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しんちゃん

ようやく西の丸を脱出 (2024/01/25 訪問)

山中城は北条氏の城郭の一つにしか過ぎないのですが、実に見所の多い城です。自治体が整備、復元に力を入れていて、それがこの城址の魅力を最大限に引き上げていると思います。日本国中の素晴らしい城郭遺構が荒廃しているのを目のあたりにすると、やはり遺構の維持には地方自治体の理解と協力は不可欠だと感じます。
西の丸、角馬出周辺の障子掘は見事ですが、その境目は障子掘りが二列になって整然としており、まるで子供の遊び場のようにも見えてきます。実際の戦国期にはとても、そのような悠長なことは言って居られないのですが。

私は誰かに一つだけ城郭を案内してほしいと言われれば、迷わず姫路城を推薦しますが、もう一つと言われると山中城を推したいと思います。山中城より人気のある近世城郭は幾つも存在しますが、近世城郭で総合的に姫路城に勝る城はないと思いますし(私見)、同じジャンルの城を案内しても仕方がないので、もう一つだけと言われれば、やはり土の城の代表の山中城です。
諏訪原城と八王子城も素晴らしい城址なので迷いますが、八王子城は近世の城郭の要素を含んでいるし、純粋な土の城では私はやはり山中城が気に入っています。

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しんちゃん

興国寺城・無印 (2024/01/25 訪問)

興国寺城の続き、無印投稿です。
北の丸からは富士山がチラ見出来ます。興国寺城は愛鷹山の南麓に築かれているので、富士山の手前に見える山はやはり愛鷹山でしょうか。本丸背後の堀切を移動していくと謎の穴窟が複数存在してます。どうやら太平洋戦争の頃に掘られた防球壕のようです。
さすがに中に入る気にはなりません、そのまま堀切を西に移動して城跡を脱出しました。

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JPN-AZE

As cat paradise (2024/05/04 訪問)

2024年5月4日早朝、唐沢山城址を訪問。この日は、鑁阿寺に行く予定でしたが、その前に、城址に寄ろうと思いました。曲線の多い道を車で登ってましたが、案外徒歩で来てた方もまぁまぁいました。到着したら、車で来てた方もそこそこいました。時期が時期だけに、藤の花も咲いてました。石垣のある唐沢山神社にもお参りしました。山の上だけあって、眺めも良かったです。意外だったのが、猫が多くいた事です。人懐こい猫が多かったです。膝の上に乗った猫までいました。

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ごんぎつね

山頂には壮大な石垣 (2022/06/26 訪問)

桑實寺の方からスタート。

かなり足場の悪い道と多くの虫に囲まれながら進みました。

途中にも石垣や堀切が数か所見受けられました。
かなりハードな山道であったため、山頂の石垣に出会えたときは
本当に感激でした。
これが城=石垣の始まりの場所か…と…。。
六角氏すごすぎる!

現在でも麓がよく見渡せたので当時としては最高の立地であったと思います。

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しんちゃん

伊勢新九郎 (2024/01/25 訪問)

興国寺城は伊勢新九郎盛時(長氏)が今川氏の内紛を鎮圧した功績により富士郡上方荘・下方荘(下方十二郷とも)を与えられ興国寺城を本拠としたとされています。本丸の背後と東西に分厚く高い土塁がそびえ非常に見ごたえがあります。本丸の背後には堀切を挟んで北の丸が配され、南には段々状に二の丸、三の丸が続きます。主要な部分は良くある梯郭式の土の城で東には堀切と蓮池跡を挟んで清水曲輪がありますが、この清水曲輪には訪問したことが有りません。遺構らしき遺構が残っていないのが理由ですが、地図を見ると東の道路沿いから道が続いているようです。
本丸背後の土塁上には天守台が築かれており石垣が残っています。伊勢新九郎盛時(北条早雲)は伊豆侵攻に際し韮山城に移り、重臣の富永政直が城代に任じられたそうです。

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朝田 辰兵衛

猿羽根(さばね)は読めない… (2024/04/13 訪問)

越後にも読みづらい地名がチラホラありますが,山形県も割と多い気がします。ここの猿羽根(さばね)なんかもそう。猿に羽根が生えて天にでも昇った伝説でもあるのかな…?
さて,館跡の東奥に屋敷跡があるので行ってみたら,立派な土塁があり,土塁上が屋敷跡でした。館跡より立派に思えたのは,令和の時代に見ているからなんだろうな…と,遠い昔に思いをはせました。

