案内板によると建武元年(1334)楠木正成の一族和田氏が、「岸」と呼ばれていた当地に城を築いたのが岸和田城の名の由来と書かれています。また岸和田氏によるものとする説もあるようです。
戦国時代には岸和田細川氏や三好勢の城として使われ、畿内の戦乱によって城主が幾たびも変わりましたが天正11年、羽柴秀吉が根来・雑賀・粉河などの一揆への対応を強化すると翌12年には小牧・長久手の戦の隙を付いて3万の一揆勢力が岸和田・大津を襲い「岸和田合戦」が行われました。天正13年、秀吉は岸和田城に入り貝塚の緒城を落とし、根来攻略の後に小出秀政を岸和田城に入れ、秀政によって城の近世化が行われていったようです。その後も城主は変わって行きますが、寛永17年(1640)に岡部宣勝が入って以来は明治維新まで13代続きました。
文政10年(1827)雷による火災で五層の天守が焼失し、昭和29年(1654)に三層の復興(模擬)天守が鉄筋コンクリートで建てられました。
文政の焼失後に幕府に天守復興願いが出されていて、その時のプランが三層の天守に二層の小天守というものでしたが、結局三層の大天守のみが復興(模擬)での再建となったようです。
岸和田城は何度か訪れていますが、写真は一番古い物になります。
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