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織田晃司

白米+まったけ+調味料=松茸ご飯 (2023/09/17 訪問)

白米をまったけとは普通読みません。
だから城にある幟は平田城となってます。

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織田晃司

廃城感 廃城感 昇竜拳 (2023/09/17 訪問)

ダートな車道を登り、さらに徒歩でつづら折れの山道を登ると廃城たっぷりの一ツ戸城に到着。

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にのまる

姫路城十景めぐり⑦ (2023/09/19 訪問)

【景福寺公園】
男山配水池公園から景福寺公園までは1㎞足らず。
姫路城の市橋門からだと徒歩3分ほどです。

眼鏡市場の駐車場脇の登り口から坂道を登りはじめると、すぐ左手に展望広場への階段がありました。
しかし、なかなかの草叢ぶり。
見なかったことにしてしてそのまま坂道を登ってみました。
登りきったところは「お花見広場」のようです。
しかし、ここも時期的に仕方がないのですが、生命力の強そうな自然の草々が跋扈しています。
突っ切れば展望広場とつながっていそうではありましたが、一歩も踏み込めずに引き下がりました。

まぁ、こういうこともあるよなぁ……と帰りかけたのですが、せっかくなので気合を入れなおして最初にスルーした展望広場への階段を駆け上がってみました。
意外とあっさり行けて、着いた広場には西の丸が展望できるベンチも説明板もありました。
樹木の陰に隠れてお城の全貌を眺めることはできず、木々の隙間からのぞき見る感じでしたが、秋~春にかけては西側からの穴場的ビュースポットとなりそうです。

景福寺公園は平成6年3月31日に都市公園として一部供用を開始したと説明板にありました。姫路城の世界遺産登録が平成5年12月なので、周辺環境整備の一環として公園化し「十景」にも登録されたようです。

全景を拝むことはできませんでしたが、今の季節はこれが精一杯だと思います。
いい季節に姫路に行くことが出来たら再訪したいです。

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朝田 辰兵衛

「福島県のお城」ではありません。 (2023/07/11 訪問)

高良山神籠石から路線バスで西鉄久留米に戻ったら,八女営業所行きのバスが停まっていました。まさに発車寸前でしたので,飛び乗りました。降車バス停は,柳病院前。片道【510円】でした。ここから,約1.2km離れていますが,鉄道利用よりも断然近いです。
城址碑は石段ワキにひっそりとたたずんでいます。見落とし注意です。
この後,越後に帰還しました。ホントは基肄城の水門を見たかったんですが…次回に持ち越しです。

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にのまる

姫路城十景めぐり⑥ (2023/09/19 訪問)

【男山配水池公園(山頂)】
シロトピア記念公園から西へ向かって歩くと北勢隠門跡、清水門へ至ります。
かつては繋がっていた二つの門。北勢隠門では姫山公園への出入口として活用されている様子を、清水門では外枡形石垣の内側に復元された鷲の清水を見ることができました。

ここから道路を渡って住宅街の静かな小径へと入り、しばらく行ったところに男山配水池公園の案内板を見つけました。目的地に到着です。
と思ったら、案内板の奥に長い石段が待ちかまえていました。
絶景を拝めるのはこの石段の上から。甘くはないです。

姫路城を背にして(右後方)石段をのぼります。途中、何度か振り向きたい衝動に駆られましたがぐっと我慢。見るのは足元だけ。
そして数分後(意外と早い)、山頂に到着しました。

……呼吸を整えて、いっせーのせっ!

