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岩津城 (2024/10/12 訪問)

 愛知県岡崎市岩津町にある城址で、徳川家康の祖先である松平氏の三河における勢力拡大の拠点となった城です。城びとには未登録の城址です。築城は二代松平泰親が松平郷よりこの地に進出を果たしたことに始まるとされています。三代信光がこの地方に勢力を伸ばすため拠点としたとしました。城域はよく整備されていて、曲輪の配置がよくわかり、遺構として空堀、土橋、土塁などを観ることができます。


 名鉄東岡崎駅よりバスに乗り岩津天神口バス停下車、徒歩約10分で登城口を示す看板に行くことができます。

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はたけ

福岡城 (2024/10/01 訪問)

天守閣は無いですが、天守台からの福岡市内の景色がいい。

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赤い城

勝賀城の出城 (2024/09/29 訪問)

勝賀城主、香西氏の出城で家臣の渡辺氏が城主でした。
瀬戸内海監視のため、当時島だった芝山に築かれました。

近くに駐車場がなく、少し離れたイオンから歩いて登城することに。
登城口に石碑が立っていて、ここから長い石段を登っていきます。
途中帯曲輪っぽい削平地がありました。
一気に山頂まで登ると芝山神社が鎮座、ここが主郭のようです。
瀬戸内海の眺望もgood!

さらに奥、北側に進むと土塀が僅かに残っていました。
この辺りが二郭、さらに進むと三郭と南北に展開されていました。
派手な遺構はありません。
ここも秀吉の四国攻めで落城してしまいました。

今回の登城で城びと登録城で「行った」城が800城となりました。
まだまだ先は長い。
まずは讃岐と阿波の城全リアを目指します!

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)1日目:羽城 (2024/09/22 訪問)

碧南駅より徒歩5分ちょっとで、大浜陣屋広場入口(34.877586、136.984438)に着きました。
現在跡地は「大浜陣屋広場」として整備されて、案内板が設置されています。
大浜陣屋広場から徒歩7分くらいの所に、移築された裏門が常行院の山門(34.874072、136.981315)としてあるようですが、真っ暗なので見学は断念しました。

羽城(別名=大浜陣屋)は、1576年(天正4年)徳川家康が築いたそうです。
家康は長田重元に守らせ、後に永井直勝が城主となったが、1584年(天正12年)小牧・長久手合戦の功によって東端城へ移りました。
水野氏は信濃国松本で70,000石を領した大名でしたが、1725年(寛保10年)忠恒の時に刃傷事件を起こして領地を没収、その後一族の忠殻が信濃国佐久郡で7,000石で家督を相続しました。
その忠殻の子である忠友が、1742年(寛永2年)に家督を相続し、1768年(明和5年)若年寄となって6,000石を加増され、13,000石で羽城跡に大浜陣屋を築きました。

大浜陣屋広場についた時間、辺りは暗くよく見えませんでした。
写真も何枚かとりましたが、ピンボケしていて使いものになりません。へんな写真で上書きされないように写真は投稿しません。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストです。
本日の宿泊先の金山駅に向かう前に、一旦、豊橋駅に向かい荷物を取り出します。
本日の攻城徒歩=27616歩、攻城距離=19.33Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)1日目:上ノ郷城 (2024/09/22 訪問)

蒲郡駅よりより徒歩30分くらいで、入口標識前(34.841725、137.224967)に着きました。

築城年代は定かではないようですが鵜殿氏によって築かれました。 鵜殿氏は紀伊国牟婁郡鵜殿発祥で紀伊国鵜殿城にいたそうです。
鵜殿長善の子のとき長将が上ノ郷城、長存が下ノ郷城に分かれました。 長将の子、鵜殿長持は今川義元の妹を妻に迎えています。
桶狭間合戦の後、周囲の勢力が今川氏から家康へと移るなか、長持の子鵜殿長照は今川氏方として残りました。
1562年(永禄5年)家康は上ノ郷城を攻め、このとき攻めあぐねた家康は甲賀忍者を城内に偲ばせ火を放って攻め落としたといわれています。
NHKの「どうする家康」では伊賀忍者も参加していたような。。。
その後は久松定俊が入城しました。

