えのしたじょう

榎下城

神奈川県横浜市

別名 : 久保城
旧国名 : 武蔵

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入口
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天守無しがアツい

今は旧城寺 (2024/04/02 訪問)

(URL)https://kojodan.jp/castle/1242/#section-access-info

榎下城(えのしたじょう)…横浜市緑区にあった丘城。恩田川の南の舌状台地上に位置する。現在は旧城寺の境内で本堂裏手の高まりを本丸とし、南側の虎口の土塁と東側・西側にそれぞれ空堀跡を残す。近世の軍記物などでは上杉憲直を武州榎下城主と記し、憲直は永享十年(一四三八)の永享の乱で鎌倉公方足利持氏に味方して称名寺(金沢区)で自害したという。戦国期には北条氏家臣の山田右京進が居城したと伝わるが詳細は不明である

横浜市歴史博物館のミュージアムショップに、(榎下城など)数ヶ所の横浜市内にある城跡の御城印が販売されており、その全てを購入。それから一ヶ所ずつ…その城跡を巡ることにしました(^∇^)

中山駅から15-20分ほど歩いて、細い藪の道を抜けると城内…というか境内へ。そう…ここは城跡と言っても現在はお寺なのです。旧城寺という場所…どうやら私は反対側から来てしまったようで、入口としての役割を果たしてる門(1枚目)まで回り、まずそこを撮影してからお地蔵さんに参拝

2枚目がここの案内板…上記の城に関する説明文は、御城印に同封されてる説明書に書いてありそれを見ながら入力したのですが、それとほぼ同じ内容が画像右の黄色いプレートにも書かれてます。

本堂裏の小高い丘が土塁の跡…空堀も少し残ってるとも書かれていた気がしますが(ソースは他の案内板もしくはURL)、見た目における城の痕跡を示すのは、この案内板なだけがします

3枚目は本堂の裏手にある記念碑。辺りは墓地となっており、その左側にある階段を上った先にあります。城が機能していた頃(室町時代)ではなく、昭和に建てられたもの…だそうです

この近くには弓道場もあり、そこを少しチラ見してみたら…何と人がいて…しかも稽古中でした…🎯 お疲れ様です(^∇^)

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じゅんじん

城址碑 (2023/05/14 訪問)

弓道場の奥に城址碑がありました。

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朝田 辰兵衛

旧城寺表記で統一させていただきます。 (2022/11/27 訪問)

この日のラストは榎下城。ここで日没を迎えるのは,気持ちのイイものではありません。私は南側から西側へ廻り潜入しましたが,北側からだとすんなりアクセスできそうな感じがしました。
墓地のほうまで進んでいくと,左側に「山田右京之進城跡碑」のパネルに遭遇します。さらに先には竹ヤブの中に空堀を発見。下へおりられそうなポイントには,立入禁止の立札がありました。

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おぃしーぃ

良く残してくれました (2022/10/01 訪問)

横浜線中山駅から徒歩15分程、住宅地にある城址です。主郭がお寺になっていて、食違いの虎口、矢倉台跡が良く残っており、マニアには有名ですね。周囲も歩けば谷地形を良く利用した大堀切やら堡塁の様な矢倉台が良くわかります。
こんな小さなお城が、戦国の先駆けになった永享の乱の始まり地であり、北条氏にとっても小机城を中心にした鶴見川防衛ラインとして重要な役割を担ったという、深い歴史を秘めています。
神奈川県民の御城ファンを名乗るなら、発達した戦国末期の小机城と共に初期の地方領主クラスの見本として、ぜひ訪れるお城と思います。横浜市内は明治期以降いくつものお城が破壊されてきましたが、この奇跡的に残ったお城を味わいましょう。
なお、行き方は中山駅北口から線路沿いに歩くことをお勧めします。車は少ないし、後堅固がわかる田んぼが見えたら明治の橋台がある線路をくぐった目の前が搦め手です。横断歩道を渡って真っ直ぐ行けば搦め手からの登城ルート、おすすめは左の道からぐるっと回って大堀切の中から登城するルートです。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 上杉憲清
築城年 永享年間(1429〜1441)?
主な城主 上杉氏、北条氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 説明板
住所 神奈川県横浜市緑区三保町