こ、これは(。◕ˇдˇ◕。)

振り向いた視線の先に屹立する白い魔物。
天空に向かって聳え立つ巨大な天守はまるで山城の化身のようです。

山頂のベンチで、朝からの猛烈な暑さのためにすっかりぬるまったペットボトルのお水をちびちびと飲みながらこの景色を心ゆくまで堪能しました。
姫路城の記事などで時折見かけていたすてきな写真。
どこから撮ったものなのかわからなかったけれど、きっとここからだったんだな。
全身に纏った至高の美が発する神秘性と表裏一体の排他性に城の神髄を見た気がしました。

とは言えこの姿、空からの攻撃には丸腰です。
築城時には想定されなかった災禍をくぐりぬけ今あることは決して奇跡や偶然ではなく、この城を守りたいと願う人たちが心と力を尽くされた賜物であることを心に留めておきたいと思いました。

山頂の広場には色鮮やかな千日紅が咲き誇っていました。5枚目の写真はスマホの壁紙にしています。

石段を下る途中、中腹の男山八幡宮と千姫天満宮に寄りました。
男山八幡宮の石鳥居は越後村上から国替えになった姫路城主榊原政邦寄進、千姫天満宮は全国唯一の千姫様の神社だそうです。
このあたりによく来るという兵庫県在住の姉にLINEすると「途中に牛おったやろ(笑)」と返信が来たので、そういやおったわーと思いだしたのが千姫天満宮の撫で牛でした。

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しんしんちゃん

地元の人に良く整備されている。看板の位置が変わった。 (2023/09/30 訪問)

久野城は明応年間(1492~1501)久野宗隆によって築かれたとされています。家康が
関東に移封されると久野氏も関東に移りますが、正保元年(1644)に廃城になるまで
城主がいた城です。久野城は地元の方々によって良く整備がされていて、北の堀の跡に
駐車場があり、そこから北の郭を見ながら登城していきます。本丸を中心に周囲に数段に
わたって郭が配されています。北の郭を確認した後は、三の丸、二の丸を経て主郭に
至ります。そのあとは南西の虎口から再び二の丸に下り井戸跡を確認します。
南に移動し、高見から周囲を見渡すと、かつての水堀があった場所に貯水池が
あるようです。その後は下段に降り、南の郭を経て西側の遺構、東側の遺構を確認して
大手から脱出します。大手から本丸を見ると久野城址の看板が本丸から下段あたりに
下げられているようです。

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しんしんちゃん

浄土寺 広島県尾道市東久保町 (2020/01/05 訪問)

浄土寺は推古天皇の時代616年に聖徳太子が創建したと伝わります。足利尊氏が
建武3年(1336)九州に落ち延びる際に祈祷を行い、九州で再起した後、再度参詣し
一万巻の観音経を読経し和歌を詠じて戦勝祈願をしています。本堂と多宝塔が
国宝に指定されていて、山門や阿弥陀堂・方丈など多数の建築物が重要文化財に
指定されています。境内全体が国宝に指定されており、国宝の寺とも呼ばれています。

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しんしんちゃん

夕食(ゆうげ)前 皆で水汲み 釣井の段 (2020/01/05 訪問)

新高山城は小早川氏代々の居城である高山城の沼田川をはさんだ対岸に築かれています。
沼田小早川氏を継いだ隆景によって天文21年(1552)に改修されたとあります。
標高197.6mの山頂部に本丸を頂き北側一帯と西側の尾根上に郭が展開します。
南には匡真寺跡と呼ばれる郭があり、さらにその南の頂上部に鐘の段と呼ばれる
郭が存在します。匡真寺跡の南東に続く登城道はいくつかの番所跡が付随し土塁を
備えます。本丸の北側に半壊する釣井の段の周辺には石垣が良く残り石積みの井戸が
六つも残っています。城主の隆景のほかに多くの家臣団がいたらしいのですが、夕飯前
の井戸汲みの渋滞解消にも一役買ったようです。

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しんしんちゃん

小早川隆景の築いた海城 (2020/01/05 訪問)

三原城は天文21年(1552)小早川隆景によって因島村上氏ら瀬戸内の勢力を統制する
ために築かれたとされ、天正10年の羽柴秀吉との講和後、さらに強化されたようです。
関ヶ原の合戦後は福島氏の支配下になり、福島氏の失脚後浅野氏の筆頭家老、浅野忠吉が
入り明治まで続いています。城域は市街地化が進み天守台の一部が残っているのですが
本丸南東の船入櫓跡の周辺には石垣が残っているようです。今回は調査が不足していて
実訪問ですが、いずれ訪問してみたいとおもいます。

