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天守無しがアツい

最上義光歴史館 (2017/06/02 訪問)

秀次事件(豊臣秀次が切腹し、その妻子たちが処刑された出来事)を知ってから私は、そのうち関連場所を見学したいと考えるようになり、その1つ目として山形にある最上義光歴史館に行きました。

最上義光(もがみよしあき)とは戦国の一大名。並外れた腕力の持ち主で、時には謀略を用いて領土を広げてきた山形の武将で、伊達政宗の叔父でもあります。

駒姫は義光の次女として生まれ、東国一と称されたその美貌から大事に育てられてきました。

1591年に秀次が山形を訪れた際、駒姫の噂を聞きつけ「我が側室に」と義光に願い出ます。豊臣家に逆らうとどうなるか分からない世であったため、「15になったら」と義光は返事します。

そして1595年、(数え年)15になった駒姫は京都に上り秀次のいる聚楽第に入ったのですが、会う前に秀次は高野山で切腹。

駒姫は秀次妻子と丹波亀山城に幽閉された後、三条河原にて斬首された…というわけです。

画像1枚目にある像の左が駒姫、右が義光。駒姫が処刑される際、武士の娘として動じず最期を迎える様子を表現していると思われます。

この博物館には義光に関わる品が多く展示されており、駒姫のはこの木彫像と打ち掛けのみ…。

個人的には義光よりも駒姫および秀次事件に興味があるので、「思ったより駒姫に関する展示が少なかった」「ミュージアムショップに駒姫グッズも置いてほしい」と思いました。

ガイドの解説をもとに館内を見学。ガイドは新たな史料が発見される度に勉強し直さなくてはならないそうで、私がスマホで秀次事件および駒姫を(暇な時間に)検索しまくったことを告げると、「便利ですよねすぐに情報が集められるから…」とコメント。

解説付きだと話を聞く分、一人で巡るよりも時間がかかることが分かった今回。展示物はあまり多くなく、いつも通り見学すれば一時間くらいで全て見れたと思いますが、今回は二時間かかりました(笑)

でもただ展示物を見るだけでは分からなかったことが、ガイドの解説で知れるわけだから、そこはメリットにも思えました。

義光の肖像画は明治、つまり後世に描かれた。最上家の家系図もその頃に作られたもの。最上家は義光の二代後に改易(お取り潰し)になっているが、同時期に他の外様大名も結構同じ目にあっている。つまり粛清の嵐だった…という具合に。

入館者アンケートを渡されたので、最後の自由記入欄にこう書いておきました。

最上義光と駒姫を大河ドラマに(^o^)

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いんげん丸虫

釜屋城 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高590mの山城です。
櫓台のような三角形の主郭に平場、帯曲輪、土塁などが
あります。起伏のある遺構がよく残っているのですが、
大きな目立つ堀切などは無いので縄張りがわかりにくい
ですね。
登城路は整備されていて看板もあります。

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天守無しがアツい

佐賀八賢人 (2018/06/03 訪問)

まずここには動いて話す女性ロボットがいました。「生まれて4年ですが、年齢は26歳…」という具合に話しており、見た目がほぼ人間!

間近で見ないと分からないくらい、人間の肌や輪郭にそっくりに出来ており、「日本のロボット開発もここまで進んだか」「現代版黒船とでも呼ぶべき存在か?」とも思いました

ここ、佐賀城は江戸時代には天守閣もあったそうですが、焼失後は再建されず、敷地内の建物は廃藩置県後に小学校になったり、軍の施設になったりしたそうです…

この歴史館は明治維新における佐賀藩士の功績を紹介するために平成十七年開館。なのでキレイな内装、新しさを感じる環境でした

寸劇がとある部屋にておこなわれ、私の見た回では、島義勇(しまよしはる)・江藤新平・大隈重信に扮した3人が登場しました

薩長土肥、つまり佐賀藩(肥前)も維新の四大勢力の1つになっており、佐賀八賢人と呼ばれている維新の功労者がいる。上記の3人もその中に入っている(でも私は8人のうち、2人(江藤新平と大隈重信)しか知らなかった(笑))

寸劇を通して分かったのは、島義勇は北海道の開拓に務め、札幌を作った。江藤新平は法の整備(現在の法律のベースを作ったそう)、佐賀の乱で島と共に刑死💀💀

大隈重信は言わずもがな、早稲田大学の創設者、2度の内閣総理大臣を務め、84歳の長寿を全うした…と、寸劇の出演者はオーバーアクションとも思える、力のこもった演技をしていました👨‍🎓

そしてこの3人を含めた有能な人材を登用し、育て上げたのが、佐賀藩第10代目藩主:鍋島直正

彼の進めた質素倹約と「西洋の技術を積極的に取り入れる」政策により、ペリー来航の頃には、佐賀藩は日本で唯一、鉄製大砲を鋳造可能な存在に

戊辰戦争では「我が藩の技術を同胞殺しに使いたくない」という理由から、最初は新政府にも幕府にもつかずでしたが、将軍慶喜が江戸に逃走して新政府有利になると、戦争を早く終わらせるため、そっち側に