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ごんぎつね

さんじゅうろうがお出迎え (2023/07/08 訪問)

現存天守で最も標高の高いところに位置する「備中松山城」。
駐車城までもそこそこ山を登りますが、そこからさらに登山。
駐車場下の棚田もとても美しかったです。

櫓台には多くの瓦片が落ちていて、かつての櫓の瓦でしょうか。

本丸には猫のさんじゅうろうくんが出迎えてくれます。

天守は小ぶりですが、出窓型の石落としがあり、
天守奥には二重櫓と実践的な備えがあるように感じました。

二重櫓の裏側には大松山城に続く道がありましたが、
このときは悪天候であったため断念。

再訪したいと思います。

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トク

99【関ケ原の26人】(26)井伊直政 (井伊谷城①―直政出生の地:祝田) (2024/02/14 訪問)

最後(26人目)は「井伊直政」です。これから直政ゆかりの地を訪れ、直政の人生を追って行こうと思います。よければ最後までまたよろしくお願いいたします。

私は(これはあくまで私の個人的主観なのですいませんが)この井伊直政が、関ケ原勝利の最大の殊勲者であり、江戸幕府安定の礎を築いた最大の功労者であると思っています。しかし直政は、関ケ原から2年後、島津豊久軍から受けた鉄砲傷がもとで、わずか42才の若さで亡くなってしまいます。その亡くなるまでの42年間の人生をこれから追って行こうと思います。そして直政はいったいどこで狙撃されたのか? 最後はいまだ解明されていない、その謎にも迫って行こうと思います。

まずは出生の地、「祝田(ほうだ)」を訪れました。三方ヶ原や崔ヶ崖を訪れた翌日に、また浜松駅前から再び同じ奥山行のバスに乗り50分、三方ヶ原から坂を下った所にある祝田のバス停で下車しました(写真⑩)。さあここからが井伊の領地「井伊谷(いいのや)」です。

虎松(直政の幼名)の父は「井伊直親」、母は奥山(井伊家親戚衆)の娘「ひよ」です。1561年に虎松は、この祝田にあった直親の屋敷で生まれたと伝えられています。でもその屋敷がどこにあったのか、今はその痕跡もなく、よくわかりませんでした。しかし、直親の墓が、目の前を流れる川を渡ったすぐ左の土手沿いにありました(写真①②③)、おそらくこのあたりに屋敷があったものと思われます。さらに1km程行った所にある龍潭寺には、直政出生の地碑もありました(写真④⑤)。

また井伊谷城の麓の地域遺産センターでは、大河ドラマ「おんな城主直虎」(柴咲コウさん主演)のパネル展示もありました(写真⑥⑦)。直虎は直親の従兄弟で幼い頃いいなずけでもあった事は、大河ドラマを見られた方はよく御存知ですよね! ここには井伊谷の歴史の説明や井伊谷城の発掘調査で出土した品々の展示などもされています。見入っていたら親切にいろいろ説明までしていただきました(ありがとうございます)。最後にどこから来られましたか? と聞かれたので、九州の福岡ですと答えたらビックリされました。

今川の家臣であった直虎の父の直盛は、桶狭間で討死してしまいます。唯一残った井伊家男子であった従弟の直親も、松平元康(徳川家康)に内通していると今川氏真より疑いをかけられ、直親は弁明するため駿府へ向かいますが途中で暗殺されてしまいます。そしてその遺体はここ祝田に運ばれて荼毘に伏され、その地にこの墓が立てられたとの事です。幕末には大老「井伊直弼」もこの墓を訪れたようです。

その後も直虎が今川の徳政令に反発した事で、ついに井伊家は今川に滅ぼされてしまいます。しかし直虎が女であったため次郎法師と名乗り龍潭寺へ出家する事で命だけは許されました。2才の虎松(直親の子)は男子であったため命を狙われましたが、密かに家臣の新野親矩によって信濃山奥に今川に分からぬよう匿われ、8才になってからは三河鳳来寺で修業したようです(写真⑧⑨)。

では次は、この先にある(井伊谷城)に登ってみます。
 

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todo94

若狭の城めぐり② (2024/05/11 訪問)

