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todo94

朝駆け (2023/11/23 訪問)

西宮名塩SAにて車中前泊し、舞鶴若狭道、北近畿豊岡道にてアプローチしました。この日はいくつもの山城攻略の予定があったので、「あ」さんのように藪漕ぎ敢行しての登頂は断念し、供養塔までとして撤退いたしました。今回の鳥取県の攻城は此処のみ。この後は但馬の城をめぐりました。

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橋吉

城山公園 (2023/11/22 訪問)

三ノ丸は護国神社および幼稚園となっています。
堀も一部の超されています。

二の丸・本丸周辺は城山公園になっています。
二の丸の周囲は土塁のようにも見えますが、公園としてかなり整備されているので遺構かどうかよくわかりません。

本丸に向かい道は山城のような感じもしますが、所詮公園の中ですから時間はかかりません。
ただし、ここでもクマが目撃されているので注意が必要です。
本丸上段と大手門の石垣が復元されています。

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しんしんちゃん

築城者の岡部正綱は飲み過ぎで‥ (2023/11/25 訪問)

菅沼城は中富中学校のあった台地上に築かれていて、今ではドローンの会社になっているようです。休日ということもあり、人気も無いので城址碑の写真だけ撮らせていただきました。本能寺の変の後、武田方から徳川方についた岡部次郎右衛門正綱に家康が命じて築かせたとされています。かつての領主・穴山信君が伊賀で落命したため、河内地方を抑えるために急いで城を築く必要があったようです。
その後、菅沼定政が入城し城名の由来になったようです。岡部正綱は徳川の甲斐平定に尽力し武田の旧臣たちを調略するために毎回酒宴を催し急性アルコール中毒で亡くなったという説があります。今だったらウコンとかヘパリーゼとかあるんですが当時はそんなもん無いですからね。

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宗春

丹波・但馬・播磨の名城を攻めてきました その④赤穂城【播磨】 (2023/11/24 訪問)

11/24(金)に休暇を取って4連休にし、友人と名古屋から車で攻城しました。

さて赤穂についてですが。
愛知県出身の自分としては、赤穂浪士はただの逆恨みのテロリストに過ぎません。
「忠臣蔵」はフィクション、というか「忠臣奨励」プロパガンダですよね。所謂【フェイクニュース】です。

浅野某はロクに朝廷の饗応も出来ず、高家(こうけ:朝廷と幕府の橋渡し役)である吉良のお殿様に叱責された事を逆恨みしての「松の廊下事件」であったと私は承知しています。

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しんしんちゃん

国指定天然記念物のお葉付きイチョウが目を引く。 (2023/11/25 訪問)

下山城は甲斐源氏の加賀美光重が建仁年間(1201~4)に下山に入部し下山小太郎光重と名乗ったのが始まりのようです。応永25年(1418)武田氏の一族、穴山氏が下山氏の館跡に居館を構えたとあります。手前の門をくぐった右手にひっそりと城址碑が立っていますが、とにかく国指定天然記念物のお葉付きイチョウが目を引きます。紅葉も盛りで綺麗なのですが、うかつに近づくと銀杏爆弾を踏んでしまいます。この銀杏‥いくつも踏むと靴を洗うまで匂いがとれません。以前難儀したこともあるので、そろりそろりとよけながら歩きます。墓地の裏手に堀が残っているらしいので見に行こうとすると、今度は鹿のフンがいっぱい落ちています。イノシシのもありますね。
自分、こう見えてけっこうウン〇(野生動物の)には詳しいのです。山城を登るときにはウ〇コの知識は重要だと思います。
墓地の裏手には確かに堀らしいものがありますね。土塁らしきものもあるようです。あとは爆弾をよけながら車に戻ります。

