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ぴーかる

最大級の井戸跡 (2024/04/13 訪問)

【金川城】
<駐車場他>御津町郷土歴史資料館
<交通手段>車

<見所>随所石組井戸・堀切・土塁・石垣跡
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅3城目。上記資料館で頂いた資料によると1339年に松田元喬が金川城を築いた説があります。この頃の備前松田氏の本拠は富山城で1480年に松田元成が金川城に本拠を移して改修または築城したとする説があります。1568年に松田元賢の時、妻の父である宇喜多直家に攻められ落城し松田氏は滅びます。その後宇喜多直家の弟宇喜多春家が入城し関ヶ原後小早川秀秋の時廃城となりました。
 登城は2ルートあり、妙覚寺からとからと岡山市役所御津支所前からがあります。いづれの登城口にも縄張り図のある案内図が置いてあります。私は妙覚寺から登って御津支所へ下山しました。妙覚寺から登城するとまず道林寺丸・道林寺址の連段の曲輪があります。城主の松田氏は日蓮宗に信仰が厚かったそうで、城内に道林寺の道場を造ったそうです。石垣も一部残っています。道林寺丸を過ぎると本丸跡へ行けますが通過して北の北の丸・大堀切・白水の井戸跡に行きました。白水の井戸は扇状谷の下部斜面にあり、石組です。谷全体が井戸曲輪のようになっています。その北にある北の丸は広く2段構造で大石の磐座もあります。北の丸の北側に4重堀切があり、1重目が巨大、2重目が中くらい、3・4重目が超ちびの堀切になっています。見応えあります。
 主要部主郭は北に堀切があり、南東側斜面に降りていくような縄張りになっています。北端に天守櫓台と思われる段があり巨石がゴロゴロ落ちています。櫓台の東側曲輪壁面の巨大井戸があり「天守の井戸」と名付けられています。直径8mあり、石組であったであろうと思われる壁面に残り数個だけ残っています。この井戸も圧巻の見応えです。主郭南端には土塁の残る枡形虎口跡があり、細曲輪を通過して二の丸跡に入ります。二の丸跡には杉の木井戸という斜面にではなく曲輪内部に周囲を掘り下げて石垣で囲んだ井戸があります。二の丸跡から下山して途中に出丸跡の削平地があり麓に着きました。
 廃城となった際にどうも破却されているようで、主郭の櫓台や主要部の石垣跡は僅かに残るだけですが、散策と石垣跡を探索する楽しさ、井戸跡に見応えを感じる城跡も珍しい。いい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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しんちゃん

南北朝からの合戦場 今はハイキングコース (2024/06/01 訪問)

人任せばっかりにしてないで、私も遠州の山城をハシゴに出かけます。というより、リハビリを兼ねているんですね。サポーターをガッチリ巻いて無理せず、足を慣らしていきます。やはり山で使う筋肉は他と違うので、ここを定期的に鍛えておかないと山に登るのがしんどくなってくるんですね。
山腹の三岳神社に駐車場があって、ここからの比高は140mちょっとです。けっこう人が多くて、家族連れのハイキングの人達やバードウォッチャー達が来ています。どうやら八色鳥という珍しい鳥がいるらしい。私は見ることができませんでしたが、山にはそういう楽しみもありますね。皆表情が明るくて、全体的にプラスのオーラが出ています。
延元2年(1337)井伊氏を頼ってきた宗良親王を奉じて、井伊氏は北朝方と戦いましたが、興国元年(1340)三岳城は落城したとのことです。戦国期には井伊氏は今川氏と戦いますが、永正10年(1513)またも落城してしまいました。
登城道を登って行くと東が東曲輪跡、西が本曲輪跡になります。本曲輪跡は二段構造になっていて東側にもう一段、曲輪があります。本曲輪跡の西側に藪の隙間から腰曲輪が見えますが、今回はここまで。
眺望はすこぶる良く、浜名湖や周囲の街を眺望できます。ハイキングコースになっているのも納得です。

八色鳥‥ネットで見たけどキレイな鳥ですね。羽の色は緑色に輝いています。渡り鳥で夏場は日本に居て、冬に中国南部やボルネオ島に移動するようです。本州でも中部以北では見ることがないそうなので、ちょうどこのあたりが繁殖に適しているんでしょうね。

