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しんちゃん

柿田川公園 (2024/01/25 訪問)

泉頭城の主要部は現在は柿田川公園になっています。主要部は泉の館や駐車場になっていて、船着曲輪の周辺や貴船神社、湧水の見える展望台などを経て、橋を堀切で横切りながら駐車場に戻ってきます。堀切などの遺構は少ないですが雰囲気を感じ取ることは出来ます。
駐車場付近では湧水を汲める場所があり、そこで携行のペットボトルに水を補充しました。特に加熱しなくても体調に問題は有りませんでしたよ。

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しんちゃん

幻の鯖江城建設予定地 西山公園 (2016/08/14 訪問)

少し古い写真で申し訳ない。鯖江藩初代・間部詮言は無城格の大名でしたが、7代・間部詮勝は幕政で重きを成し大阪城代、京都所司代、老中を歴任します。老中就任中に築城の許可が出ますが、水野忠邦との対立が影響したのか実現には至っていません。
建設予定地は御達山(長泉寺山)と呼ばれる丘陵で現在は西山公園として整備されています。
国道417号線が県道229号線と交差する北側、別名つつじ通り(国道417)を堀代わりに東西に公園(曲輪)が配され間を鉄橋で行き来します。北西の展望所に天守が築かれる予定だったらしく、全体に城郭の雰囲気を残しています。公園東側には藤棚を備えた庭園が整備され、大名の城郭庭園に通じる趣と格式を備えています。陣屋跡は未訪問なので「いった」はおあずけにしておきますが、別名:鯖江城の由来はこの西山公園にあるのではないでしょうか。地元の方も残念だったらしく公民館に天守の模型があったりしますが(記憶)、ここに模擬天守が無いのは西山公園を市民のために解放した間部詮勝公に敬意を表してのことかもしれません。「嚮陽渓」とは詮勝公が安政3年(1856)に命名した名称ですが「日本の歴史公園100選」に選ばれる重要なファクターにもなっています。

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ごんぎつね

連続する曲輪と堀切 (2023/11/03 訪問)

登山口が厳重な感じで物々しい雰囲気。
熊でもいるのかとビクビクしながら、入山。

登山道の所々にイノシシが餌を探した跡があったので、
農作物への被害対策だったようです。。

約1時間ほど歩くと、「大堀切」が!
これはお見事!

その先の本丸に行くまではいくつもの曲輪群および虎口と思われる場所に
石垣がありました。
本丸のさらに奥にはくっきりと確認できる「堀切」が奥の奥まで
いくつもあるように見えました。
なかなかの勾配であったため、先に進むのは断念しましたが、
もっと奥に行けば畝状竪堀群があったようで見たかったです。



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しんちゃん

川島 (2012/12/11 訪問)

屋島の写真といっしょに川島城の写真も出てきました。阿波九城の一つで川島惟忠によって築かれたとされています。現在は川島公園として整備されていて二の丸跡に模擬天守が立っています。正直、このような天守があったかどうか不明なのですが、天守からの眺望は良く、案外周囲との景観ともマッチしているようです。地元の住民のデマンドに応じた結果だと思うので、あまり深く考えず素直に楽しませていただきました。

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しんちゃん

屋島 (2013/12/11 訪問)

屋島城は屋島に築かれた古代山城で、屋島は江戸時代までは独立した島だったようです。四国遍路84番札所の屋島寺は屋島城跡に築かれています。11年前、初めて屋島を訪問した際、山中を徘徊していた時に整備中の屋島城の石垣と遭遇し、写真をいくつか撮って、そそくさ退散しました。すでに整備も終了し、一般に公開されているので改めてじっくりと訪問したいと思います。

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小城小次郎

一文字に三ツ星 (2023/11/11 訪問)

都心部とは思えない本格山城だが公園内をさらっと眺めるだけでは凄いところをまるで見ないで終わるので隅々まで見て欲しい。大江氏一族の長井氏にまつわるとされ、城内の住吉神社には意味ありげな家紋が光っている。

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しんちゃん

柿田川公園 (2024/01/25 訪問)

