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「日本100名城かるた」の達成率が53%になりました!

おかげさまで「日本100名城かるた」の達成率が53%になりました!
いつも気にしていただき、本当にありがとうございます。
残りたったの47%!!
なんとか商品化できるよう編集部でも日々いろいろ動いております。
みなさまの周囲のお城好き、かるた好きの方々に、ぜひ「日本100名城かるた」の存在を知らせていただけますよう
重ねてお願い申し上げます。
目指せ、夢のかるた大会!!!

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WEST

坂田城探訪 (2024/05/17 訪問)

千葉県のお城、坂田城を訪問しました。自動車でのアクセスで、駐車場は隣接したふれあい坂田池公園の駐車場を利用しました。
このお城は千葉一族の三谷氏が築城し、その後戦国時代に井田氏が改修したそうです。
縄張りは南側から主郭と馬出郭、二郭、三郭と北側へと連なっている形です。
登城は、駐車場に近い、南側の登城口から主郭、馬出郭、二郭、三郭の順に周りました。主郭、馬出郭は散策路がありますが、周りは木と草で覆われていました。一方、二郭、三郭は梅の木が栽培されていますが開けています。
各郭間の堀、土塁も残っており、この城の見どころの一つでしょう。
なお、ここの梅の木は有名で、毎年2~3月にかけて「坂田城跡梅まつり」が開催されているそうです。次は、梅まつりの時期に訪れて見たいものです。
また、ここは成田空港に離着陸する飛行機の通り道であり、訪問時上空を飛ぶ飛行機が見えましたよ。

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赤い城

蓬莱山城 宮崎県宮崎市 (2024/05/02 訪問)

曽井城見学を終え、もう少し時間あったので宿から近い未登録の蓬莱山城へ。
長久寺背後の丘陵が城趾です。
本堂裏手に登城路があり、登るとすぐに主郭へ着きます。
手前の小屋がある部分が堀切のようにも見えますが遺構はほぼ残っていません。
主郭には石仏が並んでおりました見晴らしもよかったです。
この長久寺、九州八十八ヶ所百八霊場の三十八番のお寺だそうです。

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たか

眺めが最高! (2024/05/16 訪問)

門司氏の古城で関門海峡を一望できるのでとても気持ちが良い!
猿喰城とセットで行ってきました✨

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むらちょ

最高です! (2024/05/19 訪問)

本丸西虎口に石垣が復元されました。
説明会にはいけませんでしたが、今後その石垣の上に建造物が建てられる予定らしいです。

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しんちゃん

小田原攻めの家康公の本陣。この周囲に三万の兵が集結。 (2024/01/26 訪問)

今井陣城は天正18年(1590)の小田原征伐の際に徳川家康が陣を張った場所とされています。案内板によれば家康は3万の兵を三方に分けたとされ、三島から宮城野を経て久野・諏訪原に出た部隊、鷹ノ巣城を経て湯坂を越えた部隊、足柄城・新荘城を落として足柄越えをした部隊とが合流して、小田原城の東方のこの地に布陣したとのことです。
案内板や石碑のある、この場所は当時は柳川和泉守泰久の宅地で家康はここを本陣として、およそ110日滞留していたとのことです。ちなみに駐車場はありません。私はどうしたかといいますと、まあ一瞬のことですので‥

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しんちゃん

山本晴幸(勘介)生誕の地 豊橋市賀茂町 (2024/05/19 訪問)

豊橋市賀茂町にある賀茂しょうぶ園に向かう県道499号線の道中に山本晴幸生誕の地の案内板があります。石碑の場所はちょっと細道が入り組んでいて大型車は通行はキツいので歩いて行った方が良いでしょう。5ナンバーでギリギリ通れます。できれば石碑には勘介の名前も入れておいて欲しかったですね。富士宮市にも山本勘介生誕の地の石碑があるようです。
賀茂しょうぶ園は今が見頃で250種、約3万7千株のハナショウブが植えられています。しょうぶ園から賀茂神社に道が続いており、賀茂神社は天平元年(729)創建と伝わります。たぶん式内社です。
天文12年(1543)今川氏親が298貫を神領として寄進し、慶長8年(1603)天下人となった徳川家康からは100石を寄せられています。
えーと‥戦国時代の一貫を約15万円として 298貫だと4500万円くらい‥
一石約30万円として 100石だと3000万‥‥‥計算間違えたかな??そうそう時代によって価値も変わるだろうし、きっと何かの間違いですわ。一貫約10万円とすると、だいたいトントンになります。
永禄11年(1568)家康公が遠州入国に際し、参詣し日本一の大旗を奉納しているとのことです。

