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しんちゃん

栃木城址公園 (2024/09/14 訪問)

栃木城は慶長14年(1609)に皆川氏が改易になると同時に廃城になったようです。城として機能したのは、わずか19年という短い間でした。かつての栃木城は東西約149m、南北約131mの本丸の東に二の丸と三の丸が配され、南側に南丸、北側に屋敷があったと考えられています。平成20年に主郭の調査が行われ、堀底に畝の様な盛り上がりが見つかり、障子掘りであったことがわかりました。
現在は栃木城址公園として整備され、堀と土塁の様な築山が残っています。

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朝田 辰兵衛

いつも素通りしていたが,ようやく… (2024/11/03 訪問)

いつも素通りしていた勝沼氏館に,ようやく機会が訪れました。神奈川県の「奥●●城」へのバスダイヤ,午後のほうが計画しやすかったためです。午前中の穴埋め程度で訪れましたが,空堀や土塁に惚れ惚れしました。
3日目にしてようやく晴れました。この日も雨だったら,山梨県リニア見学センターに行こうかな…と。
久しぶりの山梨県の城です。

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カズサン

家康公騎馬像 (2024/11/24 訪問)

 松の大木が伐採され天守南面スッキリ!の続きです。

 岡崎城天守閣南面のスッキリした姿と名鉄東岡崎駅頭に建立されて家康公騎馬像を見学したいと、朝早く電車を乗り継いで東岡崎駅へ、東口に向かい家康公騎馬像の案内指示も有り2階屋根付きテラスを進むとテラス上広場に徳川家康公騎馬像がでんと建立されている。
 朝の陽ざしで正面の家康公騎馬像は影って暗く映る、後ろ正面は陽ざしがばっちりで奇麗に映る、四方を撮影、各角に四神像が随身しており、説明板によると三河武士団の持つ四の徳「忍」、「智」、「勇」、「慈」を具現化したと、「忍」・・忍耐[北西]、「智」・・知恵[南西]、「勇」・・勇気[北東]、「慈」・・人からの信頼[南東]、徳川家康公騎馬像は徳川家康と改姓した25歳当時の姿を現しているそうです。表側には徳川家康、裏には厭離穢土 欣求浄土と2行に刻み、書は先代徳川恒孝さんに依ります。
 「厭離穢土欣求浄土」は家康公が桶狭間の戦いで敗戦し菩提寺の大樹寺に逃げ込み墓前で自害を試みました時、13代住職登誉上人に諭されて自害を留まったと言われています。以後「厭離穢土欣求浄土」を御旗にして戦っていきました。最終的には徳川氏が江戸時代265年戦の無い時代を築いたわけです。(案内板より抜粋)
 建立は令和6年7月吉日、作者は日本芸術員会員・神戸峰男氏と記されていました。
 
 素晴らしい施設と家康公騎馬像が完成し新しい観光スポットが出来上がりました。
 東岡崎駅と乙川リバーサイドを繋ぐリバーサイドテラス、レストラン、商業施設に導きます、降りると乙川沿いに岡崎城へ続く道です。

 東岡崎駅頭から岡崎城登城散歩へ続く。
 

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カズサン

松の大木が伐採され天守南面スッキリ! (2024/11/24 訪問)

 初登城以来五十数年、登城の度に天守閣南面の松の大木が邪魔で天守閣のスッキリした写真が撮れない、伐採してほしいと思っておりましたが、NHKの大河ドラマ「どうする家康」効果なのか天守閣のリニューアルと令和5年度の石垣損傷樹木の伐採事業に入れられて令和5年度末には伐採されたようです。
 皆さんの城びと投稿を見ていると登城日2023年2月は大木が有り、2023年4月には大木が無く、天守閣南面のスッキリした写真投稿が続いております。

 五十数年来願って居た松の大木が伐採されて、岡崎城天守閣南面のスッキリした写真を撮りたい眺めたいとの願いが50数年ぶりに叶いました。遅ればせながら天気の良い11月勤労感謝の日の翌日、何時もは車で登城するのですが東岡崎駅頭に家康公の騎馬像もNHKの大河ドラマ「どうする家康」に合わせて建立された様で合わせて是非見たいと電車を乗り継いで出掛けました。
 登城は11月でしたので菅生曲輪近くの菅生神社、本丸にある龍城神社は七五三参りで着飾ったお子さんと親御さんで賑わっていました。
 
 リニューアルした天守閣にも登り、清海堀は堀底に降りての探検が年1回の割で実施されていましたが以前探検しましたので今回はパス、一昨年の2022年11月6日以来振りの登城でした。
 