PS‥みんなの投稿見たら零汰さんの投稿が出てる。 はじめまして、しんしんちゃんです。北海道いいですね~。うらやましい。


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零汰

ここ行くの無理じゃねぇ? だからエセ訪問 (2024/05/10 訪問)

当初から位置とルートが分からなかった場所です。北海道教育委員会より出ている「北の遺跡案内」というサイトに行き着き、場所の詳細な特定ができ、辿り着くルートも把握出来ました。おそらく砂利道の林道でしょうか「3~4Km程度をゆっくりバイクで行けばいいや」深く考えず予定していました。

出発1週間前、砂利林道にて軽トラックを襲うヒグマの衝撃映像を見、映る野獣の目が脳裏に残ってしまい、昨年東北某県にて、雨上がりの早朝にツキノワグマに遭遇しイキられた記憶が甦ってきました。

シュミレーション・砂利林道で前からヒグマが出た場合・・・Uターンで転倒→不死身の杉本では無い→アシㇼパさんはいない→詰。
後ろからヒグマが出た場合・・・砂利道ではスピード出せない→追いつかれる→以下同文。砂利道をバイクで走るのは安定しない上に、40kg超の荷物を載せて走るのは困難。(礼文林道ではしっかりと転倒してしまう)結果、現地に行くことを諦めてしまいました。

そこで、厚岸町から海を隔てて眺められる道路を見つけたのでそこから眺めてエセ訪問の完了。

神岩チャシは海沿いの小高い土地に2か所あり、並びにも2か所別のチャシが存在するそうです。

北海道に上陸後15日間、走行距離5300Km、攻城団も合わせ60か所余りのチャシ・陣屋・館を訪問しました。「北の遺跡案内」のおかげで全てに行きましたが、進入禁止や登録チャシ自体がマイナー過ぎて・・・等、お勧め出来ない場所もあるのも事実。とりあえず鹿児島の私は北海道エセコンプリート。

飽きが来ない限り、お勧め出来ない場所も含めて北海道の投稿をマイナー中心にしていきたいと思います。

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しんちゃん

地味な城(砦)跡 (2024/06/01 訪問)

todo94さん。快方に向かわれているとのことで安心しました。 お大事に。
只来城ですが南北に広い郭がありますが、特に遺構は無かったです。地元の方の話では周囲にも砦が有ったそうで、東のお寺の裏山もあやしいですね。他サイトを見ると只来城は尾根筋に堀切があったようですが未確認。林道の脇から元来た道を戻りますが、これがなかなか解りにくい。良く見ると近くの木にちょこっとテープが巻いてあるけどこれだけです。

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しんちゃん

改めて 投稿です。 (2024/06/03 訪問)

さっきの投稿は削除して‥改めて投稿です。
チェブさん、さっそくのご返答ありがとうございます。私は山城の攻め方は個人差があって良いと思います。皆さん、それぞれポリシーはあると思うのですが、しんどい時は入り口で引き返しても良いのではないでしょうか。無理して体調を崩すよりは良いと思うし、本丸だけ訪問して良しとするのも全然ありだと思います。
私はだいたい6~8割ほど見れれば良しにしています。まずは美味しい所から訪問して、余力があったら他の場所を訪れています。じわじわ調子を戻して、山城を攻めていくつもりなのでゲートの中の方はお任せを。
でわ 親指と膝の方を大事になさってくださいな。

さすがに昨日の投稿はひどかった。しばらく飲んで投稿するのはやめにします。(反省)
皆さん、いろいろと申し訳ない。  ご容赦を。


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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/20 訪問)

福岡・佐賀お城廻第四日目(最終日)
最終日は予備時間としてとっていた時間もあり、福岡城のみ登城。
スタンプは福岡城むかし探訪館にて押印。大きな城内ジオラマがあり、当時の様子がイメージできるのでまず最初に立寄ることをおすすめです。登城時は期間限定でフレームだけのなんちゃって天守があり天守台は入れませんでした(その代わり七色に変わるライトアップをやってました)。個人的には天守台に登ってみたかったのだが、残念。また、「天守はあった」に1票!
現存する南丸多門櫓や伝潮見櫓は人が少なくゆっくり見たり撮影したりできました。本来の潮見櫓は現在復元移築中らしく、出来上がったらまた来ようと思う。

