南北朝時代、北朝方の武将斯波高経が拠点とした城です。藤島の戦いでこの城を出た軍勢が新田義貞軍と遭遇し灯明寺畷にて義貞を討ち取ったと伝わっています。遺構はないと思われますが、石碑と説明板がありました。
えちぜん鉄道三国芦原線新田塚駅より徒歩で30分くらいかかりました。
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2024/05/30 21:45
斯波高経 (2024/05/30 訪問)
南北朝時代、北朝方の武将斯波高経が拠点とした城です。藤島の戦いでこの城を出た軍勢が新田義貞軍と遭遇し灯明寺畷にて義貞を討ち取ったと伝わっています。遺構はないと思われますが、石碑と説明板がありました。
えちぜん鉄道三国芦原線新田塚駅より徒歩で30分くらいかかりました。
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2024/05/30 21:40
堀江景經 (2024/05/30 訪問)
堀江氏は坂井平野北部の荘園を支配した有力武将で南北朝期から室町時代前期にかけては斯波氏の下で勢力を振るい、朝倉氏が台頭してくると重臣となったと伝わっています。番田の堀江館跡に行きました。
えちぜん鉄道三国芦原線番田駅から徒歩約3分の場所に石碑と説明板があります。
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2024/05/30 21:35
2024/05/30 20:58
港のヨーコ ♪ (2024/05/24 訪問)
あんたヨーコって娘を探してるんだって? 悪いけど他(ヨソ)を当たってくれないか‥
なんでって、そりゃ ここが横須賀市じゃなくて静岡の掛川市だからだよ
(~♪ 伴奏) ‥アンタ あの娘のなんなのさ? 港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ~♪
横須賀城は武田勝頼に奪われた高天神城を奪還するために、天正6年(1578)に徳川家康が大須賀康高に命じて築かせました。現在は国指定史跡に指定され、「横須賀城址公園」として整備されています。
天竜川で採取される、丸い河原石を積んだ玉石垣で築かれているのが最大の特徴で、段々状に玉石垣が積まれ、最高所に本丸が置かれ、北東隅部に天守台が築かれています。本丸の北東には北の丸があり、その東側に古い本丸跡とされる松尾山があります。
本来 石垣の隅部は角型に整えられた石で算木積になっているのですが、ここの算木積の部分は丸く細長い石で積まれています。
算木積まで丸いというのは愛嬌があって良いと思うのですが、正直 崩れてこないのが不思議です。
古い縄張図を見ると、海城と言ってよいほど、かつては海に近かったようです。耳を澄ましてみると、遠く潮の音に紛れて横須賀城の兵たちの喧騒が聞こえてくるような気がします。
さて、次に向かうとしますか‥
(横須賀城の声) さっきのやつが言ってたけど、ヨーコって娘は港町を流れているんだって? きっとその娘は海が好きなのさ。
今ごろ寂しがり屋の子猫を抱いて、海に向かって独り言をいってんだろ‥
寂しくなったら、いつでも来いよ。昔ほど近くじゃないけど、こっちにだって海はあるんだぜ。
(~♪ 伴奏) ‥遠州灘だけどよ(フッ) 港のヨーコ・カケガワ・ヨコスカ~♪
ざーん(波の音)
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2024/05/30 20:37
こちらこそ感謝です
todo94 さん、新保山城 お礼のお言葉こちらこそありがとうございます。いつも特に山城の魁を行っていらしゃるので、山城攻めの時に大いに参考にさせてもらっています。面白かったのが、尼子十砦の寺山城は投稿が貴殿お一人で、「王子神社から無理矢理登ってみました。」で現地に行って見て「俺、無理だわ。」と爆笑しました。タフです。
三方五湖初めてだとか。私は若かりし頃、車を初めて買った時にドライブしたのが琵琶湖1周と三方五湖です。凪の湖(海)もまたいいものです。
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2024/05/30 20:20
東に向いた戦国の城とは (2023/11/11 訪問)
土肥実平に連なる小早川家が明治に再興され、時の当主・小早川四郎氏の書による城址碑が立っているのは実平との関連なのだが実平と土肥城を繋げる物的証拠はない。でもこの「東に向いた戦国の城」は何のための城なのだろう。
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2024/05/30 19:49
閉門時間が早め (2024/05/30 訪問)
(URL)http://kagurazakaguide.web.fc2.com/5060.html