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テンちゃん

三春城(愛姫出生の城) (2024/05/17 訪問)

BSP4Kで再放送されている大河ドラマ(独眼竜正宗)に登場する伊達政宗の正室である愛姫の出生地である三春城に行きたくなったため日帰りで行ってきました。
近くの三春町歴史民俗資料館ではアンケートに答えるともれなく愛姫クリアファイルがもらえます。

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ぎりょう

会津三城目はやっぱり鶴ヶ城! (2024/05/13 訪問)

会津の旅、三城目は鶴ヶ城に。これまでに何度か攻城しているのですが、雨天でもあり、天守閣内の歴史博物館でゆっくりと会津の歴史を学ぼうと立ち寄りました。
戊辰戦争時の砲撃によって傷ついた天守は明治7年(1874)に政府の命により取り壊されます。往時の傷ついた天守の姿も写真に残されており見ることができます。その後天守は昭和40年(1965)に再建されるのですが、私が小学生の時に初めて目にし、深い感動を覚えた白亜の五層天守は再建後の間もない頃だったのでしょう。暇さえあれば天守の姿を落書きしている私を観て父親は、人物往来社発行、大類伸監修の「名城名鑑」全三巻を買い与えてくれました。私の城好きは以来50数年に及びます。
平成12年(2000)には干飯櫓と南走長屋が復元され、平成23年(2011)には天守の屋根瓦が赤瓦に葺き替えられ、ますます美しい姿になりました。
この城に初めて天守を築いたのは蒲生氏郷で文禄2年(1593)に今より高い七層だったとのこと。その後領主の変遷により、寛永4年(1627)に入部した加藤氏によって五層天守に改められたということです。
天守のあとは、三の丸跡の福島県立博物館で、新設された会津若松城下のジオラマを観覧。旧城下町の成り立ちや戊辰戦争の籠城戦の歴史を知ることができました。
歴史ある寺社や街並み、温泉と地の食材と酒、どれもが旅の愉しみなのですが、やはり私にとってはその地の城館探訪が欠かせないと改めて感じました。

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ぴーかる

真鍋屋敷跡の石垣は本物かどうか (2024/03/16 訪問)

【葛下城】
<駐車場他>駐車場は<35.109489,133.889157>付近に沢のほとりを削平した6台分程ありますが、県道337号線から西へ入る道が悪路で落石が多くパンクの恐れがあるのでお勧めしません。登城口まで歩きますが<35.111831,133.890671>櫓のある所の道路脇に停めるのがベターかも。
<交通手段>車

<登城道>踏み跡の道があったり、途中ロストしたりしています。登城口は上記駐車場から更に300m程西へ進むと右手に葛下城登城口の立書札があります。登城口には踏み跡がありますが、入るといきなり道がロストしていますので、左を向いて左方向に何となく登る。⇒道が湧いて出てきた時に右手の山に家臣屋敷の石垣が見えます。⇒家臣屋敷内の切通しを抜け、左手に連段の曲輪があります。⇒暫く道があります。⇒大きな谷の削平地に出ます。谷山の塁線に沿って大きく回り込むように進む(道は薄っすらある)⇒道がロストしています。腰辺りの灌木雑草をそのまま真っすぐに抜けると、道がまた湧いて出てきます。⇒正面上方に曲輪の縁の直線が見えますので登り切ったら舌状曲輪(城跡家臣屋敷の下段)に出ます。

