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しんしんちゃん

かなりの規模の土塁が残る。 (2023/11/26 訪問)

連方屋敷は古屋氏の屋敷跡とも御蔵の庁所とも言われていますが、実際のところ良くわかりません。周囲を巡る土塁はかなりの規模で、土塁の内側は一辺約100mほどの不整四角形の形状をしていて、中に入って見るとかなり広く感じます。西側と南側は私有地になっていて立ち入りは不可能で土塁も途切れているのですが、一部分土塁が残っていて外側から鑑賞が可能です。
屋敷の西側は水路が流れていて堀を彷彿とさせています。

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ぴーかる

雁金城 (2023/11/04 訪問)

【雁金城】
<駐車場他>登城口<37.171616, 138.377124>に3台程度駐車できる。
<交通手段>車

<見所>堀切・切岸
<感想>1泊2日上越の城攻め旅2日目5城目。上越市のホームページには「雁金城は南北朝時代、直峰城主・風間信昭の軍下に属し、上杉謙信公の時代には謙信公の家臣が守り、春日山城の支城としての役割を果たしたと考えられています。」とあります。御館の乱の時には上杉景勝方の武士が城を守っていたようです。
 上記登城口から真っすぐに登って行くと山の鞍部に着きます。右方向に狼煙台、左方向に主郭主要部に行きます。まず狼煙台の方向に行きました。眺望がとても良いです。狼煙台の先は下って2重堀切があります。その先に山の鞍部があり、そこで引き返しました。雰囲気的に城跡がこの辺りまでかとも感じました。主要部主郭の方は周囲が高い切岸に囲まれています。主郭は奥に土塁が残り、土塁上の南側奥を進むと藪化していますが削平地があります。主郭の西側下段に二の丸・三の丸ととても小さい曲輪がありますが私にはこの南側奥の曲輪が副郭のように思えました。登城路が足場パイプで組んだ階段がありとても整備された城跡でビギナーでも行きやすいでしょう。

<満足度>◆◆◇

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しんしんちゃん

猿橋の紅葉  山梨県大月市猿橋町55 (2023/11/26 訪問)

猿橋は山梨県大月市猿橋町を流れる桂川にかかっている刎橋(はねはし)で国の名勝に指定されています。岩盤に穴をあけて刎ね木を差し込んだ上に刎ね木を固定していって、その上に橋桁を載せる方式で作られていて日本三大奇橋の一つとも呼ばれています。刎ね木には屋根が載せてあって独特の外観をしており、周囲の溪谷が造りだす景観と相まって国の名勝と呼ぶにふさわしいと言えるでしょう。
この日はたまたま近くを通りかかって「猿橋」の標識にフラフラと引き寄せられるように寄り道したのですが、思った以上の絶景に心が少し洗われた気がします。

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しんしんちゃん

土塁の三方に櫓台があったのではないか。 (2023/11/25 訪問)

小山城は笛吹川の支流の南の丘陵上に築かれていて、すぐ近くまで車で行くことが出来ます。約72m×約55mの郭の周囲を高い土塁で囲った館のような構造で土塁の周囲を北側から西を周って南側まで堀が囲みます。長方形の郭の長編を縦側として西に40度ほど傾けた配置になっていて、南西側に大きな間口があり、虎口は南東に付いていて案内板も建っています。
土塁は高いうえに幅も厚く、東側を除く三方の隅部に東屋が建っていて、櫓があったことを示唆しているようにも見えます。城の東と北東側には堀が無く、代わりに帯郭のような扁平地がありました。
いささか古い造りの城ですが、穴山氏の城とされていて大永3年(1523)に城主・穴山伊予守信永は南部某と花鳥山で戦った後に小山城で防戦しますが常楽寺まで落ち延び自害したそうです。
そのため「一に花とり二に小山三につらいは常楽寺」という童謡がのこっていたそうです。(甲斐国志)

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カズサン

那珂川河岸段丘南端に構えた城址 (2023/11/12 訪問)

 武田氏館を終えて直線で600m程に在る勝倉城へ初登城、勝倉城は武田氏館登城の為に城びとの行ってみたい城にチェックを入れて、何時か行ってみたい武田氏館のフォローに使っていました。
 城びと投稿の常連の方も武田氏館と勝倉城を共に訪ねる城と推奨されて居ります。

