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チェブ

再登城を誓う。 (2024/05/04 訪問)

今回の旅行で、悔しい思いをした「前川本城」です。

伊達家の家臣 砂金氏が築城しました。「前川城」に移り「前川本城」は廃城しました。
道路沿いに説明板と縄張り図があります。
路駐して写真を写しました。説明板の奥にスペースがあるので駐車できそうです。

下調べをしていないので、登城を諦めました。

今回、他にも仙台市にある『いち福』のお団子を楽しみにしていましたが、長蛇の列に退陣しました。
あと、『ハラコ飯』も時期が違うと言う事で諦めました。

秋になったら『ハラコ飯』を食べに行けるかな?
その時に、再登城を誓う「前川本城」です。

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しんちゃん

いごっそう (2024/05/25 訪問)

先ほどの投稿では大河内源三郎政局についての記述は有りませんでした。天正2年の第一次高天神城の戦いの際に城主小笠原長忠は武田勝頼に降伏します。この時、勝頼は寛大な対応を見せ、降伏後の挙動は各人自由としたので小笠原長忠は勝頼に臣従し、大須賀康高、渥美勝吉・坂部広勝・久世広宣らは高天神城を退去し浜松城の家康の下に帰還。大須賀康高は馬伏塚城から横須賀城の城主となり渥美・坂部ら帰還組は「横須賀衆」として康高の与力にとなりました。
高天神城の落城の際に、ただ一人、降伏をしなかった軍監・大河内政局は勝頼の怒りを買い、石牢に7年も幽閉され、救出された時には視力を失い、歩行も困難になっていたそうです。政局は出家し皆空と称しますが、小牧・長久手の戦いの際に徳川家康に召し出されて長久手にて戦死したそうです。出家までした人をわざわざ戦場に呼び戻すとは、家康さんも余裕がなかったのでしょうか? そのあたりの情報が不足しているので、ゆっくり調べてみたいですね。
勝頼さんにすれば、これだけ寛大な対応を見せているのになんで?ってっ感じですかね。

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赤い城

金田(こんだ)城 茨城県つくば市 (2024/05/11 訪問)

週末東京出張があり、後泊して登城しました。
四国にも良い城多いですが久しぶりに堀底道を周回したくなったので以前から行きたいと思っていたここへ。
金田池の側に車を停めて民家の脇から登城します。

すぐに主郭へ、広く整備もされていました。
土塁が囲み、その先を覗くと深い堀底道!
まさに「これこれ!」最近欠乏していた成分を取り込みました。

堀底道へ降りるとその深さを改めて実感できます。
この辺りは平地なので掘るしか無いのですがそれにしても良く掘ってあります。
もちろん周囲し、十分な栄養を補給できました。

小田四十八館とされ、沼尻氏が居城としていた城だそうです。
単郭の城、未登録ですがこの堀、おすすめです!

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しんちゃん

〇〇〇 近世城郭の癒し系 〇〇〇 ......〇 (2024/05/25 訪問)

~♪ ~~♪ ~~♪♪  ~♪ ~~♪ ~~♪♪ 例の曲の弾き語りのフレーズが頭にこびりついて離れない。ヘビーローテーションってやつだ‥。でも今日は多くの城びとの投稿があって、久々に盛り上がった感じです。
(声) ‥いいことだぜ。
‥さっきから宇崎竜童さんのようなシブくてカッコいい声が聞こえてくるんだけど‥
(声) ‥それほどでもねえよ(フッ)

