みんなの投稿

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みん

幸せ (2024/04/25 訪問)

GWに帰省の際、ランニングがてら久しぶりに再会しました。
今は、神奈川に住んでおり約30年前に地元を離れ帰省の度は訪れてましたが。今回、自分1人で帰省し何十年ぶりかにゆっくりじっくり鑑賞しゆっくり楽しめました。
時間があったので初めて見る場所を発見したりと楽しめました。幼少の頃から城山のある生活が当たり前だったので、改めて城のある生活に憧れます。

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シャンシャン

悲運な城 (2024/06/07 訪問)

幕府の命により、築城後わずか3年で廃城になったという悲運な城。
所々修復された石垣はあれど、敷地内はきれいに整備された公園になっており、100名城や続100名城に全く劣らない総石垣の立派な城跡。
本丸から海岸沿いの工業地帯が良く見えて、江戸時代の城跡と現代文明のコントラストが面白い。
石垣に様々な種類の刻印があり、それを探しながら回るのもまた一興。

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しんちゃん

四万十の街並みと川の流れ (2013/12/13 訪問)

ちょっと古い写真で申し訳ない。中村城は一条氏の城で、為松氏によって築かれたとされています。西の四万十川、東の後川に挟まれた丘陵地に築かれ、石垣が残っています。現在は為松公園になっており、二の丸跡に犬山城を模したとされる模擬天守が建っています。なぜ犬山城?と思いますが、隣の芝生は青いというやつでしょうか。
模擬天守は微妙ですが、展望台からの眺めは良好で四万十の街並みや川などの景観を楽しむことができます。行って損はないと思います。

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しんちゃん

模擬天守からの眺望は良い。 (2013/12/12 訪問)

川之江城は鷲尾山の山頂に築かれています。南朝歴・延元2年(1337)に南朝方・河野氏の砦として土肥義昌によって築かれたとされています。交通の要衝である、四国の瀬戸内海側の中央に位置しており、戦国時代も河野氏側と長宗我部氏側との間で、激しい争奪戦が繰り広げられています。江戸時代の寛永13年(1636)に一柳直家が川之江藩を立藩しようとしたのですが、寛永19年に死去し、伊予国内の所領は没収されたため再建はかなわず川之江は天領になってしまいました。
現在は城山公園として近くまで車で行くことができ、怪しい模擬天守からの眺望は抜群です。ちょっと写真が古くて申し訳‥。
巨大な橋が完成して、四国もだいぶ行きやすくなりました。できれば車で訪問したいですね。

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しんちゃん

さすがでございますな (2024/06/08 訪問)

すこしの間、ヤキトリでいじりたかったのに、そうなる前に機転を利かせるとはさすがでございます。
まさに軍師官兵衛の如くでございますね。これも私なりの愛ですわ。(土壇場で参加したくせに‥)
捲土重来、大いに期待いたします。まだまだいけまっせー。
さて寝ようかな。

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応援メッセージご紹介記事を公開しました

ヤキトリから不死鳥のごとく蘇った城びと編集部です。
「日本100名城かるた」商品化プロジェクト実施中、多くの方が寄せてくだったメッセージに大変励まされました。
感謝の気持ちを込めて、応援メッセージご紹介(そして捲土重来を誓う)記事を公開しました。

「「日本100名城かるた」商品化を応援いただいたメッセージをご紹介!」
https://shirobito.jp/article/2008

やるぞー!

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しんちゃん

十河城  今日はヤキトリですぜ (2018/01/03 訪問)

十河城は南北朝の頃よりの十河氏の城で称念寺一帯が本丸跡とされています。戦国期に長宗我部元親によって落城しますが、豊臣秀吉の四国侵攻により十河存之が2万石で返り咲きます。しかし翌年・天正14年(1586)の九州征伐の戸次川の戦いにて存之が戦死すると、十河城も廃城になったようです。
城址は東に白河が流れ、西側は谷をせき止めて鷺池とし堀として活用していたようです。北側は堀切に土橋がかかった先に曲輪を配し、南側に大手を設け土塁を五重に築き、三方は深い田になっていたようです。

十河城とは関係ありませんが、スパードミーに出張で来ているやきとり龍鳳で特売のヤキトリを買ってきました。10本で1300円、税込みです。豊橋人は安くてボリュームのある物が大好きなんですね。逆に高くておしゃれなものはウケが良くないです。典型的な田舎気質ですね。コンビニでは揚げてある串をヤキトリと称して売っていますが、3本で胸焼けがしてきます。やはり串は焼いてナンボですぜ。

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零汰

惑わされる (2024/05/11 訪問)

