本庄城は弘治2年(1556)に本庄宮内少輔実忠によって築かれたとされ、利根川と烏川に削られた河岸段丘の上に築かれています。北側を小山川(現・元小山川)が流れ、南東は久城堀で切断されるという天然の要害でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めによって落城しました。元小山川の南側一帯、東の城下公園の南から西の市役所あたりまでが城址だったようで、中央の郭跡には城山稲荷神社があり、城址碑や案内板が設置されています。
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2024/12/07 08:03
城山稲荷神社 (2024/05/05 訪問)
本庄城は弘治2年(1556)に本庄宮内少輔実忠によって築かれたとされ、利根川と烏川に削られた河岸段丘の上に築かれています。北側を小山川(現・元小山川)が流れ、南東は久城堀で切断されるという天然の要害でしたが、天正18年(1590)の豊臣秀吉の関東攻めによって落城しました。元小山川の南側一帯、東の城下公園の南から西の市役所あたりまでが城址だったようで、中央の郭跡には城山稲荷神社があり、城址碑や案内板が設置されています。
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2024/12/07 07:45
箕田源氏 (2024/05/05 訪問)
箕田館は城郭大系に載ってないので詳細は不明でした。箕田古墳の南あたりが館址らしいので二号墳と、以前城びとに掲載されていた山神荒神の石の写真を掲載させていただきます。
どうやら源経基に仕え、天慶の乱にて功績のあった源仕から源綱までの三代が居住していた館跡らしい。氷川八幡社の案内板によると、箕田は武蔵武士発祥の地で源経基(六孫王清和源氏)は文武両道に秀でた優れた武将で武蔵守として源氏繁栄の基礎を築いたとされ、源仕(嵯峨源氏)は知勇兼備の人で経基を助け、箕田に住んだことから箕田源氏を称したようです。これらの歴史は氷川八幡社にある箕田碑に刻まれているようです(よく読めんかった)。
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2024/12/07 05:45
上山城 徳島県名西郡神山町 (2024/11/23 訪問)
こちらも城びと未登録城です。
こちらも近くに登録城が無いので関係はないですが上桜城のところでのレポートです。
ここもかなりの山奥にあります。
細い山道を走ると出雲神社があり、ここが城跡です。
駐車場が無いので少し下に下ったところのやや広いスペースに車を置きました。
遺構は曲輪と切岸が残る程度かな。
主郭に土塁っぽい部分もありますが神社を建てた際のものかもしれません。
平安末期の古い城で詳細は分かりません。
近く(とはいえかなり距離がある)には四国八十八カ所霊場第12番札所の焼山寺があります。
こちらも細い山道を登っていきます。
札所の中で2番めに高い場所にあります。
雰囲気のある山寺で眺望もgoodでした。
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2024/12/06 23:35
熊城 (2024/12/05 訪問)
要害山城の南東の谷を隔てた標高約730mの尾根に築かれた城で詳細はわかっていないようですが、要害山城の出城のように考えられている城址です。要害山城へ来たのは今回で3回目です。いつも熊城をセットで散策していました。要害山城より武骨な雰囲気で結構すきな城址です。
