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シャンシャン

最強の山城 (2024/10/11 訪問)

ついに来ることができた月山富田城!
天気も良くサイコーの山城攻略日和!
随所に残っている石垣や堀切、土塁など見どころ満載!
三ノ丸からの景色もサイコー!

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:野府城 (2024/09/23 訪問)

開明駅から徒歩2~3分で、開明小学校校門前(35.320890、136.772634)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は織田信長の弟の織田九郎信治のようです。
織田信治は森可成とともに1570年(元亀元年)近江国宇佐山城に籠城し、朝倉・浅井軍と戦って討死しました。

野府城は現在の開明小学校一帯に築かれていたそうです。
南側の校門を入ってすぐ左側に石碑と案内板があります。
本日は振替休日で学校はお休みでしたが、門は開いていましたので、校内に入って写真を撮りました。
電車の時間が迫っているので、攻城時間は2~3分くらいで速攻撤退です。次の攻城先=下津城へ行く為、電車(名鉄➡JR)で開明駅から稲沢駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:苅安賀城 (2024/09/23 訪問)

中島城から徒歩30分ちょっとで、城址石碑前(35.288499、136.778307)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、浅井新八郎政高によって築かれたようです。
政高(信広)の子は浅井田宮丸長時で、織田信雄の家老でしたが、1584年(天正12年)伊勢国長島城において津川義冬・岡田重孝とともに羽柴秀吉の計略に掛かった信雄に謀殺されました。
その後、苅安賀城は田宮丸を討った森久三郎が城主となりました。

苅安賀城は苅安賀自動車学校の辺りに築かれていたそうです。現在は石碑が建っているのみです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=野府城へ行く為、名鉄電車で苅安賀駅から開明駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:中島城 (2024/09/23 訪問)

二子駅から徒歩30分くらいで、石碑前(35.270832、136.772977)に着きました。

平安時代末期に中島氏によって築かれたそうです。 中島氏は嵯峨源氏の後裔で尾張大介職を世襲し、代々中島蔵人を称したようです。

石碑が建っているのみです。
攻城時間は2~3分くらいでした。次の攻城先=苅安賀城はここから徒歩でに向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:片原一色城 (2024/09/23 訪問)

森上駅から徒歩20分くらいで、石碑前(35.248672、136.749779)に着き、石碑を確認した後、神明社(35.248814、136.748963)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)頃に橋本伊賀守によって築かれたと云われています。

片原一色城は神明社一帯に築かれていたそうですが、現在は遺構はなく、石碑が建っているのみです。
石碑は辛うじて読める程度です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=中島城へ行く為、名鉄電車で森上駅から二子駅に向かいました。

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とばつびしゃもん

四方面の扉がある門のあった城 (2024/09/07 訪問)

村上名物の塩引き鮭と海鮮はらこ丼で空腹を満たし村上市郷土資料館へ。資料館で続日本100名城スタンプポン。資料館にはおしゃぎりと呼ばれる祭りの山車が展示されていて、2階には村上城本丸を望む小さな窓がある。
資料館駐車場に車を置いて登城開始。大手門跡に立ち寄り藩主居館跡まで町中を歩き、一文字門跡の石碑から七曲り道を登る。整備されている大手道は歩きやすく15分で四ツ門跡へ。他では見られない四方面に扉のある特異な門があったとか。正面の搦め手道への道は倒木のため立入禁止の看板。左手に進み三の丸にあたる調練場跡を回り、もどって右手の二の丸へ進む。突き出た出櫓台石垣の向こうに本丸石垣の眺めは印象的。黒門跡を通って本丸へ。ここまで40分弱。石碑のある天守跡からは雨上がりの日本海を望む。
本丸石垣の下を回り、出櫓台西側を下りて来た道を戻る。途中、毎日登城する地元のおじさんから声をかけられ、村上でも「クマ」が出たとか。小さな鈴を鳴らしながら下城。新潟市内で宿営。

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sorato

耐震工事中の松本城 (2024/10/02 訪問)

