みやこのじょう

都城

宮崎県都城市

別名 : 都之城、都城城、鶴丸城
旧国名 : 日向

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資料館
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しんちゃん

庄内の乱 (2025/05/07 訪問)

都之城は永和元年(1375)島津氏の一族・北郷氏二代義久によって築かれました。「庄内十二外城」と呼ばれる支城群を有していて、伊集院氏が城主を務めていた時代に起きた「庄内の乱」の際には、本家の島津軍をてこずらせています。
資料館の建っている本丸と狭野神社のある西城には城址の雰囲気が良く残っています。北郷氏の本城だけあって、城域は広く大淀川とその支流に守られた丘陵部に池之上城・新城・中尾之城・中尾城・外城・中之城・南之城と呼ばれる郭群がひしめき合っていたようです。

豊臣秀吉の九州平定後、島津氏の重臣・伊集院忠棟が八万石で都城に入り、秀吉の直命で島津領内の検知後の知行配分を請け負うことになりました。そのことにより島津家中での恨みを集め、主家を乗っ取ろうとしているという風評までたったあげく、
宗家の後継者である島津忠恒によって、伏見の島津邸にて斬殺されてしまい、これが「庄内の乱」のきっかけとなりました。
忠棟の殺害は忠恒の独断のように見えますが、島津家の総意のようにも感じます。少なくとも島津家内では忠恒の行動を責める空気は無かったのではないでしょうか。
この後、忠棟の嫡子・伊集院忠真と島津宗家の戦いになりました。忠真は「庄内十二外城」を以て善戦しますが、その外城も次第に降伏開城して行き、最終的に家康の和睦を取り入れ降伏し、改めて忠恒に仕えることになり、都城は本郷氏の城に戻りました。
加藤清正は「庄内の乱」で秘かに忠真を支援し、乱の後も連絡を取っていたので、家康の怒りを買っています。そのため会津征伐への参加を認められなかったとされていますが、私は他にも理由があると思っています。

忠真は慶長7年(1602)に忠恒の催した狩りに同行した際に射殺され、実行役の押川治右衛門と淵脇平馬は切腹を申し付けられますが、その子孫は後に出世しているようです。忠真の母と弟三人も同日中に殺害されますが、こちらの方はお咎めなしだったのだろうか?

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トク

95【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (島津本軍と加藤清正はなぜ関ケ原へ行けなかったのか?) (2023/11/05 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑧です。「都之城」を訪れてきました。
JR西都城駅(写真⑨)から徒歩で15分のところにあります。現在の城跡には歴史資料館が建てられていて(写真①②)、大手門も残っていました(写真⑤⑥)。

実は1599~1600年に、ここを舞台にして起きた島津家の内乱「庄内の乱」が関ケ原や九州の諸将にも関係し、また豊久の運命を大きく変える事になってしまいました。そのため気になり訪問しました。そしてこの乱があったがために、義久は薩摩から弟の義弘に援軍を送る事ができず、また加藤清正も関ケ原へ向かう事ができませんでした。よって関接的に関ケ原の勝敗にに大きく影響したかもしれない乱であったと言えると思います。

ではもしこの庄内の乱がなかったら、関ケ原はどうなっていたでしょうか? 島津義久は薩摩より義弘の元へ大軍を送っていたでしょう。そして加藤清正も自ら大軍を率いて熊本から関ケ原へ向かっていた事でしょう。島津と加藤、どちらの軍勢も当時の日本では最強と言っていい大軍勢です。強さから言えば、おそらく西軍の中心であった宇喜多秀家や石田三成の軍勢の比ではないと私は思います(それだけめちゃくちゃ強いという事です)。しかしいざとなると、彼らが西軍・東軍どちらに付いたかは私にはわかりませんが、関ケ原の戦いの構図は間違えなく大きく変わっていたと思います。特に三成と仲が悪いと言え、最も豊臣秀頼を慕う加藤清正は要注意です! それは以前の私の投稿で、なぜ清正はあのような大城郭(熊本城)を築いたのか? そしてなぜあの豪華な本丸御殿(昭君之間)を作ったのか? その理由を思い出していただければ解ると思います。

