いしくらじょう

石倉城

群馬県前橋市


旧国名 : 上野

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城址碑 もう暗くなってきた
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しんちゃん

本丸は利根川の反乱で崩壊。 (2023/05/01 訪問)

石倉城は二の丸跡が公園になっているようで、城址碑があります。
城址碑の右の板が縄張り図のようです。裏側に回ると良いみたいですが確認し損ねました。
遺構はほぼ残っていないようで本丸部分は崩落しているようです。
河岸側へ降りて下から見上げてみると、切岸のようにも見えますが
昔とは形状が異なっているようですので、参考にはなりません。
城郭大系には武田信玄が築いたとされていますが、今の解釈では
信玄公が城を改築し、厩橋城を抑えて、永禄9年9月に箕輪城を攻略したと有ります。
厩橋城攻略のための重要な拠点で、かつては武田と上杉で争奪戦が行われ、
後に北条氏政(氏直)が厩橋城の北条高広に帰属を命じたが高広はこれに応じず、天正11年(1583)正月
氏政(氏直)は石倉城を対城として厩橋城を攻めたとあります。天正11年(1583)9月に
厩橋城は氏直の手に渡ったとあります。

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赤い城

二の丸が公園に (2022/06/26 訪問)

前橋城から利根川を挟んだ対岸に位置します。
駐車場はありません。
二の丸が公園になっていて石碑と説明板が立っています。
しかし説明板は色褪せていてほぼ読めません。
主郭部分は利根川の侵食により多くが崩落しています。
公園の東側の道路が堀の跡でしょうか。
周辺は宅地になっています。
長尾忠房によって築城され、戦国時代には武田氏、上杉氏による争奪戦があり、さらには北条氏が領有しました。
遺構も僅かに残っているようですが確認は出来ませんでした。

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カズサン

城跡は石倉城二の丸公園 (2021/10/10 訪問)

 蒼海城を終えて利根川西対岸に在る石倉城を目指す、石倉城二の丸公園として整備されている利根川の東対岸には前橋城、現在の天守群馬県庁高層ビルが聳え川岸樹林の隙間から良く見える。
 
 車は駐車場が無く石碑案内板の有る公園周辺道路に路駐、車の往来は見学中無し。
 
 新ろくべえさんの投稿で地蜂に注意と有り、地面を注視し、落ち葉の固まりは避けて見学、城名石碑には確かに新ろくべえさん、チェブさん投稿のように福田赳夫元総理の署名が有りました、解説アルミ板の表は経年変化で良く読み取れないが裏側は色鮮やかに石倉城の俯瞰図が描かれている、櫓、石垣、堀が立派に描かれてるが実体はどうだったのかと首をかしげるが図は素晴らしい、石倉城も利根川の洪水崩落で遺構消滅してるのでしょう。

 歴史的には総社長尾氏が文明17年(1485年)築城、信玄の西上野侵攻、謙信との攻防と厩城の攻防も利根川を挟んで歴史に刻んでいる、謙信、信玄の思いを走らせるのも楽しい。
 ガイド案内と情報は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに由ります。

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新ろくべえ

石倉城に行ってきました (2021/08/25 訪問)

石倉城に行ってきました
注意書き
・ここの石倉城二の丸公園(石碑があるところ)は
地蜂らしきものがいます。地面にあるあなは巣なので
そこはふまず、さらに公園に近寄るのは避けてほしいです
ここは1485年に長尾憲景が築城しました。
堀は利根川の水を久留間川を利していれていたといわれている
その城主長尾憲景が総社長尾氏と白井長尾氏と長野氏との戦いの
新井城の戦いで戦死し、三男の長景が城主となったが
石倉城が関東要衛であるため信玄に攻められ落城し、
内藤修理亮政豊及び外記親子が城主となりました
ですが内藤修理亮政豊が長篠で戦死すると外記は
厩橋城代北条高広の軍門に降り北条家臣寺井左馬助が守りました
この間80年間は度重なる攻防凄惨な流血を繰り返して
1590年に德川進行により寺井左馬助が
松平康国との井野川の戦いで奮戦したが負け、石倉城に退きました
ですが一応松平康国は戦死、勝った理由は弟が1000騎馬で攻めまくり、
勝ったと言われている。そして負けた左馬助は城に火を放ち自害し
石倉は廃城となった
〔城情報〕
・築城年代 1485年
・形体 平城
・築城者 長尾憲景
・主要城主 長尾氏、内藤氏、寺井氏
・主な遺構 消滅

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 長尾憲景
築城年 文明17年(1485)
主な改修者 武田信玄
主な城主 長尾氏、曽根氏(武田氏家臣)、荒井甚六郎(上杉氏家臣)、寺尾氏(北条氏家臣)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 群馬県前橋市石倉町4-19-5