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トク

70【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (島津四兄弟生誕の地:伊作城①) (2023/09/24 訪問)

(24人目)は「島津義弘」です。
これから義弘ゆかりの諸城を巡り、関ケ原での島津の退き口とその後の人生までたどってみようと思います。

まずは義弘が生まれた「伊作城」を訪れてきました。鹿児島中央駅から加世田行のバスに乗り60分、吹上町の「ふもと」で下車します(写真①②③)。そこから徒歩15分程登ると本曲輪(亀丸城)です。いきなり本曲輪入口の空堀がとても高かったのにはビックリしてしまいました(入口写真④本曲輪写真⑤⑥⑦)。

ここは、伊作島津氏である祖父の島津忠良の居城で、忠良は鎌倉時代以来分裂していた島津家を統一した島津の祖(日新公)と呼ばれています。その教えもありました(写真⑧⑩)。その教えは子の貴久に引継がれ、貴久は薩摩大隅日向の三州を統一します。義弘は貴久の次男として1535年にここで生まれ貴久が伊集院へ移るまでの2年間(2才まで)をここで過ごしたと言われています。島津四兄弟(義久・義弘・歳久・家久)は皆ここで生まれ、四兄弟生誕の碑もありました(写真⑨)。よって江戸時代には、ここは島津の聖地と呼ばれていたようです。義弘はここでいったいどんな赤ん坊だったのでしょうかね?😊

次は(伊作城②)空堀を探検してきます。
 

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じゅんじん

新城城 (2018/10/06 訪問)

小学校になっています。陣屋跡でもあります。

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じゅんじん

本拠地 (2023/09/17 訪問)

静岡市民の本拠地。今川館になります。今回はライトアップ。

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じゅんじん

田中城 (2023/09/17 訪問)

家康さん鷹狩の地。鯛の天ぷらおいしいよってこの辺り天ぷら屋さんないじゃん!
土塁が残されています。

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小城小次郎

あの里見氏がいたのだそうだ (2023/02/11 訪問)

14世紀頃この地を領していたのはあの里見氏だったらしい。そして結城合戦で当主を討たれた後に安房に逃れた一族があの安房里見家になったとか。常陸でよく見る、集落全体を囲むような大きなお城だったようだ。

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シェル

空堀と土塁がたまらん!! (2023/09/03 訪問)

今回は車で登城
宇都宮から車で国道4号を北上し、上阿久津南の交差点から旧国道4号を道なりに進み到着。公園東側に駐車場、トイレがあります。 
鉄道を使う場合は、JR東北本線 氏家駅から、徒歩30分くらいです。
駐車場から坂を登り、少し行くと、早速二の丸北側の空堀が残っています。
そこから南に歩くと、最大の見どころである整備された本丸の空堀と土塁が!!
本当に素晴らしい土塁と空堀で、見応えたっぷりです!!
大手口から本丸へ 大手口には木橋も復元されています。
本丸を西に進み、本丸搦手を出ると、鬼怒川を眺めることができます!!
本丸搦手側からは空堀の堀底を周回し、二の丸南郭と二の丸東郭の間の辺りへ。こちらにも土塁が残存していました!!

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しんしんちゃん

古宮城のオマケじゃないよ・二の丸はキンモクセイの香り (2023/10/01 訪問)

亀山城は奥平氏の城です。奥平氏は武田信玄に従っていましたが、古宮城は武田氏が
奥平氏を監視するために築いたという説もあります。古宮城が有名になったので
亀山城は古宮城のついでみたいなイメージもあるかもしれませんが、本丸を中心に
周辺、特に南西側に多くの郭や腰郭を有しているなかなか規模の大きい城です。本丸の
周囲には土塁を良く残し周辺の郭にも土塁が一部残っています。本丸と二の丸の間は
北に竪堀が続き、本丸の南は大手が堀を兼ねた通路に繋がり、西側の虎口から本丸に
入ることが出来ます。またこの大手は二の丸にも続いているようです。実際に登城する
際には近くの道の駅に駐車し西側の登城道から直接登ることになります。
長篠城を守りぬいた奥平信昌は家康の長女亀姫を妻にもらい新城城に移ったそうです。
信昌の四男忠明は松平を名乗ることを許され上野国長根7000石→作手亀山17000石
→伊勢亀山5万石(中略)と栄転し寛永16年(1639)には播磨姫路18万石を預かる
までになりました。この地方で江戸時代初期まで城主が存在した城は珍しいそうです。
二の丸にはキンモクセイの木が植わっていて周囲に甘い香りを放っています。私の家でも
キンモクセイが大きくなりすぎて切った記憶があります。近所の家でも同様でしたが
ほおっておくとこんなに大きくなるんですね。

