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しんちゃん

島津歳久公最後の居城 (2025/05/09 訪問)

虎居城は川内川にヘアピン状に突き出ている丘陵上に築かれていました。宮之城中学校(高校?)も東ノ城とされる城址の一端で、先にオキタ城・シヲノ城・中ノ城と郭が続き、丘陵上に松社城とされる広い郭が有ったようです。本来は宮之城中学校の脇から続く道を通って松社城まで行けるはずですが、ゲートに鍵がかかっているので先に進めません。さつま町の文化財課に話を聞くと、国土交通省の管轄で城址公園化が進められているので、立ち入ることが出来ないとのことです。
花房山城や瀬平ノ城のような完全な「不発弾」ではありませんが、公園が完成するまで「不発弾」として扱わせていただきます。正直、いつになるか解らないけど、公園が完成したら訪問したいですね。とりあえず、東ノ城までに留めておきます。

虎居城は渋谷氏の城でしたが、1566年 城主渋谷良重が祝宴で妻の杓で寄っている時に、妻の懐剣で殺され渋谷氏は滅んだとされています。後の城主・島津歳久は豊臣秀吉の薩摩侵攻の際、家中一同が和睦に傾いた際に、兄弟で唯一抗戦を訴えました。
移動中の秀吉を悪路に誘い込み、家臣の本田四郎左衛門に秀吉の駕籠に矢を射かけさせますが、襲撃を予測していた秀吉は駕籠を空にしていたため難を逃れたそうです。後に秀吉の圧力から、やむをえず兄・島津義久は歳久に対し追討の兵を出し、歳久は中風の後遺症で腹を切ることもままならなかった為、石を懐刀と見立て、家臣・原田甚次に首を取らせたとされています。

鹿児島市吉野町の平松神社には島津歳久公と殉死者27名の墓石があります。虎居城が立入禁止とわかっていたら、ここに寄ってお参りをして来たのですが、少し残念です。

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しんちゃん

【遺構改変注意】主郭には土塁が残る。詳細不明の城。 (2025/05/10 訪問)

鳶ノ尾城は詳細の不明の城です。なかなか訪問のしづらい城址ですが、古城盛衰記さんの地図があれば、なんとか訪問は可能だと判断しました。サイトの写真を参考に墓地の近くから山中に分け入っていきます。昔は道がついていたと思いますが、今は草で覆われています。
このまま尾根上に取りつけば、城址をなぞってそのまま主郭までいけるはず・・・だったんだけど。
尾根を林道がブッタ切っています。当然のように尾根に取りつく道は無い。なにしてくれるんじゃい・・。なんとか登れそうな所から尾根に取りつき西に向かいます。しかし、どうにもイメージが合わない・・尾根沿いに行けば主郭に向かっていくはずなんだけど・・・一度林道に降りて、もう一度登って確認します。尾根を進んでいくと浅い堀切があって、出丸の様な郭が有りますが、その先は谷になってる。どうやら、林道で先の尾根ごと削り取られて、主郭が独立した丘陵のようになっているようです。案内板も登城道までないばかりか、遺構まで改変されてしまっている。林道を進んでいくと脇から入って行って主郭に取りつけそうですが、けっこう急な斜面を直登しなければなりません。主郭は頂部に扁平地があり、北側に土塁も残っていました。街道を見張るための城であれば、先の標高460mの地点にも見張り台のようなものがあるかもしれません。
ここまで連日ハードな城攻めを続けてきましたが、この城を攻めている時に、疲れが溜ってきていることを実感しました。体力を維持できるピークを越えると、カンや体のキレが鈍って来ます。気づかないうちにジワジワ疲れて来てますね。

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翡翠

名古屋城 (2024/07/17 訪問)

名古屋城内に入れないのは残念でしたが、本丸御殿に入りました。まだ、復元途中みたいですが、綺麗でした。

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翡翠

松本城 (2024/07/15 訪問)

松本も天気が悪かったです。松本城、迫力がありました。天守閣の最上階の梁は、凄いですね。長野は、お水がとても綺麗です。

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天守無しがアツい

小田原北條五代祭り 早雲役が若く見えた (2025/05/03 訪問)

(アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」の代表曲
roundabout)https://youtu.be/Nm6G1gGmkT8?si=bQoIFmsMQGTvITut

