の庄内緑地駅から徒歩25分、庄内緑地公園の横を通り、暑い中とぼとぼと歩きたどり着きました。次はJR枇杷島駅まで徒歩22分で合計1時間も歩き(寒かったらマラソンパワーで走っても平気なのだが‥‥)ダウン。予定ラストの隣駅の下津城を残して今回は終了しました。濃尾平野コンプリートまで下津城と竜泉寺城のみとなりました。三重県のちょこ城か愛知県の東の方の城攻めと合わせて制覇したいと思います。今回の旅は地下鉄乗り放題が大いに役に立ちました。気候が良ければ1回の来訪で、もっと沢山回れそうですよ。お勧めです。
 気候変動の影響でいくらちょこ城巡りとはいえ、屋外での行動は過酷すぎるので城巡り8月はお休みしてました。とは言っても9月今週末には予定を入れてますが‥。
 日帰りで行けるちょこ城がだいぶ制覇してしまったので、来年の夏からどこに行こうかと模索中です。山城は攻略に時間がかかるので尽きないのにね。

<満足度>◆◇◇

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鶉野飛行場 (2024/06/17 訪問)

カズサンさんの河口湖自動車博物館·飛行館、城キチしんちゃんさんの浜松広報館·エアパークの投稿に触発され、鶉野飛行場、Soraかさい鶉野ミュージアムを紹介します。
 姫路海軍航空隊·川西航空機鶉野工場跡で、1200mの滑走路がほぼ当時のまま遺っている他、対空機銃座、巨大防空壕も整備、展示されています。ミュージアムには、紫電改と九七式艦上攻撃機の実物大模型や紫電改のコックピットが展示されています。また、開隊から終戦までの3年間が紹介されています。コックピットの計器は目盛や針に蛍光塗料が塗られていて、夜間に敵機に見つからないように、紫外線ライトを当てて見ていたところなども忠実に再現されています。
 川西航空機姫路製作所で作られた部材を鶉野工場に運び、組み立てました。滑走路から各地に戦闘機を飛び立たせ、また、操縦士訓練も行われたと。日本の最後の切り札とされた紫電改を500機余り組み立てたとありました。海から引き揚げた本物の紫電改が展示してある、愛媛県愛南町紫電改展示館のHPを見ると、紫電改の製造機数は、約400機とあったので、全ての紫電改が、鶉野で作られたということですね。
 今回、鶉野飛行場へは3回目の訪問でした。以前は、現ミュージアム建物の南側の防災倉庫が展示館でした。ボランティアの方々が、努力され、いくぶんかの紆余曲折もありつつのSora鶉野ミュージアム開館と推察します。大勢の訪問者が続くことを願います。

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駿府城

感謝状贈呈式が行われました!

7月30日(火曜日)、デジタル技術を用いて駿府城天守を再現する駿府城公園野外展示事業に寄附をいただいた、アイワホールディングス会長の藤井嗣也さん、弁護士の小野森男さん、公認会計士の山田博久さんに感謝状が贈られました。

駿府城天守を再現してほしいという思いや今後の駿府城天守の展望について市長と対談されました。寄附をいただいた3名の皆さまありがとうございました。

現在、静岡市では、高精細なVR映像を用いた「ありし日の駿府城天守」再現や見学施設整備に加え、駿府城という文化遺産を未来に受け継ぐため、家康公が築いた天守台の保存修復などに取り組んでいます。寄附は企業や個人からの寄附も可能です。
寄附の特典や寄附の方法については【寄附の募集】デジタル技術で「ありし日の駿府城天守」を再現しよう(https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s013131.html)をご覧ください。

「ありし日の駿府城天守」を再現し、静岡市の歴史の魅力を身近に体感できるツールとして、学びや観光などに活用していきます。皆さまご支援のほどよろしくお願いします。

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にのまる

広い!まだまだ…… (2024/08/06 訪問)

山陽本線Red Wingで福山から6駅30分、三原へと移動しました。やはり広島には赤が似合います。
前回は1時間に1本のこだまに合わせての滞在で、駅直結の天主台に行き、線路下の石垣を少し見て、歴史館でスタンプを押したら時間切れ。再訪の機会を伺っていました。
今回も最初に天主台へ。広々して快適。その上停車中のレールスターは間近に見られていいこと尽くしです。