上野における彰義隊との戦闘では、ケタ違いの武器の性能を披露し、敵兵だけでなく、味方の新政府軍をも「敵じゃなくてよかった…」と思わせたそうです

館内の展示を見て、直正がすごい藩主であることを知ったので、土産は迷わず、彼の伝記マンガにしました。上記の「スゴいぞ佐賀藩」とでも言うべきエピソードは、その中から知ったことです

日本で最も早く西洋化を取り入れ、戊辰戦争では「陸の黒船」と思わせる存在感を見せ、維新に貢献した佐賀藩

でも(大隈重信は例外として)何故ほとんどの藩士は知名度が低いのか?そして大河ドラマにも(薩摩、長州、土佐は舞台になるのに)選ばれてないのか、不思議に思いましたね…

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天守無しがアツい

坤櫓のみ見学 (2021/03/14 訪問)

ここには東御門·巽櫓、紅葉山庭園、坤櫓という施設があるのですが、東御門·巽櫓は改装中で入場不可…

「庭園よりも櫓のほうが、城という感じがするからそっちにしよう(他用を済ませた後の閉館時間近くの来場だったため、どちらか1つを選ぶ必要に迫られた)」と思い、私は坤櫓に入りました

100円払って入室。建物は3階建てなのですが、建築基準法により非常口が必要だったり急な階段はダメだったり…で2階より上に一般客を入れることができないため、1階のみの展示にしている…とスタッフが語っていました

入口入ってすぐの場所に鎧兜が展示されていたので、迷わず撮影。やっぱりこういうものはインパクトがありますよね🤩

この坤櫓は1854年の大地震により倒壊し、それから2014年まで再建されることがなかった…そうです。本丸に至っては江戸幕府3代将軍家光の時代に焼失し、それからそのまま…再建するお金が無かったのか、それとも必要性低いと思われたのか…定かではありません

2014年にこの櫓は再建されたわけですが、その時の建築のやり方が紹介されていました。私は素人なので細かく説明することはできませんが、土台を造り、壁を塗り固め、瓦を被せていく…しかも江戸時代の建築方法になるべく忠実におこなう…

そうイメージすると、古いものを再建するって、ただ現在のスキルで造ればいいものではなく、当時の技術に忠実に合わせながら取り組んでいく…と思われるので、何か骨が折れそうな作業ですね😅

基本的に櫓は本丸を囲む城壁の片隅に設けられ、外を監視するため程度の施設なので、スペースは小さめ。なおかつ上記のとおりここは1階しかないので、「これでいいのか?」と思えるほど早く見学が終わってしまいました…🏯

閉館5分前になり、「せっかくなのでもう1周見てから帰ろうかな」と思い歩き出したら、出口にて「展示はここで終わりになります!」とスタッフに誘導され、もう1周は諦めました…😅

私が櫓の外に出ると同時に扉が閉まり、どうやら私が最後の客だったようです。最終入場時刻は16時、閉館の30分前で、スタッフも少し余裕を持って営業を終わらせたかったと思われます

ちなみに下記の文に、1階から上の階の様子を見ることができると書かれております。実際私もスタッフの案内でそれを伝えられ、丸見えの上の階を見た時、「これはすごいな。あそこに上がれなくても、建築基準法の壁があっても、様子がありありと見えてくる…」と思えました


(HP 紹介文より)
建物内部は3階になっていますが、各階の床板と天井板をすべて取り外しており、1階から3階の梁まで見通すことができますので、伝統的な工法によって復元された櫓の構造が一目瞭然!!また、床板の一部も取り外して、強化ガラスをはめ込んでいるため、そこに立てば、ほかのお城では絶対に見ることができない櫓の床下の構造をしっかり見ることができます。


駿府城はかつて、徳川家康が幼少期に今川の人質になっていた頃に住まわされていた城。征夷大将軍になり、息子秀忠に将軍の座を譲って隠居した先も駿府城…だったそうです

おそらく家康の存命だった頃は本丸はあったと思われます。しかし、家光の代に焼失。それ以降再建されることはなかったそう

その本丸跡にて、近年発掘調査がおこなわれ、その中に入ることもできるようです。ただし、開園時間が16時までのため、そこを訪れた時はもう遅くゲートは閉まっていました

なので外から見学および撮影。壁の一部が透明になっており、なおかつ関係者用出入口から中の様子が丸見えだったので、そこからスマホを近づけて撮影できたわけです

このあたりに資料館のようなものも建設されるそうです(もしかしたらもう出来てるかもしれない)天守閣ではないけど、発掘の際に見つけたもの、そして駿府城の歴史を人々に紹介する、櫓よりも規模の大きな施設ができるようです

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ぴーかる

高田城 (2023/11/03 訪問)

【続百名城61城目】
<駐車場他>高田城址公園第1駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>堀・土塁
<感想>1泊2日上越の城攻め旅1城目。上記駐車場に駐車して西側の外堀の内側から南下し散策⇒南側外堀⇒大手道北上して内堀南側から西方向⇒市立博物館見学スタンプ押印⇒内堀北側へ回るも学校になっており立入禁止⇒戻って本丸内三重櫓を見学⇒本丸内部を散策⇒本丸南の極楽橋から出て終了しました。外堀南側の幅広、本丸土塁の高さ、土の城ながら縄張りの広さは見応えがあります。本丸跡の北側半分と北の丸跡が学校になっていて立入禁止が見所を損しているのがもったいない。驚愕する遺構はありませんが、博物館見学も含めて2時間ゆったり散策しました。

