いいのやじょう

井伊谷城

静岡県浜松市


旧国名 : 遠江

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①	龍潭寺拝観口
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トク

101【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城③-直政と龍潭寺) (2024/02/14 訪問)

(26人目)井伊直政の続き③です。
井伊谷城の麓にある「龍潭寺」を訪れてきました(写真①②)。訪れたのは2月ですが、ちょうど「しだれ梅」がきれいに咲いていました(写真③)。

境内には井伊家にまつわる資料や木像などがあり、直虎や直政に関する展示もなされていました(木像写真④⑤)。井伊家歴代の霊殿や墓所もありました(写真⑥⑦)。墓は左手前から、直政・直親の妻(直政の母ひよ)・直親(直政の父)・直虎(直政の叔母で養母)だそうです。

また江戸時代に造られたという立派な庭園もありました。「小堀遠州」の作だそうです。どうりで立派な庭園だと思いました。江戸時代に入り、彦根藩2代藩主で直政の次男「直孝」が遠州に懇願し造らせたそうです。説明が静かに流れてきたので、座って聞きながら庭園を眺め、ふと気づくと30分も見入ってしまいました。なぜか妙に落ち着く庭園です。この座って正面から眺められる書院(写真⑧)は、幕末に訪れた大老「井伊直弼」をもてなすために建てられたものだそうです。そして右のこの角度(写真⑨)から見て遠近感を楽しむのがオススメだそうです。その遠近の先(左上)には井伊家霊殿につながっています。全体的に鶴が羽を広げた形を枯山水で表現し、その中に亀が大海に向かう姿を見立てた岩があるそうです。さあその岩はどこか・・・みなさん分かりますか?🤔 ペリー来航など動乱の最中に訪れた井伊直弼は、ここで井伊家の先祖を拝みながらこの庭園を眺め、いったいどんな事を考えていたのでしょうか?

私はこの庭園を眺めながら虎松(直政)の事を考えてみました。13才で井伊谷に戻り、直虎の養子となった虎松は、ここで南渓和尚や直虎の下で修業に励みます。そしてついに虎松は、自分から井伊家を再興したいと願い出たのでした。それはなぜだったのでしょうか? でもそれは直虎にとってはさぞかし嬉しかった事でしょうね。

そして14才になった虎松は、その願いを果たすべく、井伊谷を出て、家康に会うため浜松へ向かいます。

次は、虎松(直政)と家康が初めて出会った鷹狩の地を訪れます。
 

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トク

100【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城②-直虎と直政) (2024/02/14 訪問)

(26人目)井伊直政の続き②です。井伊谷城を訪れてきました。
祝田からまた同じ奥山行のバスに乗り10分「井伊谷」で下車しました(写真⑩)。

バスを降りてすぐの右手の路地に入ると井伊家居館跡がありました(写真①)。公民館には説明板が立っていて、この公民館とその右のアパートが建っている場所この一帯に居館があったようです(写真⑦)。そして後方に見える山が「井伊谷城」です。ここにあった居館で、幼い頃のおとわ(直虎の幼名)は父の直盛と過ごしていました。さあここから井伊谷城まで15分の登山です。登山道は狭く急坂ですが舗装されていたので登りやすかったです(写真②③)。訪れたのは2月中旬でしたがのにもう彼岸桜が満開に咲いていました(写真④)。

山頂本丸まで登ると(写真⑤⑥)、ここから井伊谷が一望できました(写真⑧⑨)。龍潭寺や祝田も見えました。その向こうには三方ヶ原や浜松があります。ドラマでは、幼い頃のおとわ(直虎の幼名)と亀之丞(直親の幼名)がいっしょにここでよく遊んでいたシーンがありましたね! おそらくこのあたりでしょうか? 竜宮小僧が出てこないかキョロキョロ見渡しましたが、私の前には現れませんでした(笑)。今川からの支配がなければ、直虎と直親は夫婦になってここで幸せに暮らしたのかも・・・? ありえなかった話ですが、そんな二人も見てみたい気持ちになりました。

