つついじょう

筒井城

奈良県大和郡山市

別名 : 筒井順慶城
旧国名 : 大和

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①筒井順慶城址碑
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:筒井城 (2024/09/30 訪問)

筒井駅バス停から徒歩5分くらいで、城址碑(34.621265、135.782568)に着きました。その後、説明板前(34.621496、135.783654)➡菅田比売神社鳥居前(34.622060、135.784347)で神社左側の水掘を確認しました。

1429年(永享元年)筒井順覚によって築かれました。 筒井氏は天児屋根命の子孫ともいわれますが定かではなく、 興福寺一乗院の衆徒です。
1441年(嘉吉元年)に家督を継いだ順永の代に勢力を広げ、その後は越智氏などと抗争が繰り広げられました。
1559年(永禄2年)松永久秀が大和に入国すると松永氏と対立し筒井城を奪われました。
松永氏の滅亡後、多聞城の石を転用して城郭の拡張を行いましたが、織田信長の大和一国破城命令によって破却となり、郡山城を居城としました。

菅田比賣神社の西、光専寺の南の辺りが本丸で、一部広場として残されており、ここに案内板が建っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=番条環濠(城びと未登録 奈良県大和郡山市)へは、ここから徒歩で向かいました。

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しんちゃん

ホリえもん (2024/02/23 訪問)

筒井城は松永久秀のライバルで大河ドラマにも度々登場する筒井順慶の居城です。主郭はレンコン畑になっていて案内板や看板が建っています。城域の北端には光専寺が建っていて、その北側の細い道路には外堀の跡が残っています。
主郭の南側にある水路は内堀の名残のようですね。主要部や看板などの写真を撮り、周辺の堀跡も写真に撮ったのですが、データをパソコンにに移している最中にPCの電源が落ち、堀以外の写真が破損してしましました。この状態で破損するとリカバリーソフトも役に立たないようです。筒井城の写真データがクラッシュするのはこれで2度目で、自分は筒井城に呪われているのかな?と考えたりもしますが、面白くないので堀の写真だけでも投稿してしまいます。なんか自分の首を絞めただけのような気がしますが、その他の写真はぴーかるさんの投稿を参考にしてください。(人任せかよ‥)
筒井順慶は郡山城に移り、筒井城は廃城になりました。順慶さんは大和国の所領18万石持で亡くなりますが、養子の定次が跡を継ぎ伊賀上野に20万石で転封されます。定次さんもなかなかの人物だったようなのですが幕府とグルになった家臣・中坊秀祐に貶められ改易になってしまいます(伝承では)。その後、大阪冬の陣で大坂方への内通を疑われ嫡男とともに自害を命じられ、大名としての筒井氏は滅亡してしまいます。酷い話ですが、定次さんが徳川・豊臣のどちらに付くともはっきりしない立ち位置にいたこと、上野城が大阪城を護る立地に築かれていたこと、彼自身が敬虔なキリシタンであったことが改易の理由につながったようです。
徳川家はキリスト教を禁教にする機会を狙っていて、キリシタンに寛容になった豊臣側に付く可能性もあった筒井氏を排除したかったのではないでしょうか。

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筒井城跡マップ

大和郡山歴史同好会では、2024年2月20日「筒井城跡マップ」を公開しました。
(令和5年度 大和郡山市まちづくりアイデアサポート事業 支援事業)
https://www.nstudio.jp/yktt_tsutsui.html

このマップは「筒井氏と筒井城 –戦国時代の大和郡山–」大和郡山市刊 2020年
などの資料をもとに、今日も残る筒井城の居館跡や堀跡をご案内する散策マップです。
筒井城跡付近では、GPS付マップとして利用できます。

筒井氏の本拠地 筒井城は、織田信長の命で1580年に破却されていますので、
「お城めぐり上級者向け」のマップです。

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おっちゃん

筒井城跡概要図、つつい歩いてマップ (2016/12/28 訪問)

現地案内板より抜粋

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 筒井順覚
築城年 永享元年(1429)
主な改修者 筒井順慶
主な城主 筒井氏、越智氏、古市氏、松永氏
廃城年 天正8年(1580)
遺構 土塁、横堀(水堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 奈良県大和郡山市筒井町1612
問い合わせ先 大和郡山市役所
問い合わせ先電話番号 0743-53-1151