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侍ホリタン

姫路城特別公開「トの櫓・との一門・とのニ門・との四門」及び「搦手周辺」 (2024/09/01 訪問)

普段は公開されていない「トの櫓内部、との一門、とのニ門、との四門」及び「搦手周辺」が本日より期間限定(2024年9月1日〜9月30日)で公開されています。今回公開されるエリアは姫路城東側、戦いの備えを意識した搦手周辺となります。2022年3月にも公開されましたが、「との四門」に関しては2015年3月以来9年ぶりの公開です。入城料(1000円)の他に別途拝観料(200円)が必要になります。
特別公開エリアの入口は備前丸東側の井郭櫓です。特別公開エリアに入ると元には戻れず、との四門から城外への退城となりますので大天守、西の丸を見学される方は事前に済ませておく必要が有ります。パンフレットにも注意書きが有りますが、数名の方が直接見学に来られてたので注意が必要です。

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しんちゃん

零式艦上戦闘機  浜松広報館・エアーパーク (2024/08/31 訪問)

静岡県浜松市にある航空自衛隊浜松基地「浜松広報館・エアーパーク」では現在零式艦上戦闘機の分解が行われています。分解の目的は展示場所を移動するためで、機体後部やプロペラなどは既に移設先に運ばれていて見ることは出来ませんが、主要な部分は残されており、主翼や機首などを間近で見ることが出来ます。
分解された後部から運転席などの機体内部を見ることが出来る、またとない機会でもあります。ここ数日台風が迫って来ていますが、せっかくなので訪れてきました。普段天井から吊り下げられている零式(ゼロ戦)を目の前にすると胸の奥が静かに熱くなって来ます。
そして美しいです、米国のコルセアやP51 マスタングも美しいですが、それとは異なる機能美や様式美を感じます。
「装甲が脆弱すぎる」という生まれながらの欠陥機ともいえる零式ですが、高い航続距離と運動性能で十二分に欠陥を補い大戦初期に大活躍をしています。
この機体の形式は「52型甲43―188」で翼を短くした後記型になります。1943年に製造され、翌年グアムに移送され、米軍にグアムを奪還された際に現地で廃棄処分になったと見られます。戦後、グアムで発見され昭和38年グアム会議で日本への返還が決定され、修復が行われ今に至っています。

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しんちゃん

〇水城 (2023/01/04 訪問)

零汰さん、地頭仮屋の投稿楽しみにしています。私も去年鹿児島を訪問した際に麓を6つほど回っていますが、そのへんが精いっぱいで、やはり地元の強みというやつでしょうか。
実は久々の「おしらすタイム」なのですが、以前〇水城の投稿で「〇水城は現在立ち入り禁止になっているのですが」などとしれっと書いていたりするのですが、実は誘惑に負けてこっそり入ってしまっていたりします。まあ‥なんというか「城キチ」の虫が騒ぎましてね‥「辛抱たまらん」というやつです。いやはや‥申し訳ない。
城びとを始めてからは、そういった行儀の悪いことは極力「自粛」しております。鹿〇島県民の皆さん、ごめんなさいです。

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朝田 辰兵衛

土砂降りの雨が上がったので…🌥 (2024/06/23 訪問)

土砂降りの雨が上がったのですが,中途半端な時間だったので,神社仏閣城をチョイスしました。「まだ閉門前だろ…」ということで。
加古川城へは称名寺を目指します。JR加古川駅から,徒歩約20分で到着。他の方より遅かったのは,ことごとく信号に引っかかったせいかな…と思います。

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POYO58

2年ぶり! 暑い中の青空 (2024/07/07 訪問)

この前は電車の事故で行けなかったので、今度こそはと、計画を立てて行きました。伊賀鉄道に乗ってゆっくり行きました。この日は友達3人と一緒に行きました。
伊賀上野城はもともと豊臣秀吉の家臣であった筒井定次が築城し、秀吉の死後、徳川方の藤堂高虎が改修して石垣の大規模なお城にしました。まあ要は大阪城を守る城から攻める城にしたって感じです。
まあとにかく高石垣がいつ見てもすごかったです。初心者でも行きやすいお城なのでぜひ行ってみてください。
上野駅から徒歩15分

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しんちゃん

福島正則陣跡  関ヶ原古戦場 (2024/03/30 訪問)

