島原城の古い写真が残っていたのでもう一稿。島原城は松倉重政による築城ですが、禄高4万3千石で有りながら10万石の大名に相当する城を築いたために領民に負担が重くのしかかり、後の「島原の乱」の原因にもなりました。
重政は当初キリシタンを黙認していましたが、幕府に対策の甘さを指摘されると、苛烈な弾圧を行うようになりました。自らの領土的野心もあり、幕府にスペイン領であったフィリピンのルソン島攻略を進言し、現地を調査する許可を取ることに成功します。寛永7年(1630)出兵準備を行っている最中に重政が急死したため、侵攻計画は一時中断になります。少し意外でしたが、この時期には幕府もけっこうその気になっていたようです。
寛永14年(1637)重政の子・勝家の代にもフィリピン征服の計画が練られていましたが、同年に起きた「島原の乱」によりそれどころではなくなってしまいました。こうしてみると「島原の乱」は幕府(島原藩)とスペインの代理戦争的な役割りもあったのでしょうか?
結果的に得をしたのはフィリピンを無血で守ることができたスペインということになりますが。
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