横須賀城の北東にある松尾山は古い本丸が有った場所とされ、土塁や腰郭が残っています。玉石垣が見事な主要部と異なり、ネイティブな雰囲気が残り、多門櫓があった場所とされています。このあたりにはカラスが数羽いるのですが、カラスによって声色が異なるのが面白いです。近年、異なる種類の小鳥でも鳴き声を使い分けることで簡単な意思疎通ができることがわかっています(ダーウィンが来たより)。 カラスたち、何を話しているのかな?
引き返そうとすると後ろから「カーカー」と声がします。振り返ると ピタッと静まる。それを4回ほど繰り返します。
いつまでもカラスと「ダルマさんが転んだ」をしていても仕方が無いので戻ります。最後にもう一回、玉石垣にご挨拶。一部に祠のように角型になった部分があり、天井部分に角石がはめ込んであるようです。後世の改修でしょうか? それにしても見事に丸い石です。
城びとも、そうでない人も、心が疲れたらぜひ、横須賀城に来て玉石垣に癒されてほしいです。

(横須賀城) ‥いつでも来なよ(フッ)

ざーん(波の音)

〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇〇
〇〇〇〇〇〇 〇  ......〇  

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街中の門跡など (2024/06/01 訪問)

 西尾市歴史公園の周辺、街中の門の跡などを散策しました。

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足利義氏 (2024/06/01 訪問)

 以前にも登城したことはありましたが、近くへ来たので寄ってきました。
承久の乱(1221年)の戦功により三河国守護に任じられた足利義氏が築城した西条城(さいじょうじょう)が始まりと伝えられています。天正13年(1585年)三河を治めていた徳川家康の命により城が修復され西尾城の基礎となる城が完成しました。この城の天守は本丸ではなく二の丸にあります。本丸丑寅櫓、鍮石門、本丸と二の丸の土塁や堀、天守台、二の丸丑寅櫓と二ヶ所の屏風折れのある土塀などが復元されています。また城下を堀で囲む総構えであったようです。街を歩くと門の跡などに石柱や説明板がありました。
 葉の茂るこの季節は城址は山城でなくても見学に不向きだと思っていますが、それなりには楽しんで散策できました。

名鉄西尾駅から徒歩15分くらいで城址である西尾市歴史公園に行くことができます。

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今川氏発祥の地 (2024/06/01 訪問)

 駿河の領主というイメージが強い今川氏ですが、ルーツは三河にあります。吉良荘西条城主であった吉良長氏が次男の国氏に今川荘を与え、国氏が地名にちなんで今川氏を名乗ったことが今川氏の始まりと伝えられています。今川氏は後に駿河に移り住み勢力を伸ばしていきます。跡地には石柱と説明板、奥には今川了俊の供養塔がありました。
西尾城の旧称が西条城であり、周辺観光として投稿させていただきました。

 名鉄西尾駅からは西尾城と反対方向に徒歩15分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

      M(エム)       (2024/05/25 訪問)

ちょっと足を山城に慣らしておきたかったので、リハビリを兼ねて高天神城に行ってきました。搦め手から攻めれば、比高もそんなに高くないし楽勝じゃね? と思って登ってみたけど、いやあ なかなかどうしてどうして、結構キツかったですわ。本丸と西の丸でいいかな~って思ってたけど、さすがに見所が多くて井楼曲輪まで訪問しちゃいました。
ずっと目の前にニンジンをぶら下げられている感じで、途中で足抜けさせてもらえない。さすがは続百名城ですな。井楼曲輪の前に二つ横たわる堀がえげつなくて、当然のように橋なんてかかってない。以前ならぴょんぴょん渡っていったところを、えっちらおっちら進んでいく。でも‥それがいい! 城攻めはしんどいのを楽しむのも、楽しみの一つだと気が付きました。何か扉が開いたような気がします。

いつも一緒に~いたかった~♪ 
それは別のエム!

