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くうくう

尾張名古屋は城でもつと詠われた名城

日本三名城。江戸城天守、大坂城天守が江戸初期に焼失したため、江戸期を通じ高さ容積など日本一の天守として名高い。1945年5月14日の空襲で焼け落ちたのは残念なことだった。小天守と橋台によって連結した層塔型天守は1959年に銅瓦葺の外観復元天守として再建された。他にも2018年に本格的に復元された本丸御殿。現存し、重文指定を受けた3つの櫓、西南隅櫓、東南隅櫓、西北隅櫓など見所は多い。

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くうくう

7つの石塁が復元整備された国史跡

高さ20mほどの丘陵に珊瑚性石灰岩の石塁がある。15基確認、7基が復元された。グスクに類似しオヤケアカハチ居城跡の言い伝えもあったが、最近の発掘調査などから石塁を伴う集落の可能性が強いらしい。実際2mほどの石塁が周辺に散見するが、攻撃的あるいは守備的な構造は感じられない。平らな広場にはきれいに芝生が張られていた。

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くうくう

日本最南端の有人島「波照間島」のグスク

ぶりぶち公園の碑があり公園になっているが、荒れて半ば密林の薮になっている。野積みの珊瑚性石灰岩の石塁がめぐる。段差のあるいくつかの曲輪に区切られている。ハブはいないと言われているので思い切って踏み込んでみた。城砦らしさを感じるが全体の構造は把握し難い。北側の曲輪から西表島が望める。

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ぴちょまる

岡山城(2022年リニューアル後) (2023/11/13 訪問)

以前、登城したときはリニューアル前の雪の降る日だったので、あまり時間がかけらなかったのが残念で、
今回は改めてゆっくり廻ることにした。
初日は、定番の北側の方から順に。
日が当たると燦然と輝く鯱が遠くからでも目につく。
天守内は、壁、扉、柱、面という面に情報を載せまくっており、全部読もうと思ったら相当の時間を要するはず…
エレベーターも売店も、カフェもある。
階段の昇降スペースをアクリル板?で分離しているのも、導線を交差させないためか。
外観復元と割り切り、別棟として作りそうな資料館を兼ねているのが興味深い。

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ペドロ

松前城をほぼ貸切見学 (2019/11/19 訪問)

Covid-19が収束していない頃でしたが、新聞記事で松前藩家老 松前 勘解由氏のご子孫が刀2振りを松前町に寄付し、松前城に展示してあるとの記事を発見しました。「すぐに見にいかなくては」と私のお城スイッチが入った瞬間でした。金曜日の仕事を終え、札幌から松前まで向かい車中泊しました(381キロ)。
 松前城は、戊辰戦争のおり落城の憂き目にあいました。そもそも同城は、福山館と呼ばれており松前藩が無城待遇であったことによります。幕府からの築城命令により、箱館の地が候補となったが、費用負担から断念し福山館を拡張することになったそうです。
総工費は約15万両と概算され、築城の最大の課題は費用捻出であり、家臣俸禄一割献上、御用商品からの献金、町内会、町民からの献金や労働力提供が行われたそうです。御用商人の中には櫓一基分もの巨費を献金した者もいたそうです。1855年(安政元年)9月末に工事は完成し、松前福山城と呼ばれることとなりました。町人や商人、領内各村のそれぞれ有力者や多額の献金者が集められ、完成の祝宴が行われた。今で言うと、自治体、企業、町内会、市民(産学官民)皆で築城した「おらが町の城」とも言えます。11月の松前城は訪れる人も少なく、ほぼ貸切の状態で城を散策出来ました。城を独り占めした気分で楽しい登城となりました。
 最後に、松前城天守の木造再建計画が示されてから久しく新たな情報が出てきません。おそらく、財政面の問題が大きいのだと思います。令和の今、広く全国から募金を集めて計画を進めて欲しいです。完成時には、寄付者を募り令和の大宴会を本丸広場で行うのも楽しいですね。

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カズサン

リニューアル天守を初登閣 (2023/10/07 訪問)

 令和の大改修が完了して昨年令和4年11月3日天守閣がリニューアルオープンしました。今回の3泊4日の中国地方未踏の城廻の途中に安芸北部、備後の後4日目備中の冠山城、早島陣屋を終えて、ここまで来たのでと岡山城に寄りリニューアルオープンした天守閣に登りました。

