日本100名城

はぎじょう

萩城

山口県萩市

別名 : 指月城
旧国名 : 長門

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萩城
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あみりん

台風が近づいてる萩城散策 (2023/08/15 訪問)

台風7号が近づく中、昨夜宿泊した下関から車移動しました。100名城スタンプと御城印をいただきました。
石垣の積み方がきちんとしていてカッコよかったです。
お堀には鯉がわんさか泳いでいました。

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トク

60【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と萩城:天樹院) (2022/11/16 訪問)

(22人目)毛利輝元の続きです。
萩城三の丸にある天樹院を訪れてきました。
毛利輝元はここに眠っています。私は墓の前に立ちまた考えてみました(写真①②③)。

輝元は家康に対して何もできなかった自分を責めながら表向きは恭順の意を取り続け、裏では着々と対徳川への備えをしていました。しかし関ケ原から2年後、何と徳川と島津との間に和議が成立してしまいます。さらにその2年後、萩城が完成し広島から萩へ移ろうとしていた矢先、ここで頼みとしていた黒田官兵衛が亡くなってしまいます(享年59)。野望が消え、後は長政に任せ、福岡城でのんびりと隠居生活だったようです。そしてそれから数年後、加藤清正・池田輝政・島津義久らも次々と亡くなっていきました。よって後ろ盾を失った輝元は、毛利家存続のため、徳川秀忠の代になってもその恭順の意を示す態度を変えざるを得ませんでした。さらに追い打ちをかけるよう一国一城令で泣く泣く岩国城を破却。これらは輝元にとっては相当な屈辱だったと思います。家臣らもそれに不満を感じたのか分裂が絶えず、健康が悪化した輝元は、病を押して大坂の陣の時は徳川方として出陣、その一方で毛利家のとりまとめに尽力していきました。しかしついに1623年に限界を感じ、関ケ原に行った養子の(秀元)が譲った側室の実子(秀就)に完全に家督を譲り、この三の丸にて隠居します。そしてその無念を抱えたまま2年後(関ケ原から25年後)の1625年、ここでその生涯を閉じました(享年73)。そしてその隠居所には代わって天樹院が建てられ菩提が弔われました。

輝元の無念はこの天樹院にある菩提とともに長州藩士へ代々と受け継がれていきまます。また本領安堵の約束を反故にした家康(徳川)への恨みと屈辱は相当なものがあったと思います。

そしてその死から240年後、ついに輝元の無念と屈辱を晴らす好機がやって来ました! その意思を受け継いだ長州藩士たちが、「尊王攘夷」という名のもとに集い、徳川倒幕への烽火(のろし)を、何とこの萩の地から上げたのでした~!(😱~)


【余談1】萩市内観光
萩城下には他にも、幕末の思想家「吉田松陰」の私塾で多くの尊王攘夷の志士たち(桂小五郎(木戸孝允)、伊籐博文、山縣有朋、久坂玄瑞、高杉晋作など)を輩出した、世界遺産「松下村塾(しょうかそんじゅく)」など見所が多数あります(写真④⑤⑥⑦)。100円のループバス(写真⑩)が市内をぐるぐる走っているのでとても便利に観光できまた。

【余談2】オススメの宿
松下村塾の隣にあるホテル「萩本陣」に宿泊しました。ここはとてもオススメです。7種類の温泉露天風呂が実に気持ちよく食事もよかったです。この日の夕食は「ふぐつくし会席」でした(写真⑧⑨)。部屋からは萩市内も一望でき遠く萩城まで望めました。またこのホテルの前のバス停(松陰神社前)からは、津和野行の路線バスや東萩駅や萩バスターミナル行きの100円ループバスも停まりますので翌日の行動にも便利でした(送迎もあります)。

残るはあと4人です。
次は(23人目)に続きます。
 

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トク

59【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と指月山(詰城)) (2022/11/16 訪問)

(22人目)毛利輝元の続きです。
萩城の背後の指月山にある詰城(要害)に登ってきました。

実は毛利輝元は、関ケ原後も徳川幕府と万が一の対立した場合に備え、幕府に内密に背後の指月山に詰城(要害)を築いていました。本丸から徒歩20分と書いてあったので登ってみました。(写真①②)短い距離ですが意外と急でした。

詰城とはいえ、山頂は本丸・二の丸とあり結構な広さです。当時は7つもの櫓があったようで、藩主(輝元)が詰める場所まで用意されていました(解説写真③)。大きな岩もありました。砕こうとしたが大きすぎてあきらめたのか矢穴が多数見られました(写真④)。

輝元は、もし家康(徳川)が攻めてきた場合に備えていた事が、ここで十分感じとれました。さらにそれだけではなく、山陽の要衝岩国の地に同じく城を築く吉川広家には、麓の館だけでなく戦の備えをした山城を築くよう命じています。つまり表向きは恭順の意を見せながらも、裏では万が一に備え、一戦交える覚悟を持っていたという事です!!😲

実はこの時、徳川に恭順の意を見せていた九州の黒田官兵衛は、裏ではある野望を秘めていました。義弘の処遇をめぐり家康と一戦交える覚悟で戦の準備を始めていた薩摩の島津義久などにも、表向きは家康様に従うようにと加藤清正とともに説得するふりを見せながらも裏で糸を引き、加藤清正、島津義久、鍋島勝茂、立花宗茂、池田輝政、そして毛利輝元、これらの諸将を束ね、義久がもし決起すればそれを大義名分に第二の関ケ原を起こそうとしていたのではないかという説もあります。言われてみればこの時、加藤清正は明らかに対徳川を想定した大城郭を、池田輝政も家康の意に反する大城郭を築いています。よって輝元も詰城を持つ要塞化した萩城を築き、岩国城と合わせ、対徳川に備えようと考えたのかもしれません(ん~言われてみれば・・・🤔)。

私は指月山頂上の本丸に立ってみました。ここから心地よい潮風を感じながら見た日本海の眺めはとても気持ちよかったです(写真⑤⑥)。そしてこの日本海を眺めながら考えてみました。やるき満々だった輝元がなぜ大減封を何も抵抗せずに受け入れ、広島からこの萩の地に来たのでしょうか?