時に険しい登りや直登のある山城に行くと遺構を見るという目的を忘れ、登ることに熱中して遺構を見逃してしまいます。

湿原が多く存在し木道で渡れる場所が多くあるので一か所ぐらい歩きたいなと考えていて、こちらを歩く事になりました。標津湿原を木道で渡って辿り着くチャシだったらです。こちらのチャシは、ポー川史跡自然公園の一角にあり、開拓の村に駐車し木道を渡って行く竪穴住居跡に混在するチャシになります。

いささか長すぎて飽きてしまった木道の先のポー川を渡ると説明版と石碑に突き当たります。歩き進めていくと雰囲気抜群、苔むした道、時おり眺めるポー川の景色が心地良い。話は変わりますが橋から見える北海道の川は護岸工事の跡が少なくどこもかしこも美しい。運転していても橋を渡る際によそ見する事が数多くありました。

竪穴住居で穴だけの遺跡を見たのはここが初めてです。経年により角が取れているのは仕方ないとして、遺跡と分からず見た人なら、なんだこの穴は、となるでしょうね。特に村長?と書かれていた竪穴は別格に大きいサイズです(写真5)。径が大きいので当時は上屋を作るのは大変だったでしょう。チャシの一部は村長竪穴に掛かった場所に楕円形のような方形の崩れた形であります。軽く興奮気味で数多く竪穴を見ながら進んでいくと砂利道に出ました。その先の橋の脇にはカヌー乗り場が、こちらポー川をカヌーで渡れるようです。
とても良い雰囲気の中を散策出来て満足しながら開拓の村方向に歩いていく時に気が付きました。「あれ、チャシの写真撮ったっけ?」

すみません、雰囲気に飲まれて3枚しか撮っていませんでした、しかも1枚は端にちょこっと映っているだけ(写真6~8)。ここは雰囲気に惑わされてしまって目的を見失う危険な場所ですが、チャシのみならず木道や竪穴その他を含め全体で楽しめる場所です。どなたか行かれたら不足している写真をぜひ投稿お願いします。

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ぴーかる

中世山城から近世平山城への変遷が見られる城郭 (2024/04/13 訪問)

【高田城】
<駐車場他>三の丸跡:城内観光駐車場 出丸跡:<35.086987, 133.693900>道路脇 二の丸~山頂主郭:二の丸グランド前にそれぞれ移動して駐車するのが良いでしょう。
<交通手段>車

<見所>二の丸櫓台跡石垣・三の丸陣屋跡・主郭虎口跡
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト5城目。高田城の築城は1501年頃に三浦貞連による説が有力です。三浦氏は室町時代の初期に国人領主となり支配してきました。三浦氏の高田城は戦国時代、尼子氏や毛利氏に城を奪われ、奪還したりを繰り返しますが、ついに毛利氏に城を明け渡します。備中高松城攻め後の秀吉と毛利氏の協定により美作国は宇喜多氏のものとなったので高田城も宇喜多氏のものとなります。ちなみに宇喜多直家の妻の円融院の前夫が高田城主の三浦貞勝である。江戸時代に入ると、小早川秀秋⇒津山藩主の森氏が城代城番を置きます。森氏が改易後は幕府領となり一旦廃城となります。1764年に三河西尾城から遠い支族同氏にあたる三浦明次が2万3千石で転封して勝山藩を立藩します。現在残る麓の三の丸の居館跡と二の丸の櫓台・郭壁の立派な石垣はこの時改修築造されたもののようで勝山城と改称しました。

 勝山城の三の丸麓居館跡にまず行きました。石垣跡や石組井戸が現存しています。居館跡から徒歩で中世の出丸跡まで行きました。1つの小さい城程の規模で主郭に大きく腰曲輪が巻いて所々に腰曲輪があります。堀切も大きく見事です。車を移動して二の丸のグランド前のスペースに駐車し二の丸櫓台の石垣を堪能し、また車を移動し<35.090791, 133.695954>ポイントに2台の駐車スペースがあるので、そこから堀切・三郭を通過し山城の方の主郭に到りました。反対方向の小屋の段という曲輪には二の丸跡から登城した方が近いので二の丸跡に駐車しそこから徒歩で小屋の段⇒主郭主要部⇒三郭跡から舗装道を降りて戻る方が楽に全ての遺構を巡れるかと思います。
 山城の方は三郭が藪化でほぼ進入不可、主要部は主郭に舌状の二郭の腰曲輪、帯曲輪が巻いています。西方向に下って段曲輪があり、中腹に小屋の段があります。主郭の虎口跡も含めて廃城した時か、勝山城築城の時かに破却されているようで、石垣がほぼ残されていません。
 この城にて今シーズンの山城納め。熊に遭遇することや事故になることもなく無事に沢山の山城を攻めきりました。涼しくなるまで平城・平山城にシフトしてお届けします。走行距離463㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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朝田 辰兵衛

延沢城散策2/2(天人清水/大堀切~本丸跡) (2024/04/20 訪問)