 駐車場:内堀西の烏城公園駐車場(満車で数台の駐車待ち)、なので南隣の県立図書館駐車場1台空きが有り利用。
 参考資料:グーグルマップ

 当日は土曜日そして城内は桃太郎まつり開催中で大賑わい、今回の目的は最近復元?した「供の腰掛」建物とリニューアル天守閣の探訪、ルートは大手門跡⇒復元供の腰掛⇒鉄門跡⇒不明門⇒本段、天守登閣⇒月見櫓中段⇒下の段広場のイベント見学。

 初「供の腰掛」見学、当日はイベントの受付に成って居ました、天守閣は鯱、鬼瓦、軒瓦の金箔が光り輝きリニューアルした天守を飾って居ました、奇麗です。
 天守内はオープニングに城で有名な岡山県出身の磯田先生のコメントが展示されそこよりスタート、地下一階の立体模型が私的には一番記憶に残って居ます、各階のフロアーは透明アクリル板で細かく仕切られて狭苦しい、動きずらい、奇麗になった火灯窓、窓から金ぴか越しに眺める後楽園、サラッと見学、料金400円JAF割で320円でした。

 下の段で開催してる桃太郎まつり会場を覗き会場内一周、他地域の紹介テントで、鳥取市、高梁市、高知市、津山市などの紹介が有り各都市の城郭のパンフレットを頂きました。 会場では屋台も出て居り、岡山津山名物のホルモン焼うどんの匂いが食欲を誘いますが、持病の痛風にてホルモンを控えています、結局昼食は途中のコンビニでサンドイッチとおにぎり。

 この後は乙子城へ向かいます。
 

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三ノ姫

初投稿🏯 (2023/11/16 訪問)

一人で日帰り白川郷に行ってきた。観光ついでに展望台へ登ると横に城跡があり驚いた。
テレビでは何度か見たことはあるが、この目で見たのは初めて!
旅は中々出来ませんが、今度は岐阜県にある八幡城などに行ってみたいです。出来れば日帰りで。
あと15年くらい前に姫路城にも行ったことがありますが、そこも印象的でした。
その頃は観光目的で歴史に興味なかったのですが広くて圧倒されたのは覚えています。

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イオ

円郭式縄張めぐり (2023/08/06 訪問)

(続き)

下屋敷を出るとまずは本丸に向かいます。下屋敷の北西を流れる六間川は(流路は改変されているものの)かつての四之堀にあたり、新宿木戸と番所が設けられていましたが、痕跡はなく案内表示が見られるだけです。作事役所跡の標柱を横目に進んだ先には三日月堀(馬出曲輪)の説明板が立てられ、その奥には三日月堀が! 一部だけとはいえ、住宅地の中に三日月堀が見られるのはありがたいことですね。三日月堀の奥の二之丸と本丸は小学校になっていて、校門脇に本丸跡の標柱が立てられているのみです。小学校の前を通り過ぎて少し行ったところが大手二之門跡で、大手二之橋を模した木橋が二之堀に架けられています。

続いては北側の四之丸へ。御成街道へと続く平島口側には不開門と呼ばれた平島一之門があり、その外側には馬出曲輪と三日月堀が設けられていましたが、いずれも文字の消えかかった標柱があるだけで遺構は失われています。三日月堀跡から畑となっている三之堀沿いに西へ向かうと、道が緩やかにカーブしていて円郭式の縄張を実感します。畑の奥には三之丸土塁も何箇所か遺っていて、家老屋敷の土塁も見られました(家老屋敷跡には三之丸側から行けますが、見落としてしまいました)。さらに進んで西側に回り込んだところには、中学校の裏手に三之堀と土塁が明瞭に遺っていました。

城外では、中学校から西に約300mの姥ヶ池は、田中城の水源として木管で城内に水を引いていたようです。姥ヶ池から北に約400mの田中神社は、かつて城内にあった稲荷社に東照公を合祀して大手側の現在地に遷座した神社です。そして、田中神社から大手道に至る県道の合流点に建てられた田中城跡の石碑を確認して、円郭式縄張めぐりを終えました。

