みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

零汰

城キチ (2024/08/08 訪問)

建物や石垣を見る目的から登録城を廻るようになった頃、城跡は整備されているのが当たり前と勘違いしていた頃、2019年7月に初めて訪問し面食らった城跡です。地元なのでディスりますが「こんな所に入って行けるか」と思わせる城跡です。案内板と外観の写真を撮りさっさと帰えりました。整備を期待したらダメだと認識するには左程時間は掛からず現在に至っています。この城跡含めてこの頃に入口退散してしまった登録城3城が頭にへばりついていました。うち2城は2年前に決着を付け、残った1城の決着を付けに行きました。

こちらは南ケ城・本城・北ノ城と3か所に分かれており、最高所の南ケ城は独立した峰、他の2城は突き出た尾根になっています。デフォルメした案内板は宛てにならないので地図で本城では最高所を目指しました。給水タンクのある南ケ城と本城主郭にはさして苦労せず辿り着きました。空堀に向かう途中は真竹の猛威に晒されましたが辿り着き桝形を目視する事は出来ました。が、写真は全然ダメです。北ノ城に向かおうと右往左往していたら久しぶりに倒れていた真竹の束に足を滑らせ転倒して2m程度落ちてしまいました。周りには誰もいないのに平然を装い立ち上がり戦意喪失して終了。主郭を見たからOKとする。

先輩の投稿を見ると荒れた城域をもろともせずに北ノ城迄行き着き堪能した猛者を発見、稀に聞く幻の「城キチ」なのか?自分にはちょっと無理。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

安祥城 (2024/07/20 訪問)

【安祥城】
<駐車場他>安城市歴史博物館駐車場
<交通手段>JR安城駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第4弾2城目。安城古城址から歩きました。現地説明板によると安城城(安祥城)の築城年代、築城者は明らかではありません。一説には永享年間(1429~1441年)に志貴荘の地頭和田親平によるものといわれます。「三河物語」には松平信光が1476年ころに安城城を奪い取ったという記述があります。その後安城松平家が4代続き4代目の清康(徳川家康の祖父)の時に本拠地を岡崎に移します。1540年に織田信秀が安城城を攻め取りその後10年間安城城争奪戦が繰り広げられます。1584年小牧長久手の戦いで徳川方が城を改修して使用したとも考えられています。
 現在の大乗寺が主郭跡で南西隣の八幡社が二郭だったようです。間には現在は通路になっていますが堀切があったようです。主郭跡は小高く隅櫓跡の土塁が良く残っています。主郭を中心とした土塁遺構と縄張りの雰囲気が良く残っていました。歴史博物館には本證寺(城びと登録)の出土品や遺構が多く展示されています。安城古城とここまで駅から徒歩で来たので涼がとれました。
<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しげ

小田原城 (2024/08/25 訪問)

難攻不落の小田原城に行ってきました!

御朱印は通常版と限定版🏯

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

山形県の小学校シリーズは続く…🏫 (2024/06/15 訪問)

目標は大郷小学校となります。南側に碑とパネルがあります。小学校グラウンド北側約100m付近に,北御門跡の碑があります。なかなか見つけづらかったです…。
山形城の支城として築かれましたが,最上氏の改易後,廃城&破却の運命をたどりました。
それにしても,全国に中野城は多数存在しますね…。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

零汰

島津氏大分拠点 (2024/07/19 訪問)

大分侵攻の前段階でまずは残りの登録城の訪問を済ませる事と周囲の山並みや道路を把握するのが主な目的のシリーズ。7/18~20の三日間で訪問しました。順不同、まずは松尾城からです。

こちらの城跡は島津氏が豊後攻略の拠点としてしれっと築城したらしく築城時期などは不明で突如現れたらしいです。ザクっと説明すると山頂部、中腹部と平地部の3つのエリアに分かれており、最長部では600mを超える規模の大きな城跡です。中腹部の最高部辺りには城山神社が有りそこから上は山頂部、下は中腹部となります。中腹部から下は数々の段曲輪が多く配置されています。

山頂部は周囲が崖に囲まれており長編方向が150m程度、最高所には土塁と思われる高まりが有ります。虎口に石積が有ったりしますが少々遺構は少な目です。見張り城の表示が有りました、こちらの山頂部は主郭では無いらしく陣城の様相です。

漸く先週に大分県城郭報告書が手に入ったので縄張り図を見てみました。主郭等は無く長期を見越した城造りを目指した様には見えません。あくまでも兵站拠点のみの目的で作られた大規模の陣城と理解しても良いかと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

続100名城スタンプ設置 (2024/08/12 訪問)