国吉城からの転戦です。登城口となる獣除けフェンスは見つけやすいですが電線は通電しているようで少々ビビります。グーグルマップによると登城路の途中に井崎砦があるようですが、表示は見当たりませんでした。主郭からは三方五湖が遠くに小さく見えました。三方五湖は見たことも行ったこともなかったので、かなりうれしい眺望でした。三方に伸びる尾根に郭が設けられており、びーかるさんのおっしゃる通り、なかなかの城だと感じました。

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しんちゃん

馬場美濃守 (2024/05/25 訪問)

小山城は大井川の西側の東西に伸びる舌状台地の東端に築かれています。二郭跡に三日月堀と模擬天守が配され、東側が主郭跡とされています。主郭と二郭の間には堀切があり橋が架かっています。二郭の西側にも堀が配されその先には三重堀がネイティブな状態のまま残っています。前身となる城郭は今川氏によって築かれたとされ、今川氏が衰退した後には大井川を境界として西を徳川、東を武田で領有されることになりましたが、武田方が協定を破り遠海に侵攻し、小山城を手中に納めます。
元亀元年(1570)に徳川方が小山城を攻め落としますが、翌年には武田方に奪還され、馬場美濃守信春により縄張りが成されたとされています。小山城は、その立地条件から後に徳川家康によって改修を受けている可能性はありますが、その原型は馬場美濃守によるものだと思いたいもので、少なくとも三河から駿河に至って存在する城郭の意義は不変だと思います。
小山城から東に行って程なく、徳川家康が小山城を攻める際に陣を張った八幡神社があります。

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しんちゃん

横須賀城の後詰の城になったか (2024/05/25 訪問)

馬伏塚城は今川氏の重臣、小笠原氏の城で文亀元年、遠江守護斯波氏と今川氏の戦いの舞台の一つにもなっています。天正2年(1574)高天神城を武田勝頼に奪われると、高天神城を奪い返すための重要な拠点として改修を受け大須賀康高が入りますが、新たに築いた横須賀城に康高が入ると、馬伏塚城には高力清長が入りました。
本丸の跡には土塁が残り、諏訪神社が祭られています。それ以外の遺構は開発によって消滅しているようですが、城址北側の住宅の周囲にわずかに名残が見られるようです。しかし、武田を攻めるための城跡に諏訪神社が祭られているのも不思議な気分です。

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ぴーかる

江美城 (2024/03/30 訪問)

【江美城】
<駐車場他>櫓台跡の東側の堀切の上<35.282220, 133.487612>が2台分駐車スペースになっています。東側の台地状の農道から来てゲートを開けて入れます。
<交通手段>車

<見所>櫓台跡・石垣・堀切・切岸
<感想>日帰り尼子十基制覇の旅4城目。現地説明板によると江美城はこの地の国人である蜂塚安房守が文明年間(1469~1487年)に築城され4代にわたってこの地を治めましたとあります。蜂塚氏は尼子氏の支配下に入ったが、1564年に毛利氏によって落城し蜂塚氏は滅びます。その後吉川氏が入り今ある城跡は吉川氏によって改修されたもののようです。城は一国一城令まで存続していたようです。
 上記駐車スペースに駐車しすぐ横に櫓台跡があるのでまず堪能。発掘調査で金箔瓦が出土したそうなのでかなり立派なものであったろう。近畿から中国地方によくみられる長方形で石積みがよく残っています。主郭は畑化されていて曲輪の輪郭しか残っていません。主郭の西側に大堀切を挟んで西の丸は周囲を高さのある切岸に守られています。西の丸の南西下段に模擬櫓があります。現在は閉館しています。主郭の南側帯曲輪の壁面に石垣が多く残っていて見応えがあります。
 大山の噴火による火砕流堆積によって出来た台地地形と日野川によって削られた河岸段丘上の城といっていいでしょう。東海地方や群馬県で見た河岸段丘の城跡が鳥取県で見られるとはまた一つ勉強になりました。深い堀切見応えあります。

<満足度>◆◆◇

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ぴーかる

ありがとうございます。

赤い城さん、尼子十旗制覇の祝辞ありがとうございます。尼子十旗の三沢城、本当に良かった城跡です。大手虎口跡の巨石石垣から圧倒されました。また主要部が綺麗に整備されていて、連郭曲輪と堀切・周囲の切岸が見事な美しさでした。眺望も抜群で山並みがきれいでした。忘れられない城跡の1つです。主要部の奥の切岸下の1区画を上から覗いただけで足を踏み入れなかったのが悔やまれます。