松本城の天守は震度7以上の地震が起こると倒壊の可能性があるということから今年の秋から耐震工事を実施しています

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チェブ

東京水辺ラインで海から眺める。 (2024/10/12 訪問)

以前、伊豆大島の「武田 信道屋敷」に行った際、お土産で購入した 椿油と唐辛子醤油が残り少なくなってきたので、竹芝桟橋にあるアンテナショップに行こうと学生時代の友達と集合しました。

近くに『浜離宮恩賜庭園』があり散歩しようと、竹芝桟橋から歩いていたら写真⑦の『竜馬』と名付けられた可愛い船を見つけました。
これは乗るしかない!っとチケットを購入しました。『竜馬』ではありませんでしたが、平べったい船に乗り出航しました。

竹芝→お台場→竹芝→浅草→両国の順に止まります。
*私達はぐるっと一周して戻るのかと思いましたが、一旦、竹芝に戻り隅田川を進みます。

竹芝→お台場→竹芝は続100名城の「品川台場」が海上から見えます。
幻の『第6砲台跡』も少しだけ近くに見えます。
因みに写真④⑤は、鳥の島です。写している時は『第6砲台跡』だと思ったのですが、位置的に違うかな?

この、東京水辺ラインの発着場が JRの駅の近くにあります。都内の混んだ電車で移動するより快適です。
私達は勢いで乗ってしまいましたが、夜は夜景が綺麗だと思いました。

私は東京都民ですが、スカイツリーやベイブリッジに外国人観光客と同じように、はしゃいでしまいました。
都心は電車やバスの他、船と言う移動手段があった「品川台場」攻めでした。

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甚右衛門

堂沢出城→若槻山城→番所 (2024/10/13 訪問)

蚊里田八幡宮駐車場に停めて参拝後、若槻温泉の横から攻城しました。堂沢出城→若槻山城→番所と攻めましたが、なかなかキツイ登りがところどころにあり、山城・番所背後の大堀切で急下りもあるので結構変化に富んでおり見所多し。番所から更に登り、市内から見えるNTTアンテナまで1時間半くらい。アンテナの脇から蚊里田八幡宮までひたすら下りで1時間少々。こちらも急下りがあり不覚にも左足親指が内出血になってしまいました。

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ぎりょう

宮沢遺跡(城柵・官衙遺跡)宮城県大崎市古川宮沢一本松30 (2024/10/13 訪問)

先週も仕事が忙しく、疲れて昨夜は晩酌もほどほどに、午後8時にはダウン。身体を休めればよいものを、最近始めた古代の城柵・官衙遺跡探訪6ヵ所目で、近場の宮沢遺跡に来ています。
ここは昭和49年から51年の東北自動車道建設にともなう発掘調査で発見された遺跡です。大崎平野の北端部、標高50mほどの丘陵に築かれ、東西1,400m、南北850mの規模で、東北の城柵・官衙遺跡のなかでは規模の大きい遺跡です。発掘調査では掘立柱建物跡や竪穴住居跡が確認され、土師器、須恵器、瓦などの遺物が出土しています。
玉造柵(第二期)跡や覚鱉城跡などの説もあるようですが、文献資料上どの城柵に該当するかはっきりしていません。
遺跡は高速道路によって東地区、西地区に分断されており、公園化により築地跡や土塁跡、建物跡など判りやすく表示されています。
遺跡の最高所から、南東の多賀城跡、西の名生館官衙遺跡方面、紅葉前の山々を望み、しばし古代人の思いにひたっています。
また、すぐ近隣には中世城館(藩政時代は要害)の「宮沢城」(こちらは城びと登録有り)跡もあります。訪問頂いた際にはぜひこちらにもお立ち寄りいただければと思います。
東北自動車道古川ICから9分(5.6km)
駐車場は遺跡東地区に20台ほど、西地区は2台ほどありますが、県道からの連結路は狭いためご注意を。



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チロ子

さすがです (2024/09/30 訪問)

超お城初心者ですが、これは壮観かつ圧感でした。石垣に興味があり、宝探しのように刻まれた形を見つけながら歩いたのですが、普通に見学だけでも1時間以上かかるので、ヘトヘトになってしまいました。。でも、何度も訪れても飽きないでしょう。また来たいです^ ^

