江戸末期に京都守護職・松平容保の建白により江戸幕府が勝海舟を奉行として淀川沿いに築いた台場で、対岸の高浜台場・梶原台場と共に外国船が淀川を京都へ攻め上る事態に備えました。鳥羽伏見の戦いに敗れ、淀城への入城も拒まれた幕府軍は橋本陣屋と楠葉台場で立て直しを図るも、高浜台場の守備についていた津藩が新政府側に寝返って対岸から砲撃してきたため楠葉台場も応戦しましたが、新政府軍の侵攻を受けて幕府軍は大坂に撤退し、楠葉台場は新政府軍に接収されました。明治以降、台場跡は民間に売却され、台場跡西側は鉄道開通により失われましたが、発掘調査の結果を受けて国史跡に指定され、現在は史跡公園として整備されています。
京阪本線・橋本駅から登城開始。橋本陣屋跡と思われる工事現場を横目に楠葉台場へ。史跡公園南端の見張台跡に「楠葉台場跡」「楠葉台場跡の構造」の説明板と「戊辰役橋本砲臺塲跡」の石碑が立てられています。南西辺には大堀と呼ばれる幅広く深さのある堀が稜堡の折れに沿って続いていました。堀沿いに設けられていた土塁は失われていますが、土塁の位置と幅が植栽により示されています。大堀にはかつて土橋が設けられ南虎口に続いていましたが、土橋も虎口も失われ、南虎口の位置表示があるのみです。南虎口から入った正面には見切塁(位置表示のみ)が立ち塞がり、西側の番所(説明板のみ)へと誘導されます。楠葉台場の築造に伴って京街道は台場内を通るように付け替えられており、長州藩などの過激な尊王攘夷派が京都に侵入しようとするのをこの番所で取り締まることが目的だったようです。番所を過ぎて進むと北虎口に至ります。北虎口から東と北に一段低くなった堀跡と植栽により位置が示された土塁跡が続いています。そして北東隅の火薬庫跡で楠葉台場をひとめぐり。火薬庫跡には位置表示も見当たらず芝生の公園が広がっているだけでした。
遺構と言えるのは大堀くらいのものですが、北側の堀跡を一段低くしたり土塁を植栽で示したり、史跡公園として整備される中で可能な限り往時の姿を伝えようという姿勢が感じられました。あとは砲台跡に大砲のモニュメントなりベンチ(舞子台場のような)なりがあれば、もっと台場跡だと知ってもらえるんじゃないかな、とも。
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