JR飯田橋駅から歩いて10分ほどの場所…坂を上った先に(一応)城跡があります。その名は牛込城跡…別名は光照寺
1度目は(17時まで開いてるものと思っており)16:30に入口に辿り着きました…しかし…(1枚目をご覧の通り)既に閉門…開門時間は16時まででした😭
門の注意書きに「防犯上の理由から閉門時の入山と墓参りはできません」とあり、仕方が無いので日を改めて伺うことにしました…そしてその約2ヶ月後…今度は14時に来訪…文句無しに入場することができました😁
本堂に向かい御賽銭120円を賽銭箱に入れて参拝…その際、注意書きに「許可なく境内の撮影を禁ず」とありました。墓参りの客と墓のお手入れをしているオジサン以外誰もおらず、許可を取る対象者が見当たらなかったので、今回は境内の撮影無しにすることとしました
境内に墓地があったので、そこを一通り見学しました。江戸時代には旅先で客死する者が(現代より)多かったそうで、彼等を弔う墓石…狂言歌師(名前失念)の墓石🪦
あとは…大名…庄内藩から江戸を行き来していた大名のお墓もありました。ただそこは…東日本大地震以降、墓石の倒壊が起きてるそうで…関係者以外立ち入り禁止…周りを格子で囲まれてました
境内の代わりに、門の前にある光照寺の石碑(2枚目)を撮影。20分と短めの滞在ではありましたが、上記のとおり一度訪れ損なってるので、その補完ができただけで満足でした(^∇^)
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2024/05/30 19:41
淀江台場 (2024/03/30 訪問)
【淀江台場】
<駐車場他>公衆トイレあり。トイレの横に4台分程の駐車場あり。
<交通手段>車
<感想>日帰り尼子十基制覇の旅ラスト5城目。夕刻ギリギリの駆け込み攻城。淀江台場は国史跡である鳥取藩台場跡の一つで、1863年に松波徹翁によって設計および築造されました。松波徹翁は鳥取藩の郷士に取りたてられた大庄屋役で鳥取藩台場のほぼ全ての土地提供・設計・地元農民を指揮して築造した大した人です。
現地はメインとなる土塁が残されており、当時は残る土塁の両サイドに斜めに短い土塁が付いていたそうです。土塁上には砲台跡と思われる遺構は表面観察では残っておらず、海を眺められるベンチがあります。土塁の後ろ側も公園化されています。
これにてこの旅終了。日帰り旅で一番走行した、687㎞無事走破。
<満足度>◆◇◇
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2024/05/30 18:20
本丸周辺 (2024/01/25 訪問)
西の丸を散策したあとは木の根道を通って北の丸→本丸→二の丸と訪問します。各曲輪の周囲には堀が配され、土塁も良好に残って(復元?)います。本丸の北東には天守櫓の跡があり、本丸堀には障子掘が再現されています。そのまま箱井戸を経由して駐車場に戻りました。西の丸の方が華やかには見えますが、さすがに山中城の主要部だけあり、遺構が充実しています。
守兵4千に対し、攻め手が4万という状況で衆寡敵せず数時間~半日で落城したとされますが、そのわずかな時間に敵味方大勢の命をかけたドラマが凝縮されていたと思います。
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2024/05/30 18:03
ファイトッ (2024/05/25 訪問)
城びとでは2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で早くも盛り上がりを見せていますが、田沼意次の居城のあった、牧の原市では「べらぼう ~蔦重栄華乃夢噺~」に田沼意次(配役・渡辺謙さん)が出るとのことで、地味に盛り上がりを見せております。
近世城郭としての相良城は明和4年(1767)に田沼意次によって築かれたとされています。
田沼意次の石高は最終的には5万7千石にまでのぼり、相良城もその石高に相応しい立派なものだったようですが、息子の意知が殺害されてから勢いが衰え、意次の失脚後には孫の意明が陸奥下村藩1万石となり、相良城はその後、徹底的に破壊されたようです。
二の丸跡に建つ牧之原資料館の入場券は七曜紋の書かれた御城印のようで洒落ています。萩間川近くには仙台候・伊達重村に寄進された仙台河岸が残り、相良城の貴重な遺構とされています。グーグルマップを拡大すると場所が特定できます。
意次公は江戸にいたと思うので、相良城の出番がどれだけあるかは不明ですが、意次公にあやかって相良城周辺も盛り上がっていくと良いですね。
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2024/05/30 16:52
城への交通手段実践レポート (2024/05/18 訪問)
福岡・佐賀城廻 第二日目その2