 今回はスッキリした天守閣の見学観察撮影が主目的、願いが叶い充分堪能しました、気長に待つものですね。
 
 家康公騎馬に続く。
 

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todo94

PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城④ (2024/11/24 訪問)

ちょっと距離はありましたが、行方氏館から徒歩にてアプローチしました。池上氏館跡の本行寺に赴く前に池上本門寺に立ち寄っていきました。2003年5月以来、実に21年ぶりの再訪です。ちょうど開館時刻の10時になったので、霊寶殿も見学してきました。本門寺宝塔、狩野家墓所を経て日蓮上人入滅の地という本行寺にたどり着きました。

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赤い城

堂山城 香川県高松市 (2024/12/01 訪問)

北岡城の後は堂山城へ。
城びと未登録城です。
登城口はいくつかありますがいずれもハイキングコースとなっていて歩きやすいです。
この日は南側から攻城、途中ハイカーさんともすれ違い。
私よりも歳上の方が多かったのですが交わす挨拶で清々しい気分になります。

途中◯合目の案内もあるのでゴールへのモチベーションも維持できます。
まずは南側のピークへ。
ここには龍王宮が祀られ、展望台になっています。

南嶺からさらに進み堂山302へ、まだ城跡ではありません。
さらに先の堂山304が主郭部、手前の尾根道には浅くなった堀切も見られます。
主郭にも祠が鎮座し、別名の福家城の看板がありました。
まずはここで一休み、朝の空気を吸い込んだら主郭下の帯曲輪へ。
久しぶりの藪漕ぎでしたがこの時季なのでストレス無く進めます。
浅いですが横堀も良好に残っていました。
藪から出たところでハイカーさんに出会いちょっとびっくりされました。
そりゃそうですね。

帰りは南嶺の手前まで戻り、綱敷天満宮のそばの登城口へ下りるコースを取りました。
お昼前のこの時間、さらに多くのハイカーさんとすれ違い。
気持ちいいハイキング、、いや登城でした。


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にのまる

信玄棒道ウォーキング (2024/10/13 訪問)

「JR全線秋の乗り放題パス」で3日続けて小海線に乗りに通いました。

初日にチャレンジしたのが信玄棒道ウォーキングです。信玄棒道とは武田信玄が北信濃攻略のための最短の道として開発した軍用道路で、数年前に平山優先生の講演会で市街地の道路に見られる棒道の痕跡について拝聴し、興味を持っていました。

とはいえ自力で辿るのは無理だろうと諦めていたのですが、昨春、谷戸城を訪れた際に長坂駅に信玄棒道ウォーキングマップがあるのを見つけました。
読んでみると、江戸時代に30基の観音像が安置されたことで棒道の一部(上の棒道)が残り、現在はハイキングコースとして整備されているとのこと。これはぜひ歩いてみたいとマップを持ち帰り大事に保管していました。

そして一年半後、ついに決行の日がやってきました。(後押ししてくれたのはもちろん乗り放題パスです。)
中央線を西へ西へと進み、小淵沢で小海線に乗り換えてひと駅の甲斐小泉で下車。
最初に名水百選の三分一湧水へ行き、あとはマップを見ながらひたすらゴールを目指して8.5km歩きます。

途中で大きな鹿3頭に遭遇し心臓バクバクしたりもありましたが無事ゴールイン。
舗装されていない山道では信濃攻略の気分を味わえましたし、棒道を歩いているということ自体がとてもうれしい時間でした。

道の駅こぶちざわに寄ったあと、時刻表を確認して小海線のビューポイントとして紹介されているところまで行ってみました。キハ110がよく似合う風景でした。
思い出に残る楽しい一日が過ごせました。

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宗春

新城七名城デジタルスタンプラリーに参加しました ③野田城 (2024/12/07 訪問)

2024年11月から2025年1月まで愛知県新城市で実施の『新城七名城デジタルスタンプラリー』に参加してきました。3城目は野田城。

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しんちゃん

種足城址公園 (2024/05/05 訪問)

種垂城は現状・種足城址公園となっていますが遺構は無いです。(案内板によれば)一説には菖蒲城の支城であったとされ、騎西城主小田顕家は忍城主・成田親泰の子・助三郎を養子に迎え上種百石に隠居したそうです。ここが顕家公の隠居城であったということですか。

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しんちゃん

沼津御用邸記念公園 (2022/01/09 訪問)