<満足度>★★☆

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ぎりょう

宮野城 宮城県栗原市築館下宮野館  (2023/11/11 訪問)

栗原市の二城目は旧築館町の宮野城(2020年11月23日に投稿済です)に。この城の築城年代や築城者は不明のようですが、奥州総奉行(奥州合戦の戦後処理にあたった職制)葛西清重の子重信が宮野氏を名乗りこの地域を拠点とします。宮野氏は天正18年(1590)の大崎・葛西一揆までここを居城としているようですから戦国期の早い時期から活用されていたものと想像できます。主曲輪を中心に3か所の広い曲輪と帯曲輪を空堀と土塁で護る規模の大きな梯郭式中世山城であり、城びと登録が無いことが残念です。
今回の訪問は主曲輪の北に位置する曲輪の先に有る谷からの登り口と帯曲輪の確認。城址西側の妙圓寺側に残る曲輪と帯曲輪、物見台跡?の確認でした。いずれの遺構も旧築館町史には記載が無いのですが、しっかりとした遺構が確認できます。
3年前の訪問時は公園化されている主曲輪はもちろんですが、北側の曲輪もしっかり草刈りされていましたが、長引くコロナ禍のせいでしょうか、現在は草が伸び放題でした。
城址は築館の街中から国道4号線を北に2kmほどの下宮野地区にあり、登城口は旧奥州街道下宮野宿の街並を宮野代官所跡や皇大神社方面へ入ったところとなります。
東北自動車道築館ICから国道4号線を北に5.5km、11分

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小城小次郎

滝川一益に始まり滝川一益に終わる? (2023/04/15 訪問)

服部党と本願寺をだまくらかして築城させて乗っ取ったという噂に始まり小牧長久手の戦いにおける蟹江城攻防戦に至るまでこのお城は滝川一益に始まって滝川一益に終わったと言っても過言ではないだろう。奇跡的に井戸だけが残る。

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天守無しがアツい

会津戦争の舞台 (2018/10/21 訪問)

会津戦争で会津藩の兵士や住民が立て籠り、新政府軍の砲撃を受けてボコボコになった城…

会津戦争の後、建物は1874年に解体。それからしばらくは天守閣が無い状態が続いたものの、戦後になって地域住民の働きにより再建され、現在に至る。建物は5層から成っています

1・2層は撮影禁止。それもあって今回の添付画像は外からの撮影になってます。会津は歴史上数々の大名の支配下におかれた場所で(伊達政宗が治めた時もあったが、秀吉に恭順の際、没収された)幕末では松平氏の統治下にあった

会津戦争に関する展示が多めで、「火中の栗を拾う」京都守護職の任務を買って出た会津藩。鳥羽伏見の戦い後、薩長が掲げた錦の御旗により朝敵と見なされた幕府軍

江戸無血開城により幕府は降伏したものの、会津藩を始めとする諸藩は新政府に抵抗

新政府軍は旧幕府軍勢力を各個撃破していき、1868年9月には会津に進軍。兵力と弾薬量の差により会津軍は徐々に後退。最後は城に立て籠るも、1か月の奮戦の後に降伏…

当時、鍋島直正による近代軍備化により、佐賀藩は日本一の最新兵器を所有していて、それがこの会津戦争にも使用されたそう。アームストロング砲による砲撃により、城がボコボコになり、城内の人間が殺傷された(つまり当時、佐賀藩を敵に回すことは圧倒的不利を意味した)

現在の様子からは想像も出来ませんが、当時はそこに地獄絵図が見られたと思われます。白虎隊が飯盛山にて自決する絵が2枚ありました。どうやら片方(歴史の資料集に使われる)は1869年、もう片方は1930年頃に描かれたもの…とありました

当時、写真は一応存在していたとはいえ、撮影に時間がかかり持ち運びもしにくい。スマホ撮影のように気軽にできるものではなかったため、「ボコボコになった会津城(動かない撮影に時間かけられる被写体)はモノクロ写真」「白虎隊の自決(カメラを持ち合わせるような状況にない)は想像図」となっている

ここはエレベータがなく、移動手段は階段オンリー。しかも城内にトイレなく、記念のメダル販売機もありません。こういう「展示のみに特化した城」は珍しく思えました

城の1層の出口側が土産店になっており、そこで本陣という菓子を買いました。会津と言うと「あかべこクッキー」のほうが有名のようですが、前に訪れた時にそれを買ったのです。なので今回は違う土産を買いたい・クッキーとかありきたりな商品は避けたい…と考え、店内にある品を一通りみて熟孝した結果、本陣に

天守閣に麟閣(城内にある庭園)の入場券付きだったので、ついでという感じでそこにも立ち寄りました。中に入って和風庭園を一通りみたものの、「ここの饅頭付き抹茶は600円」「今は腹減っているが、ここで軽食とは言え、何か食べてしまうと、昼食の邪魔になりかねない」「ここで600円費やすくらいなら、カレー焼きそばに回すべきだ」と考えて、見るだけ。抹茶体験はしませんでした