南下の二郭の東西両サイドから土塁が伸び中央部が開口して虎口となっています。
この土塁の上に石碑が建っています。思っていたより狭かったです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=羽城を目指す為、JR➡名鉄電車を乗り継いで蒲郡駅から碧南駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)1日目:山中城 (2024/09/22 訪問)

名電山中駅から15分くらい歩き、東側登り口(34.8948511、137.2340377)の舞木口に着きました。
攻城ルートは東側登り口から進入し、西側降り口(34.893071、137.229664)の羽栗口に出てきました。

築城年代は定かではないようですが、初期の築城に関しては西郷氏または岡崎松平氏と考えられています。
1548年(天文17年)には今川氏の拠点として改修され、その後、徳川家康の城としてさらに改修されたようです。

竪堀や堀切が多く見所のある山城ですが、雨の中、足元を気にしながらの攻城となりました。
雨が降っているので眺望もいまいちでした。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=上ノ郷城を目指す為、名鉄電車➡JRを乗り継いで名電山中駅から蒲郡駅に向かいました。

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朝田 辰兵衛

ここは手軽さが売り👌 (2024/09/28 訪問)

比較的公共交通のアクセスも良く,厳しい山城でもないので,ビギナー向きだと思います。案内標識もしっかり整備されてます。ただし,二の丸ではヤブ蚊の襲撃に遭いましたので,ご注意ください。

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トイレはどこですか?~オンラインガイド・文献図面に見る信玄公御閑所

■はじめに
 こんにちは。躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
 当隊は躑躅ヶ崎館跡こと武田氏館跡(現・武田神社)で
 不定期に甲冑武者による史跡案内をする有志甲冑ボランティア集団です。

 境内で案内活動をしていると、神社の参拝者から声をかけられたり質問されたりしてますが、
 問いかけられる内容として、「その鎧重くない?」の次に多いのが
 「トイレはどこですか?」との質問だと思います。

 武田神社のトイレは拝殿に向かって左側に進み、堀を土橋で渡った先の西曲輪の一角に、
 男性用女性用そして多目的トイレが設けられています。
 能楽堂の脇に大きな案内板があるのでわかりますよ、と案内するのが模範解答です。

 ですが、そこでついボケをかまして
 「信玄公の水洗トイレですね。実は場所まで特定されてないんですよ。一緒に考えてみましょうか」
 などと引き留めようとしたら、切羽詰まってる人にはマジで怒られそうなので口に出さない程度には大人です。

 そうです。信玄公は水洗トイレを使っていたそうですが、
 残念ながらそのトイレは遺構として現存せず、痕跡さえ見つかってないので、案内活動でご案内することができません。
 なので、この投稿にて、文献や絵図面による信玄公のトイレの紹介を、オンラインガイドとしてさせてください。

 ※おことわり
  この投稿はEこと上田絵馬之助が資料に基づき考察した個人的な発表であり、躑躅ヶ崎歴史案内隊の見解ではありません。
  また、資料の読み違えにより、資料そのものの意図とさえ異なるおそれがあります。
  あくまで個人の考えとしてお読みくださるようお願いします。
  あと、長いです。
  まとまった時間のある時に、腰を据えて読んでください。


■これって日本最古?~甲陽軍鑑に見る信玄公のトイレ
 信玄公は水洗トイレを使っていた、というエピソードは
 戦国武田氏の事績を記録したとされる「甲陽軍鑑」や江戸時代は正徳年間に書かれた軍記物「武田三代軍記」に紹介されています。

 どちらも内容はほとんど同じですが、
 「甲陽軍鑑」品第三十三にいわく、信玄公は用心のため御閑所(トイレ)を京間六畳敷にこしらえて、
 風呂の縁の下から樋(配水管)を引いて、風呂の下水で「不浄」を流していたそうです。

 また、近習を側に控えさせ、香炉をおいて朝昼晩に沈香(東南アジア原産の高級香木)を焚いて、
 信玄公はその中で「状箱(文書箱)のふたにいづれの国郡と書付をみて」、
 国内の政治や訴訟に関する決裁を行っていた、ということです。