関ケ原のわずか1日での敗戦は、輝元にとって相当なショックだったと思います。何より最も信頼し、幼い頃から兄のように思っていた家臣筆頭である吉川広家が自分の命に背いて裏切った事に自分の求心力のなさを痛感したのではないでしょうか。広家としては裏切る気など全くなく、弟のような輝元のためと父の吉川元春の教えに従い、ただ毛利家の安泰のみを願い決断したのでしょうが、今で言うコミュニケーション不足ですかね?🤔。やりとりするはずの手紙が途中で家康の間者に盗まれた不幸もあったらしいです。でも今の時代のように電話やメールなどがあればこんな事はまずなかったでしょうね。また1日で終わらず、もう少し長引いて時間があれば、再度手紙のやりとりもできコミュニケーションも取れたのかもしれません。小早川秀秋にしてもしかりです。よって、毛利の両川(りょうせん)から裏切られた心の傷が、大坂城では抵抗する気力をも失わさせてしまったのかもしれません。

しかし広島に戻り、萩城の縄張りを考えている最中にこの九州の動向を知り、輝元は変わりました(この時、官兵衛から誘いの密書も当然あったはず・・・?🤔)。

輝元は、やはり無念を晴らすべく、実はこのままで終わろうとは、もはやこの時、すでに思わなくなっていたのではないでしょうか?

次は、萩城内にある輝元の菩提寺(天樹院)を訪れます。
 

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トク

58【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と萩城) (2022/11/16 訪問)

(22人目)「毛利輝元」の続きです。
今度は、関ケ原の後に築城した「萩城」を訪れてきました。何やら城人の特集と、たまたまだぶってしまいましたが御容赦下さい(本当に偶然です)。

訪問したのは昨年秋ですが、紅葉が色づき始めた頃できれいでした(写真⑩)。今年は猛暑なので、ここで秋の萩城の写真を皆さんにお届けします。少しでも涼しさを感じて頂けたら幸いです。

毛利輝元は、中国七か国120万石の大大名でした。関ケ原の戦いでは西軍の総大将を務めましたが敗戦の責任を負い、周防長門36万石に減封されてしまいます。そして長門の萩の地に「萩城(指月城)」を新たに築き居城としました。

JR山陽本線・山陽新幹線「新山口」駅前から高速バス萩行きに乗り65分(予約不要並んだ順に乗車、待合室に券売機あり)、萩バスセンターまたは東萩駅で下りて100円ループバスに乗れば萩城まで最短で行く事ができます(JR山陰本線は本数少なので鉄旅マニア向けです。また萩の西側下関方向の山陰線・美弥線は7月の大雨の影響で長期不通区間があるようです、運行情報を確認されて行かれて下さい)。

まず萩城入口に着くと、毛利輝元の銅像が出迎えてくれます(写真①)。そして大手門桝形(写真②)を抜けると、ここがベストショット! 萩城石碑・内堀・天守台・指月山が1枚に入ります(写真③:辰兵衛さんに先を越されましたが、ここは思わずカメラを向けてしまう場所ですね!)。天守台は「扇勾配の石垣」で天守の礎石も実によく残っていました。かつては五重の望楼型天守があり、明治の廃城例で破却されるまで天守は残っていたようです(写真④⑤⑥⑦)。何か見てみたい幻想にかられました。

本丸内には、毛利家代々の藩主が祀られている「志都岐山神社」(写真⑧)や、幕末最後の藩主「毛利敬親(たかちか)=そうせい公」が家臣たちとこれから一戦交える幕府軍にどう対抗するかの密談に使ったという「花江茶亭」(写真⑨)もありました。

私は(写真①)の輝元の銅像の表情を見ていると、この萩に来た時の輝元の無念さが、何やらひしひしと伝わってきたように感じました。詰城(要害)があった指月山に登ると、この時の輝元の気持ちがもう少し分かるのではないかと思ったので、次は指月山に登ってみる事にします。
 

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概要

関ヶ原合戦に敗れた毛利輝元が徳川家康の指定した地に築いた城。日本海に突出した指月山に詰丸、その麓に本丸・二の丸・三の丸、さらに五重五階の望楼型天守を建てた。二の丸東門から海外線に沿って城壁が連なり、一部の土塀が復元されている。扇の勾配を持つ高石垣の天守台が美しい。

城郭情報

城地種類 梯郭式平城、山城(指月山)
築城年代 慶長9年(1604)
築城者 毛利輝元
主要城主 毛利氏
文化財史跡区分 国重要文化財(旧厚狭毛利家萩屋敷長屋)、国史跡(萩城跡、萩城城下町)、国天然記念物(指月山)他
天守の現況・形態 複合式望楼型[5層5階/1608年築/破却(廃城令)]
主な関連施設 北の総門、土塀、土橋、石碑、説明板
主な遺構 曲輪、石垣、横堀、長屋、井戸
住所 山口県萩市堀内
問い合わせ先 萩市観光協会
問い合わせ先電話番号 0838-25-1826