というか、規模の小さな庭園。都内の庭園を数々巡って「もう十分」な感じもあったので、ここ自体カット・天守閣見物だけでよかった気もしますね…

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天守無しがアツい

徳川に破壊された天守 (2019/04/06 訪問)

公園の入り口をしばらく進み、入場券売場でチケットを買った私は、「ここに天守閣はないですか?」とスタッフに尋ねました。すると「かつてはあったと思われますが、関ヶ原の戦い後に、徳川によって取り壊されたと思われます」と回答されました

日本には数多くの城跡…城址公園はありますが、そこに天守閣まであるとは限りません。上田城にはてっきり天守閣があるものと勝手に予想していた私は、何か肩透かし喰らった気分にもなりました

南櫓・北櫓が一般公開されており、そこは2階建てで、細い木製の階段を上るという造り…つまり、少し不便な内装

その中に展示されていたものの1つが、添付画像の火縄銃。外から櫓を撮影してもよかったのですが、「たまには中にあるモノを添付画像に使いたい」と思い、こうしました

「火縄銃体験」とありますが、ここは「射撃シミュレーション」や「画面に撃つと合戦シーンが流れてくる」というわけではありません。ただ、銃を持つだけです

なので、私はまず銃の重さを確かめ、それから窓の隙間から銃口を通し、城の外にそれを向けました

徳川の侵攻を2回とも防いだ「上田合戦」では、この城にて激しい戦闘がおこなわれたわけです。そして、この櫓から、敵に向かって銃撃もあったことでしょう

なので、火縄銃を持ち、それを外に向けることで、当時の真田軍に気持ちだけなりきってみた私…でした

櫓の造りが小屋のように小さめということもあり、ここにある展示物は決して多くはありませんでした。火縄銃の他に覚えているモノは鯱(しゃちほこ)。城の装飾に使われていたようです

錆びてはいましたが、原型は留めており、「鯱って名古屋城だけじゃないんだな、名古屋城のは大きくて金色だったけど…」と思いました

櫓を見学した私は、(チケットが上田市立博物館との共通券なので)博物館へ

(上田城址公園ガイドマップより)真田氏をはじめ歴代城主の資料や上田地方の歴史・民俗・自然資料を収蔵・展示。国の重要文化財「織田信長所用韋胴服」「国友藤兵衛作反射望遠鏡」等を所蔵

館内は撮影一切NG。なのでここではなく、その近く、城址公園向かいにある観光課に展示されていた鎧(2016年大河ドラマ「真田丸」で使用された)を添付画像の1つに

本館と別館、それぞれ展示品があったが、一番度肝を抜いたのが、別館2階のVRシアター

(上田城址公園ガイドマップより)「400年前の上田城を最新映像技術VRでリアルに再現。上田城の中を空中散歩しているかのよう」

ただ椅子に座って映像を眺めているだけ。決して椅子が動いているわけではない。けれど、その動く映像により、まるで自分が遊園地の乗り物にでも乗ったかのような気分になったのです

上空から飛来する鳥のように、城の門に降り立ち、そこから中に入るごとに解説がなされていき、最後に本丸に入るも、関ヶ原の戦いにおける敗北にて、徳川に徹底的に破壊された…とされる本丸の施設

第二次上田合戦にて真田信繁(通称:幸村)・昌幸は徳川軍に勝利こそするものの(というか徳川秀忠率いる軍勢を食い止め、関ヶ原到着を遅らせた…というほうが正しいかな)、関ヶ原の戦いで西軍(つまり信繁側)が敗北したため、敗北者に…

石田三成を始めとした西軍の大将は死罪になったり流罪に処されたりし、信繁たちもピンチだったが、信繁の兄の信幸(昌幸は、どちらが勝ってもお家断絶しないよう、信幸を東軍・信繁を西軍につかせた)の嘆願により、高野山に流罪…

天守閣が破壊された後、信幸は上田城に入るも、(徳川に遠慮したからか)天守閣は再建せず、武家屋敷で執務をおこなったそう

昌幸は1612年に病死。信繁は1615年に大阪夏の陣で戦死。しかし、信幸はその後も生き続け、名前を「信之(父昌幸との決別を表しているそう)」に改めます。そして1658年、93歳という大長寿を全うした…

それにしても、戦後の上田城徹底破壊には、家康の信繁親子、そして真田軍への恐れが十分に垣間見える気がします。小牧長久手の戦いを代表するように、戦上手で名の知れた家康

その徳川軍のお株を奪うように、数で劣る軍勢で苦しめた…のですからね

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天守無しがアツい

かつてここに球場もあった (2021/04/04 訪問)

日本各地に城跡はありますが、福岡市にもそれがあることを今回初めて知りました。豊臣秀吉の軍師を務めた黒田官兵衛およびその一族がこの辺りを治めた…そうです

城跡の圏内に入ると、早速だだっ広い原っぱがありました。ここはかつて平和台球場という球場が存在していた場所。西鉄ライオンズや福岡ダイエーホークス(現ソフトバンクホークス)などが本拠地として使用していました

1993年に福岡ドーム(現ペイペイドーム)が新設され、それ以降も二軍の試合が開催されてはいたものの1997年に閉鎖。2005年の九州を襲った地震による球場壁の亀裂により、2007-08年にかけて解体。今は完全に何も無くなってる…