 近習とはキンジュウまたはキンジュと読み、主君の側近くに仕える侍のことをいいます。
 後でまた説明しますが、甲陽軍鑑によると武田家では「奥衆」と呼んでいたようです。

 閑話休題、この御閑所が使われていた具体的な時期としては、
 「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」ともに《河中島合戦の後酉の極月朔日》から
 飯富(おぶ)三郎兵衛(昌景・後の山県昌景)、原隼人佐(昌胤)、跡部大炊助(勝資)ら侍大将を伴い、
 帯刀させて障子の陰に控えさせたとの記述があり、
 第四次川中島の戦いが行われた永禄四年(1561・酉年)の12月1日には、
 既にこうしたスタイルで存在していたと言えます。

 また、「武田三代軍記」巻第十二には、「甲陽軍鑑」の記述に加えて、御閑所が浴室の続きに設けられたことなどが記され、
 トイレが浴室の近くにあったのでは、と推測して補完しています。

 まさか信玄公もトイレで気張りながら政務を行っていたわけではないでしょうが、
 水洗トイレといってもフレグランスが漂い、セキュリティも保証された
 SOHOとかコワーキングスペース的な感覚で用いられたのではないでしょうか。

 ちなみに、もしかしたらこれって、
 日本で最も古い水洗トイレなのでは、と思いましたが、
 調べてみると秋田城跡に残る水洗厠舎が奈良時代後期と伝えられるそうなので、
 残念ながら日本最古とは違いました。


■歴史はトイレで動いた?~義信事件と御閑所
 また、「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」のどちらにも、
 いわゆる《義信事件》の発端となる訴え、すなわち信玄公の嫡男義信公が、
 家臣・飯富兵部少輔(虎昌)と不穏な密談をしたとの訴えが、
 永禄七年(1564)七月、信玄公が御閑所に入っていた時に、
 側に詰めていた虎昌の弟でもある飯富三郎兵衛(昌景)らからされたと記されています。

 いわく、義信公は永禄七年七月十五日の夜、灯籠見物と称して外出、
 虎昌を訪ねた後丑三ツ時にひっそりと帰ったのを目付役が目撃、
 翌十六日朝に御山(御閑所の別名。この後解説します)にいた信玄公に報告します。

 その時、側に控えていたのが昌景で、
 自ら所持していた密書、義信公が虎昌に宛てた書状を信玄公に差し出し、
 義信公が信玄公に不満を抱いていること、そして兄・虎昌が関与して陰謀が進められていることを報告したそうです。

 義信事件や信玄公と義信公との関係は、従前・近年の研究によって様々な考えが発表されていて、
 甲陽軍鑑に記された日付も永禄八年の誤りでは?と指摘もされているので深くは踏み込みませんが、
 その後虎昌らが処断され、永禄十年(1567)に義信公が死没することで一連の事件は幕を閉じます。
 これら事件の端緒がこの信玄公への報告による、とするならば、
 歴史がトイレで動いた例として、もっと知られてもよいのではないでしょうか。


■これって日本最古?PARTⅡ~「山」と呼ばれた信玄公のトイレ
 面白いのが、先述のとおり、信玄公がこの御閑所を「山」「御山」と称していて、
 その事実が甲斐の人々に広く知られていた、と伝えられることです。
 どうしてトイレを「山」と呼んだのか、
 「甲陽軍鑑」「武田三代軍記」とも信玄公自身がその理由を明かすことはありませんが、
 その側に仕えた奥衆(近習)たちが人に聞かれてさまざまに答えたのが、
 回答者の名とともに、次のように書き記されています。

 曽根与市助「のぼればくだる」
  ※登れば下るを腹が下ると掛けている
 日向藤九郎「にほふてくだるはしんくさう」
  ※「荷負うて」と「臭(にお)うて」と掛けて「下るは辛苦(しんく)そう」につないでいる
   (辛苦そう、まさにI think so・・・いえ何でもありません)
 長坂源五郎「山にはくさきが絶ぬ」
  ※「草木」と「臭(くさ)き」を掛けている
 小山田彦三郎「にをふ物たへず」
  ※「荷負う者」と「臭う物」を掛けている
 小宮山内膳「山乃にをひは焼物をねがふぞ」
  ※山の荷負い(をする者)は焼物(やきもの・炙り肉)を願うぞを
   臭い(がするとき)は薫物(たきもの・数種類の香料を練り合わせた香)を願うぞと掛けている
   原文では「焼物」に「たきもの」とふりがなを振って、両者をこじつけているのがポイントです

