富隈城は島津16代義久によって築かれました。東西約150m、南北約250mの方形の城館で、南側にNHKの無線中継施設があり、その北側が駐車場とゲートボール場、残りの部分が富隈稲荷神社と見張り台の様な小山という一風変わった構造となっています。
豊臣秀吉の九州平定後の文禄3年(1594)の検地の結果、義久は内城を去らざるを得なくなり、文禄4年(1595)~慶長9年(1604)までの10年間をここで過ごしたとされています。こののち義久は国分に国分城を築いて移っていきました。
野面積の石垣に肥後八代の刻印が見られることから、種山石工の手によるものとされています。東南隅の道路脇の巨石は加藤清正の寄進石とされ、肥後国産と見られています。
+ 続きを読む