泉頭城は現在は柿田川公園として整備されています。「駿河記」には「弘治年間築之、小田原北条の臣・多目周防守荒川清兵衛守衛たり」と記載があったとされ戸倉城・獅子浜城らと並んで北条氏の出城であったようです。
「余呉くんのお城のホームページ」さんの縄張りを参考にすると、駐車場のあたりが本丸。南の周遊路付近が船付曲輪。西の芝生公園(広場)が西曲輪で貴船神社は西曲輪の出丸の位地にあります。柿田川を天然の守りとし、湧水のあるあたりが出丸になるようです。
公園の東側にも曲輪が複数あったようですが、市街地になっているようです。

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ぴーかる

宇喜多直家飛躍の城 (2024/04/13 訪問)

【沼城】
<駐車場他>駐車場はなさそう。新幹線の高架下<34.707266,134.035401>に停めました。
<交通手段>車

<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅1城目。現地説明板によると亀山城(別名沼城)の築城は戦国時代に浦上宗景配下の中山信正(勝政)によって築城されました。1559年に宇喜多直家が浦上宗景よりこの城を賜り、1573年に岡山城に移るまでの14年間、宇喜多直家の壮年時代活躍の拠点となった城跡です。宇喜多秀家もこの城で生誕したそうです。1601年小早川秀秋が岡山城主となり廃城となったそうです。
 この城は丘城で登城口は城跡南側からの階段の真っすぐ登ればすぐ主郭跡に着きます。主郭の周囲を帯曲輪で取り巻いていて所々に腰曲輪があります。北西側の麓の民家の所が大きく掘りこんでいて、大手虎口のような感じも受けました。主郭は2段構造になっていて上下段それぞれ建物があったような感じを受けました。東方向に下って二の丸跡の削平地は現在はすべて畑になっています。西方向の平地にある西の丸跡には高土塁跡が見られます。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

北条氏と今川氏の争奪戦。 (2024/01/25 訪問)

長久保城は築城時期については定かではありませんが、戦国期には執拗に駿河に侵攻してくる北条氏に対する、今川氏の防衛拠点だったようです。天文14年(1545)には北条氏の城となっており北条氏綱の弟・葛山三郎長綱(北条幻庵)が始めに入り、清水太郎左衛門尉康秀が城将の時に今川義元の攻撃を受けたようです。9月24日に武田・北条・今川の間で和睦が成立し、義元が駿河・富士二郡を支配下に置くことが決定し、今川氏の城番が入ったようです。
城山神社は周囲に対して小高くなっており平山城や丘城としての雰囲気を持っています。周囲に土塁が良好に残り、かつては八幡曲輪・南郭として機能していたようです。東のトイザらスあたりが、かつての本丸のようですが当然のように何の遺構も残っていません。

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ばばよ

5月末なら蚊に刺されない (2024/05/24 訪問)

訪問した日は30℃近く、本郭まで着いたときには汗びっしょりでした。
山に入ってからの距離はそれほど長くないですが、勾配がかなり急で足に応えました。
5月末なので虫が心配されましたが、蚊には刺されませんでした。
足元にカナヘビが多く、目の前に小さな虫が飛んで鬱陶しかったですが、クモの巣に悩まされることもありませんでした。
しかし少し草が多く、石垣の全貌を見るにはもう少し早い時期の方が良さそうです。
また、少し崩落の危険があるため金網が張られている場所もありました。
この城のページのトップにある石垣がどこか、見つけられませんでした。

しかしこんな山上に石垣を築くとは、当時はまだ常識ではなかった技術でしたし、さぞ大変でしたでしょう。

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「安心してください、ついてますよ!」

現在、商品化プロジェクト実施中の「日本100名城かるた」。
「いざかるた取りしてみても、取った札が正解かどうかわからない…」
当然の不安ですね、でも…

安心してください、ついてますよ!

絵札読み札の対照表!
しかも読み札のフリガナつき!