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天守無しがアツい

山中城 二の丸 (2024/05/19 訪問)

売店で天たま蕎麦を食べて武将印2枚と城カードを買って準備万端にしてから右側半分…本丸側へ…三ノ丸の道を歩き階段を上り進みます

1枚目の場所へ辿り着き1枚撮影…この辺りは北条氏の居城だった頃は一面赤土…だったようですが、長い年月をかけて植物の花粉やら胞子やらが飛んできて受粉し、芽が出て草木となり…という過程で現在はご覧のとおり、一面緑が生い茂ってます🌱🌱🌲この様子がなんか印象的だなと思えました

本丸から二の丸を結ぶ橋(半分土橋、もう半分は木で出来てる)から見下ろす空堀(2枚目)…何ヶ所か見える凸のようなものは畝といい、北条氏の設ける防御機能の特徴的な存在。緊急時には木橋のみ堀に落とし、敵軍の本丸への侵入を防ぐ役割も果たしたそうです

天守櫓跡(3枚目)…本丸のもう少し先へ歩を進めると…ここに辿り着きます。ここに天守台がかつて存在…そして(スペースからして大きい天守が立っていたとは思えないので)櫓がかつてここにあったと推定はされるが、その柱穴は植樹により撹乱されていたため、確認できなかった…🏯

ちなみにこの城跡(山中城)…当時の建物は何一つ残ってません…売店にトイレ、休憩所があるくらい…(この城は堀を基本とした自然の要塞とは言え)当時建物は多少はあったと思うのですが、豊臣軍が攻め込んだ際に取り壊されてしまったのか…🔥

西の丸(4枚目)…「建物跡は発見されなかった…開墾耕作により撹乱された可能性が高く、あったとしても臨時の小屋程度」と案内文にあります。天守にせよ他の施設にせよ…あったとしても、やはり臨時的な小さい建物だったのではないか…と私も思います。そして北条氏が滅んで豊臣政権も終わり、江戸時代になるとこの辺りで開墾がおこなわれて…城の面影は薄れてしまった…のか😭

ちなみにこの城が落城した際…北条軍4000に対して豊臣軍は170000の軍勢をもって侵攻。一ノ堀…本丸…天守櫓…二の丸…どれを見てもその防御に特化した造りは芸術的でさえあり見事なのですが…それでもまだ未完成のまま備えなくてはならなくなり…深い堀も滑りやすく登りづらい関東ローム層も…数の暴力の前にはなす術がなく半日で落ちてしまった

障子堀(5枚目)山中城を象徴する存在と言える場所…畝が均等に設けられており、この造りは単なる防御機能というだけでなく芸術の領域にまで達するであろう存在…まるで障子の襖の如く造られているから障子堀なのでしょうね

この場所に辿り着いた瞬間…シャッターポイントと直感し撮影する自分がいました。ここを訪れたら逃さず撮るべきでしょう

二の丸には休憩所もあり、そこで荷物整理をして少しだけ腰を下ろし、一旦売店まで戻ることに🚶 買い物もしてから宗閑寺に行きました。ここには豊臣の大軍が攻め込んだ際に奮戦した北条軍の武将…松田康長と間宮康俊の墓があると地図にあったのでそこを見学(6枚目)

しかし…彼らの名前がはっきり書かれておらず、無関係の文字が彫られた墓…苔が蒸した楕円形の墓石しかなく、どれが彼らの墓か分かりませんでした…🪦🪦😅

なので…墓を撮影した(6枚目の)位置で両手を合わせて「どれが松田殿や間宮殿の墓か分からないけど、武士の名に恥じない最期でした…ご冥福をお祈りします🙏」と祈りました

売店では両武将の武将印も(御城印や城カードと一緒に)販売されており、(御城印は以前郵送申し込みして届いたので)武将印を購入。それが7枚目…

売店にはその他にも(山中城の様子がデザインされた)紙ロール…そして障子堀ワッフル🧇が販売…紙ロール100円、ワッフル200円(8枚目)と安かったこともあり買っちゃいました

城特集のテレビ番組で、障子堀を背景にしながらこのワッフルを撮影して食べる…というシーンがあった気がします。それに影響される形もあったかな。まぁ…障子堀とワッフルの形が似てるのはたまたま…翌日食べてみると「やっぱりただのワッフルだった🧇😅」というのが私の感想ですが、外袋(8枚目)はゴミ箱に捨てずにしばらく取っておこうかと思います