 駐車場:無し、許可を得れば勝倉小学校の駐車場を利用できるかも?今回は小学校入口の県道63号線東側の三角コーナー(36°22'43"N 140°31'31"E)に一時停止。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、城びと投稿記事

 当日は日曜日で小学生はお休み、がらーんとした校庭は無人、しかし表の門扉は開いている校門は大手門の跡の様、先ずは門扉の右側に絵図入り解説板勝倉城跡が掲示してある、大変ありがたい、これだけで登城した甲斐が有り全部を探訪したように感じる、校庭のフェンス横の道を奥に保育園側に土塁が有るとの写真情報で確認、周囲を観察し一段高うなっており、絵図である処の主郭本丸かな?校庭は馬寄せの広場、戻って門が開いていたので進入し杉林の中に堀が有りそうなので確認、在る在る大きな空堀が存在してる、馬寄せと鍛冶場の間の大堀切の様です。
 無断進入ですので憚られますので駆け足で観察確認写真撮影して出門、ありがとうございました。
 門を出た県道63号線は段丘を切り裂いた大堀切の様で南の那珂川方向へ落ち込んでいる。
 此れだけでも良いものを見学探訪させてもらいました。

 歴史は門扉掲示の案内板によると、鎌倉期初期に平井越後守明綱の築城、その後吉田氏一族の勝倉四郎俊幹とその子孫が居城した。応永23年(1423年)江戸氏が水戸城を奪うと家臣の飯島氏が城主となったが、天正18年(1590年)12月佐竹氏の江戸氏攻撃の際落城し廃城と成った。
 

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ダイエティシャン

若狭鬼が城近くの【平経盛隠棲の地】 (2021/07/01 訪問)

続きです。

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ダイエティシャン

若狭城近くの【平経盛隠棲の地】 (2021/07/01 訪問)

若狭城から車で数分。平家の落武者、【平経盛隠棲の地】この辺りは、平性が多いそう

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ダイエティシャン

太閤が平陣 (2021/07/01 訪問)

鳥取城跡から攻めました

今年も残り僅か。過去の攻城記録を載せておきます。

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カズサン

【常陸・武田氏館】茨城県ひたちなか市 甲斐武田氏発祥の地 (2023/11/12 訪問)

 以前より訪ねたいと思っていた常陸の国、武田氏館・甲斐武田氏発祥の地を初登城し願いが叶いました。
 城郭放浪記さん始め城びと多くの方が投稿されて居り何時か何時かと考えていましたが、丁度、孫の運動会観戦で宇都宮まで来ましたので観戦の翌日、武田氏館他水戸城周辺未踏の城廻りを企画し探訪に出掛けた次第。

 住所:茨城県ひたちなか市武田566-2
 駐車場:武田氏館の門前、ジャリ駐車場、数台は可能
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップ、城びと投稿者多数の記事

 武田氏館はふるさと創生事業として平成3年11月に武田郷の地に当時の武士の館を再現したとの事です。本来の史跡武田氏館跡は現在の陸上自衛隊勝田駐屯地内の武田池の南の地に在り、駐屯地内入る事は出来ません。
 那珂川の河岸段丘の南西端を活用した高田氏館の様でした、再建した館は湫尾神社(ヌマオジンジャ)の北裏に建てられ居ます。
 高田氏館は南面板塀で囲まれて、門、主屋、厩、納屋(管理棟)の造りです、入場料無料、パンフレット入手、主屋の中心に父源義清と子源清光に鎧兜を身に着けた人形が置かれて大鎧、盾、陣幕で陣立ての様子が設定されています。
 義清からは武田郷にちなみ武田を名乗ったとの事。周囲の回廊には武田氏佐竹氏の系図が清和天皇からの清和源氏系図、八幡太郎義家の弟新羅三郎義光から佐竹氏、武田氏へ武田氏初代義清、清光へ18代後に信玄公へと継承されます。高田氏館跡の略図、解説。地元武士達とのいざこざにより義清、清光の甲斐の国への配流の解説などが展示されています。
 源氏の分流の勉強にもなります。

