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WEST

広島城探訪 (2023/11/07 訪問)

広島城を訪問しました。新聞情報では、復元された天守閣が耐震性の問題で2025年度後半に閉鎖されるとのことでしたので、その前に登城したいと思っていました。
広島城へのアクセスは徒歩でも約25分とのことでしたが、広島駅の観光案内所の方のお勧めで循環バス「ひろしまめいぷるーぷ」で行きました。
御門橋から二の丸、そして本丸下段、本丸下段を通って天守閣に登りました。幸い天気も良く、天守閣第五層からの眺めは良かったです。登城後は、内堀外を一周して散策しました。内堀越しに見る本丸石垣、天守閣、太鼓櫓、表御門等は一見の価値がありますね。
本丸北側には、福島正則が改易時に壊したといわれる石垣があります。史実ならば興味深いです。

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イオ

とことん駿府城(三ノ丸堀) (2023/08/06 訪問)

(続き)

朝食ビュッフェ開始と同時に朝食を摂り、自転車で堀めぐりに出発。外堀にあたる三ノ丸堀は東辺と南辺の西半分が埋め立てられているので、三ノ丸堀の南西隅から時計回りに堀めぐりスタートです。スタート地点には「外堀の散歩道」と題した説明板が立てられ、対岸の三ノ丸の南西隅には三ノ丸櫓台が聳えています。外堀でこれだけのものが見られるのはすごいことですね。

堀沿いに北に進むと凱旋橋が見えてきます。往時は三ノ丸堀の西辺には門は無く、橋も架けられていませんでしたが、日露戦争の翌年に架けられたもののようです(それで凱旋橋なんですね)。凱旋橋を過ぎて北西隅で東に折れると、草深御門の手前に水戸違いが設けられていました(凱旋橋の北側にもあります)。往時からのものかは不明ながら、駿府城最高所の三ノ丸堀南西部と北東部では6mの高低差があるため水位調節が必要となるようです。草深御門は真ん中を広い車道が通って門の形状は失われているものの、それでも両脇に石垣が遺されているのはありがたいことです。そして北東隅で堀は南に折れますが、ここから先は埋め立てられています。

堀跡を南に少し行くと横内御門に至ります。三ノ丸堀の木橋も高麗門も渡櫓門も失われていますが、堀に面した側の石垣だけは遺っており、かろうじて枡形の形状が窺えます。横内御門を入ったところは在番組頭の屋敷跡で説明板が立てられています。横内御門の一角だけ三ノ丸堀が復活するも、その先は南東隅まで堀は見られません。

新静岡駅の西側からまた三ノ丸堀が復活して西に続いています。往時には無かった城代橋を過ぎ、折れを経て進んだところが大手御門です。門の形状はしっかり遺っており、堀を土橋で渡って右に折れたところに渡櫓門があったとのことですが、石垣に囲まれた広大な門内を車道が通っていて、説明板を見るまで枡形だとばかり思っていました。歩道には発掘調査で確認された渡櫓門の礎石跡がタイルの色を変えて表示されています。

県庁前から少し行ったところで堀はまた姿を消し、その先に四足御門があります。大手御門と同様の造りだったようですが、東側の石垣が遺るのみで門の形状は失われています。四足御門からスタート地点の三ノ丸櫓台までの間にも堀は見られませんが、堀沿いに通っていた道路の折れに堀の痕跡が感じられました。

…と、これで三ノ丸堀をひとめぐり。四足御門まで戻って、今度は二ノ丸堀めぐりです(続く)。
 

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詠狸庵

白鷺変じて朱鷺(とき)になる・・・その間僅か数分間 (2020/11/29 訪問)

この年の晩秋は紅葉を追って11月上旬に松本城、同じく下旬に姫路城を訪れました。
松本城では真っ青な空に映えて眼にも鮮やかな紅葉が真っ盛り。しかしこれを見てしまった後、西日本の紅葉は盛りとは言え「なぜこれほど色が違うのか?」と思うほど、正直言って鮮やかとは言えず(西日本の皆さんごめんなさい、決して悪気はありません)、天守の白亜との対比を期待していたのでちょっとガッカリしていたのですが、帰りがけ、閉門の5分前に突然天守の色が朱鷺色に輝きはじめました。特別なライトアップなのかなと思ったのですが、実はたまたま地平線ギリギリの落日の光が当って美しい朱鷺色となったのでした。空は夕焼けしていないのに天守だけ夕陽に染まるという経験は初めて。この天然のライトアップはわずかに数分で終了。貴重な機会を得ました。