要害山城を散策した後、戻らずに背後の尾根を歩いて行くと深草観音・岩堂峠へ行く標識があります。その道を、道なりに尾根筋を回りこむように歩いて行くと西へ伸びる尾根があり降りて行くと熊城へ行けます。ハイキングコースの道から熊城方面の尾根へ入る場所に標識はありません。以前登城したときは土管があり目印としていましたが、撤去されていました。ただその場所に黄色いリボンが左右の木に巻かれて目印になっています。ここを降りて行くと途中で左右の尾根に分かれる所がありますが、右側(岩に石が積んであるのが目印)へ進みます。すると深い堀切があり、ここからが城域です。その堀切を越えてもすぐにまた深い堀切があり二重掘切といってもいいのかもしれません。それぞれの堀切は左右が竪堀となっていました。2つ目の堀切の東側に竪堀を降りて行くと南側に畝状竪堀を見ることができます。竪堀を戻り堀切を上がると主郭です。その下にも曲輪が続きます。下の曲輪から南東部へ回り込むと、ここにも畝状竪堀がありました。元の道に戻り降りて行くと堀切が2カ所あり、ここまでが主要な城域と思われます。コンパクトな城址ですが、堀切は見事で、畝状竪堀も観られ、所々石積みも残っていて楽しく散策できます。ただ道は整備されていないので歩きにくい所もあり多く、左右は急峻なん崖で高所恐怖症の自分は少し怖かったですね。
さらに下りて行くと山麓に石積みと曲輪の跡かと思われる地形があります。後世の畑などの跡かとも思われますが、館跡と見えなくもありません。山麓のこの地形についての資料は見つけられませんでした。詳細は不明です。
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2024/12/06 22:59
2024/12/06 22:52
シローさん特集 (2023/01/03 訪問)
シローさんはシローさんでも「島原の乱」で有名な天草四郎時貞さんの特集です。島原の乱は、ただのキリシタンによる農民一揆というよりは土着武士による反乱(豊臣方の残党含む)としての側面もあるようです。
寛永14年10月25日(1637.12.11)に有馬村の代官・林兵左衛門がキリシタンによって殺害され、島原の乱が勃発します。肥後天草でも天草四郎を担ぎ上げた一揆軍が本渡城を攻撃し、11月14日の「本渡の戦い」で富岡城代の三宅藤兵衛を討ち取ります。勢いを増した一揆軍は富岡城を攻めますが、城の守りは堅く、やむを得ず攻城をあきらめ、海路を渡って島原に上陸し、原城に籠城します。
キリシタンは廃城となっていた原城を修復し、幕府軍との戦いで上使の板倉重昌を戦死に追い込みますが、寛永15年2月27日に幕府軍の総攻撃が行われ、四郎以下、籠城した多くの一揆勢(キリシタン)が殺害されてしまったようです。
殺害された3万7千人分の遺体は原城の敷地内にまとめて埋めたれたとあり、島原藩主の松倉勝家は厳しい税の取り立てで、乱を招いたとして大名としては異例の斬首に処せられています。
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2024/12/06 22:43
武田信玄誕生の地 (2024/12/05 訪問)
久しぶりの要害山城です。躑躅ヶ崎館の詰城として武田信虎が築いたと伝わります。 大永元年(1521)、駿河勢が甲府盆地に攻め入ってきたとき、懐妊中だった大井夫人はこの城に避難し、後の信玄を出産しました。山裾の積翠寺で生まれたという説もあるようです。登城路は整備されていて歩きやすいのですが、所々倒木がありました。西部に多くの曲輪が展開し、搦手は尾根に堀切等で防御を固めている縄張りです。中腹には井戸(諏訪の水)もありました。曲輪、土塁、堀切、竪堀、石積みなどが残り山城を楽しむことができます。9年ぶりの登城でしたが、天候にも恵まれ新鮮な感覚で楽しく散策できました。
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2024/12/06 20:49
2024/12/06 20:36
豪徳寺 東京都世田谷区 (2024/05/04 訪問)
豪徳寺は彦根藩の井伊家の墓所として有名で、16代藩主で江戸幕府大老を務めた井伊直弼公の墓もあります。中世には吉良氏の居館が置かれ、世田谷城の主要な部分でもあったようです。そういえば塀の向こうに土塁の様なものが見えるような?