 おわかりいただけたでしょうか。
 これはもう、まるで、大喜利です。
 もしかすると、記録として収録された日本最古の大喜利かもしれません。

 ここに出てくる奥衆こと近習たちは、甲斐の国衆小宮山氏の一族である小宮山内膳(友晴)、
 勝頼公の寵臣として知られる長坂釣閑の嫡子である長坂源五郎(昌国)をはじめ
 武田家家臣の子弟として信玄公の身近に仕え、その薫陶を大いに受けた、
 言うなれば、武田家の次世代を担う若きエリートたちです。

 その彼らが若手芸人や笑点メンバーの如く、回答をひねり出しています。
 特に小宮山内膳は天正十年(1582)、天目山・田野の戦いで勝頼公と運命をともにした人物ですが、
 もしかしたら「焼物」「たきもの」をこじつけるため、「たゃきもの」ぐらいは言ったかもしれません。

 「甲陽軍鑑」では、筆者である高坂弾正昌信が彼らの回答を「ざれごと(戯れ言)」と断じ、
 「済家洞家の禅宗へ立入少し禅宗口にづこびて申なり」
 (臨済宗・曹洞宗の禅宗に出入りして、少々禅宗ぶったこましゃくれた口を叩いてます)

 と、嘆くとも苦笑するともつかぬ様子で書き残しています。

 とはいえ、それぞれの回答を丁寧に記録して、ルビまで使って解説しているところをみると、
 そんなに悪くは思ってなかったのかもしれませんね。


■トイレはどこですか?~絵図面に見るトイレの場所
 では、信玄公のトイレはどこにあったのでしょうか。

 残念ながら信玄公時代の建物は、天正九年(1581)、勝頼公が新府城に移る際に破壊されたと伝えられ、
 また、大正八年(1919)の武田神社創建にあたって敷地に造成工事を行ったこともあり
 平成に行われた発掘調査でも、泉水跡などごく一部の遺構が見つかるに留まり、
 当時の状況はほとんどわかっていません。

 しかしながら、小幡景憲(「甲陽軍鑑」の編纂をしたと伝えられる刃部)が、
 信玄公晩年の頃の屋形を書き記したと言われる「武田信玄公屋形図」(通称:伝来之絵図)が現代まで伝えられ、
 これを基にした想像図が境内の案内板にも記されています(写真参照)。

 この絵図によると、「雪隠(トイレ)」は南西の①と北東の②の2か所に記されています。
 ただ、この2つは屋敷の右端にある風呂屋(A。銭湯ではなく風呂のある家屋、という意味です)から離れていて、
 樋を通して風呂水を流すには無理があるように思え、信玄公ではなく家臣たちのためのトイレではないかと思われます。

 「武田三代軍記」の記述にあるように風呂に隣接していたとすれば、
 絵図に描かれてない風呂屋の周辺、たぶん南寄り(当時の武田氏館には南北に高低差があったため)の
 ③の区画(画像の図面ではわかりづらいですが、元の絵図では四角に区切られています)に設けられていたと考えることができます。

 ただ、風呂屋の南西側には武田家の家宝である「御旗」「楯無」を納めたと伝えられる「御旗屋(B)」があり、
 この近くにトイレ関連の施設(《不浄》溜めとか)を置いたのかどうか、一抹の疑問が残ります。

 さらには、絵図が書かれた信玄公の晩年には、
 信玄公が多くの時間をを過ごしたという毘沙門堂(C)の近くに移転させたと考えることもでき、
 毘沙門堂の周囲、さらにはもしかしたら、
 ④の築山(絵図では文字で「山」と書かれています)が実はそうじゃないの?との大喜利的な考えもできるのではないでしょうか。


■むすびにかえて
 つまり、案内や参拝のお客さんに「結局、信玄公のトイレはどこですか?」と聞かれても断定はできないので、
 案内板の前で腕組みをして悩み、「どこだと思います?」とお客さんも巻き込んで一緒に悩むと思います。
 結論を出すにはもっといろんな史料や調査研究を待ったり探したりしないといけないかもしれません。

