本丸は日出小学校となっていますが、周辺には石垣や堀跡、移築現存している櫓が残っており、遺構散策が楽しめます。
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2025/02/16 20:57
2024/12/29 09:05
日出城(3/3):ハローキティとくらすまち (2024/12/22 訪問)
日出城の続き(3/3)です。
瀧廉太郎の銅像の後ろには、かつては裏門櫓があったそうで、今では二の丸(銅像の前)に再建されています(写真①)。その二の丸には、駐車場・トイレ・案内所・おみやげ屋などがありますので、最初に立ち寄られて、地図などの情報収集をして散策されたらいいかと思います(写真②)。
また裏門跡には釣鐘櫓があり、今でも釣鐘がぶら下げられていました。朝8時になったら小学校が鐘を鳴らすそうです(写真③④)。登城ならぬ「登校の時間だよ~!」(笑)。
また城内のいたる所の電柱には、二階堂麦焼酎が宣伝されていました(写真⑤)。二階堂酒造の工場はここ日出町にあり、今ではいいちこ(宇佐の三和酒造)と並ぶ、日本で二トップの麦焼酎の会社です。
また暘谷駅に隣接する交流センターの二階には、日出城の模型もありした。時間があれば見学されたらいいかと思います(写真⑥)。私はバスの待ち時間に、ちょっと見てきました。
【周辺観光】ハーモニーランド(写真⑩)
日出町と言えば、知る人ぞ知るキティちゃんの聖地「ハーモニーランド」があります。日出城から車で北へ10分程坂を登った所、国道10号線(赤松峠)です。暘谷駅や杵築駅から本数少ですが路線バスも出ています(タクシー乗場あり)。暘谷駅は小さな駅ですがキティちゃんムードが漂う駅でした(写真⑦⑧)。平日や特に冬(1~2月)は正月を過ぎると寒くて人が急に少なくなり休園日も多いので、私は適度に人の多い春秋の週末に行かれる事をオススメします。でもGWは混雑します(笑)。かなり広い遊園地なので乗り放題のアトラクション付チケットを購入し、サンリオキャラクターが躍るステージやパレードもあるので、小さな女の子たちは1日中楽しめて大喜びすると思いますよ! ちなみに数年前ですが、私はステージに上がりバットばつまる君と抱き合った事があります・・・(何しに行ったの?😲)。
次は(写真⑨)のバスに乗り、今回ハーモニーランドは通過して、杵築城へ向かいます。
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2024/12/28 10:40
日出城(2/3):日出城の石垣と瀧廉太郎 (2024/12/22 訪問)
日出城の続き(2/3)です。
本丸の下を石垣に沿って歩いてみました。海に近いためか、二段または三段の段築で積まれた穴太積の高石垣はとても見事で想像以上でした。細川忠興が延俊のために穴太衆職人(穴太理右衛門)を派遣し築かせたものだそうで、野面石や祖割石乱積に一部布積を用いた、乱積と布積の中間「布目崩し積み」と言う技法だそうです。(写真①-④)
また海岸沿いに目を向けると、石垣が少し低くなった場所には多くの折れが多用されていました。この高石垣や折れを見ると、海から攻めるのはちょっと難しそうです。これらの縄張りは、忠興が自ら考え延俊に指南したものだそうです。さすがは忠興! 多くの戦を経験して得たノウハウを伝えたかったのでしょう。妻を通して忠興と延俊の義兄弟の関係がいかに良好であったか、この石垣や縄張りからも伺えました。(写真⑤-⑧)
そしてこの石垣の下(写真⑨この下)に泳いでいるのが「城下カレイ」です。カレイは城の下から湧き出る地下水と海水が混ざり合う所で育ったものがブランドになるらしいですが、一匹数万円もする高級魚です。いったいどんな味がするのでしょうか? だからといって勝手にここで釣りをすると捕まるので皆さん気をつけましょうね!(笑)
【余談】瀧廉太郎