本丸跡に大杉があり,眺望も開け,登城の達成感があります。しかし,個人的には「天人清水/大堀切」をおすすめします。その奥の北郭までは整備の手が行き届いていない感じを受けました…。このへんでカモシカ遭遇を期待したんですが,残念な結果に…。その代わり,河島山遺跡で…。

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朝田 辰兵衛

延沢城散策1/2(登城口~櫓門跡) (2024/04/20 訪問)

todo94さんの投稿としりとり手札で,興味をそそられたお城のひとつが「延沢城」でした。他の方の投稿でもカモシカ遭遇が語られており,かなり高い出現率なのだと認識しておりましたが,私の前に姿を現してはくれませんでした…。
まず,目指すは「常盤小学校」。以前は「常盤中学校」だったようです。常盤小学校の西側と東側に登城口があります。東側にはパンフレット置き場があります。西側ルートと東側ルートは途中で合流します。東側ルートの途中に三の丸があるので,往路か復路のどちらかで東側ルートを選択されることをおすすめします。ちなみに私は往路で西側ルート,復路で東側ルートを選択しました。

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トク

102【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政と家康出会いの地?-中泉御殿) (2024/02/15 訪問)

(26人目)井伊直政の続き④です。
家康が浜松時代に鷹狩りの休憩地として建てた中泉御殿を訪れました。

JR磐田駅から南に徒歩3分の所にあり、御殿の跡地は現在は公園とコンビニになっています(写真①)。また駅から北へ徒歩10分の所にある西願寺にある門は、御殿の裏門が移築されたものだと伝わっています(写真②③)。

浜松時代に家康は鷹狩りを大変好んでいました。磐田駅の南側一帯は現在は住宅地ですが(写真④)、当時ここは池や沼が多く、そのため鳥や動物が多く生息していたようで、家康はこの地を好み、数十回もここで鷹狩りを楽しんだと言われています。そしてその休憩地として中泉御殿を建て、ここを狩りの拠点としていたようです。

1575年、14才になった虎松(直政)は、鷹狩りの最中に目通りがかない、家康と出会ったと伝えられています。しかしその場所がどこだったのか調べましたが、明確な場所はわかりませんでした。ならば私は、この周辺で出会った確率がいちばん高いのではないかと思い訪れました(これはあくまで私の推測なので間違っていたらすいません)。

家康は井伊直親が自分と通じていたため今川氏真から殺された事を憶えていました。井伊家は正室の瀬名の母方の家でもあり、その血筋の直親の子が生きていた事に驚き、虎松を見た瞬間、「直親の実子であれば召し抱えぬわけにはいくまい」と語ったそうです。そして虎松は300石で家康の小姓として召し抱えられ、念願の井伊家再興を果たすことができたのでした。

私は磐田駅からこの鷹狩り地の一帯を眺めながら考えてみました(写真④)。家康には初めて見た虎松がどのように映ったのでしょうか? きっと何か感じるものがあったのではないでしょうか? そしてこれを何より一番喜んだのは、念願の井伊家再興を夢見ていた、叔母であり養母でもあった直虎である事は言うまでもありません。

次は、直政の出世の始まり(浜松城)を訪れます。
 

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しんちゃん

ラブリー砂岩の世界。 (2024/03/10 訪問)

先日、西高木家陣屋の石垣の95%が養老山系の硬質砂岩と書きましたが、自分で数えたわけではありません。そこまで変態じゃないです。岩石の比率は某サイトを参考にさせていただきましたが、河戸石は見ればすぐにわかります。基本的に石垣の石というのは、天下普請でも無い限りは現地調達が鉄則ですので、地理的に見て河戸石が使用されているというのは想定できます。
私の好きな和泉砂岩は白亜紀の地層から採取される砂岩で和泉山脈から讃岐山脈、高縄半島に至るまでの広範囲に分布しています。特に和泉で採取される砂岩は綺麗な緑灰色で土木や墓石など幅広い用途に使われています。ちなみに和泉砂岩でつくられた古い墓石はみんな崩れてしまっているようです。諸行無常ですね。
淡路島の洲本城の石垣も和泉砂岩で場内に石切り場があります。叶堂城の石垣は移転に伴い撤去されてしまいましたが、付近で採取される和泉砂岩を使用しているとみて間違いないでしょう。他に有名なのは和歌山城と岸和田城に使用されている和泉砂岩です。

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しんちゃん

山科本願寺 (2024/02/10 訪問)

山科本願寺は蓮如によって文明15年(1483)に築かれました。周囲には堀と土塁が巡らされ、今では山科中央公園に土塁が一部残っていますが、かなり大きな土塁です。
天文元年(1532)法華一揆の衆徒と手を組んだ細川晴元と対立し、山科本願寺は焼け落ちてしまったそうです(天文の乱)。こののち本願寺は本拠を石山に移し、例の人物と派手にやるわけです。

