とみくまじょう/とみのくまじょう

富隈城

鹿児島県霧島市


旧国名 : 大隅

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城址より
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しんちゃん

島津義久の隠居城 (2025/05/08 訪問)

富隈城は島津16代義久によって築かれました。東西約150m、南北約250mの方形の城館で、南側にNHKの無線中継施設があり、その北側が駐車場とゲートボール場、残りの部分が富隈稲荷神社と見張り台の様な小山という一風変わった構造となっています。
豊臣秀吉の九州平定後の文禄3年(1594)の検地の結果、義久は内城を去らざるを得なくなり、文禄4年(1595)~慶長9年(1604)までの10年間をここで過ごしたとされています。こののち義久は国分に国分城を築いて移っていきました。
野面積の石垣に肥後八代の刻印が見られることから、種山石工の手によるものとされています。東南隅の道路脇の巨石は加藤清正の寄進石とされ、肥後国産と見られています。

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しんちゃん

遠いのだ (2023/01/06 訪問)

富隈城は島津氏第十六代・島津義久によって築かれた城で東西約150m、南北約250mの方形で南を除く三方に堀があったとされています。天守の無い居館式の城郭だったようですが、西や東側には当時の石垣が残っています。案内板によれば肥後八代の種山の職人たちの仕事のようです。写真がいささか暗いので、再訪する予定だったですが、今年の正月とGWは長期連休が取得できなかったので、結局中国攻めと関東首都圏のチョコ城牧場周遊で収まりました。
※ちょこ城はぴーかるさん発案の単語です。

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higekam

島津義久が内城を離れ隠居した城 (2022/07/14 訪問)

一辺が250mほどわの方形状の城というよりは城館。ぐるりと石垣でかこまれていたようだが、今は東側が一番よく残っている。敷地内には築山?、物見台のような小山がある。

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カズサン

立派な石垣が残ってます (2016/10/25 訪問)

 平成28年の山城サミット竹田大会後九州城廻り鹿児島県知覧城、栗野城を終えて初登城、車は駐車場が分らず通りを隔てたコンビニに駐車させて貰いました。
 城域は周囲を石垣で築かれた館風の造りですが本丸には小高い丘が有り現在は東屋が建ってる、南の二の丸は現在NHKの敷地で入れず、本丸も二の丸も虎口は石垣で枡形構造に石垣が立派に威圧しています。

 富隈城は島津義久が隠居した形で鹿児島城から移り9年ほど在城して国分城に移る。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 島津義久
築城年 文禄4年(1595)
主な城主 島津義久
遺構 曲輪、石垣、横堀(水堀)
指定文化財 市史跡(富隈城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 鹿児島県霧島市隼人町住吉龍波見(稲荷山)
問い合わせ先 霧島市教育部文化振興課文化財グループ
問い合わせ先電話番号 0995-42-1111