水城は、664年中国の唐王朝との戦争に敗れた日本が侵略に備えるため朝鮮半島にあった百済国の都を巡る城壁にならって築かれた、全長1.2km、高さ9mの城壁(土塁)です。中国文明に習い造られた強固な城壁(土塁)は、1360年経た今もその姿を留めています。
水城は、後に大宰府を守る役割を担った城壁跡で、大きな外濠があった為、「水城」と呼ばれたとの事です。

続100名城スタンプ設置個所の水城館は、土塁のイメージを盛り土で復元し、その内部に施設を埋め込んだ特徴的な建物になっています。
水城東門の碑のすぐ横に建設されており、開館時間が9:00~16:30 他にも、大宰府市役所にも設置されており、此方の開館時間は8:30~17:00までとなっています。(駐車場・トイレ完備です)

この日、10日から金沢に滞在しており、11日の17:00に車で金沢を出発。途中休憩を挟み14時間かけ水城にやってきました😫水城着が7:00少し回っていました。水城館周辺だけなら、40分もあれば十分で、8:00前には散策を終え、水城館の開館時間を確認し愕然( ノД`)シクシク…まだ60分もあり、この後、大宰府政庁跡、大宰府天満宮を散策し、人吉まで行く予定であった為、スタンプは諦めました。
次回、九州訪問の際、スタンプを求めて水城に再訪する計画を立てようと考えています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

堀切のオンパレード 舟ヶ谷の城山 (2021/02/13 訪問)

静岡県御前崎市の舟ヶ谷の城山は井伊直政の恩人である新野左馬助親矩の城です。城跡には連続する堀切が7つも良好な形で残っており戦国時代の山城の堀切を体験するには格好の教材だと思います。
その遺構の見事さから、徳川か武田によって改修をされているものと考えられています。主郭が無くなってしまったのは残念ですが、それでも十分に楽しめます。
桶狭間の合戦のあと、今川氏は衰弱し家康を始めとした、領主や武将達の離反が相次ぎます。井伊家当主の直親は讒言により氏真に謀反の疑いをかけられ掛川で殺害されてしまいます。直親の嫡子・虎松(直政)も命を狙われますが新野左馬助によって母の「ひよ」とともに屋敷に匿われ左馬助の助命嘆願によって命を救われたそうです。
左馬助は後に、今川から離反し翻意を露わにした引馬城の飯尾連龍(遠州忩劇)を攻めている時に討死してしまいます。左馬助には一男七女があったとされ、息子の甚五郎は北条氏に仕え、小田原征伐で戦死してしまったそうです。徳川家康は井伊直政の恩人の嫡子が小田原にいることを知り、直政に呼び寄せるように申し付けますが、果たすことは出来ませんでした。直政は左馬助の娘たちを家臣に嫁がせ、その子孫である木俣家に井伊直弼の異母兄・中守が養子として入り、後に新野親良と名乗ったそうです。
親良は井伊家家老として幕府大老である弟を助け、直弼の死後も幕末から明治の初期にかけて彦根藩を支え続けたそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

春王・安王の墓 池田輝政陣所古趾 岐阜県垂井町 (2024/03/31 訪問)

岐阜県不破郡垂井町には関東公方・足利持氏の遺児 春王・安王の墓があります。永享年問(1429〜1441)足利持氏は関東管領・上杉憲実と戦い幕府の援護を受けた憲実に持氏は討たれてしまいます。
春王・安王は下総の結城氏朝に匿われますが、嘉吉元年(1441)結城城は幕府の攻撃に会い落城し、春王・安王は囚われの身になります。二人は京都への護送中、垂井の金蓮寺において斬首され京都で晒されたのち、金蓮寺に埋葬されたとのことです。
私は南側からアクセスしましたが、北の国道21号線からアクセスした方が良いでしょう。同地には関ヶ原古戦場の池田輝政陣所もあり案内板も立っています。
私は関ヶ原に関しては一般に知られている陣跡以外の裏側ばかり投稿していますが、ひとしきり表も回っているので、そちらもぼちぼち投稿していこうと思っています。
私は関ヶ原は構造上、国家の命運を左右する規模の決戦を行うのに適した構造を持ち、古くは鎌倉時代元寇の頃から明治時代、日清戦争の直前まで時代の施政者や軍部を預かる者から注目をされていたと考えます。
私は白峰旬氏らが一般に発表されている一次資料による新説などを踏まえ、自分の目で見て考え、ある程度の考察をまとめています。遺構にしても、関ヶ原以前に築かれたものか、明治時代に軍部によって成されたものか、昭和以降に杉の植林で扁平されたものか、はっきりしないものもあります。明治に発表された陣所の外側にも遺構(らしきもの)が存在することに注目するべきだと思います。