観光協会に寄ってから船入櫓跡へ向かいました。櫓台跡を見て石垣の外側へまわります。船入りの形状を留める石垣とその礎となる岩礁がここが海城であったことを証ししています。

三原城研究会の方々による案内板や資料ポスト、安全第一の注意書きなどを要所要所で見かけました。なかでも、船入跡から中門跡へ向かう道の途中の『注目!この付近に三原城二之丸の石垣(下部)が埋まっています』の案内には見えない遺構の存在に気づかされ、城ロマンに浸ってしまいました。

なかなか着かない中門跡。通り過ぎてしまったかと不安になりかけていたところに『←230m 船入櫓跡石垣・本丸中門跡→260m』の表示板があり、城域の広さを実感しました。
臨海一番櫓跡と本丸中門跡は駅前のサン・シープラザを囲むようにあり、あたかも現役の守りかの様相を呈していました。

駅に戻って線路下の探検です。只々楽しい!
目の前の摩訶不思議な光景に、自分が見ているのは現在なのか過去なのかわからなくなるほどです。床面にさりげなく嵌め込まれた昔の石もおそらく当時の石垣のラインを示していると思われ、まるで散りばめられたお宝を探しているかのようでした。

天主台北東面にまわり、再び線路下の石垣沿いを通って鍛冶曲輪跡と少し離れたところにある刎跡へ。どの石垣がそれなのかわからずパンフレットを引っ張り出して探すことになりましたが、城絵図にもしっかりと描かれている三角形の石垣を現地で確認することができてよかったです。

2時間ほどかけて見てまわりましたが、城域の隅々までは行ききれませんでした。それでも三原城が駅ナカなのではなくて三原駅が城ナカだということを充分に感じとれました。

新幹線が貫通してしまった残念なお城と言われることもある三原城ですが、鉄道なくしてはお城に行くことができませんしそれ以前に生活そのものが成り立ちません。
今回の見学でのいちばんの気づきは、三原城は世界に誇る日本の鉄道と400年の時を経て見事に融合した奇跡のお城、日本のインフラを縁の下で(物理的に)支えているスゴイお城だということです。


ということを心に刻み、新幹線で広島へ向かいます。
乗車したのは一日一往復のみ走行のハローキティ新幹線\(^o^)/
1号車(500系の鼻先部分)のHELLO! PLAZAで限定グッズをおみやげに購入し、2号車のKAWAII! ROOM(自由席)で広島まで約30分の夢空間を満喫しました💗

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しんちゃん

不破関 関ヶ原町松尾 (2024/04/14 訪問)

岐阜県不破郡関ケ原町は関ヶ原の合戦以前から血生臭い出来事が度々起きています。672年(天武天皇元年)天智天皇の皇子・大友皇子に対し叔父の大海人皇子が挙兵し、大友皇子を自害に追い込み天武天皇として即位しました。大友皇子は明治維新後に弘文天皇として認められているので、日本の歴史上唯一、天皇が自害にまで追い込まれた戦とされています。
大友皇子の自害した「自害峰の三本杉」のある丘陵地は東海道新幹線や名神高速道路にブチ抜かれています。関ヶ原の陣跡があるとされてもいますが、なかなか容赦ないです。
不破関は壬申の乱の後に、東海道の「鈴鹿関」、北陸道の「愛発関」と共に整備され、古代三関の一つとされています。不破関の敷地の一角には不破関資料館が開設されており、近くの展望所からは中山道や「壬申の乱」ゆかりの地を眺めることができます。

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しんちゃん

島津義弘陣 関ヶ原町関ヶ原 (2024/03/30 訪問)