宗閑寺で御賽銭をあげて墓参りして…道路を歩いて左手に鳥居あり…通路を歩いたのですが何とお堂がロープで囲まれており…つまり閉鎖されてました

「道路際にもバス停あったから鳥居まで戻って道路を戻るように歩けば着けるけど、どうせなら残り時間10分余りあるから、もう少しだけ城の中を歩こう😀」と思いつき、本丸などを歩きました

途中…9枚目の道に辿り着き…「堀の中を歩くレアチャンス〜😍」と捉えた私はそこを迷わず歩く🚶‍♂️…急な坂道となっており、気を抜くと転ぶかもなくらい脚が加速しました🦵 

ここを見ながら歩きながら…「この土手の上から北条軍は弓矢を放ったり槍を振るう」「対して豊臣軍は坂を登り、足場の悪い中をひたすら進軍」「防御側に有利な地形を活用しながら奮戦し、一定数の豊臣軍を射倒し、堀をよじ登ろうとする者を転がり落とす北条軍」

「しかし豊臣軍は何せ大軍…倒しても転ばせても次から次へと本丸目掛けて迫ってくる」「豊臣軍も矢を放ったり鉄砲を撃ったり応戦したであろう…」「やがて次から次へと守備兵は倒れていき…動ける守備兵の数が減ってしまい満足に迎撃できなくなったタイミングで一斉突撃」「堅固な陣形も次々と破られていき…一ノ堀…二の丸…本丸…そして天守櫓も陥落」

「北条氏が誇る天然の要塞、山中城はこうして僅か半日で陥落してしまった🏳️」という光景が目に浮かぶのでした

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シャンシャン

現存天守10城目!! (2024/05/30 訪問)

漆黒の国宝天守、松本城。
どの角度から見てもかっこいい!!
姫路城ような白い天守もいいけど、黒色の渋い天守も武骨でかっこいい!!
櫓を始めとしたかつての遺構の復元計画が進んでいるそうなので今後も楽しみ!

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POYO58

石垣がすごいが… (2024/04/28 訪問)

久しぶりの投稿です。
鳥羽城に行ってまいりました。鳥羽城は九鬼さんによって築かれた海城です。遺構はもう石垣のみですかね。まあ思ったよりすごかったです。駐車場は家老屋敷に止めました。家老屋敷跡には早速大規模な石垣が残っており素晴らしかったです。階段を登るとtobaと書かれたロゴがあり、そこが城山公園だそうです。さらに階段を登ると本丸へと辿り着きます。本丸の高石垣も素晴らしく、水門も発見しました。本丸には天守がかつては建っていたそうですが、廃城になった後は小学校の運動場になったそうです。また少し離れた相橋という橋の下の小さな川沿いに石垣が綺麗に残ってました。
満足のいく遺構なのですが、毛虫が大量にいるのと、蛇に遭遇したので怖かったです。山城でもないのにこんなに怖い生き物がいるのは残念でした。

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ぴーかる

虎口高石垣に圧倒 (2024/04/13 訪問)

【徳倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。県道61号線道路脇<34.778113, 133.899706>に停めました。
<交通手段>車

<見所>櫓台石垣・主要部石垣・連郭曲輪
<感想>日帰り今シーズン山城攻めラスト旅2城目。現地説明板によると、徳倉城の築城年代は不明だが、「太平記によれば1362年に高師秀徳倉城に退き」とあり、また御津町郷土歴史資料館で頂いた資料によると、備前の守護代金川城主の松田元隆の四男、元資が1476年には居城していたとあります。戦国時代は松田氏の一族宇垣氏の居城でした。1568年に主家の松田氏が宇喜多直家に滅ぼされると徳倉城も宇喜多氏の家臣の遠藤河内守秀清が入城します。宇喜多氏が備前を平定した後は遠藤氏も岡山城に移り、徳倉城には城番を置いていたようです。関ヶ原の合戦後岡山に小早川秀秋が入城すると城は廃城となりました。