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くうくう

織豊系陣城、佐々氏森寺城に対する前田氏の付城か

義仲道横の丘陵に築かれている。古城を基にしたのだろうか。詳細不明。縄張は技巧的で織豊系陣城と思われる。かなり造りは細かい。この規模では実際どうなのだろうと考えてしまが、その明瞭な折れや横矢掛かりの土塁に惚れ惚れしてしまう。

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しんしんちゃん

土門を抜けると主郭にたどり着く。 (2023/11/25 訪問)

波木井城は富士川の西側の台地上に築かれています。大永元年(1521)今川方の武将・福島正成が甲斐の国に侵入した際に城主波木井義実は今川方に通じていたため武田信虎に当城にて殺されたとされています。城の北東、行き止まりに向かう道を進んでいくと城址碑と案内板があります。城を南から西に回り込んでいくと城内に続く道が分岐しています。入口は土塁に阻まれ開口部は狭いですが、これも遺構で土門と呼ばれています。貴重な遺構で傷つけるわけにはいきませんが、5ナンバーサイズの車であれば通行は可能です。その先が主郭で東に鉄塔の建っている一段高い場所があり、東下段に郭が配され民家が建っています。

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くうくう

七尾湾に面した平山城

天正9年(1581)織田信長より能登一国を与えられた前田利家が築く。そして兄安勝が城代になる。金沢へ移る間の重要拠点だった。今は公園となり、石碑や前田利家松子之像などが出迎えるばかりであるが、近年の丑寅の展望台や乾の展望台など城郭を意識した整備や、櫓台や土塁などもあり、往時の雰囲気が感じられる。

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ぴーかる

直峰城 (2023/11/04 訪問)

【直峰城】
<駐車場他>国道403号線の直峰城跡登城口の道路を北上し行き着いた場所に12台程度駐車できる駐車場があります。駐車場にはトイレがあり、パンフレットも置いてあります。
<交通手段>車

<見所>曲輪群・堀切
<感想>1泊2日上越の城攻め旅2日目4城目。現地説明板によると直峰城は南北朝時代、南朝方の新田義貞に味方した風間信昭の居城であったと伝わります。16世紀前半は越後守護代長尾為景の家臣・吉田英忠が城主であった。上杉謙信の時は城主は不明で、御館の乱後は功績のあった樋口兼豊(直江兼続の父)が城主となります。上杉家が米沢移封後は堀秀治の家臣・堀光親が城主となります。1610年堀家の改易後とともに廃城となりました。
 駐車場から山頂の主郭へは家臣の屋敷跡の曲輪が多く残る東側のルートと、谷あいと家臣の屋敷跡が数か所と主郭下の二の丸・蔵跡曲輪が見られる西側のルートの2本があります。駐車場も曲輪跡だったようで、駐車場の傍に曲輪跡があります。私は東側のルートから登り主郭から西側のルートを降りて戻りました。本丸・二の丸奥にある大堀切、山頂までに広がる曲輪群はかなり見応えがありました。正直なところ前日に行った鮫ヶ尾城より見応えがありいい城跡でした。曲輪配置、造りが何となく春日山城を彷彿とさせるものがあります。

<満足度>◆◆◆

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しんしんちゃん

松源寺 長野県下伊那郡高森町下市田 (2023/11/12 訪問)

松源寺は松岡城の城域内にあり五の郭あたりに建っています。かつて井伊谷の亀之丞(後の井伊直親)が今川氏に命を狙われた際に逃げ込んだ寺で、亀之丞は10年ここで暮らしたそうです。その縁でか本能寺の変の後、松岡氏が徳川家康と対立する小笠原貞慶に味方した際に井伊直政のとりなしで命を助けられたそうです。松源寺自体が堀と土塁で守られていて、出城の松岡南城と合わせて、松岡城の守りが堅固であったことをうかがわせます。

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しんしんちゃん

松岡南城 長野県芋伊那郡高森町下市田新井 (2023/11/12 訪問)