関ヶ原古戦場、島津義弘陣跡は小池神明神社周辺とされ、石碑と案内板が設置されています。案内板には北国街道を押えるため、ここ小池村に陣を構えたと記載が有ります。
陣跡には「関ヶ原戦跡踏破隊」の名碑が有ります。なんでも鹿児島県日置市の青少年で組織する関ヶ原踏破隊は昭和35年から夏休みを利用して関ヶ原から大阪までの島津隊の退路を踏破しているそうです。一部電車なども利用しているそうですが‥さすがに今ではもうやっていないだろうと思いましたが令和元年まで60回も続いていたようです。令和2年にはコロナで中止になったそうですが、おそらく今頃はもう再開しているのかもしれません。
なんとも「ディープ」な郷土の英雄への愛情ですね。一生の思い出になると思います。

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しんちゃん

小谷城 (2014/05/17 訪問)

「赤尾屋敷」天正元年(1573)9月1日、最後の攻撃のため黒金門から討って出た長政は信長の兵に攻められ、本丸(鐘ヶ丸)に帰ることが出来ずやむなく重臣・赤尾美作守の屋敷に入り自刃した。(案内板より)赤尾屋敷は本丸の東側を取り巻く腰曲輪の下にあり、三段構造を取っているようです。重臣の屋敷とはいえ本丸を守護する重要な曲輪の一つです。
「大広間」本丸の前に広がる、広大な曲輪で別名「千畳敷」と呼ばれるようです。長さ約85m、幅約35mあり奥には本丸の石垣が往時の面影をある程度、残しています。
掲載した写真には別の時期に撮影したものも幾つか含まれています。

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朝田 辰兵衛

バーターです…💐 (2024/08/11 訪問)

苅野丸山城からの転戦です。塚原駅から向かい,岩原駅に戻ってきました。塚原駅と岩原駅は200mぐらいしか離れてなく,お互いに見通せます。あまり得した気分にはなれませんので,ご承知おきください。
民家奥の西物見曲輪から八幡神社に向かう道路は空堀跡だったそうです。すっかり雰囲気は消えておりますが…。
八幡神社境内では,昼から酒盛りをしていました。地域の恒例行事なのかな…?
サッサと撮るだけ撮って退散しました。からまれても面倒なので…<笑>。

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HKISD

城井谷城散策 (2024/09/08 訪問)

岩の間を通って落城するのめちゃくちゃ大変でした。

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HKISD

御所ヶ谷神籠石散策 (2024/09/08 訪問)

中門、西門の石垣が素晴らしすぎて、昔の人の偉大さに感心させられました。

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HKISD

馬ヶ岳城散策 (2024/09/08 訪問)

展望台には官兵衛の岩がありその後二ノ丸迄、結構な坂で途中、休憩しました。そして本丸へ。
素晴らしい景色をありがとうございます。
又、官兵衛の移住した所なのでジーンときました。

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T-Shionoya

川越城訪問 (2006/05/05 訪問)

過去の城郭巡りの振り返り第24弾は、埼玉県川越市の川越城。

入間川の南、武蔵野台地の北端の縁に築かれた城。

1457年に古河公方に対抗するため太田道真・道灌父子が築いたと伝わる、その主君扇谷上杉氏の居城。
1537年、北条氏綱により攻め落とされ、1576年には北条家臣の大道寺政繁が改修。
家康の関東移封後は酒井重忠などの酒井氏、近代城郭に整備した松平信綱からの大河内松平氏3代、秋元氏4代、結城松平氏7代などが城主となり幕末を迎えました。

現在は本丸付近が初雁公園となり、土塁と希少な本丸御殿の一部が残る城。
しかし城域の多くは学校や博物館、住宅地で、要所に標柱が立てられているものの城感は薄い状態。

最初の訪問時は、秋元氏の時代に先祖がこの周辺にいたのかと考えた以外、あまり記憶になし。
ところが改めて縄張図を見ると魅力的な城郭で、大手門と中曲輪の南門に丸馬出を備え、他の虎口には喰違虎口を採用。最終関門の本丸北門は甘い平虎口だが、東側にその目隠しなのか横矢を掛ける目的なのか本丸からの突出部を設置していた模様。
そんな構造を少しでも感じることができないかと2年前に再訪問すると、初雁公園は城址公園としての整備が進行中とのこと。
要塞らしい虎口の復元を期待したい川越城です。