住宅地でもあり遺構の多くが失われていますが、それでもあちこちに堀や土塁が点在し、説明板や標柱も随所に立てられており、何より「自転車で西に向かっていたはずが、緩やかに弧を描く道を走るうちに気が付くと東向きだった」なんてのは円郭式縄張ならではの経験でした。終わりがけに雨に降られたこともあり、見落としはいくつかあるものの、なかなかに堪能させていただきました。
 

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にのまる

肴町向櫓 (2023/09/08 訪問)

東大手門から水堀の外周をまわって西不明門に戻ったところで霞城公園をほぼ一周したことになりますが、ここから今度は土塁の上を櫓台跡を確認しながら東大手門までUターンして戻りました。
何かあるぞという気配は外周を歩きながらも感じていたのですが、外から見上げた北門を土塁の上から見下ろすとお城体験をしている実感が湧いてうれしくなってくるし、土塁の上を歩けるのもほんとうにありがたいし楽しいです。
 やがて見えてきた櫓台。『肴町向櫓(さかなまちむかいやぐら)』です。
ストレートなネーミングも印象的ですが、ここは外側から見てめちゃくちゃかっこよかった横矢枡形の西の角部分にあたります。葉陰にチラッと見えた櫓台にやっとたどり着きました。櫓台は補った石がわかるように復元が施され、遺構を保護しつつ現代によみがえらせていることがうかがえて、風来の旅人も楽しませてもらえるのがありがたいなあとしみじみ思います。
この周辺からは4トンもの瓦が発掘されたのだそうです。どんだけでっかい櫓だったんだよ!?と思ってしまった私はまだまだ初心者で、江戸時代を通じで補修や建て替えを繰り返しながら存続していたのだそうです。発掘によってさまざまなことがわかるのはすごいなーと思うと同時に、やっぱりこの場所の<映え>は放置すること能わずだったのだろうなと感じました。
<つづく>

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ぴーかる

石原城 (2023/10/21 訪問)

【石原城】
<駐車場他>洞玄寺駐車場<35.298049, 135.178090>に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>現地説明板によると石原城は天文年間(1532~1554年)に大槻光頼、または大槻政治が安芸国からこの地に土着して城を築いたとされます。大槻政治は隠居し洞玄と名乗り草庵を営んでいました。死後荒廃していたのを石原の僧、華翁が寺を造り大槻安芸守の法名にちなんで洞玄寺と呼称するようになったようです。
 城跡は北に突き出た丘陵地になっています。北側は高さのある切岸になっており南側に空堀と土塁が僅かに残っています。洞玄寺辺りが主郭跡だったらしく、二郭以下は現在は京都府立工業高校になってしまっているようです。

<満足度>◆◇◇

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しんしんちゃん

遺構を多く残す城。本曲輪虎口を下ると石畳らしきものが。 (2023/11/12 訪問)

座光寺南城は坐光寺氏によって築かれた山城(平山城)です。北側のフルーツラインから分岐した道から入ることも可能ですが、私は南側の麻績神社から続いている登城道を使用しました。まずは南曲輪と堀切を確認した後、北上し東屋のある曲輪から本曲輪に入り込みます。本曲輪の周囲には土塁が残り虎口は北西についてます。土塁の内側に用途不明の内堀が続いています。虎口を下って行った先には石畳らしきものがあります。これから本曲輪に入るぞって合図でしょうか?さらに北上すると堀切を経て北曲輪が上段と下段に分かれて存在し、上段の方は土塁が残っています。さらに北に行くと堀切と土橋があり御鍬社跡の曲輪などいくつか遺構が残っています。その先は車道に続いているようなので、一度引き返し、西曲輪を散策したあとは通路を兼ねた長大な竪堀(横堀)を通って元来た道に引き返しました。

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しんしんちゃん

坐光寺北城  長野県飯田市坐光寺字城 (2023/11/12 訪問)

坐光寺北城は南城の東側にあり台地上に築かれた平山城で、鎌倉時代前半に坐光寺によって築かれたとされています。天正10年の織田信長の信濃侵攻の際に落城したと伝わります。広い台地状一帯に築かれており、北は耕雲寺から南は坐光寺小学校までを城域とし耕雲寺と南側の保育園との間に堀切の跡が残ります。小学校全域が4つの郭で分けられていますが全容は確認できません。日曜に訪問していますが、校門は常時開いていて注意書きも無いので南曲輪にある北本城古墳のみ確認させていただきました。台地全体の西側を流れる本沢井は人工的な川で堀でもあったようです。

