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小城小次郎

堂々たる石樋 (2024/02/19 訪問)

訪ねたのがたまたま土砂降りの日だったので石樋に注目したが、杉の段の石垣に設けられた巨大石樋は機能していないようだった。一方で本丸の石樋はどうどうと水を流していて、堂々たる石樋の機能を見せつけていた。

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赤い城

Black&White (2024/10/06 訪問)

福山には約25年くらい前に2年ほど住んでいました。
その頃は仕事にも余裕無くゆっくり見学することは無く。
ただ、相方と出会った地でありその後何回か訪れていました。
今回は久しぶり、改修工事後は初めての登城です。

この日は世羅高原へダリアとガーデンマムを見にドライブ。
帰りに立ち寄りました。
車は北西の福山城専用駐車場に置き、北側から登城しました。
なのでいきなり鉄板が施された姿を見ることに。
以前と印象が全く異なります。
斜めから黒と白のコントラストを楽しめました。

本丸に進むとこの日は日本酒のイベントが開催中。
車なのが悔やまれます!
多くの人で賑わってたので写真を撮るのも一苦労でした。

それでも天守の周りを一周し、伏見櫓、月見櫓、筋鉄御門などを見学しながら東側へと降りました。

福山はバラの街でもあります。
駅前の石垣前には秋バラも咲いていました。
駆け足での登城だったので次回はもう少しじっくり味わいたいです。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城③ (2024/10/12 訪問)

JR学研都市線の同志社前駅から長尾駅へとアクセスしました。長尾谷高等学校のあたりがその故地とのことで、陣屋通りの木の立札も確認いたしましたが、移築門があるという圓通寺は徒歩で赴くには少々遠かったのでまたの機会にとっておきたいと思います。この日の攻城はこれにて終了。難波のヱビスバーで早めの晩酌を楽しみました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:久居陣屋 (2024/09/25 訪問)

新家バス停から徒歩10分くらいで、本城山青少年公園入口(34.675781、136.458883)に着きました。

1671年(寛文11年)藤堂高通によって築かれました。 津城主藤堂高次の隠居により高通に50,000石の分領が許可され、高通は久居藩を立藩しました。
本来は城主格の大名ですが、城を築くことは許可されず陣屋を築いたそうです。

現在は久居中学校と高通児童公園となっています。
久居陣屋に関するものは説明板と御殿山記念碑くらいです。

攻城時間は10分くらいでした。本来の予定はここから木造城に向かう予定でしたが、新家バス停から久居駅に向かうバスが15分も遅延した為、バスの乗り継ぎが出来ませんでした。
その為、1時間遅れが確定。本日は岸岡城攻城時の電車待ち40分と併せ1時間40分遅れはリカバリ不可なので、本日はここで終了としました。
本日の宿泊先に向かう為、とりあえず久居駅から近鉄四日市駅に向かい荷物をコインロッカーから取り出した後、三重県の津駅に向かいました。
本日の攻城徒歩=24922歩、攻城距離=17.44Kmでした。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:伊勢上野城 (2024/09/25 訪問)

豊津上野駅から徒歩15分弱で、案内標識前(34.7904952、136.5446161)に着きました。

伊勢上野城は織田信長の弟、織田信包が津城の仮城として1570年(元亀元年)に築城しました。
「賤ヶ岳の戦い」の後、お市の方の遺児である茶々・初・江の三姉妹はこの城で過ごしたといわれています。

現在は、本城山青少年公園となっていて、本の丸跡には展望台が建てられており、2階にある資料室には伊勢上野城の復元模型が展示されています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=久居陣屋を目指す為、伊勢鉄道と三重交通バスを使って、伊勢上野駅から新家バス停に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:岸岡城 (2024/09/25 訪問)