 とはいえ、今ある資料をもとに思いを巡らすのも、歴史を遊ぶ楽しみの一つです。
 当隊はこれからも、歴史を楽しむお手伝いをしていく所存です。

 以上でオンラインガイドは終了です。
 長文におつきあいくださりありがとうございました。

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しんちゃん

九鬼水軍の本拠地であった海城 (2024/09/28 訪問)

鳥羽城は文禄3年(1594)九鬼嘉隆によって築かれたとされています。江戸時代初期に九鬼家の家督騒動が勃発した際に鳥羽に九鬼家の強力な水軍を置くことを怖れた幕府によって、九鬼久隆は3万6千石で摂津国三田へ移封となり、九鬼隆季は2万石で丹波国綾部に移封となりました。その後、内藤伊賀守忠重が3万5000石で鳥羽城に入り、二の丸・三の丸を増築し、近世城郭として改修を行ったとされます。
私にとっては二度目の訪問で、散策は本丸の周辺にとどめています。旧鳥羽小学校の運動場跡が本丸で、鳥羽の海を見渡せ、眼下には旧鳥羽小学校が控えています。そのまま学校跡の敷地を通って城の外に出ました。学校跡には門の脇から入ることが出来、そのまま本丸にたどり着くようです。

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しんちゃん

九鬼嘉隆の志摩平定に抵抗す (2024/09/29 訪問)

越賀城は岬に突き出た丘陵上にありますが、浸食を受け周囲が、だいぶ削られているようです。城主は越賀隼人とされていますが、三代にわたって隼人を名乗っており、戦国時代は二代目の隼人隆政が城主であったようです。
九鬼嘉隆が志摩の平定を目指して侵攻してきた際には的矢治郎左衛門・三浦新助・甲賀雅楽・和具豊前ら地元の豪族らとともに越賀城に集結して抵抗しますが、三年の籠城の末に降参し、嘉隆の家臣となったそうです。
当時300の将兵が籠城したことから、当時はそれだけの城域があったようです。北側の狭い道に入ると城址への道が続いています。城内は酷い藪で北側に土塁が確認できる程度で、とても散策できる状況ではありませんでした。
東に1kmほど行ったところに和具城があり岬に突き出た越賀城と同様の造りになっていますが、暗くて写真がイマイチだったのと、藪蚊の大軍に襲われてゆっくり散策できなかったので割愛いたします。

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しんちゃん

松尾芭蕉ゆかり 伊賀市 (2024/10/05 訪問)

三重県伊賀市の愛染院は松尾芭蕉の実家、松尾家の菩提寺で、芭蕉翁の遺髪を納めたとされる故郷塚が建っています。その近くには芭蕉翁生家があり見学が可能です。建物は江戸時代に再建されたもののようですが、芭蕉翁は正保元年(1644)ここで生まれたとされ、父は与左衛門、母は藤堂宮内の移封に伴い伊予国宇和島から名張に随従してきた人物の娘と考えられています。
芭蕉翁はここでは金作、または忠右衛門宗房と呼ばれていたようです。
藤堂藩伊賀附の侍大将・藤堂新七郎家の嫡子・主計良忠の文芸サロンに一座するようになった若き日の芭蕉翁は、めきめきと頭角を現していったそうです。
生家の奥手にある釣月軒は若き日の芭蕉翁の書斎で、ここで初の撰集「貝おほひ」を版行し、上野天満宮に奉納したそうです。芭蕉翁は29歳までここで過ごしたとされ、江戸に赴いた後も故郷で過ごした日々のことは忘れがたいものであったようです。

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トク

120【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (箕輪城 (4/4) -龍門寺) (2023/12/09 訪問)

(26人目)井伊直政の続き㉒です。
本丸から御前曲輪や稲荷曲輪を通って搦手口へ下り、そこから「龍門寺」を訪れました。。

北条氏邦の時代は、この搦手口が大手口だったようです。車で来られた方はここに大きな駐車場があるので、ここから登城する事になります(写真⑤-⑧)。直政時代の大手口にも数台止められる小さな駐車場がありました。