↑の曲がパレードの間…ずっと私の頭の中を流れていました🎶見物客こそたくさんいれど…北条五代をジョースター家と結びつけて捉えて…roundaboutの歌詞を…"I'll be the roundabout…the word will make you out and out…"という具合に口ずさんでいた人間は…きっと私一人でしょうね(笑)😂

有名人という事で…彼等は道の左側右側それぞれに笑顔で手を振りながら道を進む…なので撮影の射程範囲にせっかく来ても…向こう側を向いてしまい、顔が写らないという事もありました(初代から三代まで)

なので…四代と五代は予め離れた位置から撮影開始…何枚か撮っていい感じのものだけ残す…作戦でいきました。その結果…四代五代は2枚ずつ…満足のいく撮影ができたかなと思います。そのうちの1枚が…笑顔で私のいる方向に手を振る氏政(高嶋政伸)(1枚目)

そして五代氏直…演じるは柳沢慎吾(2枚目)(3枚目)。小田原出身だそうで、(合田雅吏と同じく)小田原ふるさと大使。持ち前のひょうきんさで…周辺の客を沸かせており…誰かとお喋りもしてました😅

合田は存じてない自分ですが…高嶋と柳沢なら知ってました。そして「先祖である早雲役の方が若くて…子孫である氏政や氏直役の方がオジサンなんて…配役ミスってない?😁」と…ちょっと思ったのですが、ネットで調べて見ると…

合田:1970年生まれ 高嶋:1966年生まれ 柳沢:1962年生まれ と判明。確かに氏政氏直役の方が若干年上ではありますが…意外と早雲役もトシいってた…🫢

駅前で配ってたチラシに載ってた顔写真における合田は…まるで20代のような見た目をしていたので…(というか早雲に扮して周りに手を振る時の彼も若く見えた気がする)驚きましたね

五代役の方は皆…デカい高級そうな馬に乗ってました🐴🐴🐴🐴🐴 重箱の隅突くような事を言わせてもらうと…戦国時代の馬はもっと小さくて…ポニーのような背丈しかなく、移動速度も遅かったので足軽が一緒について来れたそう

今回のパレードにも使われてるような…今の馬は(戦国時代よりも後に)海外から輸入された馬の子孫…なのでこの大きさ🐴

特に柳沢の乗ってるのが…白馬でオシャレ…そう言えば自動車が誕生および普及する前までは馬が車の代わり…江戸時代なんか(馬は)高級品だったため…庶民は徒歩でしか旅ができなかった🚶‍♂️

そう考えると…当時の馬の値段って…自家用車と同じくらい(100-200万円)あるいはもっと上かもしれませんね🐎車がガソリンを消費するのと同様…馬も餌を食うわけだから(馬小屋での飼育も含めて)維持費がかかる💸

五代が通り過ぎて…パレードの目玉の登場は終わったから…私を含めて何人もの人間がそこを去っていきました…昼飯を食べてから…小田原城へ入ることに🏯

小田原城の城カードを…まだ買ってなかった事に気づいたのでその補完。それは天主内のミュージアムショップでしか扱ってないので、必然的に天守に入り、館内もある程度巡ることになりました(売り場が出口付近にある)

1階に小田原城のジオラマ(4枚目)があり、直感的に撮影。2階の見学は適度に済ませ…3階は吹き抜けになっており狭い通路にしか展示物がないので短時間で見学可能🚶‍♂️

最上階で小田原市内の景色が一望できました🌆「混雑緩和のため歩きながらの見学をお願いします」と貼り紙があったのですが…こういう時にほぼ必ず立ち止まる輩が現れるもの…そういう時は隙間から追い越して先を行く方もいました。ま、確かに3階と最上階は通路が狭いから詰まりやすいと言えばそうなるけど😅

階段で1階に戻りミュージアムショップへ。そこで瓦せんべい・城カード・武将印(5枚目)を買いました。城カードは小田原城のだけでなく、石垣山一夜城(同じ小田原市内にある続日本100名城)のも扱っていたため、それも買うことに

武将印は…1枚300円、5枚セットで1350円…つまりセットで買った方が1枚あたり270円と、少し安くなるから…セットで買うことにしたわけ

5枚セット…つまり早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直5人分の武将印(添付画像に写ってるのは氏政までですが、ちゃんと氏直の分も持ってる)を入手したわけです

