原田城からの転戦です。登り口(34.171542、134.578792)付近に路駐しました。
築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に篠原肥前守自遁によって築かれたと云われています。 篠原自遁は三好氏の家臣で篠原長房の弟です。
1577年(天正5年)三好長治は荒田野で細川真之と戦って敗死すると、長治の実弟で讃岐国十河城主となっていた十河存保が勝瑞城に入ることとなりました。
自遁はこれを歓迎せず抵抗したが敗れ、勝瑞城入城の先導役を務めました。
1582年(天正10年)中富川合戦で三好氏は長宗我部氏に敗れ勝瑞城は落城、十河存保は讃岐国虎丸へ退きます。
自遁はこの戦いには参加せず城に籠もっていたが、本能寺の変により織田信長が倒れると城を捨てて淡路へ逃れたそうです。 長宗我部元親は木津城に桑野城主東条関之兵衛を置いて守らせました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐では、羽柴秀長・秀次を大将とする大軍が押し寄せました。籠城方も奮戦して良く防いだが、水の手を切られ落城したそうです。
しばらく登城口を捜しましたが、草に隠れて見えず登城を断念しました。
「木津城山公園」には行っていません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=撫養城に向かいます。
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