登城後、遅めのランチ。博多に来たら一度は立寄る「天ぷらひらお」(城跡の上之橋から徒歩15分くらい)。いつも人気があり、今回は30分くらい並んで入りました。ネタを一つ一つ揚げて順次配られるので、揚げたてをいつも頂けるのがうれしい。ただ以前は副菜の塩辛と高菜が食べ放題だったが、塩辛は一人一皿になり、高菜は普通の漬物になっていた。イカが不漁のせいらしい・・、残念。福岡城の帰りなどでぜひ一度お試しあれ。

なお、公共交通機関の行程は以下の通り
※博多に前泊
8:02天神大和証券前(路線バス)、8:11福岡城・鴻臚館前
 (徒歩2分)福岡城跡(鴻臚館跡展示館or福岡城むかし探訪館9:00-16:30休年末年始)

18:40福岡空港(航空機)、20:20羽田空港


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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/19 訪問)

福岡・佐賀お城廻第三日その3
本丸くらいしか残っていないが石垣が見事。城跡は神社社有地らしく篠山神社が中央に鎮座。

福岡に住む元同僚が百名城、続百名城めぐりを始めたらしく、この日は車を出して一緒に城廻できたので、移動は公共交通機関ではなく車で一日城廻。移動も楽で電車の時間も気にする必要もなく、同行者もいて楽な楽しい一日でした!
なお、公共交通機関で回るなら行程は以下の通りでした
※吉野ヶ里遺跡、佐賀城と共に登城
※博多に前泊
7:58西鉄天神高速バスT(高速バス)、9:14,9:25佐賀駅バスセンタ(路線バス),9:34博物館前
 (徒歩1分)佐賀城本丸歴史館(9:30-17:30休年末年始)

12:10(城徒歩16分)片田江(路線バス)、12:33駅ヶ里
 (徒歩6分)吉野ヶ里遺跡(9:00-16:30休年末年始)

(東口徒歩16分)15:23吉野ヶ里公園駅(JR)、15:38,15:45鳥栖(JR)、15:53久留米
 (徒歩16分)久留米城跡(篠山神社社務所9:00-17:00)

17:38(徒歩7分)医学部前(路線バス)、17:54,18:07西鉄久留米(西鉄)、18:47西鉄天神
泊:博多

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/19 訪問)

福岡・佐賀お城廻第三日その2
弥生時代の城と言うと大抵の人は「そんな時代にお城なんてあるの?」と言われるが、天守だけがお城ではないと私は反論する。実際にここは、堀があり、土塁があり、櫓があり立派なお城だと改めて認識しました。
エリアは広大で全部見ると1日かかるくらいかと。遺跡内を無料周遊バスが走っているので、うまく活用するのが良いかと。環濠集落や物見櫓、竪穴式住居が復元されているほか、甕に入れて埋葬した当時の集団墓地が発掘され、展示館として見学できるのでぜひ立ち寄ってほしい。

福岡に住む元同僚が百名城、続百名城めぐりを始めたらしく、この日は車を出して一緒に城廻できたので、移動は公共交通機関ではなく車で一日城廻。移動も楽で電車の時間も気にする必要もなく、同行者もいて楽な楽しい一日でした!
なお、公共交通機関で回るなら行程は以下の通りでした
※佐賀城、久留米城と共に登城
※博多に前泊
7:58西鉄天神高速バスT(高速バス)、9:14,9:25佐賀駅バスセンタ(路線バス),9:34博物館前
 (徒歩1分)佐賀城本丸歴史館(9:30-17:30休年末年始)

12:10(城徒歩16分)片田江(路線バス)、12:33駅ヶ里
 (徒歩6分)吉野ヶ里遺跡(9:00-16:30休年末年始)

(東口徒歩16分)15:23吉野ヶ里公園駅(JR)、15:38,15:45鳥栖(JR)、15:53久留米
 (徒歩16分)久留米城跡(篠山神社社務所9:00-17:00)

17:38(徒歩7分)医学部前(路線バス)、17:54,18:07西鉄久留米(西鉄)、18:47西鉄天神
泊:博多

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虎の子

城への交通手段実践レポート (2024/05/19 訪問)