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しんちゃん

織田信長の側室、吉乃の方ゆかり (2024/03/10 訪問)

今日は家の屋根の業者が来るので半日有給です。皆さん頑張って仕事してくださいね~。ご安全に。
布袋東保育園の一画に生駒氏の邸址の石碑があります。生駒氏の菩提寺・久昌寺は老朽化のため解体され、公園としてオープンする予定です。解体時、思ったより古い時代の部材が出てきたそうです。ひょっとして文化財としての価値も高かったのではないでしょうか?
自治体の事情もあると思うのですが、いささか残念。久昌寺や墓所、門の写真は2021年の物です。今は公園もオープンしてると思うので、墓所も参拝しやすくなっているのかな?
廣間家の門は生駒屋敷の中門を移築したもので江南市の文化財に指定されています。

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赤い城

フェンスの中に立つ石碑 (2024/05/17 訪問)

出張途中に少し時間があったので立ち寄りました。
阪急蛍池駅の西側に位置します。
工事も終わり、消防施設のところに石碑が立っています。
石碑はフェンスに囲まれていて中には入れません。
周囲に痕跡はないかと散策しましたがやはり市街地化しています。

イオさんのレポートによると移築された門が市内にいくつかあるとのこと。
時間が限られていたのでモノレールの柴原阪大前駅から近い長屋門のみ見学。
民家に立派な門が建っていました。
この辺りの名家なんでしょうね。

時間があれば他の移築門も見学したいです。
さっ、仕事仕事。

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しんちゃん

蜂須賀小六正勝 (2024/03/10 訪問)

シロー★城びと編集部さん 元気になりましたね。そうでなくてはです。また新しいムーブメントを期待しています。
ちなみに「続百名城かるた」まだ、あきらめていません(しつこいなー)。いつかは玉越です。
蜂須賀城は鎌倉時代からの土豪・蜂須賀氏の本城とされています。蜂須賀小六正勝もここで産まれたとされ、蜂須賀家菩提寺である蓮寺華には蜂須賀正勝公顕彰碑と城址碑が立っています。蜂須賀氏は斎藤氏に従っていたとされ、織田信秀の圧力によって宮後城に移り、そこで正勝の嫡子・蜂須賀家政が産まれたとされ、宮後城跡近くの道沿いに家政公生誕碑が立っています。
蓮寺華南西の園龍院には蜂須賀小六正勝公旧宅跡碑があります。道が狭いので、車から降り写真を撮ってそそくさ退散です。 

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シェル

福井の旅の締めは丸岡 (2024/02/25 訪問)

 福井の旅の最後は、現存12天守の丸岡城へ!!
 越前大野城からバスで福井駅に戻り、福井駅西口1番のりば 丸岡城行のバスに乗車。京福バス休日フリーきっぷ利用。乗車時間は約1時間。(バスの場合は丸岡城公園の駐車場の所まで行くので便利です。)
 100名城スタンプは券売所で押印。雨模様ということもあり、ほぼ貸し切り状態で見学。
 本丸部分には、石瓦の天守を筆頭に野面積みの石垣、人柱となったお静の慰霊碑、霞ヶ城の由来となった井戸などの見所があります。
 天守内は一階が展示スペース、二階は本多重次・本多成重のパネル展示、三階は展望スペースになっています。特に二階から三階の階段がかなり急です。またこの階段の所には、狭間が設けられています。これは階段に寄っかかりながら撃つしかないですね…
 悪天候でしたが、天守からは福井市街や北陸新幹線の高架なども見ることができました。
 二階で遠望中、しれっとハトさんが石瓦の所にいたので、ついつい撮影しちゃいました!!
 本丸から西側のお天守前公園へ降りると、階段の所に昭和十七年に建立された「国寶 霞ヶ城」の石碑があります。
 そこからバス停のある丸岡城駐車場の間の庭園の所は、丸岡観光情報センターの建設のため、工事中でした。

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本丸周囲散歩 (2024/06/06 訪問)

 福井城本丸周囲を散策し舎人門や百間堀の石垣などを時間に制限がありましたが、観て廻りました。

 越前おろし蕎麦を食べたくて福井駅構内にある「おそばだうどんだ越前」さんで越前セット(おろしそばと焼き鯖寿司のセット)をいただきました。

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結城秀康 (2024/06/06 訪問)

 久しぶりの福井城です。すばらしい本丸の石垣と堀が残っています。山里口御門、御廊下橋などが復元されて雰囲気を醸し出しています。
以前に来た時も思いましたが、本丸には現在福井県庁があり写真を撮ると写りこんでしまいますね。
 福井駅からも近く徒歩5分くらいで行くことができます。

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