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翡翠

松山城 (2024/10/13 訪問)

開城の合図は太鼓でした。珍しく天気良かったです。城内の床の隙間から下が見える所もあって、床の写真も撮りました。

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しんちゃん

主郭東側の堀切と土橋 (2025/05/06 訪問)

田野城は伊東氏48城の一つとされています。訪問時には参考にする資料が無かったので、東側の丘陵の散策のみに留まっています。それだけでもけっこう収穫があったのだけど『宮崎県中近世城館跡緊急分布調査報告書』を元に余湖さんが作った縄張り図があって、それを見ると東側の縄張りはだいたい合っている。でも西側の遺構もなかなか面白そうなので、訪問される方は東西両方訪れていただきたい。
なかなかハードルの高い城で、「事務所で許可を取る必要がある」「途中から荒れた林道を進む必要がある」「藪に覆われていて、登城道がわかりづらい」といった具合です。

ピークが3つあって、それぞれの頂部に郭が設けられています。西から一つ目が主郭のようで、西側に腰郭を備えています。この腰郭まで、けっこうな急坂をよじ登って行ったのだけど、南へ回り込んでいくと、比較的楽に登れる坂道が付いていました。主郭まで登ると、扁平地があって東に深い堀がかかっています。ここを注意して降りて行き、二つ目の郭を目指します。堀にはかなり大きな土橋がかかっていて、この城の目玉の一つだと思います。

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朝田 辰兵衛

👀東横イン→小田原城,正解です🎊 (2024/02/12 訪問)

「東横イン小田原駅東口」833号室からの眺望です。朝食後だったので,7:00を少し過ぎたあたり。夜も良かったのですが,窓に自分自身が反射して,うまく撮れなかったです。
この時は2泊しているのですが,フロントに眺望のお礼を伝えたところ「連泊のお客さまを優先的に上層階にご案内しております」とのこと。
その約半年後,調子に乗って再度連泊したら,同じ8階だったのですが,小田原城と反対側の部屋でした…<泣>。
さらに「東横イン小田原駅東口」でうれしかったのは,毎朝カレーライスがあったこと。カレーライスを基本に,日替わりでトッピングをチョイスしておりました。
今でもスタンスが変わってなければうれしいです…。

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翡翠

熊本城 (2023/10/08 訪問)

お城を見に行く時は、天気が良くない事が多くて熊本に着く前から雨でした。1年半くらい前ですが、天守閣綺麗になってました。雨でも、良かったです。周りも歩きました。まだ、崩れている所も多く残っていました。元に近い状態になるように頑張ってほしいです。

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しんちゃん

【いろいろ大変】伊東48城の一つだが情報が少ない。 (2025/05/06 訪問)

ChatGPT・・悪くないですよ。おかげ様で「しんちゃん村」に、おかしな住民が増えています。事務兄さんもイオさんに感謝していましたよ。ありがた山の熊五郎ですわ。

田野城は宮崎大学演習林「田野フィールド」の敷地内に有り、立入禁止との情報があったので「不発弾」案件を覚悟していました。城郭放浪記さんの記事を見ると、川の対岸に城郭風(たぶん便所)の建物がある公園が有るようなので、そこへ行ってノンアルカクテル(0.00%)でも片手に写真でも撮ろうかなと考えていました。この日は朝から小雨の中での訪城が続いており、那珂城の藪コギでいささか疲れたので、ちょっと楽が出来ると考えていました。
とりあえず、現場まで行ってみる。林道の入口にはチェーンが張ってあります。ここまでは予定通り。・・!近くに事務所が有りますね。こんちわ~・・・ えっ? 入っていい?? おっと、入れちゃったぜ・・。
予定変更。事務所で話をしたら、あっさり中に入れてしまった。まあ、楽して「不発弾」で済ますという発想が俺らしくなかった。どうやら、この城址は俺に微笑みかけてくれているようだ。それもちょっぴり意地の悪い笑顔で。
城址近くまで林道が続いていて、途中分岐が2か所あります。事務所の人の話だと二つ目の分岐までは、最近まで6tトラックが往復していたので、私の車でも大丈夫だろうとのことです。実際、二つ目の分岐までは普通車でも問題ないでしょう(自己責任)。その先はミニ四駆でも無理なので、歩いて行った方が無難です。私は念のため一つ目の分岐の手前に車を置いて進みました。途中、道を間違え少し時間をロスっています。
城址に近づいてくると、丘陵の周囲が水堀のようになっています。進んでいくと城址のある丘陵に渡れそうな場所があるので、そこから入って行き、しばらく藪の道を進んで、左右の丘陵の中心近くまで登って行きます。東側の丘陵部が城址の主要な部分になりますが、西側の丘陵も郭の雰囲気が有るようです。

