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赤い城

久しぶりの再訪 (2024/12/08 訪問)

頭崎城で費やすはずの時間が空いてしまったので最寄りの松嶽城へ行くことにしました。
4年半ぶりの再訪です。

竹林寺を目指し細い山道を登っていきます。第二駐車場の先をさらに登ると駐車場があります。
ここから先は徒歩、竹林寺へ下っていきます。
少し歩くと仁王門、ここから少しだけ下ると説明板があり、ここが登城口です。
登城といってもここから登りません。

梵字岩や登城路から下に落ちる竪堀、土塁や横堀を見ながら進みます。
土橋を渡ると本丸、ここは登ります。

本丸はやや藪、二の丸、三の丸と三段の郭が連なります。
本丸と二の丸の間に石積が残る井戸もあります。
ここまでは前回も見学していたので再確認できました。
一旦下りて南曲輪方面に。
南曲輪と三の丸の間は堀切状の動線でしょうか。
三の丸方面を見上げると石積が確認できます。
やはり切岸を登ってしまいました。

南北朝時代の古い城のようですが遺構も良好で歩きやすい城でした。
夏は藪かも・・・

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todo94

元日の攻城③ (2025/01/01 訪問)

斎藤氏館からの転戦です。ゴルフ場の中に取り残された雷電神社が竜ヶ谷城です。結構、城の遺構が残っていてうれしい不意打ちとなりました。おそらく雷電神社には地上げの圧力が相当あったはずで、ゴルフ場の中の離れ小島にはなってしまいましたが、雷電神社が地上げに屈しなかったおかげで、こういう形ではありますが、城の遺構が残されたのだと思うと、雷電神社には感謝あるのみです。因みに途中の看板に早朝及びゴルフ場営業終了後の立ち入りは不法侵入扱いとなる警告が記されていました。おそらく、元日はゴルフ場の営業はしていないはずなので不法侵入にあたってしまうのでしょうか。でも、雷電神社に初詣に行きたい人だっているはずですよね。

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イオ

城下めぐり (2024/10/14 訪問)

(続き)

北の庄城址公園は福井城の西三ノ丸南側の曲輪にあたり、発掘調査で出土した堀跡と石垣が展示され、日向門の礎石が位置標示されています。

JR福井駅西口の道路の向こう側には、吉野川を改修した最大幅100mに及ぶ百間堀が築かれていました。現在はビルが建ち並んでいて堀の痕跡も窺えませんが、百間堀の石垣石を用いたモニュメント(説明板)が設けられています。

北陸銀行・福井支店の前には発掘調査で出土した笏谷石の石垣石が展示されています。柴田期北ノ庄城のものか福井城かは不明のようですが、打込接ぎで刻印もあるので福井城の石垣なんじゃないでしょうか。また、福井市役所の前にも西二ノ丸石垣の石材が展示されています。

中央公園はかつての西二ノ丸と西三ノ丸に設けられており、西二ノ丸の堀が掘割広場として立体表示され、笏谷石の石列で堀幅が平面表示されています。また、西三ノ丸の堀は堀水景として往時の様子を感じさせる姿で半立体表示されていました。その他、西三ノ丸にあった御座所(藩主の住居)も平面表示されています。中央公園に北接する福井神社は福井藩16代藩主・松平慶永(春嶽)を祭神とし、松平春嶽公像が立てられていました。

さて、城下をひとめぐりしたので、本丸に向かいます(続く)。
 

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しんちゃん

江戸期に築かれた城。 (2025/01/04 訪問)

現地の案内板によると野手崎城は小梁川氏の居城で東西300m、南北250mの規模を持つとされています。
築城は江戸期になされ、寛永22年(1644)に工事が始まり、元禄元年(1690)に完成し、幕末まで居城したようです。
高所に本丸が置かれ、小梁川館とも称されているようです。
中腹に高屋敷館があり、二の丸とも考えられています。
下段にも郭が複数配され、民家になっている場所もあります。今回はなんとか本丸まで到達できました。
山城とされてはいますが、比高はそれほどでもないです。とは言え、積雪の状態で普段とは勝手が異なるので本丸周辺で良しとしました。