福岡・佐賀お城廻第三日
弾痕が残る鯱の門と復元された本丸御殿を楽しみに登城。平城だが堀幅は広いところで6,70m位で思ったより広くなかった。鯱の門は、あちこちに弾痕らしき跡があったが、しっかりとした櫓門だった。本丸御殿も新しさを感じるが、一部は当時の建材を活用しており柱の新旧を比較で来た。大広間では寸劇(?)も催され、雰囲気を盛り上げていたのがよい。
気になったのは、本丸天守台。なぜか天守台への虎口は本丸の外からしかなく、ぼうぎゃのためには本丸内側からのほうが良いのではとの疑問がわいた。何か理由があるのだろうか・・・。

福岡に住む元同僚が百名城、続百名城めぐりを始めたらしく、この日は車を出して一緒に城廻できたので、移動は公共交通機関ではなく車で一日城廻。移動も楽で電車の時間も気にする必要もなく、同行者もいて楽な楽しい一日でした!
なお、公共交通機関で回るなら行程は以下の通りでした
※吉野ヶ里遺跡、久留米城と共に登城
※博多に前泊
7:58西鉄天神高速バスT(高速バス)、9:14,9:25佐賀駅バスセンタ(路線バス),9:34博物館前
 (徒歩1分)佐賀城本丸歴史館(9:30-17:30休年末年始)

12:10(城徒歩16分)片田江(路線バス)、12:33駅ヶ里
 (徒歩6分)吉野ヶ里遺跡(9:00-16:30休年末年始)

(東口徒歩16分)15:23吉野ヶ里公園駅(JR)、15:38,15:45鳥栖(JR)、15:53久留米
 (徒歩16分)久留米城跡(篠山神社社務所9:00-17:00)

17:38(徒歩7分)医学部前(路線バス)、17:54,18:07西鉄久留米(西鉄)、18:47西鉄天神
泊:博多

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chiroru

歩いてよかった (2024/06/02 訪問)

上諏訪駅から並木通りを歩きながらの登城でした。

三之丸湯跡で温泉気分を感じもうすぐ天守閣のある本丸だなぁと前進し、天守閣が目の前に現れてくれました。

本丸の外周を回り、川渡門を通過し冠木門橋を渡り本丸に。石碑の文を読み「大手門以南の地形がそのまま」と記されているのを
見てもしかして歩いてきたところ?と思い城郭図を見たらそんな感じで、やはり歩くのはいいことですね。

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栃木西方城

地方紙 下野新聞に掲載されました!!! (2024/06/03 訪問)

 お城好きの皆さま!城びとの皆さま!
このたび西方城跡総合調査報告書が、
地方紙 下野新聞(2024年5月22日付)
https://www.shimotsuke.co.jp/articles/-/898916
に取り上げられました。

担当者主査の顔がバッチリ写ってしまいましたが…
テレ(〃´∪`〃)ゞ

西方城跡総合調査報告書は
A4判321ページ。
栃木市内の図書館などで読めます。
ぜひご覧くださいね!!!

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AJ

野州あれこれ (2022/05/04 訪問)

奇跡の一本あるある。宇都宮ではこの大イチョウ。戊辰、昭和と2つの戦災を生き抜いた、市指定の天然記念物。若干高い場所にあるのは、もともと宇都宮城三の丸土塁の上にあったからでしょうか。城域の大半は市街地化しているので、縄張のトレースは根気が要りますが、その分想像力が鍛えられ、個人的には好きな場所です。

百目鬼と書いて「どうめき」。歴史と鬼退治(妖怪退治)はある意味セットメニュー。下野国司にして、武士の始まりの人とされる藤原秀郷の偉業は平将門討伐にとどまらず、宇都宮の百目鬼、滋賀の大百足退治にまで及ぶ(と、お伽噺)。百目鬼は「3メートル以上の巨体に百の眼を持つ妖怪、、、」。いくらなんでもそれは盛り過ぎで、せいぜい「百匹の鬼の頭目」ぐらいの解釈が妥当でしょうか。いずれにせよ、夜中にひとりでこの通りを歩くのはやめた方がよさそうです。