唐津から等や城へ移動の途中、呼子を通ったが、できれば途中下車してイカの姿造でも食べたかったが断念。以前食べたことがあるが絶品、時間がある鷹はお勧めです。
まず博物館でスタンプをゲットし展示内容を見ながら事前勉強。名護屋城のジオラマや歴史のほか秀吉の黄金の茶室の展示されていた(ど派手でした・・)。
城跡はじっくり回ると2時間は必要、山里口の二重虎口などを見るならさらに時間が必要です。
石垣はところどころ崩れているが、これは江戸期の破却の跡かもしれません。広大な城域からは秀吉の権威を感じる。天守などの復元されると壮観だろうなという感想。
本日の行程は以下の通り
※唐津城と共に登城
※博多に前泊
7:22西鉄天神高速バスT(高速バス)、8:40唐津城入口
(徒歩2分)唐津城(9:00-16:40)
11:50(徒歩16分)大手口(路線バス)、12:36名護屋城博物館入口
(徒歩6分)名護屋城博物館(9:00-16:30月休)
16:19名護屋城博物館入口(路線バス)、16:49,17:01西唐津(JR,地下鉄)、18:13天神
泊:博多
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2024/05/30 16:32
城への交通手段実践レポート (2024/05/18 訪問)
福岡・佐賀城廻 第二日目
唐津城は海城なので、最初に城跡脇の橋を渡り海越しの城など約270度くらいの角度から眺めてみた。
本丸には斜行エレベータ(100円)で一気上り、天守から攻略、石垣や虎口を観ながら降りて行った。天守は模擬天守で中は唐津の歴史や唐津焼の展示がある。城内橋辺りからも映えスポットが多くカメラ好きにはたまらない城かと。
本日の行程は以下の通り
※名護屋城と共に登城
7:22西鉄天神高速バスT(高速バス)、8:40唐津城入口
(徒歩2分)唐津城(9:00-16:40)
11:50(徒歩16分)大手口(路線バス)、12:36名護屋城博物館入口
(徒歩6分)名護屋城博物館(9:00-16:30月休)
16:19名護屋城博物館入口(路線バス)、16:49,17:01西唐津(JR,地下鉄)、18:13天神
泊:博多
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2024/05/30 14:58
見学し易い上に素晴らしい遺構が見られます! (2024/05/22 訪問)
自然公園となっている城跡です。
城跡のある山頂付近まで車で上がれます。
駐車スペースにはすでに別曲輪がありました。
曲輪を眺めながら本丸を目指すと空堀や崩れた石垣、雰囲気のある水の手曲輪がありました。
さらに先にすすんで二の丸に出るとありました、櫓台跡、横矢、石垣のある枡形虎口です。
本丸にも建物礎石後や枡形虎口です。
馬屋と伝わる方の曲輪へ進むと畝状の竪堀跡も見る事ができます。
これは思わず声が出る素晴らしい畝!
個人的にはかなりおすすめなのがいわゆる馬屋跡です。
馬屋は秋月時代の古城とも言われているそうで、この馬屋を見事な石垣が囲んでいます。
これは素晴らしいです!
比較的見やすく整備されつつもしっかりと遺構も見る事ができる素晴らしい城跡だと思います!
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2024/05/30 13:53
2024/05/30 13:50
小机城 (2023/05/05 訪問)
空堀や土塁が見事に残っていました。
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2024/05/30 10:34
【陸奥・三内丸山遺跡】青森県青森市 縄文世界遺産2/2発掘遺物編 (2024/05/20 訪問)
三内丸山遺跡、縄文世界遺産1/2復元建物編の続きです。
縄文三内丸山遺跡の野外展示物を説明員の方の案内と説明で時間延長20分の十二分な説明を受けて、縄文時遊館の常設展示室さんまるミュージアムを見学しました。
6本柱建物の穴に残って居た栗の木の現物展示約5000年前の物ですすごい事ですね!、縄文土器、土偶、黒曜石の石槍、鏃、耳飾り、装飾具など感激の見学観察でした。
時間も11時を過ぎて居り、今朝は高速のSAで早い朝飯でしたので時遊館の食事エリアで青森名物ホタテ入り塩ラーメンを頂きました、美味しく頂きましたが写真は撮って居ませんでした。
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2024/05/30 10:06
【陸奥・三内丸山遺跡】青森県青森市 縄文世界遺産1/2復元建物編 (2024/05/20 訪問)
今回、以前より訪ねて見たいと思っていた世界遺産にも登録された特別史跡三内丸山遺跡を主目的して東北城探訪5泊6日を企画し浜松より車で出かけました、先に開場時間前でしたので近くの横内城を初登城探訪し開場時間の9時過ぎに縄文時遊館に入館。
