この城は、柴田勝家の甥、柴田勝豊(その後柴田勝家の養子に)が築いた城です。
《柴田時代》柴田勝豊1576~1582 安井家清1582~1583
1575年、越前一向一揆鎮圧の報償で、柴田勝家に越前一国が与えられると、
柴田勝家は北の庄城に居城を築城し、勝豊に豊原(丸岡城の東北)4万5千石を与えた。
勝豊は翌年、城を豊原から丸岡に移り、丸岡城を築城した。
1582年の本能寺の変後におこなわれた清洲会議で、柴田勝家は北近江を獲得し、
勝豊は長浜城に移され、丸岡城には、柴田勝家重臣・安井家清が入った。
しかし、賤ヶ岳の戦いで安井家清が討死、さらに北ノ庄城で柴田勝家が自害すると、
越前は丹羽長秀が所領となった
《丹羽時代、青山時代》青山宗勝1583~1587 青山忠元1587~1600
1583年、丹羽長秀は丸岡城に青山宗勝を置いた。
1585年、丹羽長秀が亡くなると嫡男長重が後を継いだが失脚、越前を取り上げられたが、
青山宗勝は所領を安堵された。
1587年、青山宗勝が亡くなると嫡男青山忠元が継ぐが、関ヶ原の戦いで西軍につき改易された。
《結城時代、江戸時代》今村守次1600~1612 本多1613~1695 有馬1695~1869
1600年、結城秀康が越前を与えられると、丸岡城には今村守次が入った。
1612年、お家騒動(跡継ぎ争い)である越前騒動で、今村守次は改易となり、
あらたに付家老となった本多成次が入城した。
1624年、二代福井藩主忠直が減封となると、本多家は独立。丸岡藩が誕生した。
しかし、1695年、4代本多重益が丸岡騒動により改易となると、有馬清純が入城した。
その後、明治維新に至るまで、8代約170年にわたり、有馬家が丸岡を収めた。
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