【増永城】
<駐車場他>西郷南州公園駐車場<32.974648, 130.763492>あり。
<交通手段>車
<感想>2泊3日西九州旅3日目7城目。現地説明板によると増永城は菊池十八外城の1つで別名西郷城といいます。菊池氏初代則隆公の長男政隆公が西郷氏として移り住み菊池氏一族の重臣として居城しました。26代西郷昌隆のとき薩摩に移り住んだという記録があるそうです。現地は神社・公園となっており遺構の堀はよくわかりませんでした。
<満足度>◆◇◇
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2025/05/25 17:15
西郷家発祥の地 (2025/03/22 訪問)
【増永城】
<駐車場他>西郷南州公園駐車場<32.974648, 130.763492>あり。
<交通手段>車
<感想>2泊3日西九州旅3日目7城目。現地説明板によると増永城は菊池十八外城の1つで別名西郷城といいます。菊池氏初代則隆公の長男政隆公が西郷氏として移り住み菊池氏一族の重臣として居城しました。26代西郷昌隆のとき薩摩に移り住んだという記録があるそうです。現地は神社・公園となっており遺構の堀はよくわかりませんでした。
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2025/05/25 17:14
留守政景 (2025/05/24 訪問)
伊達政宗の叔父である留守政景の居城と伝わっています。丘陵を切り込む沢を利用した城であったようです。現在は舘山公園として整備されています。
JR利府駅から徒歩にて登城しました。利府小学校前にも説明板があり、その横に登城路があります。途中に「利府城跡の大イチョウ」がありました。巨木の前に標柱があり留守政景の娘美竹姫の安産と母乳が豊かにあるようにと祈願したものという言い伝えがありますと記載されていました。大イチョウは大きすぎて写真に納まりきれません。桜の園→憩いの丘→芝生広場→ふれあい広場→どかん広場→頂上広場と散策してきました。
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2025/05/25 17:12
良好な保存状態 (2025/05/01 訪問)
玄蕃尾城は、南北に主要4つの曲輪で構成し、その曲輪を土橋で連結、また各曲輪を土塁と空堀で囲い多重防御を施しています。その広がりは南北250m、東西150mにも及んでいます。また主郭には南側と北側に馬出、東側に出曲輪を設け主郭を防備しており、主郭の北東隅には、方形の一段高くなった場所があり、櫓のような建造物があったのではないかと推定されています。主郭部北側の搦手がある曲輪は最大の広さがあり兵糧などの物資や兵の駐屯の為のスペースであったと推定されています。
玄蕃尾城は、賤ケ岳の合戦のおり、織田家重臣の柴田勝家公が本陣とした山城です。越前と北近江との国境にあった城で、越前北ノ庄城の城主であった勝家公が国境の守りとして合戦以前に築いたものとされています。(所説あり)
ですが、この賤ケ岳の合戦では勝家公はこの城では戦わずして撤退していることから、玄蕃尾城は合戦当時のまま、良好な状態で保存されています。(地元の方が草刈りや整備をして頂いているお蔭様で何時行っても良好な状態で見学することが出来ます。)
しんちゃんさんへ 紫波洲崎城に行かれたのですね(#^.^#) 私はお化けと蜘蛛と百足が大の苦手で掴みどころのないものを見るとゾッとします。しんちゃんさんのお城にかける情熱というか執念というか見習いたいもので、感心してしまいます。
ところでしんちゃんさんの最寄りのお城は高縄城とお聞きしましたが、意外と自分とご近所さんかもしれませんね。
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2025/05/25 16:56
伊達政宗 (2025/05/23 訪問)
広瀬河畔通の歩道に標識と説明板がありました。遺構はありません。
JR長町駅より徒歩15分くらいでした。
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2025/05/25 16:49
2025/05/25 16:39
サラッと立川氏館。 (2025/05/25 訪問)