トクさん、丁寧にご返事いただき有難うございます。私はトクさんの愛情たっぷりに関ヶ原と武将達を繋げて物語のように綴っていくスタイルは素晴らしいと日ごろから思っております。私の投稿は、従来の説とは異なる白峰氏や他の方の説も多分に参考にさせていただいており、その分ドライに徹せざるを得ない部分が有ります。
関ヶ原にいろいろな可能性があると知ってから自らの足で確認をしてみたいと思い実践をし、これからも継続をしていきたいと考えております。当然間違いもありますし、おそらくこれからも多くの誤った考えを投稿する可能性があると思います。私自身が馬鹿にされたり、嫌われたりする分には構わないのですが、誰かを傷つけたりするのは出来る限り避けたいところであります。
また、以前投稿した内容を修正する投稿を後日行うことも有ると思います。人は当然過ちを侵すし、歴史は「生き物」だと思っておりますので間違いながら(最小に)進んでいこうと思っています。松尾山城の初期の投稿は酷いものですが、あえて削除せず残してあるのもそのためです。
私が関ヶ原に興味を持ったきっかけの一つに、小早川秀秋公のことが有ります。当時からこの若者は不当に低く評価され、侮られているのではないかと感じておりました。松尾山城を歩いているうちにその思いは強くなり、いろいろ調べるようになりました。命を懸けて戦場に赴いてくるこの時代の若者に侮れるものは一人もおらず、それは毛利秀元公にも通ずるものがあると思います。
小早川秀秋は松尾山を降り、もっと低い場所に陣を張ったとする説もあるので、私が以前投稿した松尾山城の出城に最初に陣を張った可能性もあります。臨機応変に戦闘を行うには松尾山城は標高が高すぎるので、その可能性はあると思います。そうなると小早川秀秋に対するイメージも大きく変わってくるのではないでしょうか。

前振りが長くなったので関ヶ原古戦場の福島正則陣跡の投稿に移ります。福島正則陣跡は不破関跡と藤堂高虎・京極高次陣の中間にあります。福島正則公に関しては松平忠吉・井伊直政との先陣争いにかかわる逸話が残っています。徳川家康にとって福島正則は盟友の加藤清正よりは扱いやすいイメージがあったと思いますが、関ヶ原の合戦の後に亀居城や鞆城の破却を命じられても我慢して従っています。また安芸備後に49万8000石を得たあとは、検地を公平に行い農民への過度な負担を無くすなどの善政を行っています。
ただ大坂夏の陣で豊臣家が滅び、翌年家康公が亡くなってからは自暴自棄的な行動が見え、所領を4万5千石に減らされたうえ、死後に福島氏は改易になっています。

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零汰

外城制:地頭仮屋

地元各所の城跡を見て廻っているとやたらと地頭仮屋の表示・仮屋門や石垣が目に付いていました。取り合えず写真に納めていて、30か所を超えた頃に地頭仮屋とは何だろうと調べてみました。その頃は全国に存在しているものとばかりと思っていて荘園関係の地頭なのだろうと思っていました。ですがこの地頭仮屋は薩摩藩特有の制度で荘園関係の地頭とは全く関係なく薩摩藩特有なのだとか。この制度を外城制といい当時薩摩藩に籍のあった宮崎県の一部にも存在していおり、同様の制度がお隣熊本県の人吉藩でも導入されていたそうです。詳細は以後順次・・。

この外城制の遺構について、地元発信のローカルネタとして遺構を不定期で投稿しようかと。何しろ100か所以上あるので終了しないような気もしているのですが。

1~3:串木野郷地頭仮屋:いちき串木野市
・・・登録城の串木野城の一角にあります、串木野麓として武家屋敷の遺構も残っています。遺構は石垣ですが表示板によると明治期築造なのだとか

4~6:加世田郷地頭仮屋:南さつま市加世田
・・・最寄りの城跡は加世田城、そこを中心に麓が形成されています。遺構は階段や門柱、築造時期は不明です。

7~9:山川郷地頭仮屋:指宿市山川
・・・最寄りの城跡は不明だが近くに消滅した土矢倉城があります。ここは漁業が盛んな為、海近くに設置したのかもしれない。遺構は石塀で江戸時代の築造によるそうです。