松岡南城は松岡城の出城と考えられていて、松岡上の西側に位置する丘陵上に築かれています。城域は小規模なもので畑地にも堀切と土橋があります。南に郭があり、その先の森の中に主郭があるようです。主郭の北側に堀切と土橋があり、主郭はヤブに覆われているので淵を進んでいくと、その先はさらに深い藪に覆われていて進むのは困難と見て引き返しました。

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しんしんちゃん

井伊直親をかくまった松源寺のある城。 (2023/11/12 訪問)

松岡城は松岡氏の城で河岸段丘を生かした台地上に築かれていて、西側に位置する松岡南城は出城であると言います。城域内には井伊谷の龍潭寺と縁の深い松源寺があり、この寺も土塁と堀に守られています。「女城主直虎」に登場した亀之丞(井伊直親)は今川に命を狙われた際に、この法縁で松源寺に逃げ込み10年を市田郷で過ごしたとされています。
城域は丘陵上に、堀で区切られた各郭によって構成されています。松源寺のある郭を五の郭として背後に五の堀があり、三の郭、二の郭、主郭の間にそれぞれ堀切が存在します。主郭西側から南側にかけ帯郭や腰郭が配されています。竪堀もあるようなのですが、それほど確認できていません。二の堀あたりで地元の子供たちの弓技大会が行われているようです。
矢の先端は竹をとがらせただけのようですが、危ないことには変わりないので距離を取っているとコントロールを外れた矢がこっちに飛んで来ました。子どもの放った矢とはいえなかなのスピードです。これが屈強な武士の放った矢なら回避は不可能でしょう。攻城感が出てきて結構なことです。こんなところで矢で射られて喜んでいる私は変態なのでしょうか?

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ダイエティシャン

赤城(あかじょう、せきじょう) (2023/11/25 訪問)

石見国、川本町の山城探検のイベントで攻城。本来は、飯の山城探検の予定でしたが、天候不順の為、近隣の赤城へ。スタッドレスタイヤに履き替えて、いざ出陣。

地元の著名な先生と、地主さんの案内で攻城。

悠々ふるさと会館に、愛馬を停め、そこから、乗り合わせ車で15~20分。携帯電話の基地②迄行きました。約1分後、本丸に到着。規模からみて陣城だそうです。倒木③ロープ④。本丸からは周辺の山城が見渡せます⑤。切岸⑥で高い防御制が伺えます。本丸の先端⑦
堀切⑧

山城という感じです。近年、整備は行き届き過ぎて山城っぽくない城が増えて来たので、久しぶりの本格的な山城でした。とはいえ、登城路のほとんどは塗装道路で車に乗せて頂きましたが。軽自動車でやっとの広さの町道、30~40℃位の傾斜の道路でした。

2024年全国山城サミット益田大会 益田七尾城から車で東に約2時間程。

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しんしんちゃん

広くて深い堀切、馬出しと巨大な三日月掘りと見どころが多い。 (2023/11/12 訪問)

大島城は片切氏の庶流、大嶋氏によって築かれました。後に武田信玄の配下、秋山信友によって改修されたとされています。現在は台城公園として整備されていて駐車場から二の丸を経て、本丸にたどり着くことができます。二の丸の西に三の丸、馬出しと続き、馬出しには巨大な三日月掘りが付随します。各郭の間は巨大な堀切で阻まれ本丸から北へ下って行った先、土塁で隠されるようにして井戸郭があり、貴重な水の手である井戸が残っています。鈴岡城すら凌駕するであろう立派な堀切と武田氏の城郭の特徴ともいえる馬出しと三日月掘りは非常に見ごたえがあります。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅳ道三晩年の城 (2023/10/21 訪問)