2回目の「立川氏館」です。
1回目は2018年で、「立川氏館」跡の普済寺はお墓参りシーズンで賑やかでした。
所用があり立川市に来たのに、このまま帰るにはもったいないと『お城を探す』を広げ「立川氏館」に向かいました。
車のナビで普済寺を登録。『目的地に到着しました。』と告げた場所は普済寺の駐車場ではなく、お隣の工事車両及び関係者の駐車場でした。
前の車も、裏側に案内するクセがあって困っていたのに、今回の車も先行き不安です。
こんな時に、スマホのグーグルで案内してもらいます。
「立川氏館」の説明板の横に土塁があります。土塁もですが土塁に根を張る木も立派です。
『普済寺内文化財』の案内板に『首塚』とあったので、お参りしようと探しましたが、分かりませんでした。
『普済寺』は住宅地の中にあるので散歩してる方が多かったです。
用水路があり、周りには紫陽花が、梅雨時期を待ちスタンバイしてました。
私の行動範囲のお城は『行った』済。
こんな感じで、サラッと再訪して投稿もいいかな。
城びとオールスターの皆さんと繋がっていたいから「立川氏館」攻めをしてみました。
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2025/05/25 16:37
大雄寺 (2025/05/23 訪問)
大雄寺の境内一帯が城跡とされています。千葉氏の一族である武石氏により築かれたと伝わる城です。武石氏は亘理氏と称するようになり代々居城としていました。後に伊達氏に仕え亘理城を築き廃城となりました。1603年に伊達成実が亘理に移封されると、亘理伊達氏の菩提寺である大雄寺がこの地に移され現在に至っています。境内には伊達成実霊屋などがあります。山門前に標柱があり、一部に土塁が残っています。
JR亘理駅から徒歩25分くらいです。
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2025/05/25 14:55
原田甲斐 (2025/05/23 訪問)
伊達騒動の原田甲斐宗輔の居城として知られています。原田甲斐を主人公にした山本周五郎原作の「樅ノ木は残った」はNHK大河ドラマにもなりました。当時、見ていた記憶はありますが、原田甲斐を平幹二郎さんが演じていたことくらいしか覚えていません。原作を読んだのは社会人になってからです。
船岡城址公園として整備されています。どこまで当時のままなのかは判断できませんが、所々に説明板がありました。船岡城の二の丸の説明板は2カ所にありますが、下にあった説明板に「船岡舘跡 遺構略図」があり、その中に石組、土塁、空堀などが記載されていました。見たいとは思いましたが、通路は外れて彷徨う必要がありそうでしたので断念しました。
船岡駅から約10分で登城口に行くことができます。御舘橋の登城口から上り、産業展示館方面へ下山しました。隣の柴田町図書館の前に大手門跡の説明板がありました。
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2025/05/25 14:34
2025/05/25 14:25
矢野目足軽 (2025/05/23 訪問)
矢野目足軽という存在を初めて知りました。
石碑と標柱が岩沼市矢野目地区中央集会所の敷地内にあります。フェンス越しに写真を撮影し退散しました。
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2025/05/25 14:20
伊達稙宗 (2025/05/23 訪問)
高舘山の中腹から山頂付近にかけて築城されている城址です。安元元年藤原秀衡が館を築き、文治5年の奥州合戦の時には、藤原勢が立て籠もり鎌倉勢を迎え撃ったと伝わります。その後、永禄年間には名取、苅田、柴田、黒川四郡を領有した伊達稙宗が支配の拠点とし、家臣の福田駿河守を置いていたとされます。
主郭を中心に取り囲むように曲輪を設けています。
