秀次事件(豊臣秀次が切腹し、その妻子たちが処刑された出来事)を知ってから私は、そのうち関連場所を見学したいと考えるようになり、その1つ目として山形にある最上義光歴史館に行きました。
最上義光(もがみよしあき)とは戦国の一大名。並外れた腕力の持ち主で、時には謀略を用いて領土を広げてきた山形の武将で、伊達政宗の叔父でもあります。
駒姫は義光の次女として生まれ、東国一と称されたその美貌から大事に育てられてきました。
1591年に秀次が山形を訪れた際、駒姫の噂を聞きつけ「我が側室に」と義光に願い出ます。豊臣家に逆らうとどうなるか分からない世であったため、「15になったら」と義光は返事します。
そして1595年、(数え年)15になった駒姫は京都に上り秀次のいる聚楽第に入ったのですが、会う前に秀次は高野山で切腹。
駒姫は秀次妻子と丹波亀山城に幽閉された後、三条河原にて斬首された…というわけです。
画像1枚目にある像の左が駒姫、右が義光。駒姫が処刑される際、武士の娘として動じず最期を迎える様子を表現していると思われます。
この博物館には義光に関わる品が多く展示されており、駒姫のはこの木彫像と打ち掛けのみ…。
個人的には義光よりも駒姫および秀次事件に興味があるので、「思ったより駒姫に関する展示が少なかった」「ミュージアムショップに駒姫グッズも置いてほしい」と思いました。
ガイドの解説をもとに館内を見学。ガイドは新たな史料が発見される度に勉強し直さなくてはならないそうで、私がスマホで秀次事件および駒姫を(暇な時間に)検索しまくったことを告げると、「便利ですよねすぐに情報が集められるから…」とコメント。
解説付きだと話を聞く分、一人で巡るよりも時間がかかることが分かった今回。展示物はあまり多くなく、いつも通り見学すれば一時間くらいで全て見れたと思いますが、今回は二時間かかりました(笑)
でもただ展示物を見るだけでは分からなかったことが、ガイドの解説で知れるわけだから、そこはメリットにも思えました。
義光の肖像画は明治、つまり後世に描かれた。最上家の家系図もその頃に作られたもの。最上家は義光の二代後に改易(お取り潰し)になっているが、同時期に他の外様大名も結構同じ目にあっている。つまり粛清の嵐だった…という具合に。
入館者アンケートを渡されたので、最後の自由記入欄にこう書いておきました。
最上義光と駒姫を大河ドラマに(^o^)
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