顔戸城は応仁の乱(1467~77)の頃、この地で活躍していた斎藤妙椿によって築かれた
と、現地の石板に書かれています。東西およそ150m、南北およそ167mの規模と記載
があり、周囲を深い空堀が囲い、主要部はさらに高地にあり周囲に土塁が残っています。
なかなか登り口が見えませんでしたが、なんとか登れそうなところを登ってみると
郭の中は藪になっていて、その向こう側は宅地のようなので、土塁だけ見てすぐに
退散しました。
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2023/10/25 20:39
周囲を囲む深い堀切。 (2023/10/22 訪問)
顔戸城は応仁の乱(1467~77)の頃、この地で活躍していた斎藤妙椿によって築かれた
と、現地の石板に書かれています。東西およそ150m、南北およそ167mの規模と記載
があり、周囲を深い空堀が囲い、主要部はさらに高地にあり周囲に土塁が残っています。
なかなか登り口が見えませんでしたが、なんとか登れそうなところを登ってみると
郭の中は藪になっていて、その向こう側は宅地のようなので、土塁だけ見てすぐに
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2023/06/06 05:20
(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:顔戸城 (2023/04/27 訪問)
堂洞城からの転戦で、城址由来碑手前空スペース(35.437395、137.107882)に駐車し、城址由来碑前(35.437620、137.108019)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、応仁年間(1467年〜1469年)頃に斎藤妙椿によって築かれたと云われています。
妙椿は、もとは八百津(加茂郡)の浄土宗善恵寺で僧侶としての修行をしていましたが、1460年(長禄4年)守護代を努めていた兄利永が世を去ったため還俗し、兄の子利藤の後見人となりました。
応仁の乱(1467~77)では西軍に属して、上洛している土岐氏に代わり、東軍に属した富島氏・長江氏や近江より来援に来た京極氏の軍勢と戦い、1468年(応仁2年)10月迄にこれを駆逐し美濃国内を平定したそうです。
空堀の大部分は竹藪や雑木林となり、かなり荒れています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=羽崎城に向かいます。
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2022/05/10 16:34
分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 斎藤妙椿 |
築城年 | 応仁年間(1467〜1469) |
主な城主 | 斎藤妙椿 |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 岐阜県可児郡御嵩町顔戸 |