彦根藩3代藩主、井伊直孝が猫により門内に招き入れられ、雷雨を避け和尚の法談を聞くことが出来たという縁で、当寺に井伊家の墓所が置かれたという伝承があるようです。境内には招猫観音を祀る「招猫殿」が置かれ、招福猫寺の像が置かれています。
平成18年に建立された三重塔には十二支の彫り物が飾られ、ネズミの場所には猫が中央に鎮座しています。鼠も負けじと小判を咥えてきているあたり、ここの猫と鼠は仲良くやっているようです。
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2024/12/06 17:01
もみじまつり前日いつ見ても素晴らしい (2024/11/15 訪問)
午前中伯耆大山の紅葉観光、雨で北壁絶景は見れず、鍵掛峠周辺のブナの紅葉トンネル、じゅうたんは小雨に煙る中感嘆の鑑賞、下山は蒜山側より米子道経由し、久しぶりの津山城登城はもみじまつり前日でした。
駐車場:三の丸下側の観光駐車場を利用、トイレ有、土産店も有ります。
2024津山城もみじまつりは11月16日(土)~24日(日)に開催。
津山城も小雨が時々降る状態で探訪撮影、表門の冠木門から入城、門前では明日から始まる「もみじまつり」の生け花、デコレーション作業中、鶴山館側へ、屋台のテントも多数張られて明日からのイベントへ準備万端、鶴山館から一二三段の城塁石垣を眺めるばっちり備中櫓もその中に存在感を発揮、表中門にはイベント用に森家の家紋大幕が門中に二枚、備中櫓を二の丸より眺め、二の丸西の楓林にはもみじまつりデコレーションの和傘がカラフルに飾ってる、切手門、表鉄門より本丸へ、備中櫓に登り、天守曲輪、天守台へ登る、粟積櫓台方向は楓、銀杏の紅葉で赤に黄色、本丸を東方向眺めると天守曲輪東の仕切り石垣、本丸東の長大な石垣壁櫓台が見事に構えている、石垣城塁要塞の構に暫し見入る。
沢山写真を撮りましたので個別にまとめて投稿させて頂きます。
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2024/12/06 15:41
2024/12/06 09:27
対新羅最前線基地(2/3):雷山神籠石(南水門)と雷山千如寺 (2024/11/28 訪問)
北水門から不動池に沿って南水門へ来てみました。わずかに石や列石が見られたのみで、こちらにはあまり遺構は残っていないようでした(写真①②)。
当時、北水門からは玄界灘が見渡せていて、新羅の襲来に備え見張りをしていたらしいのですが、今では木が生い茂っていて、ここから海は見えませんでした。しかし西の白糸の滝方向へ5分くらい行った所に眺望が開けていた場所があったのでそこから眺めて見ました(写真⑤⑥)。当時の兵(防人)たちは、毎日ビクビクしながらこの海を見張っていたのでしょうね。
またここから東へ車で10分程行った所には、「雷山千如寺」があります。境内には美しい庭園と雷山観音がありました(写真⑦⑧)。聖武天皇時代からある、かなり由緒ある寺のようで、多くの仏像や五百羅漢も圧巻でした(仏像などは撮影不可のためパンフレットで:写真⑩)。1588年の九州征伐で、高祖城に籠る原田信種を攻め落として伊都の地を制圧した豊臣秀吉が、寺の安堵を認めたという朱印状も残っていました(写真⑨)。
次は、その雷山神籠石から80年後に築城された「怡土城」(いとじょう)を訪れます。
【余談】紫式部(まひろ)と周明の運命は?