地形図を見ると城址のある丘陵の北側中央部まで林道が伸びていますが、実際は草で覆われています。帰りは城址東側から北を迂回して戻って来ましたが、とてもお勧めできるルートではありません。現時点では私が登城時に使ったルートで取りつくのが、まだましな方法のようです。

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トク

【春の長崎天草を巡る⑲】(12)江川城(福江城の前身) (2025/04/05 訪問)

春の長崎天草を巡る旅、(12城目)は「江川城」です。

五島の福江港に到着後、まず福江城の前身である江川城跡へ行きました。

江川城は1521年宇久盛定によって福江川の河口に築かれた城です。壱岐の勝本城築城をお伝えした時に名前が出た盛定の曾孫の宇久純玄は、姓を宇久→五島に改め「五島純玄」と名乗り、豊臣秀吉に従い朝鮮へ出兵しました。しかしそこで何と病死してしまいます。純玄に子が無かったため、小西行長の計らいで宇久島一族の宇久玄雅が養子となり「五島玄雅」と名乗り城主となったようです。

一方大村では、大村喜前は父の純忠がキリシタンだったため、領内に多くの信者を抱えていましたが、秀吉からキリシタン禁止令が出たため苦慮していました。その時に五島では農民不足が深刻化していたため、玄雅がこれらを受け入れたそうです。3千人もの信者が大村から五島へ移住したとか。それでどうやら五島には教会が多いのですね。

江戸時代に入り、その玄雅は福江藩を立藩し1万2千石の初代藩主となりました。しかし1614年江川城は火災で焼失。玄雅の後を継いだ2代藩主「五島盛利」は3年後の1617年から21年かけて石田陣屋を築き1638年居を移したようです。

そのため江川城の遺構は現在ほとんど残っていませんが、築城で財政が困窮を極めた折に通商を求め来た明人「王道」に対して、盛定が与えた居館跡で航海の安全を祈った「明人堂」(写真③④⑤)や、飲料水を得るために掘られた「六角井」(写真⑥⑦)などが残されていました。城跡には「石碑」があるはずと探しましたが見つからなかったので、今夜予約した「五島第一ホテル」に行くと、何と玄関の前ありました。どうやらこのホテルの建っている場所が、かつての江川城だったようです(写真①②)。

五島は猫の多い島でした。ベンチの上や漁師の網の間やなど、あらゆる場所で猫がのんびりとしている、何とも平和な雰囲気の島でした。写真を撮っている私の前に来て、なぜか変な格好をする奴もいました。撮ってほしいのかな? それとも遊んでほしいのかな?(写真⑧⑨⑩)。

次は翌朝「福江城(石田城)」を訪れます。
 

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翡翠

平戸城 (2025/05/16 訪問)

島原城へ行った後平戸城へ行きました。やっぱり、海の近くにあるお城と山の方にあるお城とでは、石垣の石の形などが違うなぁと思いました。天守閣から見る景色も良いです。

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にのまる

予報どおりの大雨でしたが、行ってきました。 (2025/03/02 訪問)

大雨の中、広い公園全域を歩くのは辛そうなので、園内バスに半分お世話になることにしました。
東口の環濠入口から乗車し、北墳丘墓で降車。
環濠集落ゾーンを見学しながら歩きで戻りました。

昨秋、青森の八甲田山雪中行軍遭難資料館とともに三内丸山遺跡を訪れ、いたく感動したことを思い出しました。大昔の人々の暮らしや知恵に触れると、自分自身の生活スタイルや人生の使い方などについて考えさせられ、お城めぐりの奥深さを思います。

サプライズ的にうれしかったのは、2019年のお正月に訪問した時に見たイノシシの親子に再会したことです。亥年だからいたのかと思っていたのですが、ずっといたんだ!と知って、おーっ!てなりました\( ˆoˆ )/


朝田さん、赤い城さんへ。
お返しクイズの小田原城、総構から駅に戻る途中に見たかなぁ…と思ってHDDに保存している写真も探してみたのですがなかったです😭
まさかの、東横インから!だったら感動しかないのですが!!