二荒山神社は下野一宮。いちのみや、、いつぃのみや、、うぃちのみや、、うぃつのみや、、うつのみや、、宇都宮、、。諸説ありそうですが、だいたいこんな感じ(?)。

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todo94

ドラゴンアイのついでに (2024/05/25 訪問)

翌日の東京優駿(日本ダービー)の入場券を手に入れることができたので、この日は本当は東京の城めぐりをするつもりでした。そんな折、八幡平のドラゴンアイが見頃となった情報が入り、急遽、前夜に家を出て早朝、気温0度の中、霧の中にたたずむドラゴンアイ(鏡池)を拝むことができました。更に帰りがけには松尾鉱山の廃墟も遠望することができて満足です。正直、田頭城はメインではなくおまけで立ち寄っただけです。ヒメジョオンだか、ハルジオンだかが生い茂っていました。ローラーすべり台も使用されている気配がありませんでした。空堀などの遺構はなかなか見ごたえがあるのですけれども。このあとは西根ICから帰路に着き、翌日の東京競馬場出陣に備えました。

朝田辰兵衛さん、しんしんちゃんさん ご心配いただきありがとうございました。だいぶ快方に向かっているので10月下旬には山城攻めを再開できそうです。とりあえず、今月は都会の城をちょろっとめぐるだけの予定です。

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赤い城

飛鳥山城 東京都北区 (2024/05/15 訪問)

ご存知飛鳥山公園です。
ここにも城があったとのこと。
もちろん遺構はありません。
ただ、小高い丘になっているので城があったことは推測できます。

徳川吉宗が享保の改革で整備したことや渋沢栄一の別荘があったことで知られています。
新一万円札の発行がもうすぐでもあり、渋沢推しな感じでした。
時間があれば敷地内の3つの博物館を回るのも良いかもしれませんね。
春は桜、梅雨時期は紫陽花など花の名所でもあります。

もっとゆっくり散歩したかったのですがこの日は奇跡的に当選したライブがあったので駆け足での訪問となりました。

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チェブ

実は私も、、、。

しんしんちゃんさん、すごいなんて とんでもない。
私は、山城は入口で退陣ですし、肝心な遺構を見逃してるなんて、いつもの事です。
城びとオールスターの皆さんの投稿で、自分の行ったお城の答え合わせをしている感じです。

で、昨年10月に1日歩き回り帰って来て、足の親指が黒くなってました、今年の2月に大島から帰って来たら親指の爪が取れました。
これを、きっかけに膝痛です。
'`,、('∀`) '`,、やってしまいました。

めまい、腰痛、膝痛の三重苦ですが、お城攻めは、心身共に健康にしてくれてます。
ですので、これからも脱線ばかりする投稿をしていきますので、よろしくお願いいたします。

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しんちゃん

登ってみたけど、よくわからん (2024/06/01 訪問)

先週、高天神城を訪問したので、昨日 リハビリに三岳城、只来城、犬居城の遠州山城をハシゴしてきました。元々 両膝を痛めてから城攻めを始めたという経緯はありますが、40代のころと50代に入ってからでは膝の筋肉の力が少し落ちてきている気がします。
たまにこうして山城を攻めながら平城、平山城(丘城)をバランス良く攻めていきたいですね。現状山城比率は2割弱です。少し少ないですが、秋に向けて減量や筋肉増強など体調を整えていきたいです。
朝田さんの投稿にありましたが、私もtodo94さんの鵞足炎のことは心配です。鵞足だと腿の内側の健と脛骨を繋ぐ重要な部分ですので、やはり今は安静にされるのが良いと思います。
私が城びとを始めて凄いなと思ったのはtodo94さん、とある煩悩の登城目録さん、あとぴーかるさんですね。カズサンさんはもっと凄いですね。もちろん山城(どんな城でもOK)を果敢に攻めてる皆さんや、チェブさんや にのまるさんも凄いですよ。返事は無しで大丈夫です。私は気にしませんので。 ご回復を願います。