その雷山神籠石が築かれてから400年後(室町中期)の時の様子が、先週の大河ドラマ「光る君」で描かれていたのには驚きました。紫式部(まひろ)が大宰府から松浦(まつら)に行く途中に元(刀伊)の賊に襲われたという「船越の津」は、(写真⑥)の左端の所です。ならば藤原隆家が警固門(=鴻臚館=現在の福岡城)から出陣して戦ったのは、おそらくこの写真⑥の海岸付近だったのではないかと思われます。船越で(まひろ)を助けようとして矢を受け倒れた、あの周明の命はいったいどうなったのでしょうか? そして(まひろ)は賊に捕まってしまうのでしょうか?(それは明後日の放送のお楽しみ😲!)。
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2024/12/06 06:59
森遠城 徳島県美馬市 (2024/11/23 訪問)
城びと未登録、近くに登録城が無いので同じ美馬市の脇城のところでレポート出します。
脇町から県道で阿波の深い山中に入っていきます。
県道とはいえ細くカーブも多く、ポツンと一軒家を探す道のよう。
途中何回か鹿が飛び出してきました。
いないと思いますが行かれる方はお気をつけ下さい。
やっとの思いで森遠地区に到着、森遠八幡神社周辺が城跡です。
境内に駐車場はありますが大きな車は進入が難しそうです。
神社には近所の方が集まっていらっしゃいました。
見慣れぬ車なので驚かれた模様。
「森遠城を見学に来ました」と告げると「石垣と裏には堀がある」と教えていただきました。
神社の入口に石垣が残っています。
周辺を散策したところ、何か所か石垣もありますが遺構なのかは不明です。
神社裏手には横堀があり、一部が二重となっていました。
阿波では珍しいそうです。
神社から左手には井戸もありました。
平家の落人が築いたとされますがあまりにもの山の中。
誰も攻めて来ない場所のように思いました。
それでも空気は清々しく、近所の方たちも気さくで良い人達でした。
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2024/12/06 00:57
中条氏の祖の名が寺名として残る。 (2024/05/05 訪問)
中条氏館は常光院の境内が館跡とされています。平安時代の末期、藤原氏の出身である常光は、長承元年(1132)に中条の地に館を構え、中条氏を名乗るようになったと案内板に記されています。館は1万8千坪ほどの長方形で現在は1/3ほどが常光院の境内になっています。
常光院は建久3年(1192)家長が祖父である常光のために館の一部を寺としたもので、門前には堀があり、境内の土塁にも居館跡の遺構が残っています。
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2024/12/06 00:43
比定地二つ (2024/05/04 訪問)
城びとの地図だと世田谷文学館のあたりになるのですが、城郭大系には烏山神社(旧白山社)の並びにあり、烏山団地やウテナ工場のある高台一帯に築かれていたと記されています。どちらも比定地のようで、皆さん両方に行かれているので私もそうしました。
天文6年、扇谷上杉家の深大寺城に対する備えとして、小田原北条氏によって泉沢寺跡に砦が築かれ、家臣の高橋民部少輔氏高が守将として入ったとされています。
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2024/12/05 21:36
福井城 (2024/12/05 訪問)
徳川家康の次男である結城秀康によって築城されました。10年ぶりに再訪問です。福井県庁、県警本部になってます。
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2024/12/05 21:31
丸岡城 (2024/12/05 訪問)
柴田勝家の甥、柴田勝豊が築城したお城です。日本100名城に認定されてます。
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2024/12/05 21:27
2024/12/05 20:44
本丸の周りの堀切や土塁が残る。 (2024/05/06 訪問)
本丸は法宣寺の西側にある林の中にあって、周囲を堀が囲んでいます。虎口は南に付いているようだけど直接、堀を渡って入らせていただきました。ネットで縄張りを調べてみると、けっこう複雑な構造をしているみたい。基本的に平城だけど縄張りの複雑さは杉山城を思い出します。西に利根川が流れているので、戦国時代には水を引いて、本丸の北側は水堀になっていたのでしょうか。ますます攻めづらい‥。
しかし、内郭にはどうやって行くんだろう。土橋は無さそうなので、木橋を渡していたのかな?
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2024/12/05 20:21
近くまで来たので‥ (2024/11/10 訪問)
筒井城は筒井氏の居城で、現在は宅地や田畑になっていますが、主郭の周囲に内堀と外堀が残っています。以前訪問した時の写真のデータが破損して、主郭の写真が無かったので、近くに寄ったついでに撮って来ました。
これだけだと物足りないので、近くにある筒井順慶墓所も訪問したのですが、鍵がかかっているようです。どうやらタイムリミットがあるみたい。筒井順慶公は天正12年に郡山城で亡くなり、奈良の円証寺に葬られましたが、後に当地に改葬されたそうです。
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