赤穂城番外・大石神社
(2025/04/20 訪問)
赤穂城三の丸・大手門跡の近くに赤穂大石神社はあります。通称・大石神社として赤穂四十七士を祀っている神社としての方が有名ですが、旧赤穂神社は赤穂藩主浅野氏三代を祀っている神社で、主筋にも配慮した形式を取っているようです。
江戸城松の廊下での殿中刃傷事件の後、赤穂浅野家は改易となりますが、後に500石の旗本として復興します。赤穂浅野家は明治維新後も続きますが、昭和61年に跡継ぎがないまま断絶してしまいました。
一応被害者なのに悪役とされた吉良義央の死後、三河吉良氏は改易となりますが、後に分家が復興を果たします。
「赤穂事件」後の処遇に関しては、三河において松平氏の祖より格式の高かった(編諱を与えたりしている)吉良氏への悪意のようなものも感じますが、それ以上に吉良氏の後ろにいる上杉氏への圧力を感じます。
吉良義央の子・綱憲は米沢上杉氏の養子に入って上杉氏を継いでいますが、足利氏の名門・三河吉良氏は扇谷上杉家の前身である二橋上杉家の血を引いているとされています。
残念ながら名君と名高い9代・上杉治憲(鷹山)は秋月家からの養子で綱憲の血を引いていません。8代重定の次男・治広が10代藩主となり山内上杉家の26代目も継いでいます。
戊辰戦争の時の12代藩主・上杉斉憲は奥羽越列藩同盟の実質的な盟主であったものの、早々に新政府に降伏し会津と庄内を攻撃したため評判は芳しくありません。子の上杉茂憲は新政府に降伏した際に13代を継ぎますが実権は父の斉憲が握っていたとされています。
明治維新の後、茂憲は沖縄県令として沖縄に赴き、島民の為に尽力したとされています。明治の世になって吉良・扇谷上杉家の名門の子孫がようやく面目を果たしたと思います。
ちょっと話が逸れました。最近はイランとイスラエルまで紛争の様相を呈してきましたが、4月の時点で既にウクライナやガザなど争いは継続して発生していました。「世の中がもっと平和になりますように」と願をかけてきたのですが、頼んだ相手が悪かったのでしょうか? もう300年以上たっているわけだし、いいかげん冥土で和解してるだろうとは思うんだけど。
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