※写真1~6,9,10は2022年9月の撮影

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まつたく

岡城址 (2024/09/08 訪問)

入場料は300円。入口のところにしか自販機がないので、全て歩く(1時間以上かかります)つもりなら、飲み物をしっかりと持って行ってください。夏場に行くのはオススメしません。
滝廉太郎像が二の丸にあります。

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しんちゃん

「馬出」はカレー味 ♪ (2024/09/08 訪問)

普段は「城びと」ある時は「キン肉マンびと」、そして今回突然に「カレーびと」になりました。
マジメに諏訪原城の投稿をしている時に「馬出」の形状を見て、突然「カレーの神」の啓示を受け、今回の投稿と相成りました次第です。そもそも諏訪原城の馬出は空堀なので、カレーは関係ないのですが、それだとビジュアル的に寂しいので、なにとぞご容赦願います。
諏訪原城には広大な「外堀」と「内堀」があり、他にも複数の「馬出」があります。特に規模の大きいのは「二の曲輪大手馬出」と「二の曲輪東内馬出」で前者は訪問してすぐに遭遇し絶大なインパクトを残します。
後者は二の曲輪の北側に配され、土橋でニの曲輪と繋がっていて、全容が把握しやすく諏訪原城のシンボルとも言える存在です。他にも「二の曲輪東内馬出」と「二の曲輪南馬出」も訪問しており、後者は規模こそ大きくはないものの、きれいな扇形の堀を残しています。
「カレーと城」繋がりですと他にも「坂本城:華麗なる水城」の坂本城カレー、「長浜城:カレーは飲み物ですか?」の滋賀‥琵琶湖カレーが好評発売中です(売ってない!)。

最期にあえて一言、「馬出は食べ物です(ポカッ!)」

※1 訪問日は脳内で馬出カレーを訪問した日付になっております。諏訪原城訪問日ではありません。
※2 「馬出カレー」には生身の武田兵は付属しておりません。

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ぴーかる

この城か荒子城が前田利家生誕地 (2024/07/27 訪問)

【前田城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>近鉄線伏屋駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾6城目。城跡地である前田速念寺の由緒書によると、この地である海東郡前田村は前田氏発祥の地で寺伝では前田利家公はこの地で生まれ、幼少時に出城である荒子城に移って成長したとされます。前田城は長久手の戦いで秀吉方に付いたために徳川軍に攻撃され落城し、城主の前田輿十郎は蟹江で討死しました。利家の叔父前田利則は出家してここに速念寺初代となりました。
 速念寺境内に城跡碑、本堂の左脇に最後の城主前田輿十郎の墓碑があります。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

「馬出」は極上の味 (2024/06/22 訪問)

暑いですね~。9月の始めごろに庭でコオロギが鳴いていたのに、すぐに静かになりました。来年は10月ごろに出ておいで。
異常な暑さでカエルもセミもコオロギも皆、元気が無くなっています。生態系が心配ですね。
諏訪原城の投稿です。私は土の城では山中城が気に入っていますが、武田流築城術が息づいている諏訪原城も好きです。同様に武田軍の手の入っている、愛知県新城市の古宮城も好きですし、埼玉県の杉本城も好きですね(上杉・北条?)。
ただし、古宮城や諏訪原城は徳川氏によって改修を受けているようです。ちょうど小牧・長久手の合戦のあと、豊臣軍の駿府侵攻の脅威が差し迫っていた時期で、徳川方もやっきになって改修を行っていたようです。
せっかくのストイックな馬場美濃守の縄張りが「タヌキ軍団」によって、その姿を変えてしまったわけですが、これが戦国の世において「敗れる」ということだと思います。城址はおろか、「歴史」でさえ、勝者に都合の良いように変えられてしまうわけで、これも「弱肉強食」の摂理と受け入れるしかありません。
むしろ徳川方の手が入ることによって、より「高度」に進化した縄張りを楽しめると考えた方が良いでしょう。しばらく前に昇太師匠がTVで諏訪原城の「馬出」を見て、これは徳川氏による縄張りだと紹介した時は、カチンと来ましたが今はなんとなくわかります。

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トク

海を渡って松山への旅 (2024/09/05 訪問)

松山城番外編です。今回の松山への旅は、船で四国へ渡り松山城から道後温泉まで行きました。その私のたどった経路を順番に写真に沿って御紹介します。行き方は多々あるとは思いますが、今後行かれる方の参考の一つにでもなればと思います。波もなく快適な船旅でした。やっぱり海はいいですね!