城の中にかつて球場があったなんて、そういう時代もあったのか…そしてそれも今は夢の跡…という感じに思えましたね。その近くに「福岡城むかし探訪館」があったので、そこに入りました

館内は無料入場可。黒田官兵衛が使用していたと言われる刀および、福岡城跡のジオラマ(画像)が展示されていました。城跡の歴史を紹介したビデオ上映も

この施設もwi-fiの環境が非常によく、ソシャゲ&ニュースチェックに時間を割いてしまった私…上映されたビデオによると、福岡城跡には現在天守閣は無く、「過去にも無かった説」が有力なのですが、資料によっては「江戸時代あたりにはあった説」を匂わすものもあるそう。つまり100%無かった…とは言えないらしい

探訪館で館内見物よりもソシャゲに勤しんだ後、せっかくなのでその天守に向かうことにしました。城跡はかなり広く、皇居(江戸城跡)よりも広いかもと思わせるくらい🚶‍♀️

少し小高い場所が天守跡。雨で抜かるんだ坂を登り、急な石階段を登り、さらに階段を上がった先にそこはありました

天守閣がここにあったのかは私にも分かりません。けれどここからは福岡市内を手に取るように一望することができます…現代のようにビルも無かった安土桃山および江戸期の頃はここだけしか周りを見渡せる場所は無かったでしょう…⛰️

この城跡には他にも鴻臚館とか和風庭園とかあるのですが、時間の都合でカット…またの機会があればその時に

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天守無しがアツい

あの頃は激戦地 現在は公園 (2021/06/25 訪問)

茨城県結城市に結城城という城跡があります。鎌倉時代あたりから明治維新の頃までここは城としての役割を果たしていたそうなのですが、この城も天守閣の類いは無く、掘と屋敷が存在する程度の機能だったようです

結城城で印象深い歴史的出来事は、室町時代における結城合戦(1441年)。一言で表すならば「室町幕府将軍 vs (もう1人の将軍的存在)鎌倉公方の争い」ですね

鎌倉公方の足利持氏が幕府に反乱を起こし持氏は敗死。しかし結城氏朝が持氏の遺児2人を担ぎ出し幕府に反旗を翻す

幕府軍は結城城を包囲するものの(将軍側と結城側それぞれに全国の諸将が呼応し戦乱が全国に展開。兵力を分散せざるを得なかったので)攻略に1年もかかった。

最終的に結城城は落ち氏朝は戦死。持氏の遺児は殺され、結城側は敗れたものの、(攻略に手こずったことで)幕府の威信は失墜。さらに将軍の足利義教もこの直後に暗殺され、関東は引き続き戦乱の世…となったそう

室町時代は応仁の乱から戦の止まぬ戦国時代になった…という見方があるかと思いますが、実はそれ以前から「プチ応仁の乱」とでも呼ぶべき内乱は起きており、幕府の統治は不安定だった

当時は西が京都、東か鎌倉が日本の中心地(現在は西が大阪、東が東京かとは思いますが)。関東における睨みを効かせるために初代将軍の足利尊氏は二代将軍の義詮の弟(基氏)を鎌倉公方に任命したわけですが、それが幕府の関東支配をよく思わない勢力によって担ぎ上げられ、幕府の支配力を高めるどころか、「将軍家×鎌倉公方」の東西対決を生み、不安定な政情を招く原因に…

歴史の説明はこの辺にしておきましょう。行く前から天守閣はないだろうなと予想はしてましたが、実際に足を踏み入れたら「えっ、これだけ?」とリアルに思いました…🚵

城跡を示す石碑に案内板、トイレに鉄棒·ベンチなどの公園的設備、神社に(何故か)タイムカプセル…思ったより規模の狭い、ただの公園にしか見えなかったから⛲😅😓

「当時の城の規模はもっと大きかったが、宅地開発もあり保存状態はあまり良くない」と説明書きにありました。画像にあるこのあたりが結城城の中心的エリア。本丸に値する館があったものと思われますが、かつてここで将軍家と鎌倉公方の激しい攻防戦が繰り広げられたとは全くイメージできない、今やただの公園…

訪れてガッカリした観光スポット…の1つに入ってしまうかもしれませんね😅

戦国時代は日本人にとって人気のあるテーマのようですが、その一段階前である結城合戦や鎌倉公方(室町前期とでも呼ぶべきか)の知名度はあまり高くないのではないかと思います

結城城跡は史跡としては(期待より)小規模なただの公園ではありましたが、そのマイナーな時代を知ろうとするきっかけにはなったのかな…とも思うことにしておきましょう😏

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初芽

全国山城サミットと竹田城ライトアップ (2023/11/18 訪問)

滞在時間:1時間ほど

第30回全国山城サミット朝来大会に初参加しました。
高橋英樹さんと千田先生の時代劇&お城トークが面白く、
竹田城の魅力についてもたくさんお話いただいて楽しかったです。

私も城跡は妄想するのが好きですが、今回のパネルディスカッションのテーマでもあったVRなどの現代の技術を使って築城時のありのままの状態を見る=バーチャル復元もすごく面白いなと思いました。