次回に続く。。。

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モリハン

戦国期の石垣かな? (2024/08/17 訪問)

主郭を三方に囲むように石垣が巡らされている。
どうやら今は個人宅のようです。戦国期のものかは不明です。

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トク

台風お見舞い申し上げます

福岡は35度以上の猛暑日が4日前に40日連続でやっと途切れ、今度は台風10号で久しぶりの大雨が降り、通過したと思ったらまた今日夏日が戻ってきました(もううんざりです)。対称的に東海関東は異常なくらい雨が降っているようなので、十分注意されてほしいと思います。

しんちゃんの、学術的な旧説・新説を踏まえたアプローチの投稿には実は感心しています。私は勝手に武将の気持ちになってアプローチしているだけなのでお気になさらぬよう。皆さんも自分の好きなスタイルでこれからも行きましょう! 私も井伊直政クライマックスに向けて、相変わらずマイペースのスタイルで行くと思いますので、よければよろしくお願いします。

私は学術的に詳しくないですが、しかし白峰先生の説にはちょっと興味があり、数年前のNHKの関ケ原特集の番組で、白峰先生が語っていたその内容に、とても衝撃を受けたのを憶えています。山中村を歩いた時はその事が頭から離れませんでした。

私は今は福岡市に住んでいますが、生まれたのは別府市で(温泉が産湯)、小中高と育った大分市の大友館そばに実家があるので、車で帰省する途中に国道10号線沿いにある別府大学の前を通るたびに、「白峰先生のいる大学だ~!」と思いながら前を通っています。付属明豊高校は今年も甲子園に出て野球強いです。ちなみにそこは、私が学生の頃に片思いの人が通っていた学校です(40年以上も前の淡い思い出です・・笑泣)。

最後はまたもいらぬ話でした。
すいませ~ん(喝喝喝!😱)

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ぎりょう

「須江山の惨劇」の舞台 糠塚城  (2024/08/25 訪問)

桃生城からの帰路、石巻市須江にあった糠塚城跡に立ち寄りました。旧北上川南の丘陵の北端部に位置し、規模は比高30m、東西50m、南北200mほどかと。主曲輪と思われる最北端の平場は浄水場の跡地となり、土塁などの遺構は見つけられませんでした。ただ北側、東側は切り立った自然の崖となっており要害の地と感じられます。仙臺領古城書上の桃生郡須江村の項に「山一 糠塚城 東西二十間、南北十六間、城主須藤勘解由左衛門」の記載があります。また桃生郡深谷須江村風土記御用書出では「糠塚御林 一糠塚館 高三拾丈餘 南北廿五間 東西廿間 館主須藤勘解由左衛門」とあり、藩政時代になって給人の笠原右門預かりの御林(藩が直接管理・保護した山林)になったと書かれています。
この城跡の南900mのところに殿入澤という場所が有ります。奥羽仕置後に起きた葛西大崎一揆の際、伊達政宗により一揆物頭衆が騙し討ちにあった「須江山の惨劇」の場所です。(紫桃正隆氏著「仙台藩領の戦国誌」に詳しい)主家滅亡後に領地と武士身分を剝奪された物頭衆は再仕官の望みをかけて須江山(糠塚城)に参集しますが、天正19年(1591)8月14日伊達軍に包囲されて戦い、殲滅された古戦場跡です。
宮城県石巻市須江糠塚3-16

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零汰

騎牟礼城:大分県竹田市 (2024/07/18 訪問)

源為朝は身長210cmで弓の達人という必殺技を持っていて、若干13歳の時に放逐された九州で強者共を集めながら数十回の戦を繰り返し、たちまち悪人共を駆逐し平定した後、強者28騎と共に京の都に上洛する。この時為朝17歳。

多少端折ってはみたが、概ね為朝は九州にいる頃はそんなだったらしい。だけどこのプロットは良く目にしませんか?多少の背景、時代、必殺技等詳細は違っているけれども、まさに少年漫画のプロット。年齢も13歳~17歳で主人公にも合致している。少年漫画(ジャンプやマガジン等)の戦闘物では仲間を集めて必殺技を繰り出し、邪悪な敵を倒しながら困難を乗り越え行った先に平和が訪れ仲間と共に去って行く。為朝は少年漫画の主人公に被ってしまうのは自分だけでしょうか。