 武田氏館から南隣接地に在る湫尾神社(ヌマオジンジャ)へ、参拝して南に在る鳥居へ、鳥居傍に甲斐武田氏発祥の地石碑、また解説板を確認して暫し読みふける、この間地元の方が3人ほど参拝されていました。

 那珂川を越えて南側から望むと段丘が連なり、いい場所に構えたなの感じ、しかし丘陵への道が常磐線を潜る狭い道、危険を感じて住宅団地の真ん中を通る道西へ抜けて団地の通りに高田氏館の看板が有り団地内へ、途中不安になり団地の方に聞き到着しました。
 
 

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ぎりょう

男前の政宗公と城下を望む (2023/11/23 訪問)

所用で大崎市岩出山の町中に出かける機会がありました。城山も紅葉が進んでいるようなので久々に登城することに。中世から使われていた本丸、金丸跡を散策しました。祝日ということもあり、私の他にも数名の先客がありましたが、その後、ガイドに伴われた十四五名の街歩きらしいグループも。
ここ岩出山は、伊達政宗の仙台築城まで12年間伊達家の本拠地であり、藩政時代は政宗四男宗泰が初代となる一門岩出山伊達家が配され、要害として維新まで続きます。芭蕉「おくのほそ道」の旅、一宿の地としても有名です。
城址は草刈りもされ、きれいな状態でしたが、近年の豪雨で本丸北端部が崩れてブルーシートが掛ったまま。北側の展望台も立ち入り禁止の状態が続いてますがその他は見学OK。早い時期の改修をお願いしたいですね。
金丸跡にある政宗像は、昭和39年に仙台城から岩出山城に移された二代目政宗像です。仙台城址の政宗像は昭和10年に政宗没後300年の記念に青年団が寄付を募って制作した初代政宗像がありましたが、太平洋戦争中の昭和19年に戦況悪化による金属徴収で供出されてしまいます。戦後の昭和28年に二代目の像が制作されますが、セメント製で、扇子を持ち平服姿であったため「政宗平和像」と呼ばれていました。さらに昭和39年に初代の騎馬像が復元されます。この像は昨年3月の地震で破損しましたが、一年がかりで修復され、今年3月に仙台城に復帰したことは周知のとおりです。
岩出山城跡の二代目政宗像は昭和39年に仙台市から旧岩出山町に寄贈され、以来金丸から大崎耕土を見渡しています。男前の政宗とともに城下を望み季節の移ろいを感じることができました。

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todo94

山陰海岸ジオパーク (2023/11/23 訪問)

道竹城からの転戦です。城山園地の駐車場からの登城は、足元もさほど悪くない登城路だったのでさほどの困難もなく主郭にたどり着けました。この近辺は、山陰海岸ジオパークに選定されている景勝地ですので、見事な絶景を堪能することができます。駐車場からの眺望もなかなかのものですが、やはり山頂まで脚を伸ばしたいですよね。

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トク

83【関ケ原の26人】(24)島津義弘 (島津の退き口①-島津義弘陣跡)

(24人目)「島津義弘」続き⑫です。関ケ原の島津義弘陣跡を訪れてきました。

家康が上杉討伐のため伏見城を出ると石田三成は挙兵、毛利・小早川・宇喜多・小西なども続いて挙兵しその数9万に膨れ上がった時、義弘はこの時帖佐から参勤で大坂に来ていました。そして石田三成からの出陣要請がある事を薩摩に伝えるも、義久は兵を送りません。よって義弘は今いるわずか200の手勢のみで出陣します。そして私もなぜかわかりませんでしたが、ここで義弘は何と西軍ではなく徳川方に加わるため伏見城に入ろうとします。どうやらこの1ヵ月前、義弘は家康から直々に伏見城への守りを任されていたようです。しかし伏見城を守る鳥居元忠から「そんな事は聞いてないぞ!」と門前払いをくらいます。どうしようかと考えている内にふと気がつくと回りは西軍だらけ? 三成から「島津殿、よう来て下された」と言われたら何も答える事ができず、そのまま西軍に加わる事に・・・😩あれ?