高舘城の上方にある熊野那智神社から登城しました。歩いて行くと南之丸と秀衡ヶ崎の間の堀切に到達します。秀衡ヶ崎は藤原秀衡が築いたと伝わる砦部分で緩やかな平坦地となっていて先端には堀切がありました。元の道に戻り歩いて行くと蔵王山と彫られた石碑などがあり主郭へ上がることができます。もう少し先にも高舘城の標柱があり、そこからも上がることができますが、少し藪になっていました。主郭は思っていたより広く南北約100m弱、東西約50m弱あるようです。西側にはいい感じの高土塁がありますが、周囲は藪で全容を把握できません。周囲の曲輪を少し歩いてみましたが、全体的に藪になっていて足元も長く伸びた草や折れた木などが重なっていて歩きにくかった。ネットなどをみると他にも堀切や空堀があるという情報もありましたが、藪となっている場所も多く周囲の曲輪を含め十分に散策できませんでした。藪漕ぎはしない、無理はしないと決めていますが、帰って来てあらためて本やネットの情報を見ると、もう少し無理してもよかったんじゃないかと思うことも多いです。
麓からも登城路がありますが、車で行かれる方は熊野那智神社まで上がると近くに高舘城の説明板と案内標識があります。10分くらい降りて行くと城址に行くことができます。
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2025/05/25 13:54
2025/05/25 11:53
国の史跡・宮沢遺跡 (2025/01/03 訪問)
宮城県大崎市の「宮沢遺跡」は大崎平野北部の丘陵南端部に築かれた古代の城柵で国の史跡に指定されています。奈良時代から平安時代に築かれたとされ、東日本でも最大級とされ東西約1.4km、南北約850mの範囲を築地や土塁によって囲われていました。
現在はど真ん中を東北自動車道が通過し、バイパスの東側を東地区、西側を西地区と呼称しているようです。我が国の歴史や文化財に対する扱いなどこんなものかと嘆きたくもなりますが、新幹線や高速道路によって削り取られた関ヶ原の「自害ヶ峰」周辺よりはだいぶマシなのではなかろうか。あの丘陵部は神谷道一氏の陣地図では西軍の陣とされていたはずですが。
東西はバイパスによって分断されているので、トンネルをくぐって西地区に移動します。東側の丘陵上に主要な建物があったと思われ、西側の丘陵は周囲を俯瞰する物見の様な役割を果たしていたようです。また高所に陣を置くことにより戦闘を有利に進める狙いもあったのではないでしょうか(byキングダム)。
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2025/05/25 11:23
留守ですけど (2025/01/02 訪問)
現地案内板によりますれば、利府城は留守氏の重臣。村岡氏の居城でしたが、永禄12年(1569)留守氏の後継者問題で伊達系留守氏側と対立し翌年、この城で戦い滅亡したとされています。その後、伊達政宗の叔父の留守政景が20年の間この城を本拠としました。
標高100m、比高100mの山城ですが、駐車場まで車道が伸びているので、城址へのアクセスは容易です。北側の駐車場に車を留め、そこからは徒歩になります。北東と南西の二つの丘陵上に郭が築かれています。
余湖さんの縄張り図だと「憩いの丘」や「芝生広場」の有るあたりが南部分、「桜の園」と呼ばれる広場が北部分とされ城址碑も有ります。公園化されているので、遺構の判別は難しいですが西側の「どかん広場」「頂上広場」にも出丸や物見の雰囲気がありますね。
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2025/05/25 10:51
2025/05/25 10:39
2025/05/25 10:26
野武士の城 (2025/05/22 訪問)
野武士が立て籠もった山城とされています。またこの地域は国分氏の支配地域で関連する城館ともいわれています。諏訪神社の後方丘陵が城址で、神社より登城路が整備されていました。神社の鳥居近くに説明板があります。縄張りがわかりにくいのですが、空堀、土塁などの遺構が観られます。
登城路を進んで行くと左手に曲がった所に曲輪と思われる平坦な地形があり、その後左手下に空堀がありました。東側に登って行くと段々となっている曲輪があり、ここにも説明板が設置されています。さらに進んで行くと湧き水池への道があり、先には水分神社があります。ここまでは道も整備され草もなく歩きやすいのですが、その先は藪に近い状態でした。ただその先の曲輪には土塁、空堀、虎口などがあり見どころだと思います。この日は雨が降っていて、この自分が見どころと思っている場所に来ると雨の勢いが強くなり難渋しました。下りてくると雨が止むという自分にとっては時々あるパターンです。