 長年認知は有るものの登城して居なかった鷺山城、相羽城を終えてドライブ途中に黒野城の横を通り本丸土塁を横目に鷺山城北側に在る鷺山公民館駐車場へ到着。

 駐車場:鷺山公民館、道を挟んだ南側にアスファルト舗装で完備余裕あり。
 参考資料:古城盛衰記さん、余湖図コレクションさん、グーグルマップ、城びと投稿者。

 鷺山公民館駐車場から道筋西に20m程の裾に鷺山城案内板、標柱が有り急で狭い階段がある、此処が北側の登城口、古城盛衰記さん、城びとの投稿者数名の情報による。 しかし階段が急で前夜の雨も有り濡れて不安なので登城を諦めて、せめて鷺山城主館址でも探訪見学へと東側から南へ廻り北野神社へ。
 北野神社参拝、斎藤道三公慰霊之碑と鷺山城跡案内板、発掘出土した礎石と解説盤、史跡鷺山城主館址碑、「さざれ石」を確認し斎藤道三を偲ぶ、最後は悲惨ですが信長を認めていた事が唯一の救いでしょうか?
 鷺山公園へ左右に三段丸石垣曲輪が城跡の様子、中の道を登り上段に着くと南側の登城口が有りました、こちらからの登城路が登りやすく思えました、がまたハチに注意の看板、少し登って様子を見て撤退、何時かチャンスが有ったら登りたい。公園からは稲葉山城・岐阜城天守閣が良く見えます、この距離での睨み合い合戦、しっかりした情報の確認、認識が大切ですね。
 

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きよまさ

名古屋城 (2023/11/28 訪問)

名古屋城に行って来ました👍️
あちこち紅葉がキレイで良かった‼️
東照宮の展示もしてました😄

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tomo

満を持して (2023/11/25 訪問)

小田原城や鎧塚さんの店は行ったことあったのですが、今回初めて石垣山城に行きました。興奮するがあまりに100名城のスタンプを逆さまに押してしまいました。かなりショックでしたが、それらを差し引いても立派な石垣や景色に圧倒されました。

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カズサン

西美濃未踏の城廻Ⅲ低高地の相羽城 (2023/10/21 訪問)

 藤橋城・杉原砦と徳山ダムの探訪見学を終えて揖斐川渓谷をドライブ見学しながら今回の3城目の相羽城に初登城。

 駐車場:相羽公民館南のジャリ駐車場(35°27'23"N 136°38'12"E)を利用
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ、城びとの投稿者各位。

 方形の低高地に八幡神社が鎮座しここが主郭の跡地か?東側の廃線跡プラットホーム間、堀だったかも?通り南から八幡神社鳥居と標柱を確認、南側隙間から低高地の土塁と堀跡かな?と確認し、更に南、西と民家を廻り込み北西の隙間から低高地の土塁法面、堀跡かな?を確認、神社に入り込めないので戻って南側、東側へ、神社が鎮座してる段には立派な城名石碑を確認。

 歴史面は皆さんが書き込んでいるように美濃なので土岐氏、斎藤氏絡みの歴史が残って居る。
 

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todo94

拝原水産の奥 (2023/10/29 訪問)

淡路島ドライブの締めは松帆台場。海沿いの悪路を進んでいくと松帆恵比寿神社がありました。そのすぐ脇には松帆之湊の石碑が立っていました。肝心の台場はホテル望楼青海波の敷地内といった場所でした。土塁の上からは明石海峡大橋を望むことが出来ました。

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しんしんちゃん

武田方との激戦の跡地に学び舎が建つ。 (2023/11/25 訪問)

大宮城は今川方の富士氏の城で現状は市立大宮保育園や大宮小学校になっているようです。遺構らしきものは残っていませんが、今川義元亡き後の武田勢の侵攻を2度にわたって食い止め、三度目の侵攻は信玄自ら大軍を率いてのもので、富士氏も敵に二千人の死傷者を出させるなど善戦はしましたが、北条氏政の援軍を望めず氏政の勧めもあって開城したとのことです。すぐ近くに江戸時代の陣屋の紋が移築されていて、富士宮市によって古民家再生事業として修理復元されており、甘味屋・長屋門の入り口として活用されているようです。

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