沼津御用邸は皇太子時代の大正天皇から幼少期の昭和天皇まで明治から昭和にかけて使用され、戦後の昭和44年に沼津御用邸記念公園として一般に公開されました。残念ながら本邸は太平洋戦争で全焼してしまいますが、西附属邸・馬舎・東附属邸が残り、本邸の跡には歴史民俗資料館が建てられています。入館料(410円)を払えば西附属邸と馬舎・歴史民俗資料館を見学することができます。

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しんちゃん

姫路城・大天守・姥ヶ石 (2024/04/20 訪問)

姫路城の続きです。ぼちぼち出させていただきます。菱の門を通過した後は「い・ろ・は・に」の門を通って「ほの門」をくぐれば天守はすぐそこです。石垣の間に「石臼」が挟まっており「姥ヶ石」の通称で知られています。
羽柴秀吉が姫路城を築くときに石集めに苦労しており、城下で餅を焼いて売っていた貧しいおばあさんが使っていた石臼を寄付したそうです。この行為が評判となり、国中からたくさんの石が寄付され、築城が急速に進み、立派に完成したとのことです。

・・サクラじゃないですかね? とはいえ、石垣自体は池田輝政が築いたものなので、あくまで伝説とのことです。
「水三門」「水六門」を通ってようやく大天守に入れました。

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ぴーかる

木造城 (2024/11/23 訪問)

【木造城】
<駐車場他>駐車場はなし。車はあまり通らないので土塁横に停車
<交通手段>車

<感想>日帰り伊勢山城攻め旅3城目。現地説明板によると木造城は1366年北畠顕能の3男顕俊が築城しました。顕俊は木造氏とあらためこの辺り一帯を支配しました。1528年7代城主の木造俊茂が古城の北300mのこの地に新たに城を築き、後1584年に城を明け渡すまで使われました。とあります。
 現地には小さくなった土塁がポツンと1つ残されており、その上に城跡碑と説明板があります。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

もみじまつり前日-8/8 紅葉編 (2024/11/15 訪問)

 もみじまつり前日-7/8 石垣長塁と諸門の2/2編の続きです。
 
 津山城を3の丸、2の丸、本丸と廻り、備中櫓登閣、天守曲輪、天守台、粟積櫓台に足を運び、裏中門跡周辺には踏み込みませんでしたが、紅葉を都度都度の個所で眺め、特に天守台、大戸櫓台からの裏中門のもみじ谷の楓の紅葉を上空より眺める素晴らしさを体験しました、桜満開に無い体験でした。
 晴天で青空での紅葉が最高でしょうがたまにしか訪ねられない定めでしょう、石垣と紅葉を小雨の中楽しみました。

 この後は津山ICより中国道新名神湾岸道新東名と高速を利用して約450km程を途中PAで食事をし、湾岸で渋滞も有りましたが約5時間半で帰宅しました。高速で便利になりました。
 
 長々と9編に渡りご覧頂きありがとうございます。
   

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カズサン

もみじまつり前日-7/8 石垣長塁と諸門の2/2編 (2024/11/15 訪問)

 もみじまつり前日-6/8 石垣長塁と諸門の1/2編の続きです。

 3の丸表中門枡形を登りきると四足門跡で2の丸へ2の丸西エリアはもみじまつりの飾りつけ、楓のもみじ散策路、備中櫓の真下です、写真を沢山撮って、東方向へ切手門辺りの石垣群が構えてる、本丸長局石垣長塁が目を引く、切りて門枡形より備中櫓東面を見るビューポイントに当たる、本丸東側の石垣長塁の南端の14番門跡、包(鼓)櫓台が目に留まる、切りて門枡形を西に折れると本丸大手の表鉄門跡、登ると本丸、東側の雁木を備えた石垣長塁が目を引く、北に粟積櫓台、西に本丸曲輪、天守台、南出っ張りに復元備中櫓と目を引き付けるものばかりです。
 今回搦手の裏中門辺りには足を踏み込みませんでしたが、裏中門辺りの楓もみじ谷は天守台、粟積櫓台より上空の紅葉を楽しみました。

 もみじまつり前日-8/8 紅葉編に続く。
  

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カズサン

もみじまつり前日-6/8 石垣長塁と諸門の1/2編 (2024/11/15 訪問)

 もみじまつり前日-5/8 大戸櫓台と粟積櫓台編の続きです。

 津山城登城当日はどんよりと曇り時々小雨の悪天候、11月16日~24日開催されるも「みじまつり」の前日でした、屋台のテント、イベントのステージが整い、表門ではもみじまつりの大看板、ポスターが設置されて表門を飾る大生け花の準備作業でボランティアの方々が動き回って居ました。

