都之城は永和元年(1375)島津氏の一族・北郷氏二代義久によって築かれました。「庄内十二外城」と呼ばれる支城群を有していて、伊集院氏が城主を務めていた時代に起きた「庄内の乱」の際には、本家の島津軍をてこずらせています。
資料館の建っている本丸と狭野神社のある西城には城址の雰囲気が良く残っています。北郷氏の本城だけあって、城域は広く大淀川とその支流に守られた丘陵部に池之上城・新城・中尾之城・中尾城・外城・中之城・南之城と呼ばれる郭群がひしめき合っていたようです。
豊臣秀吉の九州平定後、島津氏の重臣・伊集院忠棟が八万石で都城に入り、秀吉の直命で島津領内の検知後の知行配分を請け負うことになりました。そのことにより島津家中での恨みを集め、主家を乗っ取ろうとしているという風評までたったあげく、
宗家の後継者である島津忠恒によって、伏見の島津邸にて斬殺されてしまい、これが「庄内の乱」のきっかけとなりました。
忠棟の殺害は忠恒の独断のように見えますが、島津家の総意のようにも感じます。少なくとも島津家内では忠恒の行動を責める空気は無かったのではないでしょうか。
この後、忠棟の嫡子・伊集院忠真と島津宗家の戦いになりました。忠真は「庄内十二外城」を以て善戦しますが、その外城も次第に降伏開城して行き、最終的に家康の和睦を取り入れ降伏し、改めて忠恒に仕えることになり、都城は本郷氏の城に戻りました。
加藤清正は「庄内の乱」で秘かに忠真を支援し、乱の後も連絡を取っていたので、家康の怒りを買っています。そのため会津征伐への参加を認められなかったとされていますが、私は他にも理由があると思っています。
忠真は慶長7年(1602)に忠恒の催した狩りに同行した際に射殺され、実行役の押川治右衛門と淵脇平馬は切腹を申し付けられますが、その子孫は後に出世しているようです。忠真の母と弟三人も同日中に殺害されますが、こちらの方はお咎めなしだったのだろうか?
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