搦手口からさらに北へ10分程歩いた所に、直政が建立したとされる「龍門寺」がありました(写真①-④)。直政はここに名僧「白庵和尚」を招き、ある時は指南を受け、またある時は相談相手として、この白庵和尚を頼りとし尊敬していたようです。そして高崎に移る時、当時和田と呼ばれた地を「高崎」と改名するよう進言したのもこの白庵和尚だとされています。

寺の入口に立つと唐破風造りが美しい現存する山門がありました。その山門の扉に彫り込まれた井伊家の家紋「丸橘」に、私は何とも言えない趣深さと、430年経った今も残る歴史の重さを感じました(写真②③)。

次は、高崎城を訪れます。
 

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)1日目:井田城 (2024/09/22 訪問)

井田バス停から5分ちょっと歩き、城山稲荷鳥居付近(34.976819、137.164961)に到着しました。
井田城は現在、城山公園となり公園内に城山稲荷と城山集会所があります。城跡が高台になっていて、「井田城址」碑が立っています。

築城年や廃城年は不明のようですが、松平氏・徳川氏の始祖とされている松平親氏の孫で酒井広親の子・氏忠から左衛門尉忠勝・康忠(康親)・忠親・忠善・忠次までの酒井氏5代の居城となりました。
徳川四天王の一人、酒井忠次は1527年(大永7年)井田城内で出生しているそうです。
1535年(天文4年)の森山崩れ(岡崎城主松平清康の暗殺事件)の後、尾張の織田信秀が井田野へ攻め込んだ時、酒井忠次は井田城から尾張勢を迎え討つため出陣したそうです。

遺構はなく雨と風の為、城址碑と城山稲荷の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいです。次の攻城先=山中城を目指す為、名鉄バスで井田バス停から名鉄東岡崎駅(北側)バス停に向かい、そこで名鉄名古屋本線に乗り換えて名電山中駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)1日目:奥殿陣屋 (2024/09/22 訪問)

名鉄の奥殿陣屋バス停からすぐの奥殿陣屋(35.029386、137.194937)に到着しました。

奥殿陣屋は松平乗元を祖とする大給松平家によって築かれた陣屋です。
松平乗次の代に16,000石の大名になると、松平乗真の代に大給から奥殿に移りました。
1863年(文久3年)に最後の藩主となった松平縫殿助乗真が飛び地であった佐久郡田野口に龍岡城を築城して藩庁を移転しています。
現在跡地には龍渓院の庫裏として転用されていた書院が移築復元され、歴代藩主の廟所があります。

石垣や土塁は、受付から5分ほどの松平廟の周辺にあります。
食事処、喫茶処、庭園もありちょっとした観光地になっていますが、急な強雨とバスの時間が迫っていたので、パスしました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井田城へは名鉄バスで、奥殿陣屋バス停から井田バス停へ向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)1日目:箱柳城 (2024/09/22 訪問)

豊橋駅で荷物をコインロッカーに預け、名鉄全線2DAYフリーきっぷ購入し、今日と明日はこのきっぷで交通費を少しでも浮かせます。
豊橋名物の3色稲荷寿司を購入しましたが、自分には味が少し濃いめでした。
豊橋駅から名鉄名古屋本線で東岡崎駅に向かい、そこで名鉄バスに乗り換えて猫沢池前バス停に着きました。
猫沢池前バス停から20分弱歩き、石碑前(34.969211、137.204887)に到着し写真を撮った後、登城口付近(34.968230、137.205940)に向かいました。

桓武平氏の流れを汲む中根平右衛門盛清が正長年間(1428~1429)に築いた城です。
8代・中根肥後守忠良の次男、平左衛門正照は徳川家康の家臣として二俣城の城主をつとめましたが、「三方ヶ原の戦い」で討死しました。

石碑の前の橋を渡ると城跡200mの看板があり、200m先には石垣が有りましたが、その先は藪になっていて、進めませんでした。
石垣も遺構かどうかは不明のようです。
攻城時間は20分くらいです。次の攻城先=奥殿陣屋を目指す為、猫沢池前バス停から名鉄バスで名鉄東岡崎駅(北側)バス停に向かい、そこで名鉄バスを乗換え奥殿陣屋バス停に向かいました。

