がっさんひわじょう

月山日和城

宮崎県都城市

別名 : 三俣院兼重本城、三俣院高城、高城
旧国名 : 日向

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模擬天守はお休み
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しんちゃん

北の高城神社は眞城跡とされる。 (2025/05/07 訪問)

月山日和城は高城町の市街地の北の丘陵上にあり、慶正寺の西側、内の城・池の城のあたりに模擬天守が築かれています。北を堀切道が東西に走り、その北側の丘陵上も城址になります。最も訪問しやすいのが眞城(西の城)とされる高城神社のある郭で、南側は厳しい切岸になっています。眞城の東に本城、中の城と呼ばれる二つの郭が有ったようですが、現在は原型を留めていないようです。その東には樽原と呼ばれる比高15mの扁平地があります。
後醍醐天皇の初年(1318)肝付八郎兼重が三俣院司としてここに在し、暦応3年(1340)南朝方として畠山直顕の大軍と戦いました。兼重は家臣・江田家定の犠牲によって落ち延び、本城である肝属(鹿児島県)の高山に帰り着くことが出来たようです。
延文3年(1358)肥後の菊池武光が城を奪取し、明応4年(1495)には伊東氏の城となり、八代長門守が置かれました。天文元年(1532)島津氏が伊東氏の八外城を奪回にかかった際には、島津氏に従う都城の北郷氏に落とされ、天正15年(1587)に豊臣秀吉が九州を統一した際には都城を伊集院氏に与えたので、その支城となったようです。

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ゆき

庄内の乱における古戦場 (2024/01/05 訪問)

南北朝時代から安土桃山時代まで幾多の戦乱に巻き込まれた場所のようです。島津家を揺るがすきっかけとなる庄内の乱の際もこの城下で戦があったようです。

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しんちゃん

日向三高城 (2014/01/11 訪問)

月山日和城は別名「高城」といい高城と穆佐城(これも高城)と合わせて日向三高城と呼ばれていたそうです。築城時期は不明ですが肝付兼重による築城と伝えられます。戦国には島津氏・伊東氏・北郷氏・伊集院氏と次々と城主が変わりますが元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になったとのことです。模擬天守の建つ池の城の他、6つの曲輪を持ち空堀で区切られますが、予備知識なしで訪問したので池の城しか見ていません。正直次はいつ訪問できるかわからないので、えいやで登録してしまいます。ご容赦を‥

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零汰

模擬天守 (2019/06/21 訪問)

模擬天守と復元天守、現存天守があるとを知らない訪問を始めたばかりの3年前に行た城。初めて模擬天守を自覚出来た城です。それまでも幾つかの天守を見たはずだったがここでの出来事は忘れられない。

天守の1階は児童クラブのような様相で子供が何人かいました。説明を聞いて上に上がろうとするとそこから驚きの連続。「え!ELVあるの?」「誘導灯ついてるよ、非常照明もスプリンクラーも」ELVで最上階まで登り降りてくる。「中身は普通の建物じゃん」恥ずかしながらそのころの自分は天守は全て当時の物と思っていたのかもしれない。

航空写真を見て各曲輪を廻った、中の城には神社があり周囲には土塁が確認できる。新城との間には堀切道が大きな口を開いていたので進めなくなるまで中に入って行った。新城に無理くり登って確認したが撮った写真では曲輪を確認することが出来ない。周囲を見渡すとどこもこのような状態だったので諦めて終了しました。

その頃は写真を今ほど多くは撮っておらず天守や神社の写真は1枚もない。多分初期で城跡訪問の際の要点が分からなかったのだと思います。



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城郭情報

分類・構造 山城
天守構造 複合式望楼型[3重4階/1992年築/RC造模擬]
築城主 肝付兼重
築城年 元弘年間(1331〜1334)
主な城主 肝付氏、北畠氏、和田氏、島津氏、八代長門守(伊東氏家臣)、落合兼佳(伊東氏家臣)、北郷氏(島津氏家臣)、伊集院氏(島津氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪[樽原・真城・桶広・本城・中ノ城・内ノ城・池ノ上・取添]、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡
再建造物 模擬天守(歴史資料館)、石碑、説明板
住所 宮崎県都城市高城町大井手字横馬場
問い合わせ先 都城市教育委員会事務局文化財課
問い合わせ先電話番号 0986-23-9547