現在は二の丸が寺と墓地になっていて、小高くなった本丸跡には弓道場がある。たまたま住職に遭遇し簡単に説明してもらえて助かった。寺の正門になっている所が虎口の大手口だったらしく、こういうところは変わらぬものだなと思った次第。土塁もそれなりに残っている。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2025/03/16 00:17
2025/01/10 22:22
もうワンチャン期待したい (2024/12/12 訪問)
トクさん・・私も同感です。これだけ盛り上がりを見せておいて、じつはこっそり埋戻ししています・・なんて顛末は想定していません。
とか、言いながら実は私も行政を完全には信用してはいないので万一に備えて見に行って来たわけですが、見事な手のひら返しですね。
最近、滋賀県や歴史人などの十大ニュースなどにもランキングされていたのですが、妙に順位が低かった理由もここにありそうです。
榎下城の投稿です。榎下城は旧城寺の境内となっており、上杉憲清によって築かれたとされています。大手は南側についており、かつては周囲を堀と土塁に囲まれており、今でも門の周辺に土塁が良く残っています。本堂の裏手が一段高くなっており、このあたりが主郭と見られます。
上杉憲清の子、憲直が永享の乱(1438)に関東公方・足利持氏に加担し敗れ、金沢の称名寺で自決して以来の城主については不明なようですが、戦国時代にも小机衆の拠る小机城に対しての出城の役目を果たしていたと考えられているようです。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2024/04/03 09:57
今は旧城寺 (2024/04/02 訪問)
(URL)https://kojodan.jp/castle/1242/#section-access-info
榎下城(えのしたじょう)…横浜市緑区にあった丘城。恩田川の南の舌状台地上に位置する。現在は旧城寺の境内で本堂裏手の高まりを本丸とし、南側の虎口の土塁と東側・西側にそれぞれ空堀跡を残す。近世の軍記物などでは上杉憲直を武州榎下城主と記し、憲直は永享十年(一四三八)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏に味方して称名寺(金沢区)で自害したという。戦国期には北条氏家臣の山田右京進が居城したと伝わるが詳細は不明である
横浜市歴史博物館のミュージアムショップに、(榎下城など)数ヶ所の横浜市内にある城跡の御城印が販売されており、その全てを購入。それから一ヶ所ずつ…その城跡を巡ることにしました(^∇^)
中山駅から15-20分ほど歩いて、細い藪の道を抜けると城内…というか境内へ。そう…ここは城跡と言っても現在はお寺なのです。旧城寺という場所…どうやら私は反対側から来てしまったようで、入口としての役割を果たしてる門(1枚目)まで回り、まずそこを撮影してからお地蔵さんに参拝
2枚目がここの案内板…上記の城に関する説明文は、御城印に同封されてる説明書に書いてありそれを見ながら入力したのですが、それとほぼ同じ内容が画像右の黄色いプレートにも書かれてます。
本堂裏の小高い丘が土塁の跡…空堀も少し残ってるとも書かれていた気がしますが(ソースは他の案内板もしくはURL)、見た目における城の痕跡を示すのは、この案内板なだけがします
3枚目は本堂の裏手にある記念碑。辺りは墓地となっており、その左側にある階段を上った先にあります。城が機能していた頃(室町時代)ではなく、昭和に建てられたもの…だそうです
この近くには弓道場もあり、そこを少しチラ見してみたら…何と人がいて…しかも稽古中でした…🎯 お疲れ様です(^∇^)
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
分類・構造 | 連郭式平山城 |
---|---|
築城主 | 上杉憲清 |
築城年 | 永享年間(1429〜1441)? |
主な城主 | 上杉氏、北条氏 |
遺構 | 曲輪、土塁、横堀(空堀) |
再建造物 | 説明板 |
住所 | 神奈川県横浜市緑区三保町 |