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赤い城

宇佐八幡宮、近くには作山城 (2024/09/29 訪問)

宇佐八幡宮が建つ小山が城跡です。
鳥居前の月極駐車場の中に参拝者用の駐車スペースがあるのでここを利用できます。
鳥居脇には藤尾城の碑と説明板も設置されていました。

近々お祭りがあるようで鳥居前ではお囃子の練習をされていました。

石段を登っていきます。
途中に削平地がありますが左手に進むと香西神社、この辺りが二郭と思われます。
主郭には宇佐八幡宮の社殿が建ち、ここもお祭りの準備中でした。

城主の香西氏は長宗我部氏に敗れ配下となりましたが、その後秀吉の四国攻めにより廃城となりました。

近くには同じく香西氏の作山城もあります。
倉庫の前に碑が立つくらいで遺構はなさそうですがなんとなくの高低差が城を感じさせてくれました。

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しんちゃん

詳細は不明だが伊賀の築城形式に近い城 (2024/10/06 訪問)

石打城は稲垣氏の城とされており、城郭大系には添上郡の「稲垣氏城」と記載があります。江戸時代初期に城主の家系と見られる稲垣家が火災にあい、古文書を焼失したため城郭の経緯の詳細は不明です。鎌倉時代には当地は大安寺の荘園で、荘園の名主が幕府から地頭に任じられていたとされ、やがて幕府や寺院の力が弱まってくると武力で周辺を支配するようになったと考えられています。
先人方の投稿にあるようにソーラーを目印に付近に駐車し、細い舗装された道を城址に向かって進みます。それほど距離が有るわけでもないので歩いたほうが無難でしょう。ほどなくして案内板と城址碑が目に入ってきます。
伊賀の築城形式の影響を受けていると案内板や大系には記載があります。城址に入ってすぐに三の郭となり、枡形か馬出のような小さな郭が大手に続いています。坂を登って行くと右手に二の郭が控えており、中央が盛り上がっています。形状は余湖くんのお城のホームページさんの縄張り図を参照にされると良いと思います。
二の丸とは逆手に本郭の虎口があり、本郭の周囲は高い土塁で囲まれています。北側と西側は堀切で遮断され、これが「一の堀」とされています。土橋がかかっていて、その先には西の郭があり、さらに西に土橋のかかった浅い堀があります(二の堀)。
最近だいぶ涼しくなってきて朝は少し冷えるくらいですが、それでも日中はけっこう暑さを感じ、城址の中はどこも蜘蛛の巣だらけです。なんとなく奈良の城跡を巡るようになってから体に小キズが増えてきたような気がします。

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水野勝成 (2024/10/10 訪問)

 久しぶりの福山城です。天守閣の北側が鉄張りの外観になってからは初めてです。伏見櫓と筋鉄御門など現存する建築物がありますが、外観復元された天守もいい雰囲気を醸し出しています。
時間の制約があり、ゆっくりと散策できたわけではありませんが、それなりには楽しめました。

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村上隆重 (2024/10/10 訪問)

 能島村上水軍の一族、村上隆重が築城したと伝わります。古城山公園として整備され遺構はよくわかりません。景色はいいです。

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細川野洲家の拠点 (2024/10/10 訪問)

 標高167.7mにある全長約400mの連郭式山城です。駐車場の登城路から登って行くと堀切があり南の曲輪と北の曲輪に分かれています。曲輪は概ね整備さえ歩きやすくなっています。
 縄張り図から石積みと北曲輪先にある堀切を、まず確認しようと思っていました。南曲輪の先には石積みと表示された場所がありますが。崖の上から見てみるとそれらしき所はありましたが、石積みか否か判断できません。下りて確認しようと思いましたが、急峻で落ち葉の堆積もあり断念しました。他の場所から下りて行けないかと少し探しましたが、石積みに近づく道は見つけらません。北曲輪の先には堀切の表示がありましたが、浅くなっているのか、探し方が悪いのか、よくわかりません。
 上記のことは残念でしたが、それなりには楽しく散策しました。

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