【まえがき】
<駐車場他>三井のリパーク北白川東小倉町終日550円に駐車しました。近いのは登城口の日本パブテスト病院、土日祝は終日700円。北白川児童公園に公衆トイレあり。
<交通手段>車
<思い立ったらすぐ行きたい>
現在8代将軍足利義政からの足利将軍のお勉強(大したものではありません)をしていて、城びとの登録城の京都市東山の山城を攻めようと色々と調べていると、どうも将軍山城はとんでもない大規模城郭(各々別々の城や東山新城とは別城との説もあるが)だと知って、これは丸1日くらいかかる予定で攻略(結局、日を分けて丸2日かかった)をしました。先日行った中尾城・東山霊山城を先に攻略し、今回将軍山城は12/8と翌週の12/15に完全攻略をいたしました。ご興味のある方は是非お付き合い下さい。
<これからの投稿の説明>
将軍山城は城郭放浪記さんのサイトを見て「京都府中世城館跡調査報告書」を知り、それを確認しました。城跡は山脈に広く分布・点在していて報告書では城域1~4までに曲輪群を区分けしています。私もこの縄張り図を基に城跡巡りを実施して、区画ごとに全13回程に分けて投稿をしたいと思います。自分でもどれくらいになるか分からないくらい大作になるかと思います。投稿順は下記の城域の攻略(行った)した順番、または行きやすい順に行います。
城域1:主郭ゾーンの曲輪群で主要部と東・南・西に尾根曲輪群がありますので4つのゾーンに分けて投稿します。
城域2:4つの曲輪群に分けられ[2-1][2-2][2-3][2-4]曲輪群の区画分けをしています。
城域3:曲輪群が1区画あります。
城域4:3つの曲輪群に分けられ[4-1][4-2][4-3]曲輪群の区画分けをしています。
<お城の歴史>
将軍山城は北白川城とも呼ばれ、1520年に管領の細川高国が築城しました。高国は足利将軍の家督争いの中で当時は事実上京都を押さえたトップの権力者となり、翌年の1521年に亀王丸(足利義晴)を擁立し新将軍にした人物です。その後足利義晴が1546年11月に細川晴元と対立する中で「将軍山城を改修し入城」、1550年には義晴は今度は三好長慶との対立のなかで2月に中尾城を築城、4月に「北白川にも城塞を築く」とあります。足利義輝の代では1558年、朽木から入京する際に将軍山城に入り、北白川の戦いでは将軍山城は三好軍と争奪戦を繰り広げます。1570年には明智光秀が浅井、朝倉軍・延暦寺を牽制するために入城したとあります。
<将軍山城と将軍足利義晴・義藤(義輝)父子の私的意見>
将軍山城(北白川城)は足利義晴・義藤父子の代に最も関わりが深く、細川晴元や三好長慶との争いでこの城に入城して戦い敗れると城を焼いて比叡山と尾根続きになっているため比叡山から近江坂本へ避難(六角氏の庇護があるため)して、坂本ではちょっとヤバイと更に北の堅田や朽木に避難する。勢力が盛り返してきたり、京都の支配者の権勢が減退してきたら坂本から将軍山城を改修入城して入京を試みるパターンが多いです。三好長慶も将軍を弑逆できるはずはないので、将軍山城・中尾城・霊山城のある東山は完全制圧するのではなく、将軍が近江へ出たり入ったり出来るルートとしてわざと緩めにしていたかと感じます。
足利義晴は生誕から死去するまでほとんど京都に入れなかった将軍ですが、京都では慈照寺(銀閣寺)を拠点に将軍山城を改修、晩年には病を押して中尾城を築城し念願の入京を果たして将軍親政を行いたいと志した人物でもあります。最後は近江の穴太で死去(自刃したとも)しますが、足利義輝が足利将軍の中では最も人気がある?(ゲームか何かで?)感じますが、私は足利義晴の壮絶な人生に感じ入りました。足利義輝は満10歳で将軍職を引き継ぎ父の義晴と共に少年時代を近江や東山での避難生活を過ごして、父義晴の意志や薫陶をよく受けていた(砕けた言い方だとコミュニケーションが多かった)と思います。足利義輝が三好長慶と和睦後に入京し権勢を上昇させ将軍親政を短い間だけでしたが果たせたのも義晴の教えがあったのかもしれないと思ったからです。
<写真>
写真なしでは寂しいので今回は登山口の大山祇神社と聖護院宮墓地を載せました。
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