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翡翠

高知城 (2025/01/02 訪問)

四国の現存天守は高知城で終わりました。朝お城の周りを散歩しました。

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翡翠

丸亀城 (2024/02/17 訪問)

下から見上げる丸亀城、良かったです。石垣も最高でした。

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山上の一乗谷城に登ってきました (2025/05/05 訪問)

 一乗谷川両岸に拡がる朝倉氏一乗谷遺跡を訪れること三度目にして、山上の一乗谷城にも登ってきました。英林塚からの登城口に山頂まで1.0kmとあり、0.5kmまでは順調に登って来た感があったのですが、0.3kmや0.2kmの標識以降では、とんとペースが落ちました。ほんとに表示距離は合ってるの?って感じ。移動距離でなくて、残りの比高を表示しているんではないのと思うくらい。
 山上御殿群に到着。郭群の背後の尾根を土塁代わりに利用しています。尾根の切通しを超えたところに写真4の説明板があり、「背後から10mほど行くと畝状竪堀があります」と。「背後」って? 自分の背後だと気づくのにだいぶかかりました。山上御殿群背後の尾根の外側の切岸が終わって、なだらかになったところにわさわさと並んでました。全体では100以上の竪堀が作られているとありました。
 防御施設の連続郭群に進みます。城びと先人のレポート通り、一の丸内部は藪化。切岸を登る道も直登に近いです。二の丸、三の丸は切り開かれてました。大身の朝倉氏だけあって規模は大きいです。登って来た甲斐がありました。

 カメラvsスマホについて、つぶやき。私はスマホのみです。城びとに写真をアップする際に、たまに「この写真はアップロードできません」とでます。最初は、不適切な映り込みがあり撥ねられているのか、誰かがチェックしているのかと、不安な感じもしました(おばかさんでした)が、最近になって、スマホでも10MBを越すことがあるためと認識しました。JPEGで、変化が少ない部分が多い写真は強く圧縮できるが、藪のような細かい変化が多い写真は圧縮しにくいのですねえ。
 

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イオ

カメラ派? スマホ派? ご回答感謝

「カメラ派? スマホ派?」への早速のご回答ありがとうございます。やはりスマホが多数派のようですね。カメラ派のぴーかるさん、todo94さんにしても一眼ですから、もはや私のようなコンデジは消えゆくのみなのか…。

ちなみに、スマホも落として壊したことがあります。落下に備えて手帳型ケースに入れてケースにはストラップも付けていたんですが、つまづいた瞬間にスマホ本体がケースから飛び出して地面に激突。ケースから飛び出されてしまっては防ぎようがありません。何のためのケースだよ…。


> ぴーかるさん

街中での昭和の日本人旅行者スタイルは耐えられても、一眼を首から提げての山城直登や藪突破はちょっと自信ないかな…。山城ではベルトに付けたカメラポーチに収納できるサイズで、となるとどうしてもコンデジかスマホになってしまうんですよね。それにしても、カメラとスマホを画質に応じて使い分けるという発想はありませんでした。スマホに慣れておく意味でも今度試してみます。


> しんちゃんさん

しんちゃんさんもカメラとスマホの(ときどき)二刀流でしたか。修理できる分にはカメラ派を続けますが、いずれは転向することになるんだろうから、スマホでの撮影にも慣れておかないとなぁ。しんちゃんさんのように自力で修理できるなら、修理対応期間後も使い続けられるんでしょうけど…。


> トクさん

普段はカメラのSDカードをパソコンに差して撮った写真をバックアップしていますが(Wi-Fiでも転送できるけど直差しのほうが速い)、Android系スマホだと撮った写真がGoogle Driveに自動でバックアップされて、転送の手間なくパソコンで見られるのは確かにメリットですね。不満はズームと夏場の熱問題ですか…なるほどなるほど。現在使っているコンデジの光学3倍でも不満があるのに、基本デジタルズームのみというのはなかなかの難点ですね。熱問題も以前に使っていたスマホが夏場は頻繁に熱暴走していたのでよくわかります。車のエアコン吹き出し口に付けるスマホホルダーで冷却して対応していましたが、城内で突然に写真が撮れなくなるのは困るなぁ…(デジカメが熱で撮れなくなった経験はありません)。


> 朝田 辰兵衛さん

朝田さんは主に公共交通機関利用だったと思いますから、持ち物を少なくするためにスマホ派というのは大いに納得です。逆に言えば、カメラ派のぴーかるさんもtodo94さんも私も車での城めぐりが主なので、荷物の量を重視しないで済んでいるのかも?