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とってぃ

雪景色でした。 (2025/01/04 訪問)

年始でもあり雪でもあったため、そんなに人も多すぎず散策できました。

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しんちゃん

果たして遺構は何処に❓️ (2025/01/04 訪問)

小瀬川館は瀬川と鍋割川の合流地点の南側の丘陵に築かれており、現在は県道で分断されているようです。
稗貫氏の最初の居城であるとされますが、瀬川氏の祖、大瀬川氏の居城であるとする説もあるようです。
土塁や堀の一部が残っているとされますが、だいぶ形状も変わっているようで判別がつきかねますね。

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いんげん丸虫

別名; 高瀬要害山城 馬谷城 (2024/12/29 訪問)

標高70mの山城です。
登城口には看板があり、駐車スペースが
あります。
この城跡の見どころは西斜面の畝状空堀
ですね。ここまでしっかりとした状態は
珍しいですね。土塁の部分が崩れずに
底部も明確で竪堀として残ってます。

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じゅんじん

明智さんの居城 (2024/12/19 訪問)

石垣見つかったいですね。公園化したらまた行きたい。

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ヒロケン

火防秋葉神社 (2025/01/04 訪問)

2025年 明けましておめでとうございます。
     本年も、どうぞよろしくお願いいたします。

秋葉城は南北朝時代、標高866mの山頂に天野氏によって築かれた山城とされています。遺構はありませんが、秋葉山本宮秋葉神社上社が建ち火防の神様として知られ、全国より崇敬され参拝されています。

1日から3日まで、娘が帰省してきており、昨日金沢に帰ってしまい暫く孫の余韻に浸っていましたが、秋葉山上社に新しいお札をいただきに参拝してきました。ここに城があったとは聞いていましたが、秋葉神社の創建は709年とされているので、南北朝時代には既に神社が建っており、山頂に城があったのだろうかと疑問に思ったりもしますが、境内からの景色は素晴らしく小さな疑問など吹っ飛んでしまいます(*^▽^*)



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石垣散歩 (2025/01/04 訪問)

 六段壁はこの城のシンボルのような存在で自分も昔から好きな遺構です。他にも魅力的な石垣の風景が多くあり、一部ですが追加で投稿しました。残念ながら雪で見にくくなっている所もあります。この日は晴れ間が見えていましたが、雲で太陽が隠れる時間帯もありそれなりに寒かったです。
 この時期は登城者も少なく葉も落ちているので山城散策にはいい季節ですが、年によっては雪が降っていたりするので要注意です。3年前に1月に登城したときは雪が積もっていました。(投稿済み)

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POYO58

写真撮りにくい… (2025/01/02 訪問)

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
さあ今年2025年の最初のお城は楠葉台場となりました。
楠葉台場は勝海舟が幕府に命ぜられて築かれた台場です。その後は薩長同盟により、この地域は新政府軍に攻められ、新政府軍の砲台の高浜台場から攻撃を受け、終いには新政府軍に占拠されてしまいました。
楠葉台場はJR橋本駅から徒歩10分ほどで着きます。橋本駅は京都府ですが、楠葉台場は大阪府にあります。さらに近くは東海道が通っています。砲台は京都方面から攻めてくる敵に反撃するために作られたようですが、実際にはその役割は果たせず…
縄張りとしては稜堡式の砲台となっており、土塁や堀が良好な状態で残っていました。また発掘調査では瓦も多く見つかっており、建物が立っていたことも明らかになりました。

写真が撮りにくいというのは2つの意味がありまして、1つは普通に遺構を綺麗にとるのが難しいという意味と、もう一つは、公園になっていて、多くの人が遊んでいたので、自分が公園の写真を撮っている不審者のような感じ見られるのが嫌だったということです。そこにいた多くの人はおそらくそこが砲台ということをあまり意識していないようなので… 皆さんもそんなことありませんか?