しかしこの後、大垣へ入った時点で、大坂にいた甥の島津豊久、そして薩摩より家老の長寿院盛淳、山田有栄らが義弘を慕ってはるばる駆け付け、手勢は1500ほどにふくれあがりました。義弘は軍議の席で、「家康の体制が整っていない今がチャンス! 赤坂の陣に夜襲をしかけ家康の首を取ろうではないか!」と提案をしましたが、三成が拒否したため、このあたりから三成にかなり不信感を持ったようです。そしていよいよその夜、大垣から関ケ原へ移動する事に・・・

私は関ケ原の義弘陣跡に立ってみました。小池神社という所に陣を敷いていました(写真①②③)。しかしここは戦場の中心、にもかかわらずこの回りだけがなぜかうっそうと木が茂り、ここからだと確かに周りの状況がよく分かりません、勝っているのか負けているのか・・・(いったいどっちだろう?🤔)。もはやこの時、ここでこのまま東軍・西軍どちらにも付きたくないといったのが本音だったのかもしれません。

三成の家臣である八十島助左衛門が再三出陣の要請に来ますが、馬上から降りないため無礼者と追い返します。そして気づいた時には西軍は総崩れとなり東軍に囲まれていました(まずい!)。義弘はここでもはやこれまでと自害しようとします。しかし豊久が思いとどまらせます。そこで義弘はある行動に出ました。何と家康の首めがけ一直線に家康の陣に向かって突進したのです。しかしあと一歩のところで失敗し、伊勢街道の方向へ走り去りました。そしてこれを、井伊直政・松平忠吉・本多忠勝が追って行きました。(この時の様子は私の(21人目)徳川家康(17人目)本多忠勝をよければ御参照下さい)。

私はその場所に立ってみました。(写真④)すぐ左に家康の陣があり、そこへ突っ込むも阻まれ、この道をこの矢印の方向へ走り去ったようです。私はその場所からこの道を眺めながら考えてみました。わずか1500の兵では何もできないかもしれません。しかし退路を断たれているとはいえ、なぜ的中突破の道を選んだのでしょか? そして本当に本気で家康の首を狙ったのでしょうか?

 のかるまじ 所をかねて 思いきれ
 時に到りて 涼しかるべし

しかし結局この判断が、1500人の家臣の悲劇につながってしまいます。

次は義弘軍が「捨て奸」を行った(琳光寺)を訪れます。
 

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しんしんちゃん

各郭から富士山が良く見える。 (2023/11/26 訪問)

勝山城は麓の谷村城の詰めの城とされています。本丸の案内板によると文禄3年(1594)豊臣秀吉に遣わされた浅野長政家老・浅野左衛門氏重によって築城(もしくは改修)されたと記されています。位置的に谷村城とかぶっていたので存在を失念していたのですが、元々登城したいと思っていたので結果オーライということになりました。ただみんなの口コミをチェックしていなかったので本丸北側の石垣を見逃しています。江戸に献上するお茶を貯蔵していたという御茶壺倉(大沢見張台)は二の丸から帯郭を経由して尾根沿いに向かうのが正解のようですが内堀経由で向かってしまったので途中断念、そのまま南東側に尾根伝いに降りていくと、ここにも道が続いていてそのまま下山と相成りました。ちょっと消化不良ですが「いった」を押しちゃいます。
山々の間から富士山が顔を出していて登城道から良く見えます。二の丸・本丸からも見ることが出来、なんか富士山を見るために、この詰めの城があるんじゃないか?‥とさえ思えてきます。やはり富士山は特別な山ですよ。

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しんしんちゃん

江戸初期・近世城郭の城下町として発展。 (2023/11/26 訪問)

谷村城は戦国期は小山田氏の居館として存在していましたが、武田氏・小山田氏の滅亡後の天正壬午の乱の後に徳川氏の支配下に置かれました。この頃に近世城郭としての整備がされたようで江戸時代には秋元氏が入府し、その後天領になったようです。本丸は谷村第一小学校や市役所あたりに置かれ、古地図によると背後の勝山城を詰めの城として本丸とは内橋でつながっていたようです。桂川を背後の天然の堀とし、二の丸・三の丸は本丸と隣接していて周囲は水堀で囲まれています。
本丸南東側に向御屋敷が配され、南西側には家臣屋敷と見られる郭があり、いずれも周囲に堀を配し、桂川から水を引き入れています。城域の外側には屋敷や家町と呼ばれる長屋が立ち並び城下町を形成していたようです。
このあたりで「ほうとう」を食べる機会は有りませんでしたが道の駅のお土産で「ほうとう」を購入しました。今風だとジャガイモやカボチャをいれるのですが、信玄公の時代だと里芋やシシ肉、大根などでしょうか。どちらもおいしいので両方試してみようかと思います。

