ちょうさやかた

帖佐館

鹿児島県姶良市

別名 : 島津義弘居館
旧国名 : 大隅

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①	帖佐稲荷神社(帖佐館)
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トク

82【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津義弘と帖佐館) (2023/10/08 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑪です。
関ケ原当時の居城「帖佐館」を訪れてきました。

JR日豊本線「帖佐駅」からバスに乗り10分、運転手さんに聞いた一番近いバス停「イオンタウン姶良(あいら)」で下車。しかしここから館跡までまだ2km程あるようです。ちょっと遠いなとは思いましたが、またがんばって歩く事にします。

帖佐館は、背後の山と別府川の間の平地に築かれた居館だったようです。館跡は現在は「帖佐稲荷神社」になっていました。館の横には義弘が写経をしたと伝わっている花園寺跡があり現在は小さな歴史公園になっていました。

義弘は(文禄の役)後の1595年に松尾城(栗野)からここに移り住み、ここから1597年に朝鮮へ再び出兵します(慶長の役)。そしてその後1600年ここから関ケ原へと向かいます。

朝鮮では圧倒的に不利な状況を二匹の狐が助けてくれたという逸話があるようで、白狐と赤狐が現れて10倍以上の敵に向かって行くと何と火薬庫が爆発。敵が混乱した所を義弘は攻め込み勝利したという言い伝えがあります(実際は勇猛な家臣だったのではないでしょうか?)。現在ある神社は義弘亡き後に建てられ、その時の二匹の狐を祀った神社だそうです(写真⑤)。

関ケ原で敗走し退き口を突破した義弘は、大坂にいる妻子を助け出し、堺から船に乗ります(この船内で同じく敗走する立花宗茂と何と偶然バッタリ😯!)。そして日向に上陸し、ここ帖佐の館へ無事帰還する事ができました。

しかしほっとしたのもつかの間、この後にさらに苦難の連続が待ち受けているとは、思ってもみなかった事でしょう。そして義弘はこの後に、翌1601年桜島に蟄居したあと、晩年は加治木へ居を移し最期を迎えます。

その桜島や加治木での話はまた後にお伝えする事にして、次は話の舞台をいよいよ関ケ原の「島津義弘陣跡」へ移します。


【余談】南国白くまモナカ
暑い中歩き疲れた時に途中コンビニがあったので休憩がてら寄りました。「南国白くまモナカ」なるものがありました。福岡のあまおうを使っていると書いていますが、福岡では見たことがないので、鹿児島限定販売のアイスかもしれません。食べてみるとミルクのすっぱさとフルーツの香りがもう絶妙でめちゃおいしいかったです(歩き疲れた体にしみる~😊 2個も食べてしまった)(写真⑩)
 

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todo94

惟新公邸址之碑 (2020/12/29 訪問)

高麗稲荷神社がその故地となっています。立派な惟新公邸址之碑が建っていて、石碑の近くに大手門跡があります。なかなか立派な石垣が取り巻いていました。隣接地には花園寺跡があり、庭園や門などが公園として整備されています。ここには駐車場も完備しています。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 島津義弘
築城年 文禄4年(1595)
主な城主 島津氏
遺構 曲輪、石垣
指定文化財 市史跡(島津義弘居館跡(御屋地跡)石垣)
再建造物 石碑(惟新公邸址之碑)、説明板
住所 鹿児島県姶良市鍋倉字垂ノ内、稲荷脇
問い合わせ先 姶良市教育委員会社会教育課文化財係
問い合わせ先電話番号 0995-62-2111