<見所>登城口付近の家臣屋敷石垣・主要部の谷扇状曲輪
<感想>現地説明板によると葛下城の築城年は定かではないが、大河原大膳大夫なるもの此に居るとあります。戦国時代末頃には中村頼宗が領主となり毛利氏の麾下に属します。この中村頼宗が美作国岩屋城が宇喜多氏領だった1581年に決死隊を組んで主郭に繋がる落とし雪隠を暴風雨の中よじ登って奇襲し城を陥落させます。中村頼宗は毛利氏から恩賞として岩屋城主となりますが、本能寺の変の後、毛利氏と羽柴秀吉の講和によって美作国は割譲されましたので、この葛下城もこの時廃城になったようです。
 登城口の向かって右手に巨石で組んだ石垣が残っています。登城開始してすぐある真鍋屋敷・家臣屋敷跡の石垣も凄いのですが、ガラス・陶器・瓦片が落ちているので、近年まで建物があった形跡があります。石垣は当時のものか判別不能です。
 上記登城道から。到着した舌状曲輪は城跡主要部の南西部にあたります。谷の扇状の曲輪は整備されているようで通りやすいですが、城跡に内に道が無く、上方の主郭へ行くには雑木の少ない所を選び直登しなければなりません。主郭は楕円状の広い曲輪で半分程度雑草が刈られています。下段の2郭は広い腰曲輪状で主郭から行けず、違う場所から直登すると行けそうです。主郭の奥に城主館跡、その背後の山頂部が見張り台となっています。主要部に石垣は残っておらず、見張り台に僅かに石垣跡が見られます。

<満足度>◆◆◆ ※真鍋屋敷跡の石垣が当時の遺構だった場合として。

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ぎりょう

広大な会津の山城に感動! (2024/05/13 訪問)

会津の旅二日目は予報どうりの雨天。雨足も強く同行者も居ることで、向羽黒山城の初登城は無理と思いながら、湯野上温泉から会津若松市に向かいました。途中、同行者から会津美里町には本郷焼の展示施設があるから寄りたいと提案がありました。城址の近くであること、山城の中腹まで車で登れることから、行くだけ行ってみようということになりました。
城址が有る岩崎山を南西側から登り二曲輪(中城)下の駐車場に到着。最高所の一曲輪(実城)への登り口がありますが、雨は降り続いており一曲輪攻城は断念。二曲輪だけでもと、傘をさして登りました。
二曲輪は、東西60m、南北40mの広さが有り、展望台からは会津若松市周辺が望める絶景地。平場は東屋が建ち、植栽など公園化でかなり手が加わっているようですが、かつて城の中心的役割を担った曲輪の雰囲気があります。
その後は弁天神社前の急カーブを下り、二曲輪群と三曲輪を隔てる堀切と、伝盛氏屋敷跡を横目に十日町口大手に下りました。
今回はほんの立ち寄り程度の訪問となり残念でしたが、比高約190m、東西約1.4km、南北約1.5kmに多数の曲輪を連ねた中世会津の代表的な山城の雰囲気を感じ取ることはできました。
永禄4年(1561)に葦名盛氏が築城後、慶長6年(1601)の廃城まで、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝と領主の変遷とともに、おりおりに改修が加えられているらしいのですが、次回は徒歩で登り、時間をかけて遺構の確認をしたいと考えています。

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しんちゃん

地獄めぐり弐 (2014/01/14 訪問)

地獄めぐりの続き。国の名勝の「血の池地獄」と「龍巻地獄」です。血の池地獄は最も地獄らしい「地獄」で、酸化鉄の影響で池が赤く染まっています。朱色に近い感じですが、見事な色合いで「血の池地獄」とはよく言ったものです。
「龍巻地獄」は間欠泉で、一定の時間を持って「ぷしゃー」と噴出して来ます。この日は噴出して来るまでしばらく待って、写真をバッチリ撮ってきました。他にも坊主地獄の写真もあったはずなのですが、データフォルダの破損の際に紛失しています。大事な写真は二重に保管しておく必要がありますね。
こうして見ると地獄も悪くないと思います。地獄と極楽の二択を迫られたら地獄を選ぶのもアリですぜ。極楽は道楽も無く、お経三昧だろうし、退屈かもしれませんよ。地獄に行けばスリリングな毎日は請け合いです。戦国大名や武将の皆さんも手ぐすね引いて待っているかも(??)。

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しんちゃん

地獄めぐり (2014/01/14 訪問)

