みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

とばつびしゃもん

上杉景虎最期の城 (2024/09/10 訪問)

斐田歴史の里の駐車場に車を駐車し総合案内所へ。案内所で続日本100名城スタンプポン。とても親切なスタッフの方に展示資料を解説していただきました。当時の炭化したおにぎりも展示されています。登城道にはスズメバチもクマも出るとの注意喚起を受け、鈴のついた杖を借りて登城開始。
東登城道を進む。それほどきつくない上りで、いくつかの堀切を越え25分ほどで東一の丸へ到達。そこから5分で二ノ丸、さらに数分で本丸へ。本丸からは上越の平野を一望、北方には春日山城もうかがえる。景虎の最期はここだったのか?
下りは北登城道を一期に下り、20分弱で総合案内所へもどる。
1日に3城攻城でヘトヘト、眠気を抑えて6時間の帰路につく。

+ 続きを読む

しんちゃん

ぴーかるさん、ありがとうございます。 東海四県コ‥(ポカッ) (2024/10/27 訪問)

ぴーかるさん、ありがとうございます。ぴーかるさんから「おめでとう」をいただけるとは感謝感激‥実はけっこう確信はありましたが。
素直にうれしいです。近畿制覇‥たしかに兵庫は手ごわいですね‥。あと和歌山県も手ごわいですよね。※1
和歌山は私の父の実家で家系のルーツでもあります。

実は奈良県コンプと合わせて、東海道にまつわるコンプを計画中です。もちろん長野や東北、九州も回りながらです。
東海道にもいろいろくくりがあるので、最大だと12都府県に渡ります。プラス岐阜県、奈良県です。
大阪にもおじゃましますが、宜しくお願いします(ペコリ)。
なんとなく大島だけ残りそうな‥それだと武蔵国クリアできないな‥沖縄とか優先しそうです(笑)。
2~3年かけてクリアするつもりです。

ぴーかるさんの矢筈城の記事をみたときは「ぶっとび」ました。私はヒザの悪さを筋肉でカバーしてるので足が疲れると弱気になります。フルマラソンの後に矢筈城を登れる、ぴーかるさんなら二府四県‥いけますよ(ニヤリ)。
尼子十旗制覇もすごかったですよ。私は長旅だと体力温存で山城の数が少なくなります。

※1 怒られると困るので削除しました。まだ見てないよね?


+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

新山城 (2024/10/05 訪問)

【新山城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.496717, 134.197762>の道路脇か、狭いが奥へ行って<35.495218, 134.197798>が広場になっている。
<交通手段>車

<感想>初秋の鳥取縦断平山城攻め旅2城目。新山城の情報は少ないので城びとの城郭情報から、築城は天文年間(1532〜1555年)に山名氏が築城したようです。
 レポートされている、あさんの登城情報が大変役立ちました、ありがとうございます。登城口は鳥取敬愛高校運動場の西側に回り込んだ上記駐車ポイントの奥の広場の手前に進入口(最後の写真)があります。右手に獣捕獲の檻罠を過ぎて左に曲がり進むと中国電力の看板と山に登る樹脂の階段があり、特に立入禁止の看板やバリケードも無く登っていけます。山頂まで尾根道が続いていますので難なくたどり着けます。
 城跡は道中の中間地点程に一旦山のピークがあり、それを過ぎて下り登った辺りからかなあという感じを受けました。山頂の鉄塔の手前に切通しの堀切があり、その南北が尾根上の削平地があります。その先が谷を下って登ると鉄塔のある山頂に着きます。全体的に遺構が表面観察ではよく分からない城跡でした。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

しんちゃんさん東海4県コンプリートおめでとうございます!