評価★★★☆☆

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霧ヶ城伝説 (2025/01/04 訪問)

 1年ぶりの登城です。少し雪化粧をしていました。文治元年(1185年)加藤景廉によって築城されましたが、現在見られる石垣造りの近世城郭は慶長6年(1601年)入部した松平家乗により整備されたものです。岩村城の特徴の一つに標高717mの山頂一帯に築かれた城にもかかわらず井戸が17ヶ所もあるということです。中でも昔から好きなのは八幡曲輪にある霧ヶ井です。城主専用の霊泉で、敵が攻めてきた際、城内秘蔵の大蛇の骨をこの井戸に投じると、たちまちにして雲霧が湧き出て城を覆い尽くし、城を守ったとされています。この話を最初に知ったのは初めて登城した中学生のときでした。いつの時代、そのときの城主は誰、と疑問に思い調べてみましたが、今のところ答えをみつけられません。詮索することが野暮な話かもしれません。
 明知鉄道岩村駅より岩村城下を散策して登城しました。本丸まで行き二の丸、南曲輪などを散策しました。

 「岐阜の山城ベスト50を歩く」(サンライズ出版)に「山上から周囲に伸びる尾根の各所には、戦国期の曲輪や堀切が遺存している。見学路が整備されていないのが難点であるが、こちらも一見の価値がある」の記載があります。行けるものなら行ってみたいですが、無理はしないのが現在の方針なので行きません(多分)。
 

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キンヤ

織田信秀の居城で、名古屋城築城時の石置き場ともなった城跡 (2024/12/08 訪問)

東別院(真宗大谷派名古屋別院)一帯は、織田信長の父信秀が築城した古渡城跡で、四方を二重の堀で囲まれていたとされます。信長は古渡城で元服したと云われます。
境内には城の遺構は残されていませんが、城趾碑があり、周囲を巡ると少し高い場所であることが分かります。
東隣にある東別院の後庭であった下茶公園内には堀を利用して作られたとされる庭園の池があります。

ここは江戸時代には名古屋城築城時の石垣用の石置き場とされ、古渡城跡に集められたようで今も残石が多くあります。三河湾沿岸で石を切り出し、船に乗せて伊勢湾を渡り、熱田浜で陸上げし名古屋城まで運ばれていたとされ、東別院は熱田浜から名古屋城の間の真ん中辺りにあります。
古渡城は何度か行きましたが、今回は残石が目的で刻印を探し廻りました。
刻印は下茶屋公園を含め29石も見付かっているとのことですが、私は刻印を22石程見付けることができました。
複数の刻印があるものや、名が刻まれたものもあり、良かったです。特に刻印「一」が多く、10石程見られましたが、なぜ多いのでしょうか。
矢穴石は25石程あり、沢山見られました。矢穴口の長さ10cm以上は名古屋城築城時の慶長期、大修理の宝暦期は5cmが目安とされますが、大半は矢穴口の長さ5cm位でしたので、大修理の宝暦期以降の矢穴かもしれません。

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小城小次郎

自然公園内のゆるーいお城 (2024/04/27 訪問)

枡形山自然公園になっているので容易に散策できるが遺構としてはゆるーい感じ。謙信・景勝の二代に仕えた甘粕景持がいたともいうが目の前に守るべき領地(田んぼ)もなさそうなので常駐していた可能性は低いのではなかろうか。

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いんげん丸虫

鳶之巣城 和歌山県みなべ町 (2024/12/29 訪問)

標高248mの山城です。
主郭を中心に3方へ伸びる尾根に曲輪、
土塁、堀切が技巧的に配置されてます。
コンパクトな城跡ですが、残存状態も
良く素晴らしいですね。
道路の広いスペースに車を停め、墓地
のうえを尾根まで登り、左に10分位
行きます。

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しんちゃん

土塁、堀、郭が残る (2025/01/04 訪問)

日戸館は藤原秀郷の末裔河村秀清が当地に移り、日戸氏を称し築いたとみられます。郭や堀、土塁などが比較的良好に残っています。けっこう雪が積もっていますが、十分歩ける範囲です。東に主郭があり、一部に土塁が残ります。
西に二郭があり主郭との間は大きな堀切で仕切られています。いずれの郭にも登路が付いているので無理は禁物です。
二郭の西には三郭があり、南には堀切道と土塁が付いています。