 津山城は悪天候でも一二三段の石垣、諸門の石垣を眺めていると長年の城好きとしてはうっとりする時間です、よくこれだけの立体輪郭式(東側は宮川への崖)の城郭を造り切ったものだ只々感嘆する、何時訪ねても楽しい時間を過ごせます。

 この編の投稿ルートは、観光駐車場から登城階段を登って、まず3の丸の石垣長塁にぶち当たり城塁に驚愕、冠木門の表門枡形、冠木門で入城料310円を払い、表門枡形西折れ石階段を登ると、3の丸表中門跡へ、イベントの森家の家紋幕がデコレーションされてる、3の丸東の鶴山館エリアで一二三段の石垣と備中櫓を眺めるビューポイントへ、桜の葉は散り寂しい限りですが石垣だけは良く観える、素晴らしい景観スポットです、表中門跡に入り枡形内を観察、2の丸東エリアへの石段、石垣群の素晴しさ、表中門枡形西折れ石階段を登ると四足門跡2の丸エリアに入ります、その前辺りから備中櫓が目に飛び込んできます。

 もみじまつり前日-7/8 石垣長塁と諸門の2/2編に続く。
  

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todo94

PIKUMIN BLOOM JOURNEY TOKYO DOME CITY2024参戦翌日の攻城③ (2024/11/24 訪問)

八幡塚砦からの転戦です。京急蒲田駅から徒歩にてアプローチしました。圓頓寺の門が閉まっていて、正面からの写真撮影のみで撤収しようかと思っていたところ、墓参り客が横の通用門から境内に入っていくではありませんか。そそくさと私も中に入らせていただき、おかげさまで、行方弾正直清の墓を拝むことができました。

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赤い城

みかん畑 (2024/12/01 訪問)

網敷天満神社の駐車場を利用しました。
ここ、地元では人気の堂山ハイキングの駐車場にもなっているのでタイミングによっては満車になっちゃいます。
南に向けて少し歩くと左手にメガソーラーがあり、そちらに下っていくと城址に着きます。

城址の大部分はみかん畑になっていて美味しそうな実がついていました。
主郭には石碑と説明板が立っています。
主郭下には帯曲輪もついています。

菅原道真に仕えた秦久利の城で近くには道真ゆかりの神社などが点在しているようです。

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宗春

新城七名城デジタルスタンプラリーに参加しました ②亀山城 (2024/12/07 訪問)

2024年11月から2025年1月まで愛知県新城市で実施の『新城七名城デジタルスタンプラリー』に参加してきました。

2城目は亀山城。

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小城小次郎

とんでもなくでっかいお城だった (2024/03/03 訪問)

普通に紹介される石段と石垣だけが遺構だと信じて行ったら水堀はあるしでっかい土塁もあるし、しっかりした遺構を残す巨大なお城だった。江戸時代のはじめに廃城となっていたとは思えない。機会あればぜひご一見あれ。

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歴史文化施設・あまわりパーク (2024/11/24 訪問)

■はじめに

 こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
 山梨県甲府市で躑躅ヶ崎館跡こと史跡・武田氏館跡でボランティアガイドを行っていて、ふだんは躑躅ヶ崎館に関する情報を投稿しています。
 今回は番外編として、Eがただいま在住している沖縄のグスク、勝連グスクに関する情報として、グスクに隣接するおすすめの歴史文化施設、「あまわりパーク」を紹介します。
 
 ※おことわり
  この投稿は2024年11月時点の状況に基づき執筆しています。
  また、文中の記述はEこと上田絵馬之助個人の見解であり、躑躅ヶ崎歴史案内隊の見解ではありません。
  あと、長いです。
  まとまった時間のある時に、腰を据えて読んでください。


■「あまわり」って何だ?