しんちゃんさん東海4県コンプリートおめでとうございます!特に美濃を制す者は天下を制すともいわれるので岐阜県コンプは凄いです!
近畿は2府4県あるのでコンプは生きてるうちに出来るかどうか、日々城びとフラッグを眺めております。
 ところで朝田辰兵衛さんのクイズ、だんだんと難解になっている気がするのですが‥‥(笑)俺の時はもう少しお手柔らかにお願いします。m(__)m

+ 続きを読む

しんちゃん

朝田 辰兵衛さん、ありがとうございます。 東海四県コンプしました(ポカッ) (2024/10/27 訪問)

朝田 辰兵衛さん、ありがとうございます。朝田 辰兵衛さんから「おめでとう」コールをいただけるとは、感謝感激であります。
えーとクイズの答えですけど、名古屋城 「南蛮たたき」の柵で合っておりますでしょうか?
あまり記憶力に自信がなく、どこかで見たような気がするなーというレベルなのですが。
朝田 辰兵衛さんもコンプに意欲がおありのようで、コンプ宣言楽しみにしております ♪
私は東海道に関わる、エリアのコンプに興味が有りまして数年がかりで達成したいと考えています。

にのまるさんも、いずれ元気に投稿を再開されると信じております。

皆様、東海四県コンプいたしました(ポカっ)
次は東海道とは外れますが、奈良県になると思います。大和国44万9千石もおいしいです。
しんどいと評判の山田城‥楽しみでしかたないです(変態?)

南蛮たたき鉄砲狭間は「二之丸御殿北御庭」北端の石垣の上ですね。おそろしくマニアックですね‥
合っておりますでしょうか?

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

しんちゃんさん,東海4県コンプ,おめでとうございます🥇

しんちゃんさん,東海4県コンプ,おめでとうございます❢
先日の投稿で「鳥栖ジャンクション」に反応されたのには驚きましたが…<笑>。
辛うじて,トクさんの反応はあるかな…と,うっすら思っていたぐらいです。

さて,城びと恒例(?)の「コンプおめでとうクイズ」をいきます。
たぶん,しんちゃんさんはノーヒントで即答できると思います。
私のアトは,にのまるさんにバトンタッチしたいのですが,お休み中のようなので…
赤い城さん,行けますでしょうか…❓

+ 続きを読む

チェブ

城びと未登録のお城攻め「宮寺氏館」。 (2024/10/06 訪問)

鎌倉時代、武蔵七党の1つ村山党の、村山 家平さんが築いた「宮寺氏館」。
現在、『西勝院』という御寺さんです。

埼玉県 入間市 宮寺 489

『西勝院』に駐車場があると思いますが、分からなかったので路駐して、ぐるっと1週 歩いて退陣しました。
山門前に碑があります。
建物横には土塁がありました。周りには、堀を想わせる用水路が流れてます。
この時期は、柿が熟して落ちてましたので足元注意です。
こちらの「宮寺氏館」は江戸の世では、伊能尾氏が住まわれていたんだとか。
長く館として機能していたんですね。

「宮寺氏館」近くにはアウトレットパーク等の商業施設や物流倉庫ができて、どんどん町並みが変化してきています。
いつまでも、土塁と堀に守られていて欲しい「宮寺氏館」です。

+ 続きを読む

千々石ミゲル (2024/10/25 訪問)

 天正遣欧使節の一人千々石ミゲルゆかりの城です。櫓風の展望台があり橘湾がよく見えます。遺構はよくわかりませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

山田城址公園 (2024/10/24 訪問)

 有馬氏の重臣である山田氏の城です。山田城址公園として整備されています。削平地が多くありますが、どこまで当時の地形かわかりません。本丸跡や物見櫓跡の表示がありました。北側に櫓風の展望台があり有明海がよく見えました。展望台の階段の途中に説明板があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

神代貴茂 (2024/10/25 訪問)

 神代氏の城です。沖田畷の戦いでは神代貴茂は龍造寺側で戦い、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍と戦い戦死した後も籠城し抵抗します。有馬晴信は神代城が難攻不落の城と考え謀略を用いて神代貴茂を暗殺し神代氏は滅亡しました。神代神社のある場所が本丸で入口には標柱が立っていて、その標柱のある道が本丸と二の丸の間の堀切です。
本丸の周囲には土塁が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