> チェブさん

身軽で出かけるためには、やはりスマホ一択ですよね。歳を重ねるにつれて、何のきっかけも目的もなく新しいことに挑戦してみようという気持ちにはならなくなってきましたが、「城びと」への投稿を通じて、カメラもスマホもChatGPTもやってみようと思えているのはありがたいことです。…ChatGPTは我ながら脱線し過ぎですが。


> 赤い城さん

プリントアウトしていた縄張図を忘れて余湖さんのページの鳥観図を頼りに城めぐりしたり、山中でちょっと迷った時には地形図アプリで現在地を確認したり、いずれにしてもスマホは持参しているので、そのスマホで撮影するのが合理的ではあるんですよね。私も撮影は基本横長、できるだけ人を入れないように意識しています。


> todo94さん

かなりハードな山城をめぐっておられるtodo94さんが(ぴーかるさんも)デジタル一眼レフというのは、私などとは気合の入り方が違うなぁ…と感嘆するばかりです。コンデジの落下でも血の気が引きましたが、30万超のデジ一を破損した日には…考えるだけでも卒倒してしまいそうです。やっぱり私には一眼で山城は無理だ…。


皆さまのご回答のおかげで自分の中での方向性が定まってきました。とりあえずコンデジを使える限りは使って、いよいよとなればスマホに転向。いずれ訪れるであろうその日のために、スマホでの撮影も併用しつつぼちぼち慣れていきたいと思っています。ありがとうございました。

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カズサン

徳島城-3/6 本丸編 (2025/05/14 訪問)

 東二の丸から本丸へ移動、本丸虎口手前の本丸東側石垣を眺めての登城、本丸虎口より入る、南面前の楠の新緑が眩しい、その下辺りをご婦人が早朝にも拘らず落ち葉掃除をされて居ました、城跡清掃のお礼と朝の挨拶を兼ねて挨拶させて頂く、城を楽しく見学探訪出来るのはボランティア活動のお陰です。
 本丸は広いスペースです、周囲は樹木で覆われて楠木の新緑が眩しい、東二の丸からの東虎口、西二の丸への西虎口搦手弓櫓台が控えて居る、また北側に非常用に埋門虎口が石垣で奇麗に整備されています。
 北側の埋門虎口辺りに「本丸跡」の解説案内板がある。

 徳島城-4/6本丸搦手虎口編に続く。
   

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カズサン

徳島城-2/6 東二の丸辺り編 (2025/05/14 訪問)

 徳島城-1/6 鷲の門辺り編の続です。

 前日夕食前に城山下の御殿居館跡を散策しましたが、翌早朝5時半から50数年前の初登城以来と言う城山に挑戦、東二の丸に続く長い登り石段より入る。
 私には石階段が辛い、踊場まで登り一休憩、更に石階段を登り東二の丸の虎口石垣に当たる、早朝でも散策の人が居る、東二の丸では徳島城跡東二の丸跡の石碑を確認、中心部に天守跡の石碑を確認、ぐるりと樹木に囲まれてあまり見晴らしは良く無い、東の天端より眺望と石垣下を覗く、東二の丸から本丸へ登る石段西付根に徳島戦災犠牲者慰霊碑が建ち祀られている。
 徳島城は珍し事に東二の丸に天守閣が在り明治の取り壊しまで存在した、水戸城の天守閣も二の丸に在り空襲で焼失した。幕府に対する遠慮でしょうか?
 本丸へ移動。

 徳島城-3/6 本丸編に続く。
  

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トベシュン

四国続百名城巡り 引田城・勝瑞城・一宮城・能島城・河後森城・岡豊城 (2025/05/17 訪問)

四国続百名城巡り 引田城・勝瑞城・一宮城・能島城・河後森城・岡豊城の六城跡巡りに行きました。

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