私は都之城の本丸から都城市街を眺めて見ました(写真⑧)。当時ここに立て籠もる伊集院忠真に対し、義久率いる薩摩の島津本軍と豊久の佐土原軍がこの城をぐるりと取り囲んでいたであろう光景を想像してみました。関ケ原がたった1日で終わらず、もしあと数ヵ月長引いていたら、これらの軍勢と加藤清正の軍勢が関ケ原へ向かっていたかもしれません。そうなった場合、はたして戦の結末はどうなっていたでしょうか? そして家康はどう対応したでしょうか? などとまたいつものようにありえなかった想像にふけってしまいました🤔。


【余談】庄内の乱とは(御参考まで)
島津義久の筆頭家老であった伊集院忠棟は、根白坂の戦いの後、秀吉に降伏するよう義久に進言した人物とされ、秀吉より信頼されかつその恩賞として都之城8万石を賜り、それまで都之城を治めていた北郷氏を追放して、島津家家中を二分するほど権力を有するようになりました。そして太閤検地で不満をもつ諸将をも取り込み、このままでは島津家を乗っ取るのではとうわさされていました。義久が朝鮮の義弘に船や物資・援軍を送れなかったのも、忠棟がこの諸将らに反乱を起こさせ妨害させたからだとされています。1599年3月これをよく思わない義弘の子で義久の後の島津家を継ぐ事がすでに決まっていた忠恒は、何と伏見の島津屋敷にて忠棟を斬殺してしまいました。これに怒った忠棟の子の忠真は居城の都之城に立て籠もり、義久と一戦構えます。同6月佐土原城主として大坂に参勤中だった豊久も、家康から義久と相談しながらともに乱を鎮めるようにと命を受けて薩摩へ戻り、外城の山田城を落とします。籠城も限界となった1600年3月、最後には家康の仲介で、忠恒は謹慎、忠真は降伏し都之城を明け渡して乱は終息します。関ケ原が起きる直前の出来事でした。これにより軍勢が疲弊したため、島津義久は関ケ原の義弘に援軍を送る事ができず、加藤清正は忠真と内通していたのではと家康から疑われ関ケ原への参陣を禁止されたのでした。

次はその「山田城」を訪れ、豊久の運命を分けた関ケ原へと話を続けます。
 

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しんちゃん

都城島津氏の本城 (2014/01/11 訪問)

先日いにしえの写真を見てたらこんな城の写真が出てきました。城郭大系には北郷義久の外祖父・宮丸道時が住んだ都島の地に築したもので都城島津氏(北郷氏)の本城だったが、元和元年(1615)に廃せられた とだけサラっと記載されています。
本丸跡が城山公園とされていて、なんとなく洒落たお城っぽい歴史資料館が建っています。平成8年に城山大手門(脇戸付櫓門・単層櫓)が復元されていて総工費は当時の金額で9500万円かかっているそうです。本丸より西側に城址がのび案内板から察するに東西700mほど、南北500m強といったところで大淀川の支流がかつての堀の名残に見えます。

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ryu

都之城訪問 (2022/10/14 訪問)

志布志城から車で50分くらい。駐車場の西に「脇戸付櫓門」が建てられている。
本丸跡には城郭風建築の「都城歴史資料館」(表記番地)が建てられ、広場となっている。

時間が足りず、急ぎ足で櫓門から本丸まで歩く。

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城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 北郷義久
築城年 永和元年〔北朝〕/天授元年〔南朝〕(1375)
主な城主 北郷氏、伊集院忠棟
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、横堀(空堀)
再建造物 説明板、櫓門、城郭風建造物(資料館)
住所 宮崎県都城市都島町
問い合わせ先 都城市教育委員会事務局文化財課
問い合わせ先電話番号 0986-23-9547