古賀越後 (2024/10/25 訪問)

 古賀氏の城と伝わります。境ノ松公民館の近くに「東古閑城空濠」の標柱と説明板があります。
龍造寺氏に攻められ城主であった古賀越後は城を枕に討ち死にしたと説明板にありました。

+ 続きを読む

安富純泰 (2024/10/25 訪問)

 安富氏の城です。天正十一年(1583)安富氏が龍造寺氏に味方したため、有馬・島津連合軍の猛攻を受けましたが、籠城して撃退した堅固な城です。
しかし、翌年の「沖田畷の戦」で龍造寺隆信が討死したので、安富純泰は佐賀に向って一族郎党を引連れて退城しました。
 石碑と説明板がありました。

+ 続きを読む

天守無しがアツい

未だ分からぬ畠山重忠邸の場所 (2024/09/29 訪問)

畠山重忠一族の館…通称 菅谷館は埼玉県立嵐山史跡の博物館あたり…菅谷館跡と現在呼ばれてる一帯にあったとされてますが、正確な位置はどこなのか? については現在も分かってないそうです🏠

博物館の側に(1枚目の)畠山重忠と菅谷館跡の関係性を紹介する案内板がありました。この城郭が古くから菅谷館ではないかと言われており、その西には鎌倉へ通じる街道跡が残されており、この城郭のどこかに重忠の館があったと考えられる…と

現在ここに残る城跡は…戦国時代に(河越城に対する)山内上杉氏の拠点として再興されたもので、鎌倉時代の頃の面影がないため、館の正確な位置が分からない…博物館の側に何かしらの建物があったと思われる柱跡は残っていたが、それが畠山一族が使用していたものを示す証拠が無いのでしょう

博物館の側には菅谷館跡のジオラマ(2枚目)もありました。そこから少し道を歩くと看板地図もあったので、それを頼りに城跡内を歩けるだけ歩いてみる…ことにしました🚶‍♂️

まず本廓のあたりを散策してみることに…小径を頑張って進みました…「途中でムカデ出ないか?蛇出ないか?もし噛まれたらヤバい🐍」という不安が頭の片隅を漂いながらの行進

幸い…そいつらに出くわす事は無かったものの…1番の障害となったのは、飛び回る虫でした…蚊とかカナブン(?)もしくはその他の羽の生えた虫が…しつこいくらいに私の耳元を飛び交い…集中力を削いできました😓

少しぬかるんでる階段を降りて橋を渡ったら…何とそこは菅谷館跡の敷地を超えていた…と設置されてる地図を見て気づき、せっかく来た道を引き返して敷地内の小径を通る…そこにもブンブン飛んでる虫がおり、「しつこいぞ!😠」と叫びながらの進行🚶‍♂️

この辺りが本廓(3枚目)…つまり館跡の中心地だそうです。けれど今の姿は…木々や草に覆われており、館がここにあったなんて面影は微塵もありません…何よりここもブンブン…と小さい虫がうるさい🐝 散策というよりはどこまでも付いてくる虫から逃げ回る形にさえ、なっていたかもしれない

なので撮影したらすぐに次へと進みました…一度博物館のある場所まで戻り、それから二の廓に行ってみました

どこも草木に覆われていて、土塁だ堀だと言われてもよく分かりませんでしたが、唯一の素人でもそれと分かる場所が空堀…(4枚目)どの辺りにあったか…細かい位置は忘れましたが、本廓もしくは二の廓だった気がします

二の廓では…地図上では楕円形状の道を歩いてまたこっちに引き返せると思えたので、そう歩くつもりでした。ところが歩いてくうちに…奥の方に道路があるのが視界に入り、「このままうるさい虫を我慢しながら戻るよりは、あっちに出た方が早そう」と思えたので、そっちへ向かうことに🚶‍♂️