夜は竹田城跡ライトアップ「天空のあかり」へ。
夜景と竹灯りと石垣が幻想的で、寒かったですが忘れるほど美しかったです。
2年前の夜桜ライトアップの際も感動しましたが、美しい石垣や遺構を拝見できるのも現地の方による定期的な整備のおかげだと感じました。

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天守無しがアツい

芝生のある公園 (2022/05/19 訪問)

小山駅から徒歩15分ほどの場所にあるのが小山城山公園。別名祇園城跡

住宅地の中に位置し、短めの坂を上った所が入口。右側が遊具の設置されている公園、画像上の橋(祇園橋)を渡った左側にはトイレや慰霊碑、胸像のある広場となってます

画像1枚目を見てのとおり、橋の下はまるでお堀のような谷となっており、これはここが城としての機能を果たしていたころの(敵軍の侵入を防ぐための)堀だったのではないでしょうか?

右側には遊具や休憩所(屋根と椅子がある)があり、画像2枚目のような広めの芝生もあります。ここは城跡と紹介されてはいますが、今やその面影はなく、ただの公園…と言えばそうだと思います⛲

結城城跡なんかは完全にただの公園と化しており、城跡の名残と言えるものは石碑しか無かったのですが、ここも(深い堀らしきものがあったりと、山城を思わせる箇所がある以外は)少し敷地が広いだけのただの公園…と言えるでしょう

とりあえず画像2枚目の左に先があり、そこを歩くとタイヤが半分埋まってる…おそらく遊び場もあり、そこから短い橋を渡ると駐車場になっており、その周りを歩くことで入口麓に戻ることができました

櫓のような建物は何も残ってない、この小山城跡。けれど橋が2ヶ所あり、その下には堀のような窪地があることから、防衛機能だけは現在までその面影が残っているなとも思えました🏯

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天守無しがアツい

国宝 犬山城 (2022/08/28 訪問)

三光稲荷神社という場所を通ると近道になる、と書かれていたので、そこでお参りをして、坂道を登って城に着きました

入口は石垣の中にあり、そこから急な階段を上がって上の階に行きました。エレベーターもない、その階段でしか上がる手段は無く、しかも手すりを掴まないと上りづらい…小さい子供連れには特に大変そう…に見えました

2階に上がって目に映ったのが、小牧長久手の戦いを描いた屏風絵(画像2枚目)…秀吉と家康が戦った唯一の戦ですね。内容は家康優勢…家康の勝ちとも言えたそうですが、家康が味方に付いていた織田信雄(信長の次男)が勝手に秀吉と和睦してしまい、終戦せざるを得なかった

この戦において、当時16歳(数え年だと17)の秀次が秀吉に先陣を任され、家康の陣地に攻め込んだけど、返り討ちに遭い、秀吉の重臣も失いこっぴどく叱られた…というエピソードがあります。その11年後が秀次事件…💀 というわけでもありますが😅

3階には木造の犬山城ミニチュアがありました…よくできている造りに見えましたが、(画像1枚目の)天守閣を既に撮影しており、城の外観を表すものはもう必要ないかな…と思えたので、撮影はせず、見て目に焼き付ける…だけにしました👀

最上階の階段は幅が狭く、上る客と下りる客をスタッフが誘導して交互に行かせるようにしていました。実はこの犬山城…国宝にも指定されるほどの城なのですが、天守閣の規模はあまり大きいとは言えず、エレベーターは無いし、中に売店も記念メダルの自販機もない…(その代わりに麓に売店)

最上階には歴代城主の肖像が並んでいるのみ…江戸時代のは絵で、幕末明治あたりから写真…少し前までこのお城は個人の管理だったそうですが、今は国に委託され、国の管理…税金でメンテナンスされているものと思われます

木曽川とその沿岸に並ぶ建物…街並み…ここから周囲を見下ろすと、木曽川の大きさが一目で伝わります。悪天候により氾濫すると周辺に大損害…けれど車の無かった時代…きっとこの水運が当時はかなり大きな移動手段…だったのではないでしょうか?舟がトラック代わり…舟で荷物を運ぶ🚣‍♂️

城内には敵の侵入に備えた仕掛け…鉄砲や弓矢を放つための隙間…石を落とす隙間も見かけました。ただこういう仕掛けはいざという時のために造られたもの…実際に使われたことは滅多に無かったのではないかと思うんですけどね…特に戦乱の無い江戸時代においては🏯

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天守無しがアツい

NAKED FLOWER (2022/11/04 訪問)

二条城は普段は9-17時の営業なのですが、10/28-12/4まで「NAKED FLOWER」というイベント名で18-22時にも開放しており、他の名所を巡った後に訪れるにはちょうどよかったので当日券を購入して中に入りました

普段の施設観光は展示品を見て解説文を読むことが多いですが、建物の中はすでに閉まっており、このイベントでは庭を歩き回って見物するのみ…なので小難しいことは考えずに参加できた気さえします

QRコードをスキャンしてサインインすると、更に限定のイベントに参加できたようですが、何故か私のiPhoneからでは画面が先に進まずできなかったので、見学エリアの向こうに映るデジタルアートを眺め、撮影してこの雰囲気をたのしむことにしました