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ペドロ

荘内藩が統治した陣屋跡、訪れる人が少ない超レアな場所です。 (2021/08/03 訪問)

 江戸時代後期 になると、 文化 4年国防上の理由から石狩郡域は 天領 とされました。 文政 4年には一旦松前藩領に復したものの、 安政 2年再び天領となり 幕府 ( 箱館奉行 )によって石狩役所が置かれ、幕命をうけた 庄内藩 が警固をおこないました。
庄内藩には現在の石狩市など西蝦夷が割り当てられ、60(万延元)年にハママシケ陣屋を築きました。陣屋内には、日本海近くの丘陵を削って平らな場所を造り、奉行長屋や神社、土蔵、湯屋、兵糧や兵具の蔵、火薬庫などが設けられました。敷地面積は山林を含め16万7000平方メートルにも及んだそうです。建物の造成跡が残り、海路を経て庄内からの建設資材を陣屋に運ぶために開削した「千両堀」と呼ばれた堀も残ります。領内では防衛任務だけでなく開拓も目指し、8カ村の開墾を行い水稲や畑作の耕作、漁場開拓も進め、現在の浜益の礎となったそうです。
 現在は、浜益のメイン通りに陣屋への標識は存在せず、知らない人は通り過ぎてしまいます。冬は半年間雪に埋もれ、単独で敷地内を見学することは余りお勧めしません。ヒグマの生息地域でもあり、私も怖くて陣屋跡の敷地内を単独で歩くことを断念しました。
石狩役所(石狩市)からハママシケ陣屋跡は、車で1時間ほどかかります。その区間、殆ど信号機はありません。
そば処 冨士味屋さんは、蕎麦屋ですがかつ丼が美味しいです。食後に名物どら焼きもお勧めします。

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初芽

石垣と珍しい遺構がいっぱい! (2023/11/12 訪問)

滞在時間:2時間ほど

壺阪山駅から歩いて登城しました。
山城の中にある水堀を見たくて楽しみにしていました。
予想よりも広く、大きくてびっくり!
また本丸に近づくにつれてたくさんの石垣に囲まれて
大満足でした。
猿石や五百羅漢など謎の遺構も初めて見て、
とても面白かったです。

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じゅんじん

法蓮寺と旗岡八幡宮 (2023/10/28 訪問)

旗岡八幡宮は源氏ゆかりの八幡宮で徳川家など武家の崇敬を受けました。家斉公が鷹狩の際に旗岡八幡宮を参詣したあと法蓮寺にて和尚と相撲をとり和尚が勝ち家斉公から称された逸話があります。

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じゅんじん

奥沢小学校 (2023/10/28 訪問)

かなり守りが固そうな校門でした。

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じゅんじん

九品仏浄真寺 (2023/10/28 訪問)

心落ち着くパワースポットです。城址碑がありました。

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じゅんじん

玉川警察署 (2023/10/28 訪問)

玉川警察署付近が城址と言われています。近くの都立園芸高校前に城址碑があります。ちなみに庁舎の撮影は控えましょうね。警官が出てきて注意を受けました。怪しまれたかな・・・。

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しゅんいち

土の城の魅力満載 (2021/05/03 訪問)

武蔵嵐山駅から徒歩40分ほど。地元の方が整備してくださっており、藪もなく見学しやすいです。
空堀、土塁、馬出を駆使した技巧的な縄張は必見で、見飽きることがありません。歴史的なことはほとんどわかっていませんが、「土の城」の魅力を初心者に伝えるには最適な城です。

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しゅんいち

皇居一般参観 (2023/06/16 訪問)

平日の午前・午後に皇居一般参観があり、富士見櫓や伏見櫓を間近で見られます。所要時間は1時間15分。
事前予約枠は埋まりやすいので、当日券狙いで行きました。それでも、外国人観光客を中心に朝早くから並んでいます。
整理券の配布は午前9時からで、当日枠は140人。平日でも枠はいっぱいでした。歴史的建造物の他、宮殿や宮内庁庁舎も見学できます。

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ペドロ

浜松の歴史を改めて再認識出来ました (2023/04/23 訪問)