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ぴーかる

品川台場 (2024/09/15 訪問)

【続百名城71城目】
<駐車場他>お台場海浜公園北口駐車場
<交通手段>ゆりかもめ

<見所>第三台場内部全体・レインボーブリッジからの眺め
<感想>1泊2日埼玉大阪化計画の旅2日目10城目。小机のコインPに車を置いてJR、ゆりかもめにて来城しました。東京へは何度も来ていて、十数年前には仕事で東京ビッグサイトにゆりかもめで来たことはありましたが、その時は台場が城という認識もなく、フジテレビ本社ビルを眺めていました。
 お台場海浜公園駅で降りてまず第三台場内部を散策しました。残る陣屋跡礎石や弾薬庫、窪地から土塁砲台の高さの凄さが見応えありました。次に先達の投稿から知ってレインボープロムナードから歩いて行って、台場全体を撮影しました。風がきつかったですが眺めが良かった(東京に来ているぞ!感もあって)のでついつい長居しました。橋上から見て第六台場はジャングル島になってました。
 今、もし海上に台場が5基そのまま残っていればさぞや壮観であったろう(そりゃペリーも近づかないわな)と思います。ちょうど前日行った川越城川越藩、忍城忍藩が築造、防衛担当した繋がりもあって思い深まる要塞散策でした。
 この後スタンプ押印⇒自由の女神像⇒実物大ユニコーンガンダムを見てお台場を終了しました。増上寺、東京タワー、小机に戻りながら京急線沿いのちょこ城を巡る予定でしたが、東京タワーだけで夕方になってしまいまして全然予定巡れずに小机に戻り帰路に着きました。走行距離1160㎞無事走破。

<満足度>★★☆

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:小木江城 (2024/09/23 訪問)

佐屋駅から徒歩30弱で、富岡神社鳥居付近(35.143729、136.695537)に着きました。

古木江城は織田信長の弟、織田信興(信与)が対岸の長島一向宗に対して築いた城です。
1570年(元亀元年)に尾張・伊勢長島一向一揆衆に包囲され、6日間は耐えたものの落城し、信興は自刃しました。
この一件を機に信長の一向宗への憎悪はより強まり、門徒約2万人が焼き殺されたとされる1574年(天正2年)の長島焼き尽くしにつながったようです。

遺構はありません。城址にある富岡神社に城址碑が建てられてるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=片原一色城へ行く為、名鉄電車で佐屋駅から森上駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:大野城 (2024/09/23 訪問)

蟹江城から徒歩30分くらいで、石碑/説明板(35.129486、136.772038)に着きました。

大野城は織田信雄の家臣、佐久間信栄(正勝)により蟹江城の支城の一つとして、1584年(天正8年)に築かれた城です。
信栄は1580年(天正8年)に父である佐久間信盛とともに追放されましたが、その2年後に信盛が死去すると赦免されています。
当初は織田信忠に仕えていましたが、「本能寺の変」で信忠が討死したため、以後は織田信雄に仕えています。
1584年(天正12年)に起きた「小牧・長久手の戦い」の前哨戦である「蟹江合戦」では城主・山口重政は羽柴方の攻撃から守り抜き、徳川家康に味方しました。
廃城時期は不明ですが、1586年1月(天正13年11月)の天正大地震で大きな損害を被っている事から、そのまま廃城にされた可能性が高いそうです。

現在城址に遺構はありませんが、日光川ウォーターパークの西側にある水田の一角に城址碑と案内板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=小木江城を目指す為、永和駅から電車(JR➡名鉄)で佐屋駅に向かいます。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:蟹江城 (2024/09/23 訪問)

近鉄蟹江駅より徒歩15分くらいで、蟹江城址公園石碑/説明板前(35.136442、136.790258)に着き、その後、本丸井戸跡前(35.136416、136.789899)に向かいました。