千代崎駅から徒歩7~8分くらいで、岸岡山緑地公園階段前(34.852580、136.604897)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、佐藤中務大輔によって築かれたと云われています。 佐藤氏は藤原秀郷の子孫で下野国より移り、戦国時代には神戸氏に従っていたそうです。
1557年(弘治3年)近江六角氏が神戸氏の属城である柿城を攻めた際、神戸城主神戸利盛が救援に赴いた隙に佐藤中務・又三郎父子は謀叛を企て、六角氏の部将小倉三河守の兵を神戸城に迎え入れました。
しかし、佐藤氏の家臣古市与介が佐藤氏に叛いて神戸利盛を岸岡城に迎え、長野藤定とともに神戸城を奪還し、佐藤父子は捕らえられたそうです。

現在は公園となっており公園の案内板には古墳は記されていますが、城址に関する記述はありませんでした。
電車に間に合わせる為、展望台に行かず速攻で引き返しましたが、タッチの差で間に合わず40分近く次の電車を待ちました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=伊勢上野城を目指す為、千代崎駅から電車で豊津上野駅に向かいました。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:浜田城 (2024/09/25 訪問)

近鉄四日市駅から徒歩5分くらいで、鵜森神社鳥居前(34.964519、136.617401)に着きました。

1470年(文明2年)田原忠秀によって築かれたようです。
1575年(天正3年)織田信長によって攻められ、当主元綱は討死し、元綱の子重綱は美濃国へ逃れた後に織田信雄に仕え、1584年(天正12年)美濃国加賀野井城で討死したそうです。

現在は鵜の森公園となり、遺構は鵜の森神社周辺にわずかに土塁跡が残っています。
冠木門、城址碑、説明板は鵜森神社鳥居を潜ると左側にあります。
城址碑の写真を撮り忘れているのを帰宅してからわかりました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=岸岡城を目指す為、電車で近鉄四日市駅から千代崎駅に向かいました。

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しんちゃん

今川氏の城で石垣を残す珍しい城。 (2024/06/29 訪問)

奥池ケ谷城は今川氏の城と考えられていますが、詳細ははっきりしません。14世紀に築かれたとする説もありますが、今川氏関連の城では珍しい石垣(石積)が残されていることから、戦国時代にも使用されていたと思われます。
静岡の城の中でもかなりの山奥にある城で、石上城から移動してきたのですが、天候が優れず、警報が出ていて県道が封鎖されていて、たどり着くのに難儀しました。山道でなく国道を使うべきだったのですが、時間の都合でショートカットしようとしたのですね。
県道でいい所まで来れるので、そこからの比高は90mほどです。
登り始めほどなくすると浅い堀切があり、石積を備えた東側の郭に到達します。そこから主郭を目指して西に向かって登っていくと幾段の郭や浅い堀切を経て主郭に到達しました(たしか)。
西側にも城域が広がり、破城の跡らしき痕跡と崩れた石積が有りました。なんとなく謎の多い城です。

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しんちゃん

ハイキングコース (2024/09/29 訪問)

曽根城は標高180m、比高180mの位置にある山城です。賀田湾に面した位置にあり、主郭の周辺の展望所からは湾を一望することが出来ます。案内板には、かつてこの地を治めた曽根弾正によって築かれたとされ弘治年間(1555~1558)近江国の佐々木字右衛門正吉は曽根に来て曽根弾正と号し、近郷八ヶ村を統治したとされています。
山上への道は比較的緩やかで、ハイキングコースになっているようです。山上の尾根に取りつくと東に城域が広がり、緩い堀切の先に橋のかかった深い外堀があります。その先には大きな石がゴロゴロしており、主郭を経由した先に北側から西に迂回するルートが有り、途中に展望台や鯨石があったと思います。

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しんちゃん

テスター持参が推奨(なんて城だ) (2024/09/28 訪問)

