大崎北バス停から徒歩5分くらいで、幸稲荷神社入口(34.722330、137.344821)に着きました。
その後、大崎城址標柱付近(34.720754、137.344891)に徒歩で向かいました。
1505年(永正2年)牧野古白が築いた今橋城(吉田城)は、翌1506年(永正3年)に伊勢宗端(後の北条早雲)の侵攻で落城となり、古白も討死しました。
代わって戸田憲光の次男戸田(金七郎)三郎兵衛尉宣光(戸田三郎左衛門と同一人物か)が城主となりました。
1519年(永正16年)牧野古白の遺児三成、信成兄弟が今川軍の援軍と共に今橋城を攻め、奪取、戸田宣成は田原城へ逃れました。
この頃、大崎城は伊庭藤太の居城でしたが、戸田宣成の入城で本格的な改修が行われました。
1546年(天文15年)今川義元の攻撃で今橋城は落ち、翌1547年(天文16年)田原城も竹千代の人質事件で落城となり、支城の大崎城も廃されました。
1601年(慶長6年)織田信長の娘五徳姫に仕えた経歴を持つ中島与五郎重好が大崎城東側隣地に607石で陣屋を構えました。三河湾に影響力を持つ水軍を有し、将軍上洛時の渡海警備職を担っていたようです。
三河湾に影響力を持つ水軍を有し、将軍上洛時の渡海警備職を担っていた。
その後、重春-重貞-昌央-勝英-勝邦-隆功-隆賢-隆成と9代続き、1868年まで交代寄合旗本として存続し、明治に至ったようです。幕末の石高は1040石余でした。
神社手前一帯が大崎陣屋跡で、神社へ続く道〔中央〕辺りに大手門・練兵場が在り、豊橋平安寮の場所が侍女・家臣の屋敷、一段低い北側の耕地に領主の居館(御殿)・役所・台所・蔵があったようです。
龍源院の境内も曲輪だったところで、山門への参道脇に大崎城の標柱が建てられています。
主郭は、土塁と空堀が周囲を巡らされ、東に土橋を伴った虎口が開かれていますが、竹藪なので、深く入りこめませんでした。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=赤岩城(城びと未登録 愛知県豊橋市)へ向かう前に、自転車を借りるため、大崎北バス停から豊鉄バスで小田原バス停に向かい、そこからエコチャリ豊橋駅前通り向かいました。
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