今年やり残した事(ああ壮烈岩屋城へ(3/3))
(2024/12/20 訪問)
岩屋城の続き(3/3)です。二の丸の紹運の墓からさらに5分、標高281mの本丸にある「ああ壮烈」碑に到着しました(写真①②)。都府楼駅からはゆっくり歩きでトータル90分かかりました。
ここからまた眼下の筑紫平野から博多湾までを眺めました、いつ見ても爽快な眺めです(写真③④⑤⑥)。反対側に目を向けると、標高829mの宝満山も見えました(写真⑧⑨)。
本来の紹運の居城はあの頂上にある宝満山城で、岩屋城は支城にあたります。長男の宗茂を立花道雪(大友家臣筆頭)のいた立花山城へ養子に出し、宝満山城には次男の直次と妻子たちを残し、紹運は決戦の地に岩屋城を選びました。籠城し時間かせぎをするなら、高い宝満山城の方が向いていると思うのですが、なぜ岩屋城の方を選んだのでしょうか?🤔 ここを素通りされ直接立花山城が先に攻められるのを防ぎ、自分の子らを守りたかったからなのでしょうか?
そして島津の猛攻が始まってから14日目、ついに耐えきれず力尽き、もはやこれまでと紹運は自刃して果てました。櫓の扉にはこのような紹運の辞世の句が残されていたそうです。
流れての末の世遠く埋もれぬ
名をや岩屋の苔の下水
道雪殿! 私は大殿(大友宗麟)から頂いたお役目を立派に果たしましたぞ! 私もこれから道雪殿の元へ参りますゆえ、どうか我が子・・宗茂と直次をあの世からお守り下され~!
ここに立つと、紹運は最後にこんな言葉を残したのではないかと、私はふと想像してしまいました。高橋紹運(享年39才)、最後まで大友への忠義を貫いた見事な武将でした。
■岩屋城の戦い■
軍勢:大友軍763、島津軍3~5万
大友側戦死者 763(全員玉砕)
島津側戦死者 約3000(+負傷者多数)
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