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ぴーかる

鮫ヶ尾城 (2023/11/03 訪問)

【続百名城62城目】
<駐車場他>鮫ヶ尾城址駐車場
<交通手段>車

<見所>堀切・曲輪
<感想>1泊2日上越の城攻め旅2城目。まず総合案内所にてスタンプ押印し、案内所の方に登城ルートを教えてもらい登城開始、溜池に降りて遺跡群を通って東側から登るルートで登りました。遺跡B地区を過ぎると所々に堀切があり、東二・一郭前後にも堀切が見られます。主郭手前から南側の三の丸方向に降りて三の丸⇒虎口曲輪には枡形遺構が良く残っています。そこから南側へはきつい傾斜になっており傾斜に沿って壇状の曲輪が続いています。主郭は小さい山頂部の削平地で北側に腰曲輪が付いています。主郭の西側に米蔵の曲輪、更に曲輪が続いて堀切で仕切っていますが、米蔵から先は藪化して行けません。主郭からの眺望はいいです。遺構はあまり見られない北登城道を降りて行って終了しました。これにて百・続百名城の越後国制覇。

<満足度>★★☆

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しんしんちゃん

本多正信の嫡男、本多正純が入った城 (2021/05/03 訪問)

本荘城は本荘公園として整備されており、堀や土塁が残り、三の丸跡には模擬の大手門が建てられています。戦国期は最上義光の重臣・楯岡満茂が4万5千石で入り、最上氏が改易の後は本多正純が5万5千石で入り城は破却されたそうです。元和9年(1623)六郷氏が2万2千石で入り、城は縮小されたものの再興されたようです。訪問時にはすでに暗くなりかけていましたが、本丸跡には本荘神社や修身館があり、南東には展望台があります。本丸の周囲を二の丸が囲み、市役所や温水プールのあるあたりが、かつての三の丸のようです。

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しんしんちゃん

林泉寺 新潟県上越市中門前 (2021/05/01 訪問)

春日山林泉寺は新潟県上越市にある上杉家(長尾家)ゆかりの寺です。春日山城の山麓に位置し、長尾虎千代(上杉謙信)も7歳から14歳の間をこの寺で過ごし、住職の天室光育より学問を学んだとされています。上杉家の会津移封後は一時衰退しますが後にこの地に入った堀秀治によって再興され堀氏、松平氏、榊原氏の崇敬を受けたそうです。境内には上杉謙信の墓(供養塔と思われる)や長尾家の墓、堀家三代の墓があり、川中島合戦戦死者を弔う供養塔があります。惣門は春日山城の搦手門を移築したと伝わり、山門に掲げられている扁額は上杉謙信の直筆の複製とされています。(実物は宝物館)

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ミヤちゃん

平日夜に (2022/05/10 訪問)

仕事が終わったのが早かったので、連れと待ち合わせして岡崎城に出発。閉館ギリギリに着き、足早に城を巡って御城印を頂きました。隣接する神社にも寄って、帰りは名古屋で肉を食べました。

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ミヤちゃん

お城の後でのつけ麺楽しみでした (2022/04/01 訪問)

金華山のロープウェイの駐車場が分からずに少し迷いました。割と早く城の前まで来てしまい、会場まで待ちました。この城は耐震強度の問題で登れなくなるかもしれないと聞いたので、登るのは今しかないかなと思いました。天守閣からの風景は格別と言いたかったのですが、霧がかかって全く何も見えず(笑)
駐車場に戻ってきてから、いよいよつけ麺の店に。
美味しいハードルを上げすぎていたので、普通で残念でした。

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ミヤちゃん

城巡りの中では中々面白かった (2022/03/19 訪問)

お城(展示場)までの傾斜がキツくて、頂上を諦め
歴史資料館にて、御城印を頂いてきました。
歴史を語る方が見えましたが、前の人があまり話を聞くのを面倒くさそうにしてたので、声かけられたら絶対話すぞと思ってたので、話し込みました。
凄い色々な事を教えてくださって感謝です。

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ミヤちゃん

ちょっと出発遅かった (2022/03/12 訪問)

この日は、体を動かしたいからトレーニングジムに行こうと思って、迷いに迷って諦めて清洲城に行き先を決めた優柔不断なわたしが出た日です。(汗)
この日はあまりにも遅かったので、城は登れなかったんですが、販売所で御城印をもらって帰って来ました。
城の脇にある公園を一通り回って来ました。