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朝田 辰兵衛

空気感が変わりました… (2023/10/08 訪問)

城端城から,徒歩約60分。周辺の集落は独特の空気感を漂わせています。生活するにはかなり不便なところという印象。道路標識に目を向けたら,東の方向には「白川郷」や「五箇山」の標識。西の方向には「金沢」の標識。その通過点といえば,自然と越中の香りからは遠ざかる気がします。

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しんしんちゃん

中世前期、後期の縄張りを残す城 (2023/11/12 訪問)

船山城は天竜川の支流と、同じく天竜川の支流である片桐松川に挟まれた河岸段丘の先端地に築かれています。南北朝時代に北朝方であった片桐氏の城で、天正10年の織田信長の信濃侵攻時に城主・片桐正忠は討死したと伝わります。先端部の遺構が多く残る部分は中世前期の城で西側の広大な果樹園から御射山神社、瑞応寺に至るあたりが中世後期の城とされています。おそらく通常は後期の城に住み、有事の際に前期の城を詰めの城にしたのではないかと考えます。果樹園を丘陵の先端部に向かって東に進むとゲートがあるので、そこから中に入ります。詰めの城は4つの郭から成り、郭の間を堀切で遮断し、土塁が一部残ります。尾根先をまっすぐ進んでいく形になりますが、郭の間に高低差もあり端部を石垣で補強してあるのであなどれない防御力を備えています。いくつか堀切をわたり詰めの城の最東部にたどり着きます。詰めの城としては十分な広さがあり、十分主郭の雰囲気を漂わせています。織田氏の侵攻時には最後にはここに籠って戦ったはずなので、詰めの城の最東部が落城時の主郭であったであろうと推測します。そう思うと神妙な気持ちになり一礼して主郭を後にしました。
補足‥漢字で「4つ」と入力するとエラーが出ます。ちょっとAIが過敏に反応し過ぎですね。数の入力もできないのはどうかと思います。

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カズサン

陣屋石橋と石垣水堀が残ってる (2023/10/07 訪問)

 早島陣屋は備中庭瀬戸川氏の分家3400石の旗本早島戸川家陣屋です、岡山県未踏の城廻り4日目で冠山城に次いで4城目に成り初登城初探訪です。

 駐車場:早島陣屋石橋南側の早島児童館・早島小学校駐車場を利用、トイレ無
 参考資料:城びと、グーグルマップ、早島戸川家陣屋跡解説板による。

 車を駐めた所が、陣屋の石橋と石垣造りの水堀で皆さん掲載の写真で認識出来ました、絵地図によると石橋の前後が陣屋の虎口枡形跡の様です、小学校は陣屋跡、石橋の北奥に「戸川家陣屋址」の石碑が有り絵図によると表門跡辺りの様です、白壁土蔵造りの戸川家記念館に寄るが開館日は日曜日と祝日のみで訪ねた日は土曜日で休館、見学出来ず、西隣に土塀で囲まれた立派な武家屋敷、重臣か戸川氏かの屋敷の様、記念館北奥に井戸跡が在るが屋敷土塀に囲まれて入れず、土塀に写真付きで案内板が在る、土塀越しに井戸の屋根が見える。 詳細は町指定史跡早島戸川家陣屋跡の解説板を写真掲載しますのでご覧ください。
 
 昔の街道は町筋と称されて、土蔵造りの町屋が建って往時の風情が残っています。
 

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AJ

忠臣蔵で江戸ある記

江戸城おまけ。時間の許す方はどうぞ(東京都港区・泉岳寺、同墨田区・吉良邸跡)

未だ多くの日本人が愛してやまない忠臣蔵。とはいえ、史実としての「赤穂事件」は今なお謎だらけで、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介に斬りつけた本当の理由さえ判然としないのだとか。

近年の作品は内匠頭を単なる悲運の人としてではなく、持病の痞に苦しみ、短慮で(?)藩を潰した人物として、その不安定な性格を丁寧に描くものもあります。大石内蔵助についても、吉良の処分が叶わず、御家再興の望みも絶たれたため仕方なく討ち入りに舵を切ったという解釈も聞かれます(京での遊蕩は隠れ蓑ではなく、本気のストレス発散だったという見方すら、、)。