11月の夜ということもあり、外は少し肌寒く、昼間には羽織るのが暑かったジャンパーが、この時間帯にはちょうどよくなるくらい…

中の展示品は一切見れない代わりに、昼の見学では見れない夜の顔…夜の二条城を味わうことができた気がします

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天守無しがアツい

攻める側も守る側もキツい鳥取城 (2023/03/11 訪問)

遠くから見て、山の麓と上の方に石垣が見えたので、登る前はそれが何を表しているのかさっぱり分かりませんでした…まずは麓から歩き回り、石垣こそ残っていても、どの場所も空き地…となってました

自然災害(落雷など)により倒壊してしまい、それ以降再建されなかった箇所もあれば、明治初期の取り壊しにより解体されたものもあるようです。かつては櫓が残っており、それはここの城の象徴となっていたそうで、当時(明治初期)の画像が案内文の中にあったのですが、現存はしてない

奥側は現在、高校の敷地内となっており、校舎が立っていて関係者以外は基本入れないのでしょう…🏫 他には博物館に洋館も入り口付近にありましたが、(時間に余裕が無さそうなので)スルーしました…城跡に来たからには、本丸見物の方をどうしても優先したかったものでね

やがて進むと、山道のようなものが見えて、「この先に本丸があるようだ…せっかくなので行きますか🚶」と思い、進んだ私…でもその時は知らなかった…ここが旅行者泣かせの険しい山城であることを😂

麓にある全体地図を見た時、本丸は道の途中にあるように見えたため、「五合目あたりまで行けば着くのかな?」と勝手に捉えていました。道は初っ端から階段が急で険しく、少し登っただけでも息を切らすくらい…

階段には一応、石の板を敷き詰めてはあるものの、その道幅はかなり狭くてロープによる柵もないため、少し体がよろけたらコケるどころか、数m下に真っ逆さま…という危なっかしい場所もありました

五合目に着いたあたりに社があり、人が座れるくらいの大きさの石もあったので、そこに腰を下ろして小休憩…社の中には小銭が投げられていたので、私も1円入れときました👛

登山道の途中には社や休憩スペースこそあれど、トイレや自販機の類は一切なく、麓で済ませることが前提のコースとなってました…五合目で小休憩した際、「ここで引き返してもいいかも…そうすればその分時間に余裕ができる🕐」という気持ちも生じましたが、「ここまで来たからにはやはり山頂まで行こう…」

「どうせここに来るチャンスはこれ一回切り濃厚…ならば悔いのない選択で🚶⛰」的な考えで、疲労と身体中から出る汗に耐えながら、ひたすら山道を進み…とうとう山頂到達😄

奥の方で年配の登山グループが何やら談合しており、そして私に写真を撮るよう頼んできたので撮影してあげました。話し方からして、どうやら関西の登山グループと思われます。鳥取県は兵庫県の東隣…つまり関西に近いと言えばそうなので、遭遇率も高くなるのでしょう…

画像1枚目を見てのとおり、山頂からは鳥取市街を一望できる素晴らしい絶景がそこにはありました…奥側には黄色く見える砂地…つまり鳥取砂丘が見えるわけです。ここは市内における最高の展望台とも呼べるでしょう

画像2枚目は本丸跡…かつてここに何かがあったことは一目瞭然かと思います。かつてここには天守に値する櫓があったようです…けれど何らかの理由で消失…以降再建されることはなく今日まで至る…

「ここが本丸で、私は頂上まで辿り着いたよ」という証のために、画像3枚目を私は撮影および添付。ちなみにここの標高は263m…こんなに登るのがキツくても、たったそれだけの高さしかないのです😅

「富士登山に次ぐキツさだった⛰」というのが私の感想なので、おそらくあの急な登り坂が標高以上の険しい印象を私に与えたのでしょうね😓

ちなみにこの城もかつて、豊臣秀吉の侵攻を受けており、その際に取られた方法が兵糧攻め…それを受けたこと自体は何となく聞いたことありましたが、今回の登山でその訳を120%知ることができました…

「これだけ登るのが険しく道幅も狭ければ、攻め込む側は苦戦。かと言って守る側が圧倒的有利かと言えばそうとも言えず、食糧や武器などを山頂まで運ぶのも苦しいだろうから、物資の補給もしづらい」

「その両方の理由で秀吉が選んだ攻略法が兵糧攻め…これにより味方の犠牲を最小限に抑え、尚且つ相手の兵糧が尽きるのを待つ…まさにジワジワと攻めるやり方」

その結果…狙いどおりに降伏させ陥落した鳥取城…そして…その時…城内は悲惨だったそう💀

行きは40分くらいかかった気がしますが、帰りは25-30分くらいで降りれました。ただ重力の関係で段差もある分、帰りの方がスピードが出やすく、それをコントロールするのが大変でしたね…一度足を滑らせてコケてしまいましたし…😅

五合目まで戻った際に、これから頂上まで向かう登山客とすれ違い、「十合目までずっとこの険しい道続くの?」と聞かれ、「はい、登る前は五合目あたりに本丸があるのかなと思っていたけど、十合目までこの道が続きます」と答え、それから麓まで降りました