住所:青森県青森市三内字丸山305
駐車場:同上縄文時遊館西横の第一駐車場を利用、トイレ有、他に北側に第2、第3駐車場有り
参考資料:ウィキペディア、グーグルマップに依る。
待望の縄文遺跡三内丸山時遊館に入場、9時20分ごろ見所周遊マップなど係りの方に尋ねたら9時30分より周遊ガイドツアーが開始されると約50分、参加する事にその前の時間に三内丸山遺跡ジオラマが有り見学。
9時30分には約10人程の参加、時遊館トンネルを出ると広大な三内丸山遺跡が広がっている、やっと来たのだとの感激一入、出た所に環状配石墓が道に沿って数墓、広大な敷地に復元建物が数多く観られて、東方向に成るのか八甲田山が残雪を被り遠望できる、屋内に展示されてる南盛土の発掘トレンチで発掘時の様子が眺められる、復元竪穴建物を外から見学、外部展示の大型竪穴建物跡、大人の墓土坑墓跡、復元掘立柱建物3棟、北の谷(捨て場)の説明、北盛土の屋内展示では多くの土器が広がってる発掘時の様子を見る事が出来ます、六本柱の大型掘立柱建物跡が屋内展示で見学、穴に在る残欠栗の木はレプリカで本物は展示室に展示されている、そしてメインの六本柱の復元大型掘立柱建物栗の大木で建てられています、説明ではロシア産の栗の木だそうです、いよいよ復元大型竪穴建物、長くて広い、此処まで50分の予定が1時間10分程に成り皆さん熱心な見学観察でした。
ここは約5900年前から4200年前の大規模な縄文集落跡で世界遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」特別史跡「三内丸山遺跡」です。
思い切って車で飛ばし訪ねる事が出来願いが叶いました。
この後常設展示室を見学しましたので、このあと続きを投稿致します。
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2024/05/30 07:11
若狭の城めぐり③ (2024/05/11 訪問)
大倉見城からの転戦です。この城は手ごわそうに思えたので、城郭放浪記さんのサイトで登城口をしっかり確認しておきました。おそらくびーかるさんもここから登城されたのではないでしょうか。道なき道を登っていくのでびーかるさんの詳細な投稿にはとても助けられました。ありがとうございました。ピンクのリボンにたどり着いてからは比較的登城路がはっきりとしていました。堀切などの遺構がしっかり残っていますが、何の表示もないのが少々残念です。
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2024/05/30 00:53
代官屋敷としての貫録を残す。 (2024/05/25 訪問)
案内板によりますと黒田家は永禄年間(1558~1570)に当地に居住、四千石の旗本・本多日向守の代官を代々務めたそうです。長屋門は外観公開で主家には現代でも子孫の方が住まわれているようです。屋敷内の敷地は1haほどあるようで周囲には水堀を巡らせてあります。
特に黒田家住宅とは関係ありませんが、近くのコンビニに居住しているツバメのヒナがだいぶ育ってきました。すでに巣からはみ出さんばかりの勢いで、四羽とも万遍なく育っているようです。正直一番右側のヒナは育たないのではないかと思っていましたが、案外ツバメの親も抜かりはないようです。ツバメとはいえ親御さんは立派ですね。
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2024/05/29 22:23
ようやく西の丸を脱出 (2024/01/25 訪問)
山中城は北条氏の城郭の一つにしか過ぎないのですが、実に見所の多い城です。自治体が整備、復元に力を入れていて、それがこの城址の魅力を最大限に引き上げていると思います。日本国中の素晴らしい城郭遺構が荒廃しているのを目のあたりにすると、やはり遺構の維持には地方自治体の理解と協力は不可欠だと感じます。
西の丸、角馬出周辺の障子掘は見事ですが、その境目は障子掘りが二列になって整然としており、まるで子供の遊び場のようにも見えてきます。実際の戦国期にはとても、そのような悠長なことは言って居られないのですが。
私は誰かに一つだけ城郭を案内してほしいと言われれば、迷わず姫路城を推薦しますが、もう一つと言われると山中城を推したいと思います。山中城より人気のある近世城郭は幾つも存在しますが、近世城郭で総合的に姫路城に勝る城はないと思いますし(私見)、同じジャンルの城を案内しても仕方がないので、もう一つだけと言われれば、やはり土の城の代表の山中城です。
諏訪原城と八王子城も素晴らしい城址なので迷いますが、八王子城は近世の城郭の要素を含んでいるし、純粋な土の城では私はやはり山中城が気に入っています。
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