このほか、討ち入り当日に雪は降っていなかったり(降ったのは2日前)、入山形の羽織は羽織っていなかったり(指定された服装は火事装束)、山鹿流の陣太鼓は鳴らしていなかったり(引き上げの合図はドラ)などなど、見せ方を重視するエンタメとの境界は依然曖昧だったりするようです。

それでも、数々の作品を通して、主君の「仇討ち」という快挙に歓喜した当時の人々の心理を300年以上経った今も追体験できるわけですから、これはこれで有意義な現象なのだと思います。一方で、後世を生きる身だからこそ、若干引いて眺め、極端に公平性を欠く見方をしないよう努めることも必要なのかもしれません。

赤穂浪士による事件が講談や浄瑠璃で日本人好みの「勧善懲悪」に染まったのは元禄15年12月14日(旧暦)の討ち入りから半世紀ほど経った後のこと。エンタメとして喝采を浴びたのは、むしろ当時の幕府への不満の表れと取る向きもあるようです。いわゆる判官贔屓の構図ですかね。

ちなみに、“悪役”吉良は地元の愛知県西尾市では善政を敷いた名君として親しまれています(一説では「忠臣蔵」の視聴率はゼロとの噂も、、)。同市の吉良町と兵庫県赤穂市は1990年、吉良邸のあった東京都墨田区の仲介で「復縁」しているそうです。

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カズサン

加藤清正一番槍が伝わる冠山城 (2023/10/07 訪問)

 備中高松城攻め(水攻め)前哨戦での合戦が伝わる冠山城、加藤清正の一番乗り功名話も本丸の「冠山合戦を偲ぶ」掲示板に記されてる。

 駐車場:冠山城東麓の足守コミュニティハウスを利用、トイレ無
 参考資料:グーグルマップ、余湖図コレクションさん、城郭放浪記さん、城びと投稿による。

 3泊4日因幡、出雲、備後、安芸北部を終えて3日目の午後に造山城/造山古墳、亀山城、高松城を終えて、総社駅前のホテルに泊まり夕食は周辺の寿司屋さんで大将と女将との喋りと寿司に肴・日本酒で楽しく過ごしました。
 
 4日目の朝より備中、備前未踏の城廻3城目(1城目造山城、2城目亀山城)に当たる冠山城を初登城。
 前日確認していた足守コミュニティハウスの駐車場を利用して、確認済みの東側登城口より入城、集落の道を登り、大手門跡の看板、脇に竹やぶ内に窪みが在る、三の丸看板、二の丸看板を経て本丸切岸沿いの登城階段を登り虎口、本丸内部に進入、内部には立派な「冠山合戦戦死将兵慰霊碑」、供養五輪塔、冠山合戦を偲ぶ看板、看板には合戦の情報と「加藤清正一番乗り功名話」も載ってる。
 冠山城は本丸を中心に下段を帯曲輪が囲み、二の丸、三の丸と東側に多段曲輪の構えの様です、しかし遊歩道は問題ありませんが、他の個所は竹藪、倒竹で入り込めず、眺めるだけ。
 足守コミュニティハウスへの進入路の交差点に国指定重要文化財の葦守八幡神社鳥居が有ります、この鳥居は安芸の宮島の鳥居と同様な、神明鳥居の基部に稚児柱を伴う両部鳥居で石鳥居のこの形式のものは珍しいとの事です。ここが一の鳥居で約500m程北奥に葦守八幡神社が鎮座しています。

 この後は4城目早島陣屋へ向かいます。
 

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広島城

史跡広島城跡二の丸復元建物企画展「復元武将甲冑」

有名武将の甲冑が広島城二の丸にやってくる!