 浜松城は3回目の訪問でしたが、お城巡りツアーでは、浜松城はお城を見たら直ぐに移動が定番だと思います。どうする家康館のチケットプレゼントに社内応募したら当選してしまい、札幌から飛行機で向かう羽目となりました。今回の目的地は浜松なので初めて街中も散策する機会を得ました。たとえば、椿観音に行きたくても街中の案内表示はあまり親切ではありません。浜松駅の観光案内所、浜松城で市内観光のパンフレット、地図等は見つけられませんでした。やっとの思いで椿観音に辿り着き、そこでやっと市内観光のパンフレットをゲットしました。
 お城の外周をお寺を見ながら散策しましたが、浜松城の外周の地形から、ここにお城が存在した理由を肌で感じることが出来ました。攻めるのが難しい城であったことが想像出来ます。周辺一帯の発掘調査等があれば、まだまだ地下にも宝が眠っていそうな気配を感じるお城であり、可能な限り往時の縄張復元等、このお城の魅力を取り戻す余地があるお城と思います。現在は、企業城下町でもある浜松市の経済力で是非、魅力ある浜松城の復元に期待したいですね。

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BUGTI

江戸時代島津氏の居城 (2023/11/10 訪問)

御楼門が復元されたので、城らしくなりました。鹿児島の新しいシンボルになるといいですね。御楼門の前の歩道には、石垣の断面模型が造られており、良い展示だと思いました。城址に建つ黎明館には多くの歴史資料が展示されていて、志布志城と出水麓のジオラマが見ものです。なぜか鹿児島城のジオラマでなかったのかが不思議です。

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トク

11/12 どうする徳川家康(関ケ原)

11/12の「どうする家康」で関ケ原は決着、見事に私の投稿の前に終わってしまいました(😩あ~笑)。

とりあえず、私が密かに期待していた三成と吉継の友情物語はあっという間に簡略化されましたが、淀殿(北川景子)の演技の迫力にはビックリしました(夫のダイゴはもっとビックリしたかも?)、三成(中村七之助)の最後の演技にも感動しました。

欲を言えば、三成が家康を関ケ原に誘ったような話にしたのは逆ではないか? 関ケ原に誘ったのは家康だったはず・・・ 淀が輝元をけしかけたのも逆ではないか? 秀頼出陣を止めたのは淀だったはず🤔・・・ 阿茶が本当に淀に直談判した?・・・ 義弘は家康の前を素通りはしていないはず・・・ 直政が狙撃された場所はあそこではないはず・・・ などなどと疑問点は多々ありますが、ここは脚本家とNHKの判断なのでこれくらいで。

番組最後の家康ツアーでは、桃配山や松尾山、石田三成陣跡、吉継自害の地、関ケ原古戦場記念館、家康最後の陣(首実検場)などが紹介されました。私が桃配山からの笹尾山、笹尾山から見た松尾山、赤坂の陣、六条河原もドラマが私の投稿と同じ視点で描かれたのには感動しました。知れば知る程に奥が深い関ケ原、私もまた行ってみたくなりました。皆さんも是非一度は、関ケ原古戦場記念館を訪れてほしいと思います。そして各陣跡巡りも経験されてみて下さい。これまでの話が実によくわかると思います。

私の投稿はこの先、島津の退け口とそこから徳川幕府と徳川政権がどうやって安定できたのか、そこに注目して(24,25,26人目)を相変わらずマイペースで脱線しながら追って行こうと思います。できれば最後まで気長くお付き合い願えればと思います。よろしくお願いします。

また長々とつぶやいてしまい、すいませんでした~😊
 

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BUGTI

南九州で天守のあった城 (2023/11/09 訪問)

天守跡への登城路は、麓の城址に建つ鶴松館の裏から大手道と中の道の2つがありますが、大手道の方は途中で崩落しており通行禁止となっていました。中の道は通行できるとはいえ、なんとか復旧した程度で足元には十分な注意が必要です。通り抜けはできませんが、シラス台地の特徴を生かした大手道の堀切道は見ものです。

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T-Shionoya

屏風折れ土塀の西尾城 (2023/07/22 訪問)