 そもそも「あまわり」とは何でしょうか。
 平仮名ではあまわり、あまおへと称されることもあり、漢字では「阿麻和利」と書かれるこの名は、天から降りてきた者《天降り(あまおり)》が転じたと言われます。
 そして、この名で呼ばれた人物こそ、勝連グスクの10代目にして最後の主、「護佐丸・阿麻和利の乱」当事者として古琉球史屈指の知名度の反逆者、あるいは英雄と評される、勝連按司(あじ・地方豪族)阿麻和利です。

 生年は不詳です。
 没年の1458年は室町時代、足利義政の治世に当たります。
 応仁の乱が勃発する1467年の少し前です。

 琉球では北山・中山・南山に分かれて争った三国時代とも言える《三山時代》が、1429年に中山の尚巴志(しょうはし)によって統一され、首里城を王府とする第一尚氏王朝が誕生してから30年ほど過ぎて、巴志の五男・泰久(たいきゅう)が第6代琉球国王として支配を強化していた頃で、一方では、後に尚円王として第二尚氏王朝を打ち立てる金丸(かなまる)が王府に仕えて頭角を現していた頃です。

 阿麻和利の前半生については、伝承によってさまざまな姿が伝えられています。
 幼名は「加那(かなー)」。農民の生まれとも、他所の按司の子とも言われます。
 北谷間切(ちゃたんまぎり・現在の北谷町・嘉手納町)の出身と言われますが勝連に移り住み、当時の勝連按司・茂知附(もちづき)を追放して、一代で勝連グスクを手中に収めたと言われています。
 このあたり、茂知附が悪政をふるう按司だったとも、追放でなく殺害したとも様々に語られますが、これに替わって按司を継いだ阿麻和利は、
 土地が狭く耕地に向かなかった勝連で漁業を振興させ、また、海外交易によってその経済を発展に導き、強い勢力を有するようになったと伝えられます。
 

■護佐丸・阿麻和利の乱~反逆者から英雄へ

 勢力を拡大する阿麻和利に、首里王府は尚泰久の娘・百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせ姻戚関係を結ぶ一方で、勝連への抑えとして、かつて三山統一に活躍した名将・護佐丸(ごさまる・娘は尚泰久の妃で百度踏揚の祖父)に中城グスクを守らせます。
 勝連と中城の地は中城湾をはさんで互いに目にできる位置にあり、祖父と孫婿にあたる二人が対峙する形となります。

 王府が編纂した琉球の歴史書「中山世鑑」などによると、やがて阿麻和利は王に替わる野心を抱き、1458年、中城グスクの護佐丸に謀反の濡れ衣を着せ、自ら軍を率いてこれを滅ぼします。

 その後いよいよ首里へ攻め入ろうとしていたところ、妻・百度踏揚が勝連グスクを脱出して彼の野望を王府に知らせたことによりその討伐を受け、護佐丸と同じ1458年のうちに、大城賢雄(うふぐしくけんゆう・後に百度踏揚の夫)に討たれたとされています。

 阿麻和利は王府によって反逆者と記録され、後年18世紀に生まれた琉球芸能「組踊」の演目「二童敵討」で、護佐丸の遺児に討たれる按司・あまおへ役として描かれたことも相まって、「護佐丸・阿麻和利の乱」で反逆を企て、無実の護佐丸を死に追いやったヒールとして定着し、現代まで長く伝えられてきました。

 ところが一方で、16世紀から17世紀にかけて王府が官民の詩歌を収集・編纂した沖縄版万葉集とでもいうべき「おもろさうし(そうし)」には、当時の勝連の繁栄ぶりを伝えた歌や、阿麻和利を「肝高(きむたか・志高い。勝連の美称でもある)の」と称し、勝連に富をもたらした英雄として讃えた歌が収録されています。

 また、近代の琉球史研究において、「中山世鑑」などの歴史書を王府に都合よく書かれたものとして、王府が琉球支配を確立するため、有力按司だった護佐丸と阿麻和利を処断し、反乱として記録したのでは?と、おもろさうしの精査とともに阿麻和利を再評価し、反逆者の汚名を払拭する動きもみられます。

 果たして阿麻和利は反逆者だったのか、英雄だったのか。
 いずれにしても、古琉球史において阿麻和利の名は、尚氏王朝が琉球支配を確立した時代を彩った存在として、今日まで伝えられています。
 

■あまわりパーク①~勝連と阿麻和利を知る

 「あまわりパーク」は勝連グスクと県道を隔てた反対側に位置する歴史文化施設です。
 様々な展示によって、勝連グスクそして阿麻和利を知ることができます。

 常設展示室に入ると、順路の廊下に勝連の繁栄と阿麻和利を讃える「おもろさうし」の収録歌がプロジェクターで映写されてます。

 廊下を抜けると、広い展示室にパネルやグスクのジオラマ、展示台が並んでいます。
 パネル展示では阿麻和利という人物を解説し、あるいはグスクの時代から現代までの勝連を紹介するほか、グスクを再現した巨大ジオラマや当時の交易船の模型が飾られ、展示台のケースの中にはグスクの出土品が数多く陳列され、阿麻和利とその時代を中心に勝連グスクの姿を伝えてくれます。