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しんしんちゃん

天守台と富士山のツートップ。 (2023/11/26 訪問)

浄古寺城は武田氏滅亡後、天正17年(1589)徳川家康の命で内藤左衛門が大修築したとされています。周囲を琴川、皷川、笛吹川に囲まれた丘陵上に築かれているのですが、川の名前が全部楽器から付いているんですね。殺伐とした戦国期の城なのに風流な話です。
最も高い扁平地に主郭が配され天守台や堀が残っています。南側に二の丸、三の丸があり二の丸はブドウ畑や八幡神社になっています。主郭もブドウ畑(桃?)のようですが、すでに収穫を終えているようなので安心してお邪魔させていただきます。天守台の背後からカメラを向けると富士山とのツートップが撮れました。主郭から富士山が見えるのはいいですよね。

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しんしんちゃん

周囲に見事な土塁が残る。 (2023/11/26 訪問)

於曾屋敷は於曾氏の屋敷で戦国期には板垣氏が支配していましたが、武田氏滅亡の際に織田氏の攻撃を受け、板垣権兵衛がこの地で自害したとされています。屋敷跡の東西南には内土手が残っていて東に虎口が空き、南側にも階段が付けられ入口となっています。南側の土手は高さ3~4mほどもあり見ごたえがあります。駐車場は館跡の東側と南側に設けられていて、どちらからも見学が可能になっています。

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くうくう

根室半島チャシ24ヶ所を代表してヲンネモトチャシ

温根元湾西岸の岬に盛土され平坦面が2ヶ所と堀が見られる。城砦というより見張場、聖地、祭祀場を感じる。案内板があり、歩道や階段が整備されている。多くのチャシが説明もなく、痕跡もよくわからないような中で分かりやすい遺構だ。ただ熊出没や見学地外立入禁止などの看板もあり要注意。

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くうくう

川中の島の対岸の丘という付近の地名から

釧路アイヌの長トミカラアイノが寛永4年(1751)に築いたといわれる。今では解り難くなってしまったが、釧路川に突き出た台地を利用してつくられた。頂部は標高18mで中央に比高差5mの堀が区切り、南側の本チャシと北側の副チャシ、あとは帯曲輪のような段が付いている。別名お供え山と呼ばれるが、雰囲気がよく伝わる形容だ。国史跡。見学には申し込みが必要。

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しんしんちゃん

甲斐守護・武田氏統一の通過点。 (2023/11/26 訪問)

甲府市の上曽根町勝山の果樹園となった丘陵上に勝山城は築かれていました。甲斐守護の座を巡って武田信縄と弟・(油川)信恵、父・信昌の対立が深刻化していたころに信恵の重要な拠点として機能していたそうです。信縄の死後、武田信玄の父・信虎(信縄の嫡男)が油川信恵父子を滅ぼし武田氏宗家を継承したとのことです。城域は果樹園になっているのですが、収穫はすでに終わっているようで周囲に人はいません。舗装された道が城址につながっているので登っていくと縄張り図にある虎口があるので入って見ます。中には郭跡が広がりますがその先の堀や帯郭は藪に覆われていて確認が出来ません。雰囲気は味わえたので引き上げることにしました。

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しんしんちゃん

平安の頃からの有力者の城。 (2023/11/26 訪問)

上野原城は平安時代末期に古郡忠重によって築かれました。古郡氏が建暦3年(1213)の和田合戦に敗れて滅亡すると加藤氏が入ったとされています。加藤氏は上野原七騎とともに武田氏に従い活躍しますが武田氏と共に滅びたそうです。城跡は宅地化が進み堀跡もはっきりしませんが南西側の崖は健在で今では高速道路が通っています。

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