その源為朝が作ったというこちらの城跡は標高380mの独立丘陵に東西400m程度、南北に50mの範囲にⅠ~Ⅲの曲輪で構成されています。一部公園化されていて頂上部の樹木が無い場所が有り、少々雑草が蔓延っていましたが、目視では遺構の確認は出来たので問題はなかったです。曲輪以外の遺構としては、櫓台、堀切、竪堀、土塁が有りますが意識して探さないと気が付きません。土質のせいか堀は埋まり土塁の形状が崩れています。一部石積もあるのですが遺構かどうかとは判断付きませんでした。西南戦争時に薩軍の陣地にもなっていて激戦もあったようなのでその時に多少の改変がなされていたのかもしれません。

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shiromi

綺麗です! (2022/11/21 訪問)

近くに商業施設やレストランあり、楽しめます。

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ぴーかる

古渡城 (2024/07/27 訪問)

【古渡城】
<駐車場他>東本願寺名古屋別院参拝者専用駐車場あり。
<交通手段>地下鉄名城線東別院から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第5弾1城目。先週の猛暑の中でのロング徒歩、予定の途中でリタイヤした反省から今回は名古屋の地下鉄・バス乗り放題のドニチエコきっぷ(620円)を購入しこれを活用しながら攻略しました。
 古渡城の築城は1534年に織田信秀が東南方向からの敵に備えるために築城しました。信長は13歳の時この城で元服をしたそうです。1548年に織田信秀は末森城を築いて移転したのでわずか14年で廃城となったようです。
 現地は東本願寺大谷派東別院の境内の南西隅に城跡碑があります。また東隣の下茶屋公園が堀跡を利用した公園だそうで、中心の池が窪地になっていて堀跡納得です。東別院の東門が建造年代が分からないが趣のある高麗門です。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

攻め寄せてはいるのだが、、、。 (2024/08/12 訪問)

ここで正解か分からなかった「金堀城」。
Googleの示すポイントは写真③④でした。
草木が元気で、戦意喪失させてくれます。
どこかに登城口はないかと車で一回りしましたが、『金堀』バス停を見つけて退却しました。
この日は35℃の猛暑日で、あきらめるのが早かったです。(←いつでもでした)

今年の夏は非常に暑かったですね。それから地震と台風も心配です。
イライラするくらいノロノロ進んで来る 今回の台風10号に、予定を変更された方、多いんではないでしょうか?
被害を受けられた皆さまに謹んでお見舞いを申し上げます。

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しんちゃん

「城びと捕まる」はシャレになりません (2024/05/03 訪問)

トクさんの関ヶ原の投稿、いつも楽しみに読ませていただいております。関ヶ原に関しては諸説があり、昨今学会で次々と新説が発表されております。私も関ヶ原を踏まえたうえで会津等に関わる次の投稿に繋げていきたいと考えており、従来とは異なったスタンスでの投稿になりますが、お気を悪くせずご了承いただければと思います。私なりに旧説を踏まえながら、新説も考慮して散策をする方式を取っており、近代関ヶ原研究の祖・神谷道一翁には特に敬意を表しております。

さて蒔田城の投稿になりますが、ここからいつものグダグダ投稿に戻ります。蒔田城は吉良氏の居城とされ、横浜英和学院が城址にあたります。と、言うわけで下校の時刻とも重なったため、とても写真を撮ったりできる状況ではありません。確実に通報されます。逃げるように裏手に走っていくと道がとたんに狭くなり戻って来るのに難儀しました。
そんなわけで写真が少ないため、今日の昼食で作った「水攻め」カレーをついでに載せます。郭のすみっこに乗っているソーセージは櫓をイメージしてます。さしずめ対岸にいる人影二つ(?)は豊臣秀吉と石田三成といったところでしょうか。

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赤い城

多度津陣屋 香川県仲多度郡多度津町 (2024/08/14 訪問)

丸亀藩の支藩である多度津藩の藩庁。
多度津駅から徒歩で8分、車は資料館北側のシルバー人材センターに停めます。

町立資料館は浅見邸の跡で門が残ります。
中を見学(無料)した後は周辺の散策です。
東側には厩跡や蔵があり、蔵の前には説明板も立っていました。
大手通周辺は宅地化されています。
資料館の斜向かいには蓮堀跡の碑がありました。
堀は明治初期に埋められたそうです。