【写真①②】
柳井港から、今回も「柳井松山オレンジフェリー」を利用しました。乗り場はJR山陽本線柳井港(やないみなと)駅前(徒歩3分)の所にあります。

【写真③】
出港すると周防大島にかかる橋の下をくぐり瀬戸内海に出ます。橋の右が柳井、左が先月訪問した周防大島です。前回はバスで陸奥記念館へあの橋を渡りました。ここからは瀬戸内の島々の間をぬうように船は航行します。

【写真④⑤】
陸奥沈没地点の上に来ました(この下に陸奥は沈んでいます)。はるか向こうに三つ小さく山が見えると思いますが、その山頂に「岩国城」があります。

【写真⑥】
三津浜港(松山)に到着しました。片道2時間35分の船旅です。ここはドラマで好古・真之・子規が松山を離れ、大阪の師範学校や東京の大学予備門に入るため船に乗り旅立って行ったシーンがあった場所でもあります。

【写真⑦】
三津浜港からは松山市駅行の伊予鉄バスが出ています(松山市駅まで35分)。

【写真⑧⑨⑩】
松山市駅から路面電車に乗って大街道(おおかいどう)で下車し徒歩5分、まずロープーウェイで松山城へ登城。それから崖の崩落場所や堀の石積崩落場所を視察後、坂の上の雲ミュージアムを見学しました。途中の市役所前から見上げた松山城もよかったです。それから鯛めしを食べた後、再び路面電車「道後温泉」行に乗り終点で下車。夜は道後温泉のホテルに宿泊し、リニューアルされた「坊ちゃんの湯」で湯ったりくつろぎました。そして翌朝は、正岡子規記念館を見学し、同じルートで帰途に着きました。


豪雨による松山城の崖の崩落の視察に行ったのですが、終わってみれば「快適な船・鯛めしグルメ・道後温泉」の旅で、結局は自分の癒し旅をしてきたような気がします(笑)。

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POYO58

2年ぶり (2024/08/25 訪問)

またもや2年ぶりの掛川城に行ってきました。いやとにかく遠かったですね。名古屋駅からJRで約2時間半というところでしょうか?今までで1番遠い電車旅となりました。
掛川城は今川義元の家臣の朝比奈氏の居城でしたが、その後家康の攻略と、家康の関東移籍に伴い最終的に山内一豊が改修しました。
この城の特徴は御殿が残っていることですかね。お城で御殿が残っているのは、掛川城、高知城、川越城、二条城の四ヶ所です。これはなかなかすごいです。また掛川城は日本最古の復元天守を持ち、東海の名城と呼ばれています。
その他の遺構だとまずレアなのが、銀杏型の石垣ですね。御殿の近くにちらっと顔を覗かせていますが、当時の石垣とは思えない程綺麗に積まれています。
また十露盤堀や三日月堀などのここでしかみられないものです。
他にも太鼓櫓や腰巻き石垣などの見どころの一つです。

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しんちゃん

楠木正成像と二重橋 (2019/10/01 訪問)

江戸時代に国学の四大人の一人とされた平田篤胤によって「国学」はより宗教色が強くなり尊王攘夷の傾向が強くなっていったと思います。平田氏の思想は後の尊王攘夷志士達にも強い影響を与えているようです。
明治時代は「皇国史観」が徹底されていて、その影響もあって「楠木正成」は大人気だったようです。実はけっこうズバズバいう人で、後醍醐天皇にはちょっとケムたがられていたかもしれませんが。なんにせよ皇居を守る武将の像として正成公はうってつけだったようです。
しばらく外苑をぶらぶらしていたら陽が傾いてきたので帰ることにしました。外桜田門をくぐって出ると景色が変わってきています。大都会の中で江戸城の堀や緑は心を安らげてくれます。

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