阪内城は阪内川の上流、標高300m比高140mの山頂に築かれています。北畠一門坂内氏の城とされ「坂内御所」と称していたとされ、城山の西麓に「御所」の地名が残り、幼稚園のある場所が平時の居館であったとされています。
この城は2回目なので「城びと」の投稿は読ますに来ています。ゲートの先に電気柵の様な物がありますね。いい感じはしませんが、ストックでツンツンしても電流は流れていない様子。とりあえずストックでひょいっと広げてくぐって入ります。北上して行くと右手に城域に入る道があるのでここから侵攻。入ってすぐの所に扁平地があり、さらに登って行くと南に見張の郭のような場所が有り、北に主郭への道が続きます。主郭の周辺は岩盤らしきものがむき出しになっていて、なんともいかつい。なんとなく加工痕のようなものも見られます。
この上が主郭。‥そうそう、いつも電流が切れている保証はないのでテスターを持ってくるといいですよ(笑)。

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ぴーかる

本證寺 (2024/09/23 訪問)

【本證寺】
<駐車場他>駐車場数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>本殿・堀
<感想>日帰り少し涼しくなったので伊勢湾ぐるり平山城行けるかな旅4城目。現地説明板によると本證寺は鎌倉時代後期の創建とされ、室町時代には岡崎市の上宮寺・勝鬘寺とともに三河三か寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派の有力寺院になっていました。1563年に松平家康の家臣が守護不入権を犯したことが発端となり三河一向一揆が起こりました。一揆は翌年に終結しお坊さん達は家康領から追放されます。1585年に本證寺は赦免され江戸時代に本證寺が再興されます。
 境内に残る多くの建造物が江戸時代の建立で境内が国史跡に指定されています。特に本堂の大きさと立派さは見応えがあり、本堂内の天女の欄間には見惚れます。当時は外堀と内堀があり位置は戦国時代のままだそうですが、形状は江戸時代に伽藍形式に合う幅広の形式に改変したようです。外堀は現在は埋めたてられています。
 戦国時代の城郭寺院としての遺構はあまり見られなかったが、江戸時代初期・中期に建立された建造物や水堀は史跡としての見応えがありました。本證寺城の御城印2種類が庫裏玄関にて販売されていますので購入しました。また安城市歴史博物館には本證寺の鬼瓦や出土品の展示物が多くあります。

<満足度>◆◆◇

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しんちゃん

鹿に遭遇。 (2024/09/28 訪問)

大河内城は阪内川に矢津川が合流する丘陵上に築かれています。「伊勢国司記略」には伊勢国の国司・北畠満雅が北朝方の足利軍との戦いに備え、弟の顕雅をこの城に籠らせて以降、その子孫は代々この城を拠点とし、大河内御所を称したとされます。
永禄12年(1569)に織田信長が侵攻して来た際に、伊勢国司北畠具教はこの城を拠点として立て籠り対峙し、信長の次男・信雄を養子に迎え家督を譲ることで和睦しました。
城址は比高40mほどの平山城で大手は北に付きますが、南の搦手から入ります。二の丸の背後を迂回し馬場を経由して直接本丸に取りつきました。ちょっと行儀が悪かったかもしれません。本丸の背後(西側)には堀切を隔てて西の丸が有ります。個人的には西の丸の方が雰囲気が有って好きです。途中で鹿に遭遇しましたが、速攻で逃げられました。う~ん、鹿肉が食べたくなってきたな‥。

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しんちゃん

石塁と隅櫓台 (2024/10/13 訪問)

金森宗貞邸は金龍寺の境内に築かれていたとされています。金森宗貞は茂住、和佐保銀山の開祖とされる人物です。元々は越前の商人で糸屋彦次郎宗貞といいましたが金森長近に抜擢され、その功績から「金森」の姓を賜ったとのことです。
屋敷跡の西側は高原川に面する断崖になっており、四方には高さ3mほどの石塁を配し、上に高塀をかけ隅部に櫓が建てられていたようです。
また国道41号の改修に際し、北東側の石塁に変更が加えられたとのことです。

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朝田 辰兵衛

赤い城さんへ~正解して安堵です…~ (2024/10/12 訪問)