近くの多度津城は香川氏の居館でしたが秀吉の四国平定後に滅び、江戸時代には丸亀藩領となりました。
京極氏4代の高賢が陣屋建設の許可を受けて築かれた陣屋です。


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トク

116【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (直政人生最大の失態(2/2)-焼津岡部宿) (2023/03/18 訪問)

(26人目)井伊直政の続き⑱です。
前回の続きで、直政のそもそもの(浮気)のなれそめと、その結末はいったいどうなったのか? についてお話します。

直孝が生まれたとされる中里の井戸からさらに北へ1km程行った所に、「岡部」という東海道の宿場町があります。1588年に直政はこの岡部の「柏屋(かじばや)」に宿泊しました。その時この中里の娘「阿古」が世話をしたそうです。阿古は正室「花」の父「松平康親」の家臣「印具徳右衛門」の娘とされ、花が輿入れの時からかまたはこれより侍女になったようです。

私もその柏屋に行ってきました。旧国道1号線沿いにあり、宿場町の様子がよく保存されている所でした。いったい二人はどの部屋に泊まったのだろうか? 間取り図を眺めながら、いらぬ詮索までしてしまいました(笑)。

直政はたいそうこの阿古を気に入り、そして花にはバレぬようしばらく秘密の関係は続いたようです。しかし結局は身ごもった事でバレてしまい、花から追い出された阿古は実家の中里へ帰り、直政の子(弁之助(後の直孝))を産みました。

翌年の1590年小田原攻めが終わると、家康は関東(江戸)へ移封、直政も箕輪城へ移ります。そして弁之助が6才になった時、阿古は弁之助を連れてに密かに箕輪を訪れ、直政に「どうかこのあなたの子を、あなたの元で立派に育てて下さい」と託します。直政は弁之助を花にはばれぬよう近くの庄屋に匿った後、安中の北野寺に預け修行をさせました。そして阿古はこの後自害してしまいます。

直政は高崎城を経て、1600年関ケ原後に佐和山城に移ります、しかし2年後の1602年に島津から受けた鉄砲傷が元で死去してしまいました。その死の直前、直政は弁之助に一目会いたいと佐和山へ呼び寄せ対面します(弁之助この時12才)。そして直政死後、正室花の子「直継」(同じく12才)が井伊家佐和山藩18万石を継ぎ、4年後の1606年直継と花(唐梅院)は築城中の彦根城に移ります(彦根藩と改名)。弁之助は「直孝」と名を改め、群馬の臼井に1万石の領地をもらい徳川秀忠に仕えます。この時秀忠からの評判は、なかなかよかったようです(この時16才)。

一方の直継は、病弱なため家臣もまとめられず、天下普請であったにもかかわらず彦根城の築城は進みません。豊臣秀頼との決戦「大坂の陣」を前に、筆頭の井伊家がこれではと業を煮やした家康は、秀忠から直孝には才能があると聞き、1613年に直孝に井伊の家督を継ぐよう命じます(この時23才)。そして1615年大坂の陣では、その直孝が豊臣秀頼と淀を自刃に追い込むなど、「井伊の赤牛」(赤鬼でなく赤牛)と恐れられる程の大活躍をします。1622年には滞っていた彦根城の築城も完成させ(この時30才)、秀忠・家光からも絶大なる信頼を得て、直孝は35万石に加増され「譜代大名の筆頭(大政参与=後の大老職)」にまで上り詰め、幕末の直弼までこの直孝の血筋が代々彦根藩主となり大老などの要職を務めました。

そう考えると、この浮気があったおかげで井伊家や徳川幕府は盤石となる事ができたので、つまりこの浮気は結果オーライだったのではないでしょうか? (なるほど~🤔)などと浮気を正当化する結論で終わると、私は世の女性たちから袋たたきに合いそうなので、この話はこの辺でお茶を濁して終わりたいと思います。

ちなみに浮気がバレた後も、箕輪で直政と花の間には「亀姫」(後に宇和島藩主「伊達秀宗」へ嫁ぐ)が生まれているので、うまく仲直りできたのではないでしょうか? また彦根藩主の座を追われた直継は「直勝」と名を改め群馬安中に3万石の領地をもらい。井伊の分家として母親の花(唐梅院)とともにひっそりと暮らしたそうです。そして最期は掛川で没しましたが、皮肉にも直孝より長生きしたとか・・・