 上記駐車ポイントが大手口になり空き地が小屋か民家跡のようですが、山の壁面に古い石垣が少し残っています。私も大手道から登り、そのまま大手道から下山したので搦手道は見ていません。大手道には出丸跡(藪化)、出丸長郭・堀切があり、中腹辺りに竈門跡のある舌状曲輪があります。斜面に堀切が1条あります。そこから段々の曲輪になっていて、櫓台らしき石積み跡、井戸跡を通り主要部の下の方に着きます。
 主要部は主郭と二郭が一帯となった南北に長い長方形の曲輪で、主要部北側に3段の舌状曲輪、西に1つ腰曲輪、南に2段の腰曲輪があります。各腰曲輪の下方は急斜面の谷になっていて堀切はありません。最大の見所である野面積みの高石垣は主要部の東側虎口にあたります。おそらく宇喜多氏家臣の遠藤秀清が入城後に主要部全体と所々に残る石積み遺構をこの時改修されたものと思います。主要部の曲輪壁石垣は東面に鉢巻き石垣に残っており、北側はかつて石垣があったであろう石が3つだけ残っていて、ほぼ全て崩落してしまったものと思います。西面は急斜面で石垣の痕跡は見当たらず、南面は多門櫓跡の石垣が良く残っていて、その下段に腰巻石垣のように一部石垣が残っています。
 主要部内部は北側半分が二の丸跡で南側半分が本丸跡の看板がありますが、中間に堀切もなく、一体となっているので明確な仕切りは無かったように感じます。中心に瓦片が大量に落ちています。主要部南端にくの字状の多聞櫓跡の石垣が良好に現存しています。郭内部からの高さは低いですが、南の郭壁と一体となっているので南下段から見ると圧巻の見応えです。
 おそらく織豊期であろう高石垣がよく今日まで美しく残されていて感動しました。お勧めの城跡です。

<満足度>◆◆◆

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刑部

改修中の城址 (2024/05/22 訪問)

残念ながら改修中で見られない部分がありました。
1人用のリフトで上がって探索、見事な石垣です!途中ゴソゴソと変な音がするので下を見るとモグラが顔を出してこっちを見て逃げて行きました夜行性なのに大丈夫?城下町は鯉が泳いでいて気分が最高です、ここから津和野城の石垣が見えるまさに天空の城!

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チェブ

DTE48の弟グループ、YGI21。 (2024/05/04 訪問)

細い道を鋭角に曲がり、ゆるゆる登った所に『平沢地区公民館』があります。
「平沢城」の本丸跡です。
1段高くなっている所に石碑があります。
「勝岡城」。
また、間違えたかと思いました。

説明板があり、「平沢城」は年代や誰が築城したのかは不明なんだそうです。
江戸時代に入ると、伊達家の家臣 高野氏の居館になりました。説明板には「平沢要害」。
「平沢要害」は伊達四十八館の1つです。
一国一城令があり、お城、21の要害、残りを所、在所と分類。
世が世なら お城だったのでしょうが『要害』グループに所属です。
公民館の1段下には広いグラウンドがあります。郭にも見えてきます。

最近『ナガミヒナゲシ』という名の可愛らしい花を駆除しました。東京都のいろんな自治体で駆除を推奨しています。
このお花、外来種で他の植物の育成を阻害し、触るとカブれます。
そして「平沢城」にも咲いてました。

かつて街道監視をしていた場所は、在来種で彩ってもらいたい「平沢城」攻めでした。

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小城小次郎

絶望的に楽しい堀切底の横断ルート (2023/11/23 訪問)

毛利氏と古くから姻戚関係にあったことが知られる三田氏のお城で尾根を断ち切る長大な多重堀と石段・高石垣を伴う主郭周辺の技巧が見どころ。主郭部に向かうには堀切底を横断するしかないがこれがなかなか絶望的に楽しい(笑)。