 展示される出土品は実物が並び、陶磁器、武具のほか、古代ローマ・アラビアのコインが目をひきます。
 当時の琉球は日本、朝鮮、中国、東南アジアと交流があり、これらは交易によって海外から勝連にもたらされ、
 勝連の繁栄の裏付けと考えることができます。

 また、甲冑ガイドとして特筆したい武具については、刀や矢の部品のほか、ブロック状に固まった胴鎧の一部と思われる破片が展示されています。

 現在沖縄には完全体で残る甲冑は一領もありませんが、発掘調査で断片的に出土するのは、すべて日本式の鎧兜の部品である小札(こざね)、八双(はっそう)金物、立物(たてもの)などであり、王家の宝刀として現代まで伝わる千代金丸(那覇市歴史博物館所蔵)などの日本刀とあわせて、阿麻和利や護佐丸たち古琉球の武将は、日本式の甲冑に身を固めて戦っていた可能性が高いと考えられています。

 なお、展示パネルでは、阿麻和利は陣羽織に前立のついた頭巾姿で描かれていますが、
 これは組踊の舞台衣装であり、歌舞伎の石川五右衛門のように戯画化された格好であることを補足します。


■あまわりパーク②~アニメとパフォーマンスを見る

 あまわりパークの見どころは資料展示ばかりでありません。
 展示室中央には大型スクリーンとステージ、客席で構成されるライブシアターがあり、勝連グスクと阿麻和利を紹介する様々な作品が上映、上演されます。

 大型ビジョンに上映される映像作品には阿麻和利や勝連グスクを解説した映像のほか、うるま市が制作したアニメーション「勝連おもろそうし」が公開されています。

 「阿麻和利編」「百度踏揚編」の2作品がありますが、阿麻和利を演じるのは星飛雄馬やアムロ・レイを演じたレジェンド声優、古谷徹さん。
 そして、沖縄県出身の声優でアニメ作品で活躍する下地紫野さん、「機動警察パトレイバー」などのベテラン声優・池水通洋さんほかが出演されてます。
 この作品はうるま市のYouTubeで公開されているので、あまわりパークを訪れる前や訪れた後にも楽しむことができます。

 そして、あまわりパークの目玉と言っても過言ではないのが、ライブパフォーマンス。
 地元うるま市の中高生が20年以上も代々演じている、琉球版ミュージカルともいうべき現代版組踊「肝高の阿麻和利」。
 そのスピンアウト作品が、土日祝の休日に上演されています。

 沖縄の古典芸能"組踊"にエイサーやダンスなどを取り入れた「現代版組踊」。
 「肝高の阿麻和利」本編にも出演する演者さんたちが、ダイナミックな演舞と映像・照明の視覚効果を取り混ぜてのパフォーマンスで、阿麻和利の半生をめぐる時間の旅にいざない、阿麻和利やその時代をより身近に感じることができ、そして、それを創っている地域の人たちの熱さを知ることができます。


■むすびに

 最後にむすびとしてひとつ。

 勝連グスクを訪ねる際には、まずあまわりパークの展示によって、阿麻和利の生涯を知ってからグスクへ行くことをおすすめします。

 小高い丘にそびえ立つ、グスクの曲輪の高みに登って、
 勝連半島から沖縄本島、そして東海岸の海を見渡したとき、
 阿麻和利が見た風景としてこれらを見ることができるからです。

 護佐丸の居城・中城とにらみあい、
 遥かな首里王府に思いを馳せ、
 中城湾からはアジアそして世界へ続く
 海の道を望むことができて、

 阿麻和利は、果たして反逆者なのか、英雄なのか……
 自分なりの答えを探す楽しさを体験することができます。

 以上、あまわりパーク、そして阿麻和利を紹介しました。
 長文におつきあいいただきありがとうございました。


□あまわりパーク要目
 (2024年11月現在・公式サイトから)

 正式名称 あまわりパーク歴史文化施設
 開館時間 午前9時~午後6時
      ※入館は閉館30分前
 休 館 日 年中無休
      ※点検等による臨時休館あり
 料  金 大人(高校生以上)
      個人600円 団体480円
      小人(中学生以下)
      個人400円 団体320円
      ※団体は20人以上
      ※勝連城跡・常設展含む
      ※6歳未満無料
      ※うるま市内の小中学生全額免除
 公式サイト https://www.katsuren-jo.jp/
      ※勝連城跡公式サイト内に掲載

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