商品化プロジェクトも残り5日。
ご協力のほど、どうぞよろしくお願い申し上げます。

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カズサン

二度目のチョイ寄り岩木山見えず (2024/05/20 訪問)

 高屋敷館遺跡を終えて2、3km程南と近いので平成28年10月初登城以来8年振りで寄らなくてはと、するっと二度目の探訪を致しました。

 駐車場:浪岡城跡案内所駐車場を利用、月曜日休館日で案内所入館できずトイレも休館日使用できず。
 参考資料:グーグルマップに依る。

 案内所より探訪開始、前回も今回も案内所休館日に当たり案内資料など閲覧できずパンフレットも入手できずでした、猿楽館南下より東館に登り、東館より木橋、帯曲輪を通って北館東の虎口より北館を一巡、半柱の屋敷跡地表表示、板塀囲い屋敷跡表示、北館からは岩木山が見えるのですが、本日は朝は良かったのですが昼は雲に隠れて裾野だけが見えるだけ、残念!、帯曲輪を通て西館虎口と木橋、内館西虎口と木橋、北館西虎口を登って、浪岡城のメインの写真に成っている北館北木橋を眺めて来た道を戻る。
 
 前回は10月今回は5月で桜の時期では有りませんので桜の時期に晴天の岩木山を浪岡城で眺めたいものです。
 
 

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カズサン

平安時代環壕集落遺跡 (2024/05/20 訪問)

 縄文世界遺産三内丸山遺跡を終えて高屋敷館を初登城しました、高屋敷館は平成28年10月に浪岡城を訪ねた折り、浪岡ICより国道7号線バイパスを南下中に国道脇の遺跡標柱を見ながら通過した記憶の有る遺跡城跡です。

 駐車場:高屋敷館遺跡南に広い専用駐車場。トイレ無。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクショングーグルマップに依る。

 駐車場から北へ、国指定史跡高屋敷館遺跡名の石柱と大看板柱が並んで立っている、進んでいくと復元整備された壕、土塁が南側に、西側より食違土塁が西虎口か?虎口前に高屋敷館遺跡の解説板、木橋の左右内側に壕が廻っている、土塁が外側、壕が内側に廻ってる構造です、木橋を渡り内部へ、西虎口内側北に木製の柵列が一部復元、内部は竪穴建物跡、工房跡などが多く地表平面表示されている。
 東側には大釈迦川が流れて外濠の役目、大釈迦川の河岸段丘に位置する構造で裏虎口、裏出入口が東側に有る。西は国道7号線バイパスで区切られている。
 解説板によると大きさは南北約500m、東西約90m、平安時代の環壕集落遺跡との事。平成13年に国指定史跡に認定。

 国道7号線浪岡バイパス工事前の発掘調査(平成6年~7年)で発見されてバイパスルートを西に振り遺跡の保存整備がされたようで大変ありがたい事です。
 浪岡城を優先しスルーして8年振りの登城となった次第です。
 

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todo94

若狭の城めぐり④ (2024/05/11 訪問)

新保山城からの転戦です。有料の赤礁崎オートキャンプ場の中にありますが、見学者用の無料駐車場が遠く離れた南方にありますので、遊歩道をたどってアクセスすれば問題なく見学することができます。大砲も設置されていてきれいな公園として整備されていますが、見ごたえのある土塁や1号台場の排水溝など、さすが国史跡に指定されるだけのことはあると感じさせられる台場でした。同じく国史跡に指定されている鋸崎台場は大飯原発の奥に所在しますのでアクセス不可能です。国史跡に指定されていますので、城びとの登録物件になっているのは当然かもしれませんが、福井県の登録物件コンプリートが不可能というのはかなり残念なことです。

ぴーかるさん 返信ありがとうございました。実は先週、鵞足炎を患ってしまい、階段上りの際に右膝に痛みが走ります。幸い今は山城オフシーズンなのですが、秋までに治るかどうか。原因はオーバーワークとのことなので日ごろの酷使を反省しています。

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赤い城

佐料城 香川県高松市 (2024/05/06 訪問)

勝賀城の麓にあります。
香西氏が築いた城で勝賀城は詰めの城、平時の居館はこちらでした。
勝賀城への麓からの登城路途中に案内板があります。

奥津神社や周囲の住宅地が城趾で堀の一部が残っています。
訪問時にはちょうど黄菖蒲が咲いていました。
しばらく住宅地をウロウロしましたが他には遺構はなさそう。
ただ側溝が堀の跡と想像され、なんとなく城の範囲がわかる感じでした。