小さい川を渡り階段を数段上るとガードレールと道路が…そこから角を2つ右に曲がると…行きに通った場所(小学校と中学校)に戻れました。ちなみにその学校の壁面に足軽のような格好をした兵士達が描かれており、地元民にこの辺りが城跡…という事が知れ渡ってると思われます

正直、今回の菅谷館跡散策は…飛び交う虫に悩まされたという点で苦行でした🐝🦟 けれど畠山重忠一族および戦国時代にこの辺りに居を構えていた人たちも…悩まされていたのかもしれませんね…「虫が五月蝿くて寝れんわ!」と

+ 続きを読む

有馬晴信 (2024/10/25 訪問)

 本丸を中心に東側に二の丸、西南側に三の丸、北西側に北の丸が展開する縄張りとなっています。二の丸は段々に削平地があり石積みが見られます。発掘調査により階段遺構(現在は保存のため埋め戻されている)が発見されています。東の二の丸方面より登城し本丸周辺を散策し三の丸方面より下りてきました。ネットで見るとよく整備されているように思いましたが、この時期は草も多く少し歩きにくい所もありました。本丸の北側日野江神社のある場所から三の丸方面へ降りて行く道は「石積み崩壊のおそれのため立入り禁止」の表示があり通行不可となっていました。本丸の下くらいに三の丸方面へ行く道があり、獣除けのゲートを開閉して行くことができます。今年はまだ暖かいことも影響しているのか蜘蛛も元気な様子で蜘蛛の巣が多く散策に難渋しました。縄張り図で堀切跡や竪堀跡がある北の丸へも行きたかったのですが、蜘蛛の巣等に意欲を削がれ断念しました。時期を選べばかなり遺構としては残っているので楽しめる気がします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

安房神社 (2024/10/24 訪問)

 田尻親種が、それまで居城であった飛塚城が風水害で要害が悪くなったため1548年(天文17年)この地に築城しました。典型的な近世初頭の平城であったようです。
鷹尾城の説明板が安房神社にあります。近くには田尻親種の墓碑があり、その説明板が2カ所にありました。遺構はよくわかりません。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

蒲池統春 (2024/10/24 訪問)

蒲地氏の支城であったと伝わります。龍造寺隆信により攻め落とされました。説明板がありました。

+ 続きを読む

塩塚石見守鎮貞 (2024/10/24 訪問)

蒲地氏の支城と伝わっています。石碑と模擬天守の模型の写真を撮って撤退しました。

+ 続きを読む

立花宗茂 (2024/10/24 訪問)

 久しぶりの柳川城です。近くへ来たので寄ってきました。蒲地氏が築いた城です。立花宗茂の印象が強い城ですが、本格的な近代城郭にしたのは関ヶ原の戦い以後領主となった田中吉政と伝わっています。この城の特徴は複雑に入り組んだ掘割です。敵が攻めてきたときは、水門を開放することで掘割の水があふれて、城の中心部を残し、そのほか周辺の町を水没させることができたといわれています。今は川下り(お堀めぐり)を楽しむことができ観光資源となっています。自分は川下りはやったことがなく、機会があれば船に乗ってのんびり堀をめぐってみたいものです。

 昼飯に鰻せいろ蒸しを若松屋さんでいただきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

蒲池鎮漣 (2024/10/24 訪問)

 藤原純友の弟純乗により築かれたと伝わっていますが、実際は藤原純友、純乗たちを追討しようとした朝廷側の大宰権帥である橘公頼らが建てたものとされています。その後、蒲池氏の居城となりました。蒲池氏の墓碑がある崇久寺の西側一帯が城址とされています。近くに石碑と説明板があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

西牟田家周 (2024/10/24 訪問)

 西牟田家周が築城したとされています。久留米市三潴町生岩の八幡神社周辺が城址です。石碑や説明板はありません。本殿の裏に城内大神宮の標柱があります。
400mくらい南の田園風景の中に「死守生津城兵の塚」があります。横に説明文が書いてありますが薄くなり見にくくなっていました。

+ 続きを読む

ページ121