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ぴーかる

鯖江陣屋 (2023/08/19 訪問)

【鯖江陣屋】
<駐車場他>駐車場はなし。JR鯖江駅前駐車場に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅6城目。鯖江陣屋は1720年に越後村上藩から間部詮言が5万石で入封したのに始まる。それまでは鯖江は幕府の代官所が置かれている程度の場所でした。兄の間部詮房は6代将軍徳川家宣の側用人を務めて権勢をふるったが、8代将軍吉宗の時に老中職を解任され越後村上藩5万石に転封されます。間部詮言は兄の兄の間部詮房の養嗣子に入り家督を継いだあとに鯖江に左遷されます。現在でこそ、めがねの町として栄えていますが当時は寒村だったようです。
 上記コインPに駐車して、松阜神社に現存移築した受福堂御門に行って、次に万慶寺に移築現存した御用屋敷門に行って、説明板のある陣屋跡公園に行きました。南北に走るJRの路線から陣屋跡のある西側から高地になっていて坂を上がっていきます。陣屋の場所は高台にあったようです。

<満足度>◆◇◇

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しんしんちゃん

伝・信玄公狙撃着弾場所 愛知県新城市豊島竜谷1 (2023/10/01 訪問)

愛知県新城市の野田城の西にある法性寺の山門は野田城の門を移築したものと
伝わります。この法性寺の南西は小高い丘になっていて、野田城を攻めた
武田信玄の陣所があったものと推測されます。法性寺から案内板に沿って
階段を上がっていくと丘の上にたどり着き、そこに信玄公が撃たれた場所の
案内板があります。野田城から村松芳休の笛の根に聞きほれていた信玄を
鳥井半四郎という鉄砲の名手が狙撃して傷を負わせたと案内板には記載があります。

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しんしんちゃん

だいぶ涼しくなってきたが野田城は熱い。 (2023/10/01 訪問)

このたび久々に野田城に行ってきました。野田菅沼氏の城で、武田信玄が最後に
攻めた城として有名です。郭が南北に連結していて、本丸の北に二の丸、三の丸と
続きます。古図にはその先に馬出しがあるようですが現状は藪で遺構はみあたりません。
東と西に川が流れ弱点となる本丸の南側は土塁で防御していますが、古図では枡形を
備えていたように見受けられます。
本丸と二の丸の間は大きな堀切で阻まれ土橋がかかっています。本丸の周囲と二の丸の
南側には今でも土塁が残っています。本丸南側に大きな井戸が残り、武田方の手勢に
この井戸の水を抜かれ開城にいたったという伝説が残ります。もう一つの伝説である
信玄公狙撃の場所も本丸の西端に残っています。三の丸周辺は以前訪れた時より発掘が
進んでいるように見えます。野田城のもう一つの弱点である三の丸北側も土塁が西から
北東へ続いており西端には三日月堀が土塁と連結するように配されています。
ただこの三日月掘は西南側へ張り出すように付いていて用途がいささか不明です。
三の丸の東には土塁と切岸の間に武者走りがあって二の丸に続いています。三の丸の
北側の土塁は両側に堀があったようで、三の丸は二の丸より高所にあります。
想像していた以上に防御力が高そうな城ですが、まだまだ不明な点が多い城です。
300の手勢で数万の武田勢相手に20日間耐えた秘密はさらなる調査の進展によって
明らかにされるかもしれません。

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じゅんじん

よし吉 (2023/09/17 訪問)

部長なんですね。かわいい!

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