ちなみに何と山麓⇄山頂までのロープウェイがかつて(1969-76年)存在していたそうです🚟けれど現在は廃線となり、駅舎こそ残ってはいるがロープは既に撤去…

「そう言えば、山頂を少しだけ降りた場所に休憩所があったけど、あれが元山頂駅舎だったのか…」「ああ…今でも運行していたらどんなに楽だったことか😭」とリアルに思いましたね

けれど僅か7年で廃線してしまった…ということは、あまり利用客はおらず赤字だったのでしょう、おそらく

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「浄泉寺城」。 (2023/10/21 訪問)

石碑と説明板の位置関係がおかしかった栃木県の「榎本城」を調べてみたら、北条 氏照さんの家臣 近藤 綱秀さんのお名前に出会いました。
綱秀さんは北条討伐時、「八王子城」で討死します。
近藤 綱秀さんの居城が、八王子市内にもあったので早速、お邪魔してきました。

綱秀さんが暮らした「浄泉寺城」。現在は霊園がある『浄泉寺』。こちらがお城跡です。
八王子市 館町 1234
と、所在地も覚えやすいです(^ー^)

湯殿川にかかる赤い橋を渡ると急な登り坂。
高台に「浄泉寺城」がありました。駐車場に説明板があります。
霊園ですので、お墓参りの方々に配慮しつつ歩きました。土塁がありますが、霊園が綺麗に整備されてるので想像力を働かせます。
『浄泉寺』したに『つつみの池公園』があり、こちらも「浄泉寺城」の雰囲気があります。

「榎本城」と「八王子城」の点が、近藤 綱秀さんのおかげで、線が引けた「浄泉寺城」攻めでした。

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周辺散歩 (2023/11/18 訪問)

 岐阜城周辺を散策しました。
戦国時代、城下町の周りを取り囲んで総構と呼ばれる土塁が築かれていました。土塁の一部が岐阜公園北側の道沿いに残っています。

総構えの土塁から北に少し歩くと川原町に行くことができます。斎藤道三、織田信長の時代から市場があり長良川の川湊も近く流通の拠点となっていたようです。古い街並みが残っていて風情があります。近くには鵜飼観覧船乗り場あります。さらにその近くには斉藤道三公墳がありました。

常在寺は1450年土岐家守護代として事実上美濃国を支配していた斎藤妙椿が建立した寺です。斎藤道三以後3代の菩提寺で、重要文化財の斎藤道三肖像画と斎藤義龍肖像画が所蔵されています。

 斎藤氏とも織田氏とも関係ありませんが、近くの正法寺には日本三大大仏のひとつとされる江戸時代に作られた岐阜大仏があります。仏像の高さは13.63mで奈良の大仏に近い高さがあります。「籠大仏」と呼ばれています。木材で骨格を作り、竹材で形を作っているとのことです。その後、粘土を塗り、その上にお経が書かれた美濃和紙を貼り、漆を塗り、金箔を貼っている乾漆仏だそうです。
ちなみに日本三大大仏は奈良の大仏、鎌倉の大仏は決定していますが、もうひとつはこの岐阜大仏と富山県の高岡大仏が候補になっているということです。

 この日、岐阜公園では「岐阜公園菊人形菊花展」が開催されていました。この時期、各地の城跡ではよく開催されていますね。

 岐阜の銘菓といえば鮎菓子です。カステラ生地で求肥を包み込んだお菓子です。川原町の玉井屋本舗さんで「登り鮎」を土産に買いました。

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ヒロケン

京極氏遺跡 (2023/11/18 訪問)

京極氏館は東西約170m、南北250mで、この居館を中心に東西に家臣団の屋敷、南に城下町を配し、伊吹山登山道中腹には京極氏館の詰城として、上平寺城・弥高寺などが築かれています。館があった場所には巨石を用いた庭園もあり、当時、京極家の権力の大きさが伝わってきます。
この、京極氏館と周辺の遺構は、1523年に起きた京極氏家臣団のクーデターで落城するまでの約20年間、北近江の政治や文化の中心地でした。京極氏衰退の後、北近江の実権は京極氏の家臣であった、戦国大名で有名な浅井氏が握ることになります。

この日、館跡、上平寺城跡、弥高寺跡を含めた京極氏遺跡群を見学するため、滋賀県米原市を訪れました。駐車場は館跡前に伊吹山登山客用と遺跡群見学者用の駐車スペースがあります。(トイレはありません。)
遺跡群を見学するため、この地を訪れました、伊吹神社(京極氏館跡)境内を通り、伊吹山、上平寺城、弥高寺に行くことが出来ますが、登山道崩落・熊出没・害獣駆除等の理由により、館以降入山禁止となっていました"(-""-)"
京極氏遺跡は、庭園のある館、家臣団の屋敷、詰城がセットで残る遺跡群であるため、是非セットで行きたかったのですが、残念でした。

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ぴちょまる

前岡山城 (2023/11/16 訪問)

現天守が建っている岡山の西側にある石山が、前岡山城があった場所らしい。
天守や月見櫓に目を奪われていると、背中側にある石垣を見落としてしまう。
実際、夜歩いていた時は、案内板に気が付かず素通りしてしまった…
幅の狭い西側天守を見ることができる貴重な場所でもある。

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