井伊家が今川から滅ぼされて10年後、井伊家を滅ぼした今川も武田から滅ぼされ、またその武田も織田から滅ぼされ、井伊谷は徳川の所領となりました。直親の13回忌の法要を機に、直虎は鳳来寺より虎松を呼び寄せ養子とし、龍潭寺にて修行させます。そして二人はここから井伊家再興を夢見るのでした。

次は、その麓の「龍潭寺」へ行ってみます。
 

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トク

99【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城①―直政出生の地:祝田) (2024/02/14 訪問)

最後(26人目)は「井伊直政」です。これから直政ゆかりの地を訪れ、直政の人生を追って行こうと思います。よければ最後までまたよろしくお願いいたします。

私は(これはあくまで私の個人的主観なのですいませんが)この井伊直政が、関ケ原勝利の最大の殊勲者であり、江戸幕府安定の礎を築いた最大の功労者であると思っています。しかし直政は、関ケ原から2年後、島津豊久軍から受けた鉄砲傷がもとで、わずか42才の若さで亡くなってしまいます。その亡くなるまでの42年間の人生をこれから追って行こうと思います。そして直政はいったいどこで狙撃されたのか? 最後はいまだ解明されていない、その謎にも迫って行こうと思います。

まずは出生の地、「祝田(ほうだ)」を訪れました。三方ヶ原や崔ヶ崖を訪れた翌日に、また浜松駅前から再び同じ奥山行のバスに乗り50分、三方ヶ原から坂を下った所にある祝田のバス停で下車しました(写真⑩)。さあここからが井伊の領地「井伊谷(いいのや)」です。

虎松(直政の幼名)の父は「井伊直親」、母は奥山(井伊家親戚衆)の娘「ひよ」です。1561年に虎松は、この祝田にあった直親の屋敷で生まれたと伝えられています。でもその屋敷がどこにあったのか、今はその痕跡もなく、よくわかりませんでした。しかし、直親の墓が、目の前を流れる川を渡ったすぐ左の土手沿いにありました(写真①②③)、おそらくこのあたりに屋敷があったものと思われます。さらに1km程行った所にある龍潭寺には、直政出生の地碑もありました(写真④⑤)。

また井伊谷城の麓の地域遺産センターでは、大河ドラマ「おんな城主直虎」(柴咲コウさん主演)のパネル展示もありました(写真⑥⑦)。直虎は直親の従兄弟で幼い頃いいなずけでもあった事は、大河ドラマを見られた方はよく御存知ですよね! ここには井伊谷の歴史の説明や井伊谷城の発掘調査で出土した品々の展示などもされています。見入っていたら親切にいろいろ説明までしていただきました(ありがとうございます)。最後にどこから来られましたか? と聞かれたので、九州の福岡ですと答えたらビックリされました。

今川の家臣であった直虎の父の直盛は、桶狭間で討死してしまいます。唯一残った井伊家男子であった従弟の直親も、松平元康(徳川家康)に内通していると今川氏真より疑いをかけられ、直親は弁明するため駿府へ向かいますが途中で暗殺されてしまいます。そしてその遺体はここ祝田に運ばれて荼毘に伏され、その地にこの墓が立てられたとの事です。幕末には大老「井伊直弼」もこの墓を訪れたようです。

その後も直虎が今川の徳政令に反発した事で、ついに井伊家は今川に滅ぼされてしまいます。しかし直虎が女であったため次郎法師と名乗り龍潭寺へ出家する事で命だけは許されました。2才の虎松(直親の子)は男子であったため命を狙われましたが、密かに家臣の新野親矩によって信濃山奥に今川に分からぬよう匿われ、8才になってからは三河鳳来寺で修業したようです(写真⑧⑨)。

では次は、この先にある(井伊谷城)に登ってみます。
 

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じゅんじん

龍潭寺 (2023/10/07 訪問)

井伊家の菩提寺です。お庭が有名。大河の主人公だった直虎のお墓もあります。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 井伊共保
築城年 寛弘7年(1010)
主な城主 井伊氏
遺構 曲輪、土塁
指定文化財 市史跡(井伊谷城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 静岡県浜松市北区引佐町井伊谷字城山
問い合わせ先 浜松市役所生活文化部文化財課
問い合わせ先電話番号 053-457-2466