刑部さんが登城されたときは侵入禁止となっていたようなので、神社まで行って引き返すことも覚悟していましたが、通行規制は解除されていました。ただ入口に「熊出没・被害について、周辺地域にて相次いで報告されております その為、入山にはくれぐれもご注意ください また、山中での事故等の一切の責任は当神社では負いかねます」の注意書きがありました。近くに御殿館跡へ(約10分)→御殿山へ(約15分)と書かれた標識があり、急いで行って来ました。この日は先にも書いたように雨が降っていて傘を差しながらの登城となり、ブレている写真が何枚かありました。
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2025/05/25 05:33
ゴールデンウイーク後半・伯耆の城めぐり⑤ (2025/05/03 訪問)
あまり触れられていないコンデジにもないデジタル一眼の利点を紹介しておきますね。それはレスポンスの速さです。兎に角、電源を入れて立ち上げてからシャッターを切るまで本当に短時間で済みますし、シャッターを切った瞬間の写真をきっちり撮影することもできます。この快適さはちょっと手放す気にはなれません。あとバッテリーの持ちが良いという利点もあります。1週間くらいの旅だったらバッテリー交換や充電の必要はまずありませんから。(それでも替えのバッテリーは用意しています。破損したカメラのものを有効活用しています。)そもそも、カメラはレンズの大きさ(F値)にもこだわっていますしね。
さて、ゴールデンウイーク後半の城攻めです。日吉津のイオンモールにて昼食をとり、鳥取県内では5回目となる献血を無事終えた後に攻城しました。この城、どうも私有地のようで登城路を少し進むとチェーンが張られていて城内に立ち入ることはできませんでした。城に関する表示は何もないし、魅力的な遺構があるようにも思えませんでしたので、早々に次の城へと向かいます。
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2025/05/25 01:03
城域南部の整備がされると、面白い城になりそう。 (2025/05/06 訪問)
宮崎城は図師六郎入道慈円が南朝方に応じて挙兵した際に築かれたとされています。北朝方の土持氏に攻められ落城した後は、土持氏の城となり、文安4年(1446)に伊東祐堯が攻略して以降は、伊東48城の一つとして家臣の落合彦左衛門が置かれました。島津氏に追われ、伊東氏が豊後に逃げてからは島津氏の持城となっています。
この地域では外せない城だと思い、朝から攻略をしていますが、朝方からの雨で限定的な攻略に留まっています。満願寺口から攻略し、分岐を北に回って、目曳城と周辺を散策します。その後分岐に戻って、本丸から彦衛門城(百貫城?)を散策して引きあげました。
本丸と彦衛門城の周辺には堀が残っています。城域もなかなか広く、この周辺では名の通った山城ですが、整備の手は行き届いておらず、案内の標柱なども見当たりませんでした。もっと登城道や藪刈などの整備がされれば、面白い城になるとは思うのですが、いささか残念ではあります。
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2025/05/25 00:04
赤木城 (2025/03/29 訪問)
登城道から登っていくと、東郭Ⅰ・東郭Ⅱに挟まれた場所に行きあたります。そこから城内に侵入する必要がありますが、ここで両郭から攻撃を受けるので、通り抜けるのは至難の業です。その先も東郭Ⅰの攻撃を受けながら虎口を通って主郭を目指しますが、この虎口も幾重にも折れ曲がりが続いていて容易に先に進ませてくれません。コンパクトな城址の内に巧妙な防御の仕掛けを施しているあたり、後に築城名人として第一に名前の出てくる藤堂高虎公の城として相応しい城だと思います。
高虎公初期の城とはいえ、石垣も見事で西郭の周辺もしっかり造られています。東西の両郭に挟まれた南郭周辺は平時の生活の場として使われていたようです。周辺を押える城として、主郭からは赤木・長尾・平谷といった集落を眺望することが出来ます。
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