大河ドラマなど数々の時代劇甲冑を製作している甲冑工房 丸武の甲冑を、二の丸復元建物で展示します!
大陸から日本に伝わった甲冑は、時代とともに変化する戦闘方法に合わせて日本独自の発展をとげ、近年では、歴史資料としてだけではなく優れた美術工芸品としても評価されています。
本企画展では、毛利氏をはじめとした広島ゆかりの武将や、天下人など10体の復元甲冑のほか、甲冑制作の小物や資料も紹介します。

🏯会期 令和5年11月23日(木・祝)~12月21日(木)
    9時~16時30分(入場は16時まで)
🏯会場 史跡広島城跡二の丸復元建物(広島県広島市中区基町21番)
🏯入場料 無料

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イオ

田中城下屋敷 (2023/08/06 訪問)

室町期に今川氏の命により一色氏が築いた徳一色城を前身として、武田信玄の駿河侵攻で開城すると馬場信春が大改修して田中城と名を改め、山県昌景を城主としました。長篠の戦いの後は徳川家康の侵攻を再三食い止めるも、江尻城主の穴山信君の降伏に伴って開城。家康が関東に移封されると駿府城に入った中村一氏の支配下となるも、中村氏の米子移封により再び徳川方の城となり、酒井忠利が入って現在見られる縄張に拡張・改修しました。その後、駿府藩領や幕領を経て譜代大名が次々と入れ替わり、江戸中期に本多氏が入って明治まで続きましたが、徳川家達の駿府入りに伴って駿府藩領となり、やがて廃城となりました。

本丸を四重の堀で同心円状に囲んだ円郭式縄張が特徴で、湿地帯に囲まれ、主な虎口に丸馬出を6箇所も設けた甲州流の城として平城ながら難攻不落を誇りました。

下屋敷の駐車場に車を駐め、積んできた折りたたみ自転車で円郭式の縄張をめぐる…前に、まずは下屋敷内の見学から。田中城下屋敷は江戸後期の城主下屋敷跡で、泉水や土塁のある庭園が復元され、田中城の関連建物が移築されています。

本丸櫓は本丸南東隅の石垣上に建っていた「御亭」と呼ばれる2階建の建物で、本丸櫓内には田中城のジオラマや田中城と徳川家康に関する様々な資料が展示されています。田中城は大御所時代の家康の鷹狩の宿所であり、死因とも云われる鯛のてんぷらを食べたのも田中城だったんですね。2階からは下屋敷を広く見渡すことができました。本丸櫓の他にも下屋敷の庭内から移築されていた茶室、城内から移築されていた仲間部屋と厩、長楽寺村の郷蔵が移築復元されています。下屋敷の庭園にあった築山や稲荷社は失われていますが、泉水や土塁が往時の面影を伝えています。また、下屋敷から南東に約400mの旭傳院には田中城の不浄門が移築されていますので、こちらもどうぞ。

さて、下屋敷の受付で田中城跡散策ガイドと田中城遺構図を(下屋敷のパンフレットも)もらって、円郭式の縄張めぐりに向かいます(続く)。
 

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赤い城

レオマワールドを見下ろしながら (2023/11/05 訪問)

綾歌森林公園の駐車場に車を停めます。
駐車場には西長尾城の案内板もあるのでわかりやすい。
公園を経て舗装された登城路を登ります。
カーブする部分には曲輪を見ることも出来ます。
途中、見晴らしの良いエリアがあり、レオマワールドを見下ろすことができます。
そういえば車で来る途中にレオマワールドへの入口もありました。
さらに登っていくとちょっと脇に入れそうな道?が。
例のごとくそちらへ。
すると登城路の脇に竪堀がありました。
よく見るとこの登城路と合わせて二重になっているようです。
登城路の方は動線だったとも思われます。
登ると石が転がっている部分が。
虎口っぽく門のようになっています。
さらに登ると通常の登城路へ、連郭式曲輪列に出ました。
ここからは整備されていて、下には井戸跡や竪堀も残っています。
もう少し上にも連郭式曲輪列があり、今度はここから下に降りて見ました。
未整備ですが藪も枯れていて歩きやすかったです。
先の曲輪の下には堀底道っぽい通路?が。
きっと堀底道に違いありません。
と言い聞かせながら本丸を目指しました。
本丸からは眺望もよくここでも達成感を感じることが出来ました!
しばらく景色を眺めたあと今度は東側の尾根に降りて行きます。
ヤグラの先には曲輪列との間に堀切、さらに尾根の先には二重の堀切が守っています。
長尾氏代々のの居城でしたが長宗我部氏に攻められて落城。
ほぼ土の城で見ごたえあり、整備もされているのでおすすめのお城です。

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