いわやじょう

岩屋城

福岡県太宰府市


旧国名 : 筑前

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本丸
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しんちゃん

高橋紹運 (2025/02/23 訪問)

岩屋城は立花宗茂の実父・高橋紹運が島津氏の大軍と戦い自害した城です。一説には立花道雪の跡を継いだ宗茂の守る立花山城の捨石になったとも言われています。立花宗茂や妻の誾千代にスポットが当たることが多いですが、どっちかというと私は養父の道雪のほうが好きですね。
「とーちゃんず」のもう一人・高橋紹運もけっこう好きです。友人に嫡男が気に入ったから婿養子にくれくれって言われて、しぶしぶ出すとか、いい関係性をしていると思います。車道沿いに本丸に続く道と、高橋紹運と将士たちの墓へ続く道があって、後者に進んでいくと墓所にたどり着きます。

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しんちゃん

高橋紹運 (2025/02/23 訪問)

岩屋城は立花宗茂の実父・高橋紹運が763名の兵士と共に島津氏の大軍と戦ったことで有名な城です。主郭は整備され周囲の眺望は良好、大宰府も良く見えます。梅の時期の影響か、周囲の渋滞がひどかったですね。
主郭以外にも堀跡などの遺構は残っているようです。道沿いの階段を降って行った先に高橋紹運らの墓所がありますが、そこも城域に含まれるのかも、堀切らしきものもありました。

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トク

今年やり残した事(ああ壮烈岩屋城へ(3/3)) (2024/12/20 訪問)

岩屋城の続き(3/3)です。二の丸の紹運の墓からさらに5分、標高281mの本丸にある「ああ壮烈」碑に到着しました(写真①②)。都府楼駅からはゆっくり歩きでトータル90分かかりました。

ここからまた眼下の筑紫平野から博多湾までを眺めました、いつ見ても爽快な眺めです(写真③④⑤⑥)。反対側に目を向けると、標高829mの宝満山も見えました(写真⑧⑨)。

本来の紹運の居城はあの頂上にある宝満山城で、岩屋城は支城にあたります。長男の宗茂を立花道雪(大友家臣筆頭)のいた立花山城へ養子に出し、宝満山城には次男の直次と妻子たちを残し、紹運は決戦の地に岩屋城を選びました。籠城し時間かせぎをするなら、高い宝満山城の方が向いていると思うのですが、なぜ岩屋城の方を選んだのでしょうか?🤔 ここを素通りされ直接立花山城が先に攻められるのを防ぎ、自分の子らを守りたかったからなのでしょうか?

そして島津の猛攻が始まってから14日目、ついに耐えきれず力尽き、もはやこれまでと紹運は自刃して果てました。櫓の扉にはこのような紹運の辞世の句が残されていたそうです。

 流れての末の世遠く埋もれぬ
 名をや岩屋の苔の下水

道雪殿! 私は大殿(大友宗麟)から頂いたお役目を立派に果たしましたぞ! 私もこれから道雪殿の元へ参りますゆえ、どうか我が子・・宗茂と直次をあの世からお守り下され~!

ここに立つと、紹運は最後にこんな言葉を残したのではないかと、私はふと想像してしまいました。高橋紹運(享年39才)、最後まで大友への忠義を貫いた見事な武将でした。

■岩屋城の戦い■
軍勢:大友軍763、島津軍3~5万
大友側戦死者 763(全員玉砕)
島津側戦死者 約3000(+負傷者多数)
 

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トク

今年やり残した事(ああ壮烈岩屋城へ(2/3)) (2024/12/20 訪問)

岩屋城の続き(2/3)です。大手門の前を過ぎるといよいよ登山道に入ります(写真①)。

登山道は落ち葉も少なく整備されているので比較的登りやすいです(写真②)。しかし三の丸から二の丸への道は、掘底の中を登るような道になっていました(写真③)。これは後で掘られた道ではなく、当時からこのような道だったのではないかと思います。わざと深くして敵から身を隠し移動できるよう、また敵がここを攻めてくれば矢や鉄砲を撃ち、また上から巨石を転がしたりして防いだのではないでしょうか。

そして虎口があったような跡がありました(写真④)。左側はすごい傾斜の切岸です。という事は🤔・・・敵は狭いこの間を通らないと上へは登れないという事? さらに登っていく途中にふと下を見ると、まださらに大きな竪堀と切岸が! これはすごい角度です(傾斜角70度はあります!)(写真⑤⑥)。これなら島津軍も容易には落とせなかったはずだと納得しました。私には足がガクガクする程のすごい迫力なのに、確かに写真にすると伝わりにくいですよね。私もうすうす思ってはいましたが、POYO君はそれをストレートに表現していたのでびっくりしました(NICE! )。でも市場城の写真よく撮れてますよ!

そして大手門から登ること30分、二の丸に着きました。二の丸には高橋紹運の墓があります(写真⑥)。紹運はここで討ち死にしたようです。首は島津忠長の本陣に届けられ、胴はここに埋められ、そこにお墓が立てられたそうです。

そして二の丸から舗装されている車道を横切って本丸への最後の階段を登りました(写真⑩)。車で本丸のみ見たい方は、大宰府駅前から浦之城橋を渡ってここまで来る事ができます。写真⑩の前の路肩に2台くらい停められるスペースがあるので、そこに路駐されたらいいと思います。その先は大野城までつながっています。車で来て下から私と同じ登山道を登りたい方は、大宰府政庁前に30台程の無料駐車場がありますのでそちらを利用されたらいいと思います。

次は(3/3)本丸へ続きます。
 

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城郭情報

分類・構造 山城
天守構造 不明
築城主 高橋鑑種
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 高橋氏
廃城年 天正14年(1586)
遺構 曲輪、土塁、堀切
住所 福岡県太宰府市観世音寺
問い合わせ先 太宰府市文化財課
問い合わせ先電話番号 092-921-2121