以上、またどうでもいい話をダラダラとしてしまい、大変申し訳ありませんでした~。
(トクには喝!ですね😱~)(笑)。

次は、直政が徳川家臣団の筆頭となったその「箕輪城」に向かいます。
 

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しんちゃん

国史跡・石田三成陣跡 関ヶ原町 (2024/03/30 訪問)

関ヶ原古戦場の石田三成陣跡は笹尾山に案内板が設置されています。陣地には石碑や馬防柵が設置してあり、石碑のある小高い丘からは関ヶ原一帯を俯瞰でき、南宮山や松尾山も良く見えます。
明治25年(1892)に発行された神谷道一翁の「関原合戦図示」にも笹尾山に石田三成の陣所があるとされ、翌年に発行された陸軍参謀本部の「日本戦史関原役」の「関原合戦図」とも一致しているようです。「関原合戦図示」のデータは手元にあり内容を確認している所ですが、なかなかボリュームが有るので、必要な部分から読ませていただいてます。明治初期の難しい文章ですが、何とか読めないことも無いです。
「関原合戦図」は国立公文書館にデータが無いので、確認できていませんが、グーグルマップにも記載されている現在の陣跡の多くは「関原合戦図」を参考にしているようです。また「関原合戦図示」と「日本戦史関原役」の「関原合戦図」の内容は細部に多くの不一致な箇所が有ります。特に南宮山の配置に大きな違いが有るのは注目するべきでしょう。

「戸田左衛門覚書」には自害ヶ峰に石田三成が陣を張ったと記載がありますが、なかなか難解な文章で読むのに骨が折れます。江戸時代に新井白石が手を加えている可能性もあり、一次史料では無く二次史料(編纂物)と考えた方が良いのではないでしょうか。また記載されている陣所の多くに不可解な部分があり、史料として参考にしてよいのかなと思います。
以前、自害峰を訪問した時には、それらしい陣所は見当たりませんでしたが、また訪れてみたいと思います。

石田三成陣跡は関ヶ原古戦場の「附」として国の史跡に指定されていますが、近年は一次史料にその名が出てこないことから、三成の陣所とするには適切ではないとの指摘が出ています。

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にのまる

18きっぷで。 (2024/07/31 訪問)

東海道線富士駅で身延線に乗り換え富士宮駅で下車しました。

大宮城(大宮小学校)までは駅から徒歩10分くらいです。神田蔵屋敷神社に教育委員会設置の説明板がありました。小学校の位置がちょうど主郭と二郭と推定されるとのことなので400余年後のお城の姿をインプット。また推定模式図には周囲に土塁と西側にケバが描かれていたので現在でも雰囲気を感じることができるかもしれないと学校の周囲を一周してみました。坂道、高低差…。これも広義の遺構なのかもしれないと現地の空気を吸いながら思いました。

その後、富士山本宮浅間大社と静岡県富士山世界遺産センターへ。
富士山世界遺産センターは富士登山の擬似体験ができる見学路になっていておもしろかったです。霊峰の山容は空気の澄んだ冬までお預けですが、見えない富士山を真正面から見るとこんなふうに見える(見えない)んだ!ということがわかる貴重な経験ができました。

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しんちゃん

史跡関ヶ原古戦場 決戦地・島左近陣地 (2024/03/30 訪問)

近代関ヶ原研究の祖・神谷道一翁が明治25年(1892)に発表した「関原合戦図示」には笹尾山に石田三成の陣が有ったとされており、現在も同じ場所に「石田三成陣地」の石碑が建っています。石田三成陣地は関ヶ原古戦場の「附(つけたり)」として国の史跡に指定されています。
また石田三成陣の麓には島左近陣地の案内板があり、のぼりも立っています。
「関原合戦図示」はいわゆる江戸時代の編纂物(二次史料)を元に製作されたとされますが、道一翁が岐阜県知事の小崎利準から依頼を受けた時の年齢を66歳として、それから数年間 自らの足で現地調査を行い、限られた条件で道一翁なりに関ヶ原に向かい合った力作だとおもいます。石田三成陣地から南東に100mほどの地点に関ヶ原古戦場決戦地の大きな石碑が立っています。

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