関ヶ原の投稿を踏まえた上で、自分なりに豊臣秀吉の最期についての推察をまとめて行きたいと思っています。自分はあくまで一般ピープルなので一次資料を解読して新説を発表するということは出来ません。自分に出来るのは歩いて見て考えることだけです。その時代の背景や必然性、その時代を生きた人々の性格や考えなどを考慮し、その時代の医学や科学の発展の度合、地形や地質学的な要素も踏まえて挑んで行きたいと考えています。不快に思われる方もいるかもしれませんが、あくまで「私個人」の意見や考察ですので、そこはご了承願います。
まずはせっかく関ヶ原の古跡を回っているので、通例にそって投稿していきたいと考えています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

うさ

高輪大木戸と虎ノ門 (2024/08/25 訪問)

昨日高輪大木戸へ。今朝虎ノ門へ行って来ました。
大木戸は季節のせいか草が生い茂っていて見えない部分がありました。
虎ノ門、駅内の展示が素敵です。夜はライトアップされるみたいで、見てみないなぁと思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

いざ復興天守へ (2024/02/25 訪問)

和歌山城は天守と本丸御殿が別々になっています。いわゆる天守曲輪というやつで、いずれも本丸石垣の上に築かれていると思うのですが、御殿とは別の曲輪のようになっています。姫路城と同じ連立式天守となっており鉄筋コンクリートにより復興天守として再現されています。城域は最盛期の四分の一くらいになっているようですが、それでも十分な広さを誇ります。さすがは徳川御三家の城です。
「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張り図を見ると天守曲輪・本丸御殿・二の丸御殿・西の丸御殿とされている場所に主要な建造物が築かれていたようです。御殿が三つもありますが、実際はもっと多かったかもしれません。今回の訪問で心残りは南東の岡口門を訪問していないことです。和歌山城唯一の建造物の遺構なので次回への宿題にいたします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

お姫平 静岡県藤枝市 富士見平・若王子古墳群 (2021/02/27 訪問)

心臓破りの220段と赤文字で補足のある鬼岩寺の急階段を登るとお姫平に到着です。心臓破りなのに「ふじえだ健康スポット」とはこれいかに‥ムリをせず進みます。お姫平の先に若王子古墳群があり、富士見平の名がついています。
なんとなく砦の様な雰囲気があり、周囲の眺望は良好です。曇っていますが富士山も見えました。ありがたや‥
永享4年(1432)室町幕府六代将軍・足利義教が敵対する鎌倉公方足利持氏の様子を探るために富士山見物という名目で駿河にやってきたようです。9月10日に京都を出発し、17日に鬼岩寺に宿泊したそうです。伝説では義教がここから富士山を眺めたので富士見平と名がついたとのこと。義教の姫も同行しており、それが「お姫平」の名の由来になっているようです。
義教は「万人恐怖」とも称される強権的な政治を行い「嘉吉の乱」で赤松満祐に殺害されています。評判の良くない人物ですが恐怖政治については諸説あるようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

瀬戸谷城 静岡県藤枝市 (2024/08/25 訪問)

瀬戸谷城は東城と西城があり、今回の投稿は東城の方です。静岡古城研究会の「静岡県の城跡」には滝沢東城と記載が有るようですね。
道らしい道はなく、緩い斜面をジグザグ登っていきます。瀬戸山の城山と呼ばれる標高380.5mの頂部に築かれ、土塁や堀など戦国期に見られるような遺構は一切ありません。
扁平地にしても微細な傾斜が残っているようです。ネイティブな構造から南北朝時代に今川の花倉城に対して、西の城と合わせて南朝方が築いた砦のようなものと考えられています。ネットで調べてみると山頂部東端に小堀切と土橋がかかっているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

城下に見どころもありました👀 (2024/06/21 訪問)

JR徳山駅から徒歩で攻城しました。途中,徳山小学校は桜馬場跡で,藩校があった石碑も見つけました。それから,「徳山七士碑」を発見。禁門の変後の派閥争いの犠牲となった志士をたたえていました。徳山城にだいぶ近づいたところに鐘楼跡がありました。現在は,新堀自治会館となっています。
徳山城そのものについては,トクさんの投稿の直後なので割愛させていただきます。興味のある方はそちらをご覧ください。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫山神社 (2024/08/24 訪問)

 大原上野守宗隆の居城で、天正年間に荒木村重に滅ぼされたと伝わっています。本丸と二の丸の双郭を主とした縄張りで、2つの郭の間には堀切があります。大手口方面には枡形が残っています。雑草が生えていて少しわかりづらいのですが、概ね形は確認できました。本丸跡に姫宮(姫山)神社があり、土塁を確認することができます。

 JR新三田駅より徒歩15分くらいで行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

三田小学校 (2024/08/24 訪問)