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トク

100【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城②-直虎と直政) (2024/02/14 訪問)

(26人目)井伊直政の続き②です。井伊谷城を訪れてきました。
祝田からまた同じ奥山行のバスに乗り10分「井伊谷」で下車しました(写真⑩)。

バスを降りてすぐの右手の路地に入ると井伊家居館跡がありました(写真①)。公民館には説明板が立っていて、この公民館とその右のアパートが建っている場所この一帯に居館があったようです(写真⑦)。そして後方に見える山が「井伊谷城」です。ここにあった居館で、幼い頃のおとわ(直虎の幼名)は父の直盛と過ごしていました。さあここから井伊谷城まで15分の登山です。登山道は狭く急坂ですが舗装されていたので登りやすかったです(写真②③)。訪れたのは2月中旬でしたがのにもう彼岸桜が満開に咲いていました(写真④)。

山頂本丸まで登ると(写真⑤⑥)、ここから井伊谷が一望できました(写真⑧⑨)。龍潭寺や祝田も見えました。その向こうには三方ヶ原や浜松があります。ドラマでは、幼い頃のおとわ(直虎の幼名)と亀之丞(直親の幼名)がいっしょにここでよく遊んでいたシーンがありましたね! おそらくこのあたりでしょうか? 竜宮小僧が出てこないかキョロキョロ見渡しましたが、私の前には現れませんでした(笑)。今川からの支配がなければ、直虎と直親は夫婦になってここで幸せに暮らしたのかも・・・? ありえなかった話ですが、そんな二人も見てみたい気持ちになりました。

井伊家が今川から滅ぼされて10年後、井伊家を滅ぼした今川も武田から滅ぼされ、またその武田も織田から滅ぼされ、井伊谷は徳川の所領となりました。直親の13回忌の法要を機に、直虎は鳳来寺より虎松を呼び寄せ養子とし、龍潭寺にて修行させます。そして二人はここから井伊家再興を夢見るのでした。

次は、その麓の「龍潭寺」へ行ってみます。
 

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朝田 辰兵衛

👹オニカブト👹 (2024/04/20 訪問)

ここは,現在の集落の名称である「富並」ではなく,別名のほうの「鬼甲(オニカブト)」という名称で通っています。墓地の裏側に開けたエリアがあり,そこが駐車場であり登城口で,パネルが設置されています。そのパネルにようやく「富並」が登場します。国道347号線沿いの案内板も「鬼甲城」表記です。
いかにも強そうなネーミングの「鬼甲城」の城址碑は,期待どおりの存在感でした。

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ごんぎつね

竹林に囲まれた遺構 (2023/10/07 訪問)

小机駅から徒歩約15分。
住宅街の中に入口が…見落とすところでした。

本丸までの道に大きな空堀が!圧巻です!
本丸は広く、木々に囲まれていました。
当時はここからどのような景色が見えていたのか気になります。

そして二の丸に行くまでの道は竹林に囲まれており、
とても癒しの空間でした。

本丸が小机城の隣には大きな道路が走っており、
地下を通って対岸に行くことができます。
そこには富士仙元大菩薩という石碑が建っていましたが、
こちらも城の曲輪であったのでしょう。

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たか

種子島家を大事に守られてる方々に感激 (2024/05/30 訪問)

月窓亭に寄ってびっくり。
お茶と黒糖、安納芋、黒棒(黒糖のお菓子)まで出して頂き種子島家の歴史に触れました。
ひとつ葉の会という維持管理されてる方々のやさしさに感激しました。

月窓亭を出ていざ赤尾木城へ。
現在は小学校になってましたが石垣も立派に残っており、ぐるっと一周回って満足な一日になりました。

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斯波高経 (2024/05/30 訪問)

 南北朝時代、北朝方の武将斯波高経が拠点とした城です。藤島の戦いでこの城を出た軍勢が新田義貞軍と遭遇し灯明寺畷にて義貞を討ち取ったと伝わっています。遺構はないと思われますが、石碑と説明板がありました。

 えちぜん鉄道三国芦原線新田塚駅より徒歩で30分くらいかかりました。

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