氏家小学校北東隅に土塁が残って居ます
(2022/11/14 訪問)
勝山城跡の北に城びと登録で未踏の城が在りましたので上野、武蔵未踏の城廻りの翌日出掛けて初登城しました。
駐車場は余湖図コレクションさんグーグルマップを確認して、さくら市役所の駐車場を利用。トイレも使用させて頂きました。
さくら市役所駐車場から北西100~200m程で氏家小学校東門に着きます、東門を覗くと御前城への案内指示板が有りますが、ここは小学校、関係者以外の無断立入禁止の看板、北側にある校舎へ北から回り込んで、土塁跡も眺めて、児童に職員室を尋ねていると丁度校長先生が来られて、城探訪の許可を得る「よく来られていましよ、上に遺構の様なものが?」との校長先生の言。
遺構は氏家小学校の北東隅に土塁が残っている、北東角を中心に西側と南側に少し伸びた土塁が付き断面を表してる、南側に丸石垣と校内池庭園が内側に造れれいる、案内解説板が西側の土塁内側に建っている。
校長先生の話で土塁上に遺構?と言われ、土塁上は樹木伐採されて草も刈られて居ましたので登ってみました、確かに遺構?がコンクリの台座の様な基礎?何か石碑か像が建っていたのか?良く分かりません、高さは5m程の様です。
御前城の規模は南北100間180m、東西80間144mの単郭平城、周囲に土塁で囲み、南に大手門と張り出し、土塁外側には水堀があった。
歴史的には鎌倉初期に氏家公頼の築城、戦国時代に成ると、崖の上、山頂に築かれる様になり氏家でも勝山城が鬼怒川の崖を利用して築かれた。
大正12年(1923年)氏家小学校の新築移転により城郭の大部分は破壊されたが北東部角にわずかに土塁が残る。矢板市の御前原城、那珂川町の神田城などとともに栃木県の代表的な中世平城であった。(以上の規模、歴史は案内解説板による)
これしか残って無い、これだけでも残してくれたは探訪する方の心持と考え方ですが、私はこれだけでも良く残してくれたと考えます、樹木も伐採し、草刈りもして遺構を大切保存して呉れています、学校に許可を得て気持ちよく見学探訪出来ました。
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