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カズサン

大光寺コミュニティセンターに案内板と碑が有ります (2024/05/20 訪問)

 田舎館城を終えて南に約5km程の大光寺城跡を目指し初登城しました。

 駐車場:大光寺コミュニティセンター内の駐車場
 参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 大光寺コミュニティセンターの入口に案内板が設置されて、入口の東道沿いに石碑「大光寺城阯」が立っている、南側の道は堀跡のようで東へ下がっており、コミュニティセンター辺りが本郭だった様子、遺構的なものはなさそうです。
 案内板によると弘前城の北門(亀甲門)は大光寺城の追手門を移築した事が記載されています。

 

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カズサン

役場は城郭風建物近くに残存土塁 (2024/05/20 訪問)

 浪岡城を終えて南下し城郭風建物で有名な田舎舘村役場を目指す、途中の道中では岩木山の頂上は雲で隠れていますが裾野稜線の存在感が目に迫って来ます。

 駐車場:田舎舘村役場駐車場を利用。
 参考資料:余湖図コレクション城郭放浪記さんグーグルマップに依る。

 役場の城郭建物を撮影して、役場から東へ100~200m程の所に余湖図コレクションによると本郭北土塁アヤコが残存していますので訪ねる、(グーグルマップには史跡マークで田舎館城跡と記載されています。)  民家の北東に残存土塁と案内解説板、「田舎館城址・サイカチ大樹」の標柱、サイカチ大樹が佇み、田舎館城400年祭記念碑と裏に田舎舘城主千徳政武と妻於市の墓碑が立っています、土塁に立つと周りが堀で囲まれ堀底水田まで結構の高低差が有り本郭北側の実感がわきます。又城郭風建物が良く観えて現在田起こし中、水張中で田圃に張った水に城郭風建物役場が写って絵に成ります。

 案内解説板に依りますと、城主は千徳氏、三戸南部宗家の直臣で五代政武まで続き、天正13年(1585年)津軽統一を目指す津軽為信に攻められ壮絶な籠城戦で300余名の討ち死にて滅亡した。
 傍にはサイカチ大樹が討死300余名の埋葬した時の埋葬樹としてたたずんでいる。

 以前から城郭風の建物で有名な田舎館村役場を訪ねたいと思っておりましたので今回の企画に入れて思いを叶う事が出来ました。
 又ここは田圃アートで有名な所でTVニュースなどで時期に成ると取り上げられています。
 

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todo94

福井の城めぐり⑤ (2024/05/11 訪問)

この日は敦賀のホテルに泊をとったので、若狭の城めぐりの締めは疋壇城としました。廃校跡が駐車場として利用できます。しかしこちら側からはネットが張られていて主郭に入ることができません。なかなかの規模を持つ空堀の外を回り込んで北側から主郭にとりついてみました。

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まさお

川越城 富士見櫓跡・喜多院・東屋 (2024/05/31 訪問)

会社時代の元同僚と、川越東屋(喜多院と成田山に隣接)での昼食を取った後
喜多院(仙波東照宮・家光誕生の間・五百羅漢)を観覧し、南大手門跡を通り
補修工事が終了した川越城富士見櫓跡に行きました。
元同僚は川越市のボランティアガイドをやっているそうで、色々なおもしろい解説を
聞きながら散策する一日になりました。

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しんちゃん

柿田川公園 (2024/01/25 訪問)

泉頭城の主要部は現在は柿田川公園になっています。主要部は泉の館や駐車場になっていて、船着曲輪の周辺や貴船神社、湧水の見える展望台などを経て、橋を堀切で横切りながら駐車場に戻ってきます。堀切などの遺構は少ないですが雰囲気を感じ取ることは出来ます。
駐車場付近では湧水を汲める場所があり、そこで携行のペットボトルに水を補充しました。特に加熱しなくても体調に問題は有りませんでしたよ。

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