暑い7月に訪れた愛知県西尾市の西尾城。

岡崎平野を流れる矢作川。嘗て下流部は現在より東の低地を流れていたとのこと。
そのエリア吉良荘の北西、碧海台地の舌状部に築かれた城。

鎌倉初期に三河の守護となった足利義氏の築城と伝わる吉良氏の西条城が起源。
桶狭間後の1561年に家康家臣の酒井正親が城主となり、一説ではこの時に西尾城と改名。
以後、城主は度々変わり田中吉政が三之丸を造成、江戸初期に太田資宗が大改修を計画。江戸後期は大給松平氏5代が治め幕末を迎えました。

現在は、本丸・二之丸・姫丸が西尾市歴史公園、東之丸が小学校、北之丸・三之丸などは住宅地に。

実際に訪れると、想像以上に高さのある台地に築かれた城。
珍しい屏風折れ土塀の立つ二之丸から、土橋を渡り土塁が残る本丸へ。
資料館観覧後に尚古荘へ行くと、庭園に土塁と櫓台の痕跡。
更に石柱が立つ城下の門跡を巡り滞在時間は3時間。
最後に冷たい抹茶スイーツで涼しんだ、私の城郭巡りの157城目でした。

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BUGTI

伊東氏の巨大な本城 (2023/11/09 訪問)

とにかく広い。周りにはいくつかの出城もあるので、それらを含めるとかなり広い城域となる。もともとの地形もあったとは思うが、これだけの城を構築するには相当の土木量が必要なはず。伊東氏がいかに勢力を誇っていたかが想像される。各曲輪の土塁もかなり残っていて土づくりの城を満喫できる良い城でした。ちょうど数日後にお城まつりがあるタイミングだったため、草刈りなどがされていてBestな状態で見ることができたのはラッキーでした。

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BUGTI

城下町もすばらしい伊東・島津攻防の城 (2023/11/08 訪問)

建物は残っていないが、復元された大手門や御殿は当時の雰囲気を感じさせる。大手門を過ぎて犬馬場の石垣に圧倒される。また旧本丸に残る石垣も立派。旧本丸は数回の地震で被害を受けて、麓に本丸を移したということだが、石垣はきれいに残っていた。さらに城下町の武家屋敷通りの景色も非常に良かった。お城と城下町を合わせて楽しめる良い城です。

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いんげん丸虫

城山砦 (漆原城) 岐阜県恵那市 (2023/11/04 訪問)

標高467mの山城、砦です。
60m x 30mの主郭の両端に堀切、側面には
帯曲輪、土橋等、明瞭に遺構が残ってます。
武田氏の改修もあったと考えられます。
獣避け柵を開けて登城します。

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ぎりょう

藤沢周平時代小説の舞台「海坂藩」のモデル鶴岡(鶴ヶ岡)城下 (2023/11/05 訪問)

歴史好き仲間との秋の遠征で、鶴岡市・酒田市に。今回のテーマは①かつて北前船の寄港地として栄えた鶴岡市加茂の町並み散策、②芭蕉おくの細道出羽路の足跡を辿る、③藤沢周平直木賞受賞50周年にちなみ、彼の時代小説の舞台、「東北の小藩海坂藩」のモデルと言われる庄内藩の城下町鶴岡散策でした。
加茂地区は今は「クラゲの水族館」が人気となり多くの観光客を集めていますが、かつては酒田と共に回船問屋が集まり栄えた場所。今は漁港に付随する町ですが、かつての繁盛ぶりを感じさせてくれます。
おくの細道出羽路では、尾花沢を発った芭蕉は新庄を経て最上川を下り出羽三山へ。鶴岡(鶴ヶ岡)では長山五郎右衛門(俳号は重行、100石取りの庄内藩士)宅、酒田では伊東玄順(俳号は不玉、医師)亭に逗留して歌仙を巻き、象潟を目指します。
ご存知のとおり藤沢周平の故郷は鶴岡です。彼の時代小説の武家もの(主に短編)に描かれている「東北の小藩海坂藩」の居城や城下町の風情は鶴岡がモデルと言われています。城の外堀の役目をしている「五間川」は位置的には内川がモデルのようであるし、「美しい五層の天守閣が町の四方から眺められる」という文章には平城の鶴ヶ岡城にも五層天守が欲しかったという思いが感じられます。実際、鶴ヶ岡城址の本丸には南西隅に多門櫓、北西隅に二層の隅櫓があったようですが五層天守を置くとしたら、どの場所が適していたのだろうかと考えながら紅葉が美しい城址を散策することができました。

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