そしてここにも瀧廉太郎の銅像がありました!(写真⑩)。岡城の瀧廉太郎がなぜ日出に🤔? と思ったら、瀧家はもともと木下家に仕えた家柄で、父は幕末の日出藩の家老だったそうです。その後、廃藩置県となり父は東京へ行き、そこで廉太郎は生まれます。父は官僚(国家公務員)を経て、その後に転勤で豊後竹田(今の市長)となり、その時の現在の中学生だった廉太郎は岡城へよく登ったそうです。卒業した廉太郎は東京の音楽学校を経てドイツへ留学、本場で才能を開花させていたその時、肺結核を患い帰国を余儀なくされてしまいます。そしてロンドンを経由して帰国する途中の船の中で、土井晩翠と出会います。そこで彼が作詞した「荒城の月」に曲をつけてくれと頼まれ、その時に岡城の月見櫓のイメージを思い出し作曲したのではないかと言われています。帰国後は、父がその時赴任して住んでいた大分市の家(府内城のすぐそば)で療養しましたが、23才の若さで亡くなったそうです。そして何と私の実家の菩提寺と同じ萬寿寺(大友館内)に葬られ墓が立てられたそうですが、最近(2011年)になって親族の要望で、元々の瀧家先祖代々の菩提寺である日出の龍泉寺に墓は移されたとの事です。
次は周辺観光の話題に移ります。
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2024/12/27 14:38
日出城(1/3):木下延俊と鬼門櫓 (2024/12/22 訪問)
ここは大分県日出町(ひじまち)、日出町と言えば(日出城→鬼門櫓→城下カレイ→二階堂麦焼酎→ハーモニーランド)が有名です!(・・・🤔?)
日出城の築城者は「木下延俊」、豊臣秀吉の妻おねの兄「木下家定」の三男です。五男(弟)には、養子に出た小早川秀秋がいます。妻は細川忠興の妹(加賀)です。関ケ原の直前、姫路城主であった家定は大坂城に入るため、延俊に城代を任せます。そこに筑前と三原の兵を引き連れ関ケ原へ向かう小早川秀秋が姫路城に着き、ここで軍勢を休ませてほしいと兄延俊に懇願します。しかし延俊はこれを拒否したそうです。さらに忠興の進言で、秀秋が西軍として大軍勢を率いて向かっている事を即座に家康に報告し、自分は家康様に二心なき事を伝えたようです。秀秋が松尾山に着陣したのは前日ギリギリだったので、こういう所にも影響したのかもしれません。そして延俊は、義父細川幽斎の田辺城を攻めた小野木重勝の福知山城を仕返しにと攻めました。その両方の功績などで、関ケ原後に家康から、豊前へ転封となった細川忠興の領地の南端(杵築)と接する豊後日出の地に3万石が与えられ、日出藩を立藩したようです。(写真⑧⑨)
暘谷駅から10分程歩いて行くと、最初に鬼門櫓が目に入ってきました。鬼門櫓は一度移築されたものが元の場所に戻されているという現存櫓です。思ったより大きな櫓で驚きました。そして鬼門の方向(北東)の角が確かに厄除けのため欠けていました(写真①)。このような珍しい形の現存櫓はここだけだそうです。内部も見学できました(写真②③)。
鬼門櫓の横には歴史資料館があります(写真⑤)。ここには木下家(旧杉原家)の歴史や貴重な資料が展示されていました。ちょうど高台院(おね)の没後400年を記念して、高台院が延俊の事を我が子のようにかわいがっていたという二人の関係や、やりとりした手紙などが特別展示されていました(写真⑥:内部撮影は不可)。
資料館を出ると本丸へ渡る土橋がありました。土橋の先は日出小学校のため、ここから中の本丸へは入れません。土橋の上には、暘谷城の石碑と高欄はかまぼこ石になっていました(写真⑦)。
鬼門櫓と本丸との間の掘から、ちょうど別府湾と高崎山が見えるいいアングルがあったので、思わず撮ってしまいました(写真⑩)。
次は海岸側から本丸石垣を眺めてみようと思います。
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分類・構造 | 平山城 |
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天守構造 | 複合式層塔型[3重3階/1602年築/破却(廃城令)] |
築城主 | 木下延俊 |
築城年 | 慶長7年(1602) |
主な城主 | 木下氏 |
廃城年 | 明治7年(1874) |
遺構 | 曲輪、移築櫓、移築門、天守台、石垣、横堀 |
指定文化財 | 県指定文化財(日出城隅櫓(鬼門櫓)) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 大分県速見郡日出町 |
問い合わせ先 | 日出町商工観光課 |
問い合わせ先電話番号 | 0977-73-3158 |