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イオ

北ノ庄城 (2024/10/14 訪問)

福井城の前身にあたる北ノ庄城は、南北朝期に斯波高経が築いた足羽七城のひとつとされ、室町中期には朝倉頼景が館を設けましたが、朝倉氏の滅亡に伴って柴田勝家に与えられ、安土城に匹敵するとされる巨城を築きました。北ノ庄城の戦いに敗れた勝家はお市の方と共に自害し、建物もほとんどが焼失。その後、丹羽長秀、堀秀政、青木一矩を経て、結城秀康が入ると現在の位置に新たに築城し、後に福井城に改名されました。

福井遠征3日目は福井城。まずは柴田神社のある北の庄城址公園から。北の庄城址公園には発掘調査で確認された2か所の柴田期北ノ庄城の堀の石垣が露出展示されています。南端には勝家が半石半木で足羽川に架けた九十九橋が往時の石材を用いて再生されていました。また、公園内には柴田勝家、お市の方、三姉妹の像が立てられているほか、開館時間(午前9時~午後5時)前だったため入館はしていませんが、北の庄城址資料館も設けられています。

北の庄城址・柴田公園の案内板によれば、公園内には柴田期北ノ庄城だけでなく福井城としての石垣もあるようです(続く)。
 

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todo94

元日の攻城② (2025/01/01 訪問)

金鑚(かなさな)御嶽城からの転戦です。皆さんの投稿で現在も末裔の方がお住まいであることはわかっていましたが、土塁の撮影を終えて戻る際に、末裔の方とおぼしきご婦人方がちょうど外出から戻られました。「何か御用ですか。」と問われたので、「土塁だけ撮影させていただきました。」と答えたところ、爽やかな笑顔が返ってきてほっと致しました。最初の写真は末裔の方の所有地の東側に残っている土塁です。この土塁ならば公道から撮影することができます。

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堀巡り (2025/01/03 訪問)

 多くの空堀がある程度の深さを保って残っていることが、この城址の魅力のひとつです。多くは上からの見学となりますが、カンカン井戸の背後の内堀は堀底から堀の迫力を堪能できます。また二の曲輪大手馬出付近から外堀へ下りることができます。
本曲輪の東側に二重になっている内堀があります。内側の堀は散策できますが、外側の堀は藪になっていて、また底に水があり侵入は断念しました。この外側の堀の藪が少なくなっていることを期待してこの時期に登城しましたが、5月に来た時とあまり変わりません。内側の堀は南側まで続いています。その先には水の手曲輪がありました。
水の手曲輪の底を歩いていると南側に堀切のような地形を見えます。最初、堀切だと思っていたのですが、縄張図を見ても、この場所に堀切はありません。二の曲輪東内馬出の東にある外堀を見ていることに気が付きました。何とか行けないか思い周囲を見ていると鉄塔へ上がって行く道があり、そこを進んで行くと途中に土塁の上に上がっていく道(踏み跡ですが)ありました。そこを土塁の上に上がると外堀に行くことができます。藪になっている所もありますが、形状はしっかり確認できます。

 堀や馬出などがよく残っていて何度来ても飽きない城址です。堀などは各所に残っていて散策をしていると3時間近く経過していました。投稿した最初の1枚目の写真が微妙に写す角度は異なりますが、二の曲輪中馬出の空堀の写真となっています。一番好きな場所なのでいつも1枚目に持ってきてしまいます。

 JR金谷駅より徒歩15分くらいで登城口に行くことができます。今回も水の手曲輪の先にある登城口より登城しました。

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馬出巡り (2025/01/03 訪問)

 この城の魅力のひとつは形状が確認できる馬出が複数残っていることだと思っています。馬出周囲の堀も深さを保っていて見ることができます。一番見ごたえがあるのは深い堀に囲まれた二の曲輪中馬出でしょう。堀底もきれいに整えられています。南東側に二の曲輪東内馬出、二の曲輪東馬出、二の曲輪南馬出が近接して存在しているところが興味深いところです。

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