別府地獄めぐりは別府温泉に多数存在する「地獄」を巡る観光コースです。「地獄」とは自然に湧き出る源泉でコバルトや酸化鉄などによって特異な景観を造りだしているものもあります。間欠泉の「竜巻地獄」や熱泥で泡立っている「鬼石坊主地獄」なんてものも有ったりします。海地獄(コバルト・水色)/ 血の池地獄(酸化鉄・赤色)/ 白池地獄 / 龍巻地獄は「別府の地獄」として国の名勝に指定されています。
どうせこの世は地獄だよ‥とか、どうせ死んだら地獄行きさ‥なんてやさぐれている方には是非、訪れていただきたい。ひょっとしたら人生観が変わるかもしれません。
鬼山地獄では熱を利用してワニを飼育していて、別名「ワニ地獄」とも呼ばれています。イリエワニ、メガネカイマンなど100頭ほどのワニが飼育されていて、冬でも暖かい地獄はワニにとっては天国のようです。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「小栗城」。 (2024/04/13 訪問)

「久下田城」から「真壁城」に向かう途中に『城址入口』の立派な石碑を見つけ、ちょっと寄り道しました。
因みに、この時は何城か分かっていません。
石碑の大きさからいって、保存会の方々や自治会で大切にされている事は分かります。
向かって右側に『内外大神宮』があり、その周辺がお城跡かと思い向かいました。
車に戻る途中に、小さな手書きの案内板に「小栗城」とありました。
帰って来て「小栗城」を調べたら、私がうろうろした『内外大神宮』の奥に大きな「小栗城」がある事が分かりました。

「小栗城」は築城時期は不明ですが、古河公方の足利 成氏さんに攻められ落城しました。
その時の城主、小栗 満重さんと子の助重さん(小栗判官)が三河に落ちたそうです。
助重さんは、毒酒で殺害されようとするが、姫に助けられます。
助重さん、この事で目も見えず、耳も聞こえず、口もきけない身体になりましたが、熊野の湯治で回復し、姫と仲良く暮らしましたとさ。
このお話は歌舞伎の演目にもなっているそうです。

茨城県 筑西市 小栗に「小栗城」があります。
石碑周辺に駐車できました。
筑西市は12月に『小栗判官祭』を開催しているようです。歴代の判官役の方々が有名人でした。
『小栗判官祭』、見てみたいな~。

入口しか見てないので再訪を誓う「小栗城」攻めでした。

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モト

神籠石にうっとり (2024/05/17 訪問)

古代山城シリーズの1つ神籠石を眺めに行ってきました。
見学できる地点まで車で行けます。
案内板の建っているのですぐにわかります。
神籠石と土塁が郭確認出来ます。
見学できる所は短い距離ではありますが、神籠石とその土塁が比較的見やすい所なのではと思います。
土塁に沿って少し歩いた所にも神籠石が確認できました。

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イオ

畿内と阿波国を結ぶ要衝 (2024/03/30 訪問)

戦国前期に、夙川東岸の六甲山地からのびる台地の突端に瓦林正頼が築いて瓦林城から居城を移しました。西国街道をおさえて畿内と阿波国を結ぶ要衝の地であることから、それ以降、三好氏と瓦林衆との間で激しい争奪戦の舞台となりましたが、戦国中期には三好長慶が入って居城とし、長慶が芥川山城に移った後は松永久秀が置かれました。三好長慶の死後、松永久秀と三好三人衆が対立すると篠原長房に攻め落とされて長房の居城となりましたが、織田信長の摂津攻めにより長房が阿波国に撤退すると廃城となりました。

阪急・西宮北口駅から阪急レンタサイクルS-styleで登城。宅地化によって遺構は消滅しており、大社小学校の南東隅に城趾石碑と説明板が立てられているほか、小学校の北東約150mの西宮市指定保護樹木のクロマツの脇にも城址石碑がある…はずですが、見付けられませんでした。このクロマツ付近が台地の東端にあたり、北に約100mの城山南公園付近は台地の突端であることがよくわかります。越水の名は「小清水」が転じたもので、台地の東麓には越水城の水の手だったと思われる越水井戸が2箇所遺っていて、今なお豊かに水をたたえ、阪神淡路大震災では被災された方の貴重な水源ともなりました。また、城域の東辺から南辺にはかつて外堀がめぐらされていましたが、現在では南東隅部に「城ヶ堀」の地名が残るのみです。

