北水門から不動池に沿って南水門へ来てみました。わずかに石や列石が見られたのみで、こちらにはあまり遺構は残っていないようでした(写真①②)。
当時、北水門からは玄界灘が見渡せていて、新羅の襲来に備え見張りをしていたらしいのですが、今では木が生い茂っていて、ここから海は見えませんでした。しかし西の白糸の滝方向へ5分くらい行った所に眺望が開けていた場所があったのでそこから眺めて見ました(写真⑤⑥)。当時の兵(防人)たちは、毎日ビクビクしながらこの海を見張っていたのでしょうね。
またここから東へ車で10分程行った所には、「雷山千如寺」があります。境内には美しい庭園と雷山観音がありました(写真⑦⑧)。聖武天皇時代からある、かなり由緒ある寺のようで、多くの仏像や五百羅漢も圧巻でした(仏像などは撮影不可のためパンフレットで:写真⑩)。1588年の九州征伐で、高祖城に籠る原田信種を攻め落として伊都の地を制圧した豊臣秀吉が、寺の安堵を認めたという朱印状も残っていました(写真⑨)。
次は、その雷山神籠石から80年後に築城された「怡土城」(いとじょう)を訪れます。
【余談】紫式部(まひろ)と周明の運命は?
その雷山神籠石が築かれてから400年後(室町中期)の時の様子が、先週の大河ドラマ「光る君」で描かれていたのには驚きました。紫式部(まひろ)が大宰府から松浦(まつら)に行く途中に元(刀伊)の賊に襲われたという「船越の津」は、(写真⑥)の左端の所です。ならば藤原隆家が警固門(=鴻臚館=現在の福岡城)から出陣して戦ったのは、おそらくこの写真⑥の海岸付近だったのではないかと思われます。船越で(まひろ)を助けようとして矢を受け倒れた、あの周明の命はいったいどうなったのでしょうか? そして(まひろ)は賊に捕まってしまうのでしょうか?(それは明後日の放送のお楽しみ😲!)。
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