2022夏の青春18キップ遠征2日目:脇城
(2022/07/21 訪問)
岩倉城からの転戦です。秋葉公園横の駐車スペース(34.073061、134.143611)に駐車しました。
脇城址入口付近の空スペース(34.074202、134.143109)に駐車できるようですが、そこに行くまでの道は狭い(軽自動車でギリ)との事前情報より、駐車場所から脇城址入口付近の空スペースまで歩いて(徒歩7~8分で着きます)向かいました。
築城年代は定かではないようですが、 戦国時代の初期に脇権守仲房の館があったといわれ、1533年(天文2年)に三好長慶が城を築いて三河守兼則が守っていたともいわれています。
その後、1557年(弘治2年)大和国より武田信玄の異母弟とも言われ、三好家家臣となっていた武田上野介信顕が脇城に入りました。
1579年(天正7年)信顕は岩倉城主三好康俊とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城へ押し寄せ、信顕・信定父子は讃岐へ逃れたが逃亡先で討たれました。
その後、長宗我部親吉が脇城に入った。親吉は元親の甥または叔父といわれる人物で一族の中では最も剛の者であったといいます。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐では三万の兵が押し寄せ、親吉は五千の兵でこれを迎え撃ったが、支えきれず開城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波に入国すると家老稲田稙元が10,000石を領して脇城主となり、脇城を改修して阿波九城の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。
阿波9城のひとつです。
主郭と2郭間、2郭と3郭間に堀切が確認できます。
本丸は雑木や竹藪となっていますが、土塁や石積井戸があり、北側に深い横堀が残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=川島城に向かいます。
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