赤い城さんの激ムズクイズに正解できて安堵しました…<笑>。とても良い問題だったと思います。
まだ確定はしていないですが,来年の計画に「鯉城」を組み入れようかな…?
そうそう,檜原城はすでに攻城済。浄福寺城は来月の予定に組み入れてます。雨男なので,晴れることを願ってます。

さて,豊島氏館ですが,王寺駅からアクセスされる方が多数なんですね。私は,赤い城さんと同様に,王子神谷駅からとしました。
というのも,竹芝港で予約と下見を済ませ,ホテルにチェックインしてからの移動です。宮城氏館とセットということを考えると,どちらかは日没後となりそうな予感がしました…。最近,めっきり早く日が落ちるようになってきたので…。
『豊島氏館は「寺」で,閉門しそう。宮城氏館は「神社」なので,終日開放だろう…』という予想から,豊島氏館を先回りするための判断です。神社仏閣城の多い東京都でカラダに染み付いた経験値です。
結局,この判断は見事にハマりました✌

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しんちゃん

三木氏の冬の城。かつては飛騨一国を手中に収めるも。 (2024/10/12 訪問)

桜洞城は三木大和守直頼か、その祖父である久頼による築城と伝わります。とある煩悩の登城目録さんの投稿にもある通り、冬の寒さを避けて住むための「冬城」とも呼ばれたそうです。
桜谷公園の駐車場から橋を渡って、右手(西)の石段を登った先の丘陵が城址なのですが、この石段、なかなか急です。初見では「ほんとにこの階段?」といったのが正直な感想です。
階段を登った平地一帯(畑地)が城址で、標柱のある林の中の堀切や石積は外側の守りだと思われます。
戦国時代、三木自綱(姉小路頼綱)はこの地域では最大の勢力を誇り、上杉謙信の死後は本格的に織田信長に従い、同盟を強めたとのことです。頼綱は長男・信綱や弟・鍋山顕綱に謀反の嫌疑をかけ殺害し、天正11年(1583)ごろには飛騨一国を手中に収めるほどに勢力を伸ばしましたが、織田信長の死後に起こった羽柴秀吉と柴田勝家・織田信孝との戦いでは柴田側の佐々成政に味方し、秀吉方の金森長近に攻撃を受けます。息子の秀綱は松倉城落城の際、落ち武者狩りに会い殺害され、頼綱は隠居城の高堂城を攻められ朝廷からの勧めもあり降伏したとのことです。

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しんちゃん

三木氏の山城 (2024/10/12 訪問)

宮地城は応永年間(1394~1427)に京極氏の代官・三木正頼の城であったと伝わり、戦国期にも三木氏が滅亡するまで三木氏の城であったようです。宮地神社の裏にある山の頂部に築かれ、尾根沿いに道が続いています。比高は130mほどですが、傾斜は緩やかで楽に登ることが出来ます。外堀に続いて郭があり、内堀を経て山頂部の主郭に到着します。
主郭には御嶽神社が祭られ、堀切と郭以外には目立った遺構は無いようです。

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カズサン

【美濃 太閤山砦】岐阜県羽島市 南美濃未踏の城探訪2/7太閤山砦 (2024/10/14 訪問)

 竹ヶ鼻城跡、羽島市歴史民俗資料館を終えて北西に約1.4km程の所に在る、秀吉の小牧長久手戦、竹ヶ鼻城水攻めの本陣跡/見張場と言われてる太閤山砦を訪ねる。

 住所:岐阜県羽島市福寿町間島2丁目91(城郭放浪記の指示ポイント)
 参考資料:城郭放浪記さん、グーグルマップに依る。
 駐車場:無し、道幅で通行量の少ないグーグルマップ太閤山砦跡史跡マークの前に一時路駐(35°20'03"N 136°41'37"E h=0m)