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朝田 辰兵衛

冬季明けの整備前でした… (2024/04/13 訪問)

まだ,冬季明けの整備前で,登城道はワイルド感があり,案内板の設置もされていませんでした。登城口にあるべきパネルは,十日町公民館の入口前に退避されてました。本丸の標柱は無惨な状態でしたが,折損部分を見ると数年前からの気配がしました。そんなこともあってなのか,十日町公民館の表札と並んで「小国城本丸跡地」という表札が掲げられていました。
この地の冬の厳しさをうかがい知ることができたのですが,本丸から先にある御前清水を見つけることができませんでした。御前清水の案内板はなぜか,本丸虎口ワキに倒れてました。

todo94さんの代行リベンジ登城には,いささか物足りなかったかもしれません…。

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レコメンドサイト「イチオシ」に「日本100名城かるた」登場!

みんなのおすすめ商品を紹介するサイト「イチオシ」に
「日本100名城かるた」が登場しました!
https://www.ichi-oshi.jp/articles/crowdfunding/28082

「日本100名城かるたってどんな商品?」
「イチオシポイントは?」
「一番こだわったところは?」など、
知りたいポイントがまとめられています。

ぜひご覧ください!

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しんちゃん

サ〇ユリが咲いている。 (2024/05/25 訪問)

先ほどの投稿は忘れて、今度は美しく締めたいと思っています。城主の横地氏は平安時代末期の源義家の庶子(長男)家長を祖にもつ名家です。城址は主郭を特定しにくい構造ですが、西の横地神社のある場所が西の丸、そこから東にいった場所に中の城があり、さらに東に行くと金寿丸があり、堀切を挟んでさらに北に城域が伸びています。西の城の西側には例の谷などの遺構が残っています。
中の城と金寿丸の麓にはサ〇ユリがたくさん咲いています。珍しいですよね。山百合より色味が薄いですが、白色にうっすらと桃色がかった清楚な花です。けっこう人気があって、地元では持って行ってしまう人がたまにいます。城びとの皆さんにはそんな人はいないと思うので、こっそりと紹介してしまいます。

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しんちゃん

キンタマ落としの谷 (2015/07/12 訪問)

先日、横地城へ行ってきました。でも駐車場から二の丸へ直行したので、肝心な部分を見ていません。「金 玉落としの谷」をです。
キンタマさん、漢字はNGなんですね。ひらがなとカタカナはOKか。

昨日は酔っぱらって投稿したため、内容がひどいことになってますね。チンチン(山) へっへっへ‥‥ってこれじゃ変態じゃないですか。ご婦人方が引いてしまいますよ。失礼いたしました。
朝田さんのことも変態って書いてる。これ、朝田さんの投稿を読んでない人が見たら引くだろうな‥。朝田さん、怒っていたら御免なさい。しかし、酔って投稿するといいことは有りません。いつの間にか名前が変わってたりするし‥。
写真は2015年にキンタマ落としの谷を訪問した時のものです。キンタマ落としたら大変ですよ、ただの棒になってしまうやんけ。(シラフでも変わらんじゃないか!)
‥‥‥失礼しました。

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WEST

臼井城探訪 (2024/05/24 訪問)

臼井城を訪問しました。支城である師戸城より、自動車で約10分のところでした。ただ、県道から公園に向かう道路が狭いので自動車の訪問の際は注意が必要です。
ここは、臼井城址公園として整備されており、二の丸と本丸の曲輪、空堀、土塁が残っています。
師戸城とセットで訪問すると良いでしょう。

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WEST

師戸城探訪 (2024/05/24 訪問)

師戸城を訪問しました。ここは千葉県立印旛沼公園として整備され、4つの郭と空堀が残っています。
駐車場も整備され自動車でのアクセスがし易いお城です。
築城は、千葉氏の一族である臼井氏の居城であ臼井城の支城とのこと。公園内の展望台からは印旛沼、対岸の臼井城方面が一望できます。
城内は整備が行き届き散策し易く、堀底を歩くことができます。

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刑部

江戸時代・毛利氏のおさえの城 (2024/05/21 訪問)

近代城郭の城らしい石垣の城、主郭部からの景色は絶景です! 昨日は穴子飯、焼き牡蠣、お好み焼きでしたが今日は石見パークの生姜焼き。やはり城廻りにはその土地のグルメを食するのが最高です!

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