只来城! 入口わかりにくっ! でも無料の地形図アプリがあるのでルートの想定はつきます。以前訪問した際は西からの林道はふさがっていたので東から攻めます。川の手前の道を左折、そのまま進んで未舗装の道が突き当たるので、手前の脇から入って回り込むようにして登城道から入ります。要は尾根の末端から尾根沿いに攻めていくわけです。
正直、遺構に乏しいです。武田信玄が進行してくる際に馬場美濃守が攻略したようなのですが、主要部の何割かは林道に占拠され、土塁や堀切などは見当たらず。南の広い扁平部の中間に不思議な石積みがあるのだが、櫓台にしては小さいかな? 烽火台の役割を持った砦のようなものだろうか。 途中にも石積と扁平地はあったけど地元の方の話では畑の跡だったらしい。やはり私が見た中では郭の中の石積が唯一の遺構かな?さすがにそれも違うと悲しい物がある‥

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朝田 辰兵衛

todo94さん,大事になさってください👏 (2024/04/02 訪問)

山城攻城にヒザは致命的ですね…。グルコサミン服用での対処では,すでに間に合わない状況でしょうか…?
日ごろからtodo94さんのレポートを参考にさせていただいておりますので,残念です。どうか無理せず,大事になさってください。

荒砥城ですが,蛇井戸伝説が興味深いです。『敵の攻撃を受けた時,空井戸の龍神に祈ると,不思議にも水が湧き溢れ空堀に水が充満して,敵の侵入を防ぐ難攻不落の城になるという』と,蛇井戸のパネルに書かれていました。今でも地元の婦人会の方が大切に保存活動をされています。この日,たまたまタイミングが合ってしまいました。

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カズサン

主郭まで逓減四段頂部は崖で平川へ (2024/05/20 訪問)

 大光寺城を終えて南下約5km程の石川城を初登城、別称に大仏ヶ鼻城、大渕ヶ鼻城とも呼ばれて居り大仏公園として整備されている。

 駐車場:大仏公園北西下駐車場利用。トイレは公園(4郭)に在ります。
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 利用した駐車場から北登城階段横に在った石碑「大渕ヶ鼻城跡」を撮影し、戻って南側のなだらかな登りスロープを使って4郭に当たる大仏公園広場へ、南スロープを使って3郭花見広場へ、同じく南スロープを使って2郭へ、1郭へ一郭の背後尾根を使った土塁で背後には柵が有り落下防止柵、切り立った崖で平川へ落ち込んでいる、平川傍の切り立った独立峰を利用した城郭、4郭から逓減されて3郭、2郭、1郭と階段状に連なってる。
 4郭からは岩木山がより近くに見えましたが頂上は雲に隠れていました、すっきりした岩木山が見えませんでした。

 案内板によると。
 鎌倉期は曽我氏が支配し、戦国期南部氏が侵攻し津軽を支配しここを居城とした。元亀2年(1571年)城主南部高信は津軽為信に滅ぼされ、その後為信は津軽を統一した。慶長16年(1611年)弘前城築城に際し、堀越城などと共に大仏ヶ鼻城は廃城された。(案内板抜粋)
  


 

 

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しんちゃん

大知波峠廃寺跡 国の史跡・静岡県湖西市 (2019/02/17 訪問)

今回はシンカーで攻めさせていただきます。浜名湖の北西に位置する湖西連峰(標高350m地点)に位置する大知波峠廃寺跡は、10世紀中頃から11世紀末頃までに栄えたとされ、伝承の一切残っていない「幻の山寺」と呼ばれています。
天台宗や真言宗が伝わった平安時代には各地に多くの山寺(密教系)が作られ、以後の時代の山城の元になったとされており、大知波峠廃寺もそういった密教系の山岳寺院なのではないかと考えられています。
建築物の基部になった石垣などの遺構が良好に残っており、国の史跡として登録されました。最近ニュースで池跡に勝手に手を加えて畝の様な物を作った人物がいました。なんでもメダカのために水を溜めたんだとか。メダカも誰かが勝手に入れたようです。国の史跡をなんだと思っとるねん。

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小城小次郎

わかりにくい・・・が、そこがよい (2023/11/23 訪問)

相合元網を担いで毛利元就との家督争いに挑んで敗れた坂(さか)広秀ら坂氏の居城。登城口の看板が撤去され登城路も不明瞭だが確実に城には辿り着けるしメリハリの効いた遺構も存分に楽しめる、不思議な魅力に溢れたお城。

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