 グーグルマップの史跡マーク「太閤山砦跡」には案内板「間島太閤山跡」と石碑「史蹟 間島太閤山跡」が並んで立っている。
 そこより北に進み八幡神社の鳥居を潜り参道が北へ小山には一段上がって拝殿、更に一段上がって本殿と八幡神社が鎮座してる、参拝して周囲を見学確認、拝殿西側に黒御影石の石碑、表には間島太閤山と刻まれて裏面には史蹟の由来が刻まれる。

 歴史は案内板によると、天正12年(1584年)5月、秀吉の小牧長久手戦時、竹ヶ鼻城水攻めで本陣/見張場跡で幅は40m四方、高さ6m程あったが現在は取り壊され畑に成っている。
 太閤の一夜堤は確認して居ませんが、羽島市歴史民俗資料館HPの竹ヶ鼻城のページによると、太閤山砦(間島太閤山)から西へ半円を描いて、松山、本郷、各村を廻って南は江吉良で逆川堤に接続する、長さ約2.6kmの長堤、高さ6~7間(10.8~12.6m)、幅は14~15間(25.2~27m)で竹ヶ鼻城を囲んでいた。
 城主の不破源六は信雄、家康の救援使者を送るも援軍が現れず天正12年6月10日秀吉の申し出を受諾し無血開城と成り、城主不破源六は伊勢長島の信雄の城へ撤退した。

 丁度時期的には稲穂が黄金色に実り、稲刈りの時期でした。
 

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イタさん

伊予殿根(宅間上杉城館跡)横浜市港南区 (2024/10/17 訪問)

 横浜市港南区のHPに拠れば、山内・犬懸・扇谷・宅間の四上杉氏の中で、宅間上杉氏が永谷に根拠地をおくようになり、宅間氏の子孫である上杉乗国が永谷の地に城を築いたとされています。城がどこであったかは正確には分かりません。しかし、永野小学絞のあたりに伊予殿根(いよとのね)という地名が残り、乗国の子の憲方が伊予と呼ばれていたようで、伊予の殿様の屋敷か館があった所ではないかと言われています。
 永谷天満宮・貞昌院の辺りには環濠の跡があリ、背後の丘陵には人工的に削平したと思われる跡もありました。そのため、付近一帯は宅間上杉氏に関わる武将が築いた城跡ではないかと考えられています。戦国時代には宅間上林氏は小田原北条氏に仕え、北条氏が没落した後は徳川家康の旗本として保土ケ谷に移るようになりました・・・。と載っている。

永野小学校の向かいが高く上永谷緑地になっており、台地端らしく高低差は感じられる。緑地は広場になり、端に東屋が建つ。南端の先は急斜面で竹藪などになる。広場周囲は、竹藪など以外民家が迫っている。城館跡はここで合っているか心配なまま訪問終了。

直線で南東に300メートルの場所に永谷天満宮がある。ここは菅原道真公の自作の神像3体のうち、1体を祀る。上杉乗国が明応2年(1493)に社殿を造営し、御神体を安置したと載る。鳥居前に水路・池?があり、これが環濠の跡かな?。行かなかったが、社殿の右か山頂部へ行けそうで、注連縄は張ってあるが。斜面などは上杉城館跡より、よほど城跡らしく見える。社殿まえからは城館跡が眺められる。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城② (2024/10/12 訪問)

JR乗り放題なのに来た道を戻るのが嫌で近鉄線を利用してアプローチしました。咋岡神社がその故地になります。城址碑の向かいの標柱はフィルムがはがれかかっていて、咋岡神社の説明板の文字も半ば消えかかっていました。かすかな土塁と濠跡だという用水路が残りますが、山城国一揆の故地だと思うとありがたみがじわじわとわいてきました。

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赤い城

暗渠

朝田さん正解、広島城です。

城南通りの地下道に暗渠の跡が展示されています。
立ち止まる人は少ないですが・・・。

天守のある城は建物や石垣で満腹になりそうですが周囲を歩くと意外なところに遺構ありますよね。
なかなか全部は見切れないですが。

東京は来年とのこと、桧原城や浄福寺城は遺構も良好なので冬がおすすめです!

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