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ミヤちゃん

金シャチ横丁のラーメン美味かった (2022/03/11 訪問)

親が名古屋出身ということもあり、この日はいそいそと出かけました。出発が遅かった為、駐車場に入れず、土日祝だけ路肩に止められる場所を探してから
行きました。
城を見る前に腹ごしらえとして、金シャチ55とかいう店で、家康ラーメンなるものを食べまして、けっこう美味くて感動してました。
木像で1階だけしかない作りかけの本堂を見て、
御城印帳と御城印を頂き、帰路に着く前に警備の方に
昔の城に登れないか尋ねたところ、耐震強度の問題で数年前から立ち入れないらしい。残念。
今度は本殿が完成してから来たいです。

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ミヤちゃん

お城と神社とラーメンと (2022/11/04 訪問)

ここのお城はもう少し体重が軽くないと、階段だけではシンドいです。疲れて5Fでへたりこみました。(笑)
最近行った中でも階段の数は多い方でしたね。
丁度この日は祭りがありまして、山車とかでワイワイしてましたね。先に神社は行っておいたので、後にしなくて良かったと思いました(汗)
行きたかったラーメン屋も堪能できたし最高でした。

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カズサン

神無月小雨模様の鹿野城 (2023/10/09 訪問)

 鹿野城西隣のお寺行事昼休憩に小雨模様の中散策し、サラッと撮った写真を投稿します、どんより曇ってもおり写真映りが良くありませんがご容赦ください、だいたい何時もの被写体に成ってしまいました。
 当日夕刻前にお寺行事が終わり、丹波但馬因幡出雲備後安芸備中備前一部播磨をグルーと廻り10月1日から9日間でした、鳥取からは鳥取道中国道新名神湾岸道新東名を6時間走行、累計1950km程の走行と成りました、結構腰に来ます。久しぶりの長旅でした。
 

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カズサン

鹿野城の看板いろいろ (2023/10/09 訪問)

 中学卒業60年記念合同同級会で帰省し最後半の2日は鹿野城西隣のお寺での行事に参列し、お昼休憩時間に鹿野城跡を散策し写真撮影、少し小雨模様で空はどんよりして居ました。
 鹿野城跡に関係する案内板、看板がいろいろ有りましたので纏めて投稿致します。

 ①外堀の鹿野城跡・王舎城図付き解説板は幾分経年変化で色あせてきました、城山にオランダ櫓、朝セン櫓の名称が有り亀井さんの海外飛躍の思いが偲ばれます。
 ②内堀の近くに来ると、「文豪 司馬遼太郎先生 御立の処 街道を行く(因幡伯耆のみち)」の標柱が立ち司馬先生が立寄られ街道が行くに鹿野城、亀井さんの事を記載され、それの記念かな?
 ③鹿野苑(ロクヤオン)入口から城山神社鳥居辺りに、石盤の鹿野城跡、鹿野苑の由来、鹿野城跡、城山神社案内、一番古い?城趾の由来、鹿野城跡公園城山案内図、鹿野城下町鳥瞰図、鹿野城と亀井玆矩の案内板、解説板の看板類が建っています、鳥瞰図を眺めると往時の鹿野城下が甦って来るような気がします。

 駐車場:城山神社鳥居横の駐車場、城下の鹿野往来交流館童里夢の駐車場、鹿野城跡南東の薬研堀沿いの駐車場が有ります。

 

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トク

80【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (根白坂(2/2) なぜ島津は豊臣に敗れたのか?) (2023/11/05 訪問)

根白坂の続き(2/2)です。なぜ島津は豊臣に敗れてしまったのでしょうか?
その理由を探しに、根白坂の頂上から今度は南へ下ります。

飫肥城に残っていたというわずかな資料である布陣図と照らし合わせながら歩きました。すると🤔? このあたりが宮部継潤が陣を敷いていた場所ではないかと思いました(写真①)。これはあくまで私の直感による推測です。人工的に造られたと思われる段々に削られた場所、そこに転がる石(石垣の跡か?)。黒田官兵衛の指南を受け、かなり強固な陣を作っていたようです。ならば島津軍はこの下(南)から攻めた事になります。ではここからさらに南に下ってみます。

南に下った先に見える山、布陣図からしてあの山に島津義久と義弘は陣を敷いていたと思われます(写真②)。ならばここで振り返って先程の宮部の陣を下から見上げてみました(写真④)。普通に見れば、一見ただの段々畑のように見えます。でも私にはなぜかここが宮部が人工的にこのように削り柵を立てて待ち構えていた場所ではないかと思いました。つまり、まさにここで激戦が行われたのではないかと直感しました!(詳しい資料が何もないのであくまで全て私の推測です)。

先ほどの案内板にこんな記述がありました。柵は高さ1.8m深さ1.8m。かなり高くそしてかなり深い柵です。そしてその前には深さ幅5.5mの堀と土塁で固めていたようです(写真③)。その時の様子を想像し写真④を元にちょっとまた遊び心で想像図を作ってみました。ここはこんな雰囲気だったのではないでしょうか?(イラスト写真⑤:下手ですいません😩)

島津軍は全軍で得意の夜襲を決行します。鉄砲を撃ちかけ、敵がひるんだ隙に柵を越えようとします。しかし堀や土塁がじゃまをしかつ柵が高いのでなかなか登れません。ならばロープをひっかけ柵を倒そうとします。しかしなかなか倒れません。それもそのはず1.8mも地中に埋まっているからです。そうしているうちに逆に宮部の鉄砲隊に狙われバタバタと倒れていきました。がそのうち弾薬が尽きるであろうと突撃を繰り返します。しかし尽きるどころか宮部軍は撃ち続けます。島津軍はここまでを想定しておらず被害がだんだんと大きくなっていきました。それでも死を恐れぬ島津軍はさらに執拗に攻撃を繰り返します。義弘もついに先陣に立って陣頭指揮を取り、果敢に攻め込んで行きました。するとついに徐々に柵を越えられ、土塁や堀も突破され、もはや宮部軍も夜半には持ちこたえる事ができなくなりました。

その時、軍鑑の尾藤智宣は秀長に、夜戦はやはり不利、宮部は見捨て夜が明けて全軍で総攻撃を行う事を進言します。秀長は納得しますが、それに反対したのが藤堂高虎・戸川通達です。彼らは尾藤の反対を押し切り助けに行きました(このまま継潤を見捨てる事はできぬ!)。そして黒田官兵衛・小早川隆景らもこれに続きました。そして彼ら援軍の鉄砲が怒涛のように火を噴き、島津軍は夜明けまでに大勢の犠牲を出し、ついに坂を越えられず致命的な大敗北を喫してしまいました。

島津軍は、鉄砲戦術や夜襲では自分たちの方が当然に上であろう、豊臣軍は寄せ集めの集団にすぎないと豊後での戸次川の勝利からあなどっていたのかもしれません。ゆえに宮部軍ごときは簡単に突破できるであろうとの油断、また想定を上回る豊臣軍の大量の鉄砲の数と弾薬の量、そして完璧なまでに深くて高い柵と堅牢な陣。夜襲でここを簡単に突破した後、夜明けとともに秀長本陣まで攻めては高城川まで引いて秀長を河原へ誘い出し、大友軍の時と同じように、そこで釣り野伏せを仕掛ければ敵は大軍といえども勝てるという作戦だったのかもしれません。しかし豊臣軍のすべてが島津軍の想定をはるかに上回っていたようです。

そして私は背後にあった島津の陣や帰りに再び坂の途中から高城を眺め考えてみました。初めて経験した大敗北に、義弘はどんな思いでここから撤退して行ったのでしょうか・・・(有信すまぬ! 豊臣軍恐るべし!)


【余談】山田有信と有栄(父子)
高城を最後まで守り抜いた山田有信ですが、島津本隊が敗北して撤退し、そして義久が泰平寺にて降伏したため、自らも子の有栄(ありなが)を人質に差し出し降伏します。しかし、結局この二人も秀吉は許しました。その後父の有信は義久の家老として、生涯義久を支えます。そして有栄は、義弘とともに朝鮮へ出兵して活躍し、関ケ原では、何と島津の退け口で最後まで義弘を守り抜き、無事薩摩まで帰還させるという大仕事をやってのけたのでした!

次は、義弘朝鮮出兵時の居城(松尾城)に向かいます。
 

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ぴちょまる

鉢形城 (2023/11/19 訪問)

土塁が良く残っている。
復元された四脚門など見所が集まっているのは、大手門から三の曲輪辺り。

100名城スタンプが置いてある歴史館は道路沿いで比較的行きやすいのだが、外曲輪の位置となり、内濠も兼ねている小川で本丸側と分断されている。

本丸大手門に八高線の踏切が有り、道幅はかなり狭くなっていて車で進入してよいのか悩んでしまう。
そうなると反対側の笹曲輪側からしか入れず、かなり大回りすることに。

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Takt2023

大和郡山城 (2023/10/29 訪問)

大和郡山城

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くうくう

小さいながらも遺構が良く残る青木本間氏の居館

新穂城とは直線距離で1.5kmほど、曲輪は東西約80m南北約120mの長方形で、薮ってはいたが、北・西・南側に土塁、西・南側に幅10mほどの水堀がある。水堀の水は堀底からの湧水で補われているらしい。微高地に築かれた単郭に中世城郭の趣をよく残している。

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しんしんちゃん

季節外れの雪に城域が白く染まった。 (2023/11/18 訪問)

上ノ平城は丘陵の先端部に築かれており、ある程度の高低差はあるものの東西約450m、南北約200mの城域に複数の郭がほぼ平行に配されています。平安時代に源為公によって築かれたとされていますが、戦国期にも機能していたようですが、発掘調査で焼失の跡が見つかり、敵に攻められて落城してしまったのかもしれません。主郭の西に二の郭が配され主郭が一段高くなっています。主郭の東側にも大きな郭があり、主郭との間に三の堀が縦断し、東側の郭の東西にも大規模な空堀が横切っています。先ほどの突然の吹雪で城域が白く染まっています。まだ11月半ばなのに季節感が無いですが、これはこれで趣がありますね。どうせすぐ溶けてしまうので落書きをしてしまいました。いい歳して思わず童心に帰ったみたいです。(いつもかなあ)

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くうくう

国仲低地帯に分布する中世城郭群のひとつ

ほぼ正方形に周りを堀がめぐる。その外に道があり一周歩いてみた。土塁は大部分失われているが、ハスの茂った水堀はよく残っている。内側は「城の内」と呼ばれ、中世の遺品も出土された。城に関係がありそうな観音堂もあった。
城成立は14世紀頃、城主に新穂有時や本間備前守が確認され中世城館としての往時が偲ばれるが、天正17年(1589)上杉景勝の佐渡侵攻により廃城となった。

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しんしんちゃん

いきなりの風と雪。とにかく遺構を見る。 (2023/11/18 訪問)

箕輪城は木曾氏の末裔箕輪氏によって室町時代に築かれたとされ、戦国期のおわりごろに福与城主藤澤頼親の養子左衛門尉重時が入りましたが、天正10年(1582)に滅亡したとあります。天正10年というと織田信長の信濃攻めのころですが、そういうことですか‥。城跡は養泰寺の西の小高い丘地に築かれていて、現状墓地になっています。西と南に高い土塁が残り、南を堀切で遮断しています。城跡に向かって歩いていると先方の空気が不穏です。どうも強風を伴って雪が降って来ているようです。なんか天気予報と違いますが、まるで小規模なブリザードのようです。ゲリラ雪と言ったところでしょうか。とにかく進むしかありません。強烈な風と雪に抗いながら遺構をしっかり見て回ります。まだ秋だったんじゃなかったっけ?

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水戸城太郎

御城印が配布されています。 (2023/11/21 訪問)

茨城デスティネーションキャンペーンの一環として、茨城県央地域の9市町村が発行した御城印が「いばらき県央地域を巡るスタンプラリー」の踏破者に、期間限定(2024年3月31日まで)で無料配布されています。
詳細については,以下のホームページに掲載されています。
https://www.city.mito.lg.jp/page/57285.html

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しんしんちゃん

今も昔もせわしなく。本丸はどうなったかな。 (2021/05/01 訪問)

福島城は上杉景勝会津移封後にこの地に入った堀秀治によって築かれたとされています。上越市立古城小学校のあたりが本丸と見られ、石碑と案内板がありました。古城図を参考にすれば周囲に堀が配され、その周囲を二の丸が囲み家臣の屋敷があったようです。さらにその周囲を堀が囲い、三の丸と見られる広大な空間にも家臣の屋敷が配されていたようです。いつの時代の物かは不明ですが三の丸の南西にあたる場所が陣屋跡になっています。かつては西を関川が流れ、南を堀、東を保倉川が流れ城の守りとしていたようです。堀氏が改易された後、徳川家康の六男、松平忠輝が入りますが忠輝が高田城を築いて移ると廃城となったようです。かつて城の東側を流れていた保倉川は今では城跡の南側を流れていて、古城小学校も2022年3月で閉校になったようです。すぐ近くに資料館もあったのですが、今ではどうなってしまったやら。時代の流れを感じます。

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