城跡の北西部にあるニテコ池は堀跡とも云われますが、現状は越水浄水場の貯水池として築造されたものです。ちょうどその越水浄水場でさくらの通り抜けが開催されていたので行ってみると、今年は開花が遅れたためソメイヨシノはまだまだでしたが、越水の名を冠したコシミズハヤザキやエドヒガンは満開になっていました。その後、浄水場下の西宮震災記念碑公園で慰霊塔と小説火垂るの墓誕生の地記念碑に手を合わせ、夙川沿いに下って(夙川公園の桜もまだまだでした)、西宮北口駅に戻りました。

越水城から浄水場、夙川公園とめぐって所要2時間弱、阪急レンタサイクルS-styleなら2時間で何と110円です。これからも阪急沿線の城めぐりには便利に活用できそうです。
 

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しんちゃん

貴船城 別府のあやしいお城 (2014/01/14 訪問)

貴船城は平安時代の武将・源為朝が砦を築いたとされる場所に建てられている観光用のお城です。お城‥でいいんだろうか? ちえぞーさんのサイトにも記載がありますよ。展望は最高で別府湾、別府の街並みを見下ろすことが出来ます。別府の街からは湯けむりが上がっていましたね。西側には鶴見岳や由布岳が見えたかな?よく覚えてない。
城内では白蛇神を祭っていて、五代目金城龍王が存命らしく、触ることができるそうな。怪しさ満載ですがそこが良い。ぜひ別府を訪れた際には寄って見てください。源為朝は乱暴が過ぎて、父・為義に九州に追放されたことが有るそうです。案外ここが気に入って居を構えた可能性も無きにしも有らずです。

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todo94

ゴールデンウイーク前半・献血前の攻城 (2024/04/27 訪問)

ゴールデンウイーク前半は昼寝城と4月27日の献血を最大の目的としていました。4月27日は今まで献血をしたことがない特別な日だったのです。本来ならば徳島か香川で献血したかったのですが、予約が埋まっていて断念せざるを得ませんでした。広島の献血ルームの予約が取れたので前夜に家を出て、名神の渋滞情報が入るとSAで仮眠をとったりしてうまく立ち回ったため、ゴールデンウイークの渋滞には全く引っかからずに広島市内にアクセスすることができました。黄金山の頂上が仁保島城の一の丸跡で、広い展望台が整備されていました。あいにくの天気で眺望を楽しむわけにはいきませんでしたけれども。二の丸跡には広島エフエム放送黄金山送信所が建っています。

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しんちゃん

山形城 本丸周辺 (2019/08/13 訪問)

山形城の本丸の周辺には空堀が配され、高麗門の先は枡形になっています。かつては本丸、二の丸ともに複数の門と枡形、櫓が配されていたようです。複雑な構造ではありませんが、セオリーには沿っています。
本丸一文字門や御殿の復元計画が有るようですが史料に乏しく目途が立っていない模様、やはり見所は二ノ丸東大手門の周辺に集約されているようです。広いだけに現状は中がスカスカの状態ですが、本丸周辺の石垣や堀は素晴らしいので、城びとは満足できるのではないでしょうか。一番最後の写真は私の以前の愛車です。アルファロメオの中古ですが結局3年しか持ちませんでした。いろいろ手間がかかって大変でしたが懐かしい思い出です。いまはハイブリッドのフリードスパイクに乗ってますが、全然壊れません。やはり日本車はいいですなあ。

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しんちゃん

入ってすぐに見どころ多し (2019/08/13 訪問)

山形城は東北でも屈指の規模を持つ、輪郭式の近世城郭です。最上義光によって三の丸を含む城域に拡張され、鳥居忠政の時代にいまの形に整備されたそうです。二の丸の外堀は広大で木造の橋を渡って二の丸東大手門から城内に入ります。門の先は枡形になっていて東大手門櫓は木造再建され公開されています。大手門櫓の西側には最上義光の騎馬像があり、皇居の楠正成像に匹敵する格好良さです。
本丸の周囲には空堀が巡らされており、本丸高麗門の先も枡形になっています。

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