 三田市立三田小学校(本丸)および兵庫県立有馬高等学校(二の丸)の敷地が主な城域とされています。三田小学校前に石碑があります。三田小学校と有馬高校の間にある道沿いの濠は本丸館と二の丸の境の堀であったと説明板にありました。室町時代に築かれた車瀬城が前身といわれています。江戸時代は志摩から転封された水軍で有名な九鬼氏が治めていました。旧九鬼家住宅資料館の前には「山の九鬼 海の九鬼」の幟がありました。

 三田駅から徒歩約15分で石碑のある三田小学校へ行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

茶臼山緑地 (2024/08/24 訪問)

一蓮坊祐之の居城として知られています。1579年羽柴秀吉が三木城を攻めた際に、この城を仙石秀久に攻めさせると一蓮坊は家臣の助命と引き換えに開城して自決したと説明板に書いてありました。
茶臼山緑地として整備されています。本丸と南丸の標識があり、空堀や土塁を観ることができます。

新神戸駅からバスに乗り上津公園前バス停で下車。バス停から徒歩10分くらいで行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

畠山重忠の乱 (2024/05/03 訪問)

畠山重保館は横浜市立戸塚高等学校が推定地とされているようです。周囲より少し高台になっていますね。
畠山重保公は武士の鑑と言われた畠山重忠の息子で、母が北条時政の娘であったため嫡子としての扱いを受けていたようです。元久2年(1205)6月に北条時政の後妻・牧の方の娘婿である平賀朝雅との確執から謀反の疑いをかけられ、由比ヶ浜で時政の意を受けた三浦義村に討たれてしまいました。
父の重忠も武蔵国の二俣川で北条義時を中心とする鎌倉の討伐軍に討たれ、重忠の次男・重秀らも自害したとのことです。
この一連の出来事は鎌倉の中に暗い影を落とします。重忠は無実であったと義時は主張し、時政は人望を失い後に牧氏事件(源実朝暗殺未遂)を起こして失脚します。畠山討伐に加担した稲毛重成や小沢重政(重成の子)榛谷重朝(重成の弟)らは責任を取らされ三浦吉村に殺害されたとのことです。結果を見ると重忠・重保らを討った北条義時・三浦義村らが勢力を伸ばすという不思議な結果になっています。

+ 続きを読む

零汰

尼子城:滋賀県犬上郡甲良町尼子 (2024/05/27 訪問)

尼子氏と言えば八つ墓村、横溝正史の八つ墓村、角川映画の八つ墓村。オープニングで丘に立つ8人の尼子の落武者、エンディングで傷だらけで村を見下ろす尼子の落武者。相変わらずその程度知識しかない、それでも城跡の訪問は楽しむ事は出来ます。今考えると戦の後に落武者狩りが有ったのだから物語の様な事は日常茶飯事だったのかもしれない。

その尼子氏の発祥の地らしく、土塁が残る土塁公園と堀跡が殿城池と言う名称になって遺構が残っています。近くには藤堂高虎の出生地にちょとした公園が有り石碑と表示板が設置されています。高虎写真は見当たりませんでした。



+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

安城古城 (2024/07/20 訪問)

【安城古城】
<駐車場他>駐車場はなし。北にあるスーパーヤマナカに買い物して駐車するのがベター
<交通手段>JR安城駅から徒歩

<感想>青春18きっぷで濃尾平野ちょこ城巡り第4弾1城目。久々の18きっぷ旅です。安城古城は現地説明板(写真添付)の通りで割愛。最寄りJR駅の始発に乗って米原で乗り継ぎ、新快速でそのまま来れました。しかし、安城駅から距離感つかめず徒歩25分、猛暑でなかったら普段は山城で鍛えた足で平気なのだが、なんせ私は暑さに弱い。途中でスポーツ飲料を補給しながらやっと1城目。現地は土塁が残るのみです。土塁向かいにある竹藪は何かの遺構かは分かりませんでした。先達の方の投稿通り安城駅からはレンタサイクルがいいのかも。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

また石ばかりの投稿に。 (2024/02/25 訪問)

和歌山城の駐車場は南側の不明門を通った先の西側にあります。不明門の前にある高石垣は御三家に相応しい見事なものですが、和泉砂岩を積んだもののようです。隅部は補強されているようですが崩れてこないのかな?
一般的にはこのクラスの巨城だと石垣に花崗岩を積んだ城が多いのですが、和歌山城は緑泥片岩や和泉砂岩(一部花崗斑岩を使用)をメインに使っているので雰囲気がやや異なります。この日は小雨が降っていますが、雨の日の緑泥片岩(紀州青石)はとても美しいです。
本丸周辺の石畳にも緑泥片岩を使ってあるようなので、足元にも注目したいです。城址巡りだと雨の日はハズレと思われがちですが、和歌山城に関しては決してそうとも言い切れません。ただ滑らないように足元には注意が必要です。
二回続けて石の話ばかりになってしまいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ124