たがやじょう

多賀谷城

茨城県下妻市

別名 : 下妻城
旧国名 : 常陸

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肉球

一回りしてみました (2024/03/27 訪問)

20年ほど前にも訪れましたがその時は公園の石碑と城山稲荷神社の土塁のみを見学したのみでした。
先に投稿されたシェルさんの観音寺東側の城塁を見学するのを目的に縄張り図を手に一回りしてみました。
三の丸東側にあたると思われる観音寺東側の城塁は今でもハッキリとした高低差を確認することが出来ました。
そこから150mくらい北側には平沼曲輪の南側城塁と思われる高低差も確認できました。
城域を南北に走る関東鉄道常総線下妻駅西側にある城山稲荷神社には隠居曲輪の土塁と思われます。
こちらには江戸時代井上氏によって陣屋が築かれたようですが特に遺構は残されていないようです。

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Tokyobay

美女塚の「伝説」 (2024/02/19 訪問)

下妻と言えば「イオン城」だが、本家の城址公園にも下校時の寄り道学生がチラホラいて一安心?。案内板にあった関ケ原で西軍につき城主追放・城破却となった時の奥方や女中の悲惨なエピソードは史実だろうか。敵が攻め込んできて城が包囲されて籠城戦にでもなっているならまだしも、城から出ていくというだけで自害するというのもちょっと考えにくいが・・・。まあ、美女塚の「伝説」ということらしいので、あまりツッコムものでもないのかもしれない。
尚、広大な城郭だったらしく多宝院や相原山の裏手に外郭の土塁や堀等の遺構が点在しているようだが時間なく未確認(帰宅してグーグルマップで確認)。

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シェル

街に埋もれる巨大城郭の痕跡 (2023/08/19 訪問)

下館駅から関東鉄道常総線に乗車し、下妻駅で下車。
下妻駅舎内に線路の東側に出る跨線橋の入口があります。そこから跨線橋を渡り、下妻駅東口から徒歩約10分ほどで、多賀谷城跡公園(本丸)に到着。
多賀谷城跡公園内に駐車場とトイレがあります。
多賀谷城は、多賀谷氏の居城として知られ、城域は現在の下妻市街のほとんどを占める巨大な城郭だったようです。
しかし、残念ながら現在は遺構のほとんどが失われています。
本丸跡は、多賀谷城跡公園になっており、公園内には、多賀谷氏遺跡碑(明治22年建立)と説明板が設置されています。公園は周辺と比べると若干高い地形になっており、公園の西側には城塁の名残りらしきものがあります。
そのほかの遺構は、城跡公園の南にあるファミリーマートの東側の交差点を東に進むと、観音寺の東側に城塁と思われる遺構が残っていました。
そして個人的に最大の見どころは、下妻駅の反対側の西口から北に5分ほど歩いた所にある城山稲荷神社(多賀谷城稲荷曲輪跡)の境内の土塁です!!
遺構が少ないだけに、この土塁にはめちゃくちゃ興奮しました。

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しんちゃん

多賀谷氏 反骨の歴史 (2023/05/04 訪問)

多賀谷城は別名。下妻城とも呼ばれ、多賀谷城址公園が本丸の
所在地とされています。東の市役所や消防署のあたりが二の丸、本丸の
南方が南館、さらに南方の信号のある交差点周辺が三の丸あたりで
小野子観音堂周辺は周囲より明らかに高地にあり、かつて島地の郭だった
名残を感じさせます。
多賀谷氏は武蔵国埼玉郡多賀谷郷の多賀谷左衛門尉家政を祖とします。
城郭大系によれば、彦四郎氏家の時代、結城合戦(永享12~13年(1440~41))
に結城方として参戦。結城城が落城した後は再建に努力したとあります。
享徳3年(1454)古河公方足利成氏の命にて関東管領上杉憲忠を討ち
その功績として下妻の地に33郷を与えられ多賀谷城を築いたとあります。
天正18年(1590)豊臣秀吉に下妻6万石を安堵されます。
慶長5年(1600)、重経の時代に、徳川家康の上杉成敗にあたり、
小野小山に屯営する家康を夜襲する計画を立てますが、バレてしまって関ヶ原合戦後
所領を没収されてしまい、居城は破却の上、追放され井伊家の食客として
彦根で死去したとあります。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 多賀谷氏家
築城年 寛正2年(1461)
主な城主 多賀谷氏、徳川氏
廃城年 慶長14年(1610)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(多賀谷城本丸跡)
再建造物 碑、説明板
住所 茨城県下妻市本城町(多賀谷城址公園)
問い合わせ先 下妻市役所総務課情報管理室
問い合わせ先電話番号 0296-43-2111