案内板によると、山田城は「龍廻城」や「朝霧城」とも呼ばれています。「本丸」の他にも「勢城(二の丸)」「安房城」「西拵」「取添」などの曲輪が有りましたが、開発によりほとんどの遺構が残っていません。南方一帯1.3kmに渡って「遠堀」と呼ばれる空堀が配され、今でも一部が残っていますが、竹藪に埋もれ判別は難しい状態です。
延文4年(1359)に肥後国の相良定頼によって築かれたとされ、その後北原氏の家臣・白坂左衛門の居城となりますが北郷数久・忠相がこれを奪い久家を城主とします。その後も城主が入れ替わり、庄内の乱の際には伊集院方の長崎治部少輔、長崎休兵衛らが籠城しますが島津軍によって攻め落とされます。
その後は北郷家が領主に復帰するも元和元年(1615)の一国一城令によって廃城になりました。
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