蟹江城は永享年間(1429年 - 1440年)に北条時任(ときとう)が城塞を築いたのがはじめと言われ、戦国時代には、本丸、二の丸、三の丸の三郭があり、大野、下市場、前田の三つの支城があったそうです。
蟹江城は滝川一益の居城として知られていおり、織田信長の北伊勢進攻、長島一向一揆鎮圧の拠点となりました。
「賤ヶ岳の戦い」では一益は羽柴秀吉に敗れたため、この城を追われます。
翌年の「小牧・長久手の戦い」における蟹江城合戦(蟹江合戦)では、秀吉方となった一益が蟹江城の奪還に成功しましたが、徳川家康・織田信雄の大軍に包囲され、篭城戦の末、半月後に落城しました。
さらに翌年の1585年(天正13年)に起きた天正地震により城は壊滅しています。

現在は住宅地に城址の石碑と本丸井戸跡が残るのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大野城には、ここから徒歩で向かいました。

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桜城 金谷城 (2024/10/12 訪問)

 桜城、金谷城は拳母城(七州城)の前身の城です。両城とも七州城から徒歩10分くらの場所にあります。

桜城
 上州国安中城よりこの挙母の地に転封された内藤政苗が、1756年より築城工事を行ったとされる城です。しかし矢作川の洪水の難を避けるため築城途中でしたが、童子山に新たに挙母城(七州城)が築城されることになりました。現在、隅櫓の石垣が残り桜城址公園として整備されています。

金谷城
 拳母城の前身の城です。江戸時代に内藤氏によって近世の拳母城(桜城 七州城)が新たに築かれるまでは、挙母城は金谷城の事を指していたと伝わっています。勝手神社に石碑がありました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)2日目:富貴城 (2024/09/23 訪問)

本日は移動距離が長いので、朝食抜きで出発しました。
富貴駅から5分弱歩き、白山神社石碑前(34.829970、136.914967)に着きました。
富貴城は円観寺および白山神社の境内となっており、主郭は白山神社境内のようです。

築城年代は定かではないようです。はじめ長尾城主岩田氏の支城であったと伝えられています。
岩田氏衰退後、水野守信(水野忠政の子・於大の方の弟)が城主となって、河和城主の戸田孫八郎守光の娘を娶り、戸田孫右衛門法雲を名乗ったそうです。
しかし、次第に織田・水野氏の圧力によって勢力を失い、桶狭間の戦い(1560年)の後、廃城となりました。
孫右衛門法雲の子守元・可勝は唐津城主、守秀とその子貞信は富貴城主、守直は野間大坊の住職となって代々続いたそうです。

遺構の土塁らしきものは、白山神社本殿で確認できましたが、空堀はどこにあるのかわかりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=蟹江城へ行く為、電車(名鉄➡近鉄)で富貴駅から近鉄蟹江駅に向かいました。

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七州城 (2024/10/12 訪問)

 約3年ぶりの拳母城です。近くまで来たので散策してきました。櫓台の石垣が残っていて隅櫓が復元されています。三河国・尾張国・美濃国・信濃国・伊賀国・伊勢国・近江国の7つの国が望めることから七州城ともよばれていました。街中にある移築門や説明板を見て回りました。

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鴛鴨城 (2024/10/12 訪問)

 愛知県豊田市鴛鴨町にある鴛鴨松平家の居城跡です。城びとには未登録の城址です。三河松平三代目松平信光の子、松平親光が鴛鴨松平家の初代となりました。徳川四天王のひとり榊原康政の母は二代目親康の娘です。遺構はなく石碑と説明板がありました。

愛知環状鉄道永覚駅より徒歩10分くらいで行くことができます。

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岩津城 (2024/10/12 訪問)

 愛知県岡崎市岩津町にある城址で、徳川家康の祖先である松平氏の三河における勢力拡大の拠点となった城です。城びとには未登録の城址です。築城は二代松平泰親が松平郷よりこの地に進出を果たしたことに始まるとされています。三代信光がこの地方に勢力を伸ばすため拠点としたとしました。城域はよく整備されていて、曲輪の配置がよくわかり、遺構として空堀、土橋、土塁などを観ることができます。


 名鉄東岡崎駅よりバスに乗り岩津天神口バス停下車、徒歩約10分で登城口を示す看板に行くことができます。

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