(25人目)島津豊久の続き⑧です。「都之城」を訪れてきました。
JR西都城駅(写真⑨)から徒歩で15分のところにあります。現在の城跡には歴史資料館が建てられていて(写真①②)、大手門も残っていました(写真⑤⑥)。
実は1599~1600年に、ここを舞台にして起きた島津家の内乱「庄内の乱」が関ケ原や九州の諸将にも関係し、また豊久の運命を大きく変える事になってしまいました。そのため気になり訪問しました。そしてこの乱があったがために、義久は薩摩から弟の義弘に援軍を送る事ができず、また加藤清正も関ケ原へ向かう事ができませんでした。よって関接的に関ケ原の勝敗にに大きく影響したかもしれない乱であったと言えると思います。
ではもしこの庄内の乱がなかったら、関ケ原はどうなっていたでしょうか? 島津義久は薩摩より義弘の元へ大軍を送っていたでしょう。そして加藤清正も自ら大軍を率いて熊本から関ケ原へ向かっていた事でしょう。島津と加藤、どちらの軍勢も当時の日本では最強と言っていい大軍勢です。強さから言えば、おそらく西軍の中心であった宇喜多秀家や石田三成の軍勢の比ではないと私は思います(それだけめちゃくちゃ強いという事です)。しかしいざとなると、彼らが西軍・東軍どちらに付いたかは私にはわかりませんが、関ケ原の戦いの構図は間違えなく大きく変わっていたと思います。特に三成と仲が悪いと言え、最も豊臣秀頼を慕う加藤清正は要注意です! それは以前の私の投稿で、なぜ清正はあのような大城郭(熊本城)を築いたのか? そしてなぜあの豪華な本丸御殿(昭君之間)を作ったのか? その理由を思い出していただければ解ると思います。
私は都之城の本丸から都城市街を眺めて見ました(写真⑧)。当時ここに立て籠もる伊集院忠真に対し、義久率いる薩摩の島津本軍と豊久の佐土原軍がこの城をぐるりと取り囲んでいたであろう光景を想像してみました。関ケ原がたった1日で終わらず、もしあと数ヵ月長引いていたら、これらの軍勢と加藤清正の軍勢が関ケ原へ向かっていたかもしれません。そうなった場合、はたして戦の結末はどうなっていたでしょうか? そして家康はどう対応したでしょうか? などとまたいつものようにありえなかった想像にふけってしまいました🤔。
【余談】庄内の乱とは(御参考まで)
島津義久の筆頭家老であった伊集院忠棟は、根白坂の戦いの後、秀吉に降伏するよう義久に進言した人物とされ、秀吉より信頼されかつその恩賞として都之城8万石を賜り、それまで都之城を治めていた北郷氏を追放して、島津家家中を二分するほど権力を有するようになりました。そして太閤検地で不満をもつ諸将をも取り込み、このままでは島津家を乗っ取るのではとうわさされていました。義久が朝鮮の義弘に船や物資・援軍を送れなかったのも、忠棟がこの諸将らに反乱を起こさせ妨害させたからだとされています。1599年3月これをよく思わない義弘の子で義久の後の島津家を継ぐ事がすでに決まっていた忠恒は、何と伏見の島津屋敷にて忠棟を斬殺してしまいました。これに怒った忠棟の子の忠真は居城の都之城に立て籠もり、義久と一戦構えます。同6月佐土原城主として大坂に参勤中だった豊久も、家康から義久と相談しながらともに乱を鎮めるようにと命を受けて薩摩へ戻り、外城の山田城を落とします。籠城も限界となった1600年3月、最後には家康の仲介で、忠恒は謹慎、忠真は降伏し都之城を明け渡して乱は終息します。関ケ原が起きる直前の出来事でした。これにより軍勢が疲弊したため、島津義久は関ケ原の義弘に援軍を送る事ができず、加藤清正は忠真と内通していたのではと家康から疑われ関ケ原への参陣を禁止されたのでした。
次はその「山田城」を訪れ、豊久の運命を分けた関ケ原へと話を続けます。
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