2022年に博物館が新設され、2023年にはガラス製の鑑賞施設が設けられた。少しずつ手が加えられ、少しずつ見どころが増えているのが嬉しい。昨年5月が三度目の訪問で、晴れたのは初めて。
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2025/03/18 22:36
2025/01/03 08:05
とことん一乗谷(下城戸以北) (2024/10/13 訪問)
(続き)
一乗谷の北端には正門にあたる下城戸が設けられ、下城戸北側に広がる安波賀地区には足羽川水運の川湊があり、一乗谷の物流の拠点となっていました。
下城戸
下城戸は一乗谷北端の谷幅が最も狭くなったところに設けられた城戸で、高さ4.5mの土塁と水堀で侵入を防ぎ、西端に巨石を組み合わせた通路が矩折状に通じています。立ち並ぶ巨石には圧倒されますが、巨石や土塁の上には建物の痕跡は検出されず、絶大な権力を誇示するためのものと考えられます。一乗谷川の対岸にも土塁や屋敷跡と思われる削平地があるようですが、今回は未確認です。
安波賀春日神社(福井市安波賀町)
一乗谷の鎮守社として崇敬された神社で、一乗谷が炎上した際に社殿を焼失しましたが、江戸中期に福井藩主・松平氏により再建されています。社殿からさらに山上の瀧殿社には五代・義景の分霊が祀られているようですが、見落としてしまいました…。
伝朝倉宗滴館跡(福井市安波賀町)
安波賀春日神社から西山光照寺に向かう道中に朝倉宗滴の館跡と伝わる地があるようなので行ってみましたが、石碑や説明板などそれらしいものは見付けられませんでした。ただ、すぐ近くのJR越美北線の踏切は「金吾谷」だったので、やっぱり…という感じでした。
西山光照寺(福井市安波賀中島町)
一乗谷最大級の寺院で、発掘調査により礎石建物や地下式倉庫、巨石を用いた石垣、石組溝などが確認され、40数体もの笏谷石による大きな石仏が立ち並んでいます。
そして西山光照寺から博物館に戻って、一乗谷をひとめぐり。さすがに一乗谷城の出城にあたる小見放城や小城までは無理でしたが、城下で予定していたところはひと通り見て回ることができました。出城に加えて取りこぼしもいくつかありますし、100名城スタンプも押し忘れてしまったので再訪必須ですが、大満足の一乗谷でした。
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2025/01/02 08:47
とことん一乗谷(一乗谷川西岸) (2024/10/13 訪問)
(続き)
一乗谷川の西岸には武家屋敷に町家、寺院など城下町が広がっていて、復原町並以外の地区も発掘調査に基づき平面復原されています。
斉藤地区
朝倉館の対岸には小少将の父である斎藤兵部少輔の屋敷があったとされ、斉藤の地名が今に伝わっています。西側の尾根上には月見櫓を配し、復原町並から北にのびる道路には笏谷石の切石が踏石状に並んだ箇所も見られました。
雲正寺地区
一乗谷最大の支谷である八地谷に位置し、往時は谷の奥まで建物が建ち並び「八地千軒」とうたわれました。谷を流れる八地谷川には護岸石積が施され、川の中からは笏谷石製の巨大な石灯籠が出土しています(博物館に展示されていました)。また、八地谷川沿いからは一乗谷には珍しく掘立柱建物跡が多く確認されています。
赤渕・奥間野・吉野本地区
いわゆる平面復原地区で、町家は溝で区画され、それぞれに井戸やトイレを備えていました。鋳物師や檜物師、念珠挽、鉄砲鍛冶など職人の町家や工房をはじめ、武家屋敷、医師の屋敷、寺院や墓地などが確認されています。復原町並にもあった紺屋の大甕も見られました。
朝倉景鏡館(中惣)
五代・義景の従兄弟である朝倉景鏡の館と伝わる朝倉館に次ぐ規模の館跡です。発掘調査により礎石建物、堀と土塁が確認されていて、南辺と北端に土塁と堀が復元されています。館跡に立ってみるとかなりの広さがあり、これだけの実力者に裏切られたら滅亡も避けられないよなぁ…などと感じました。
瓢町地区
溝で区画された商人や職人の町家のほか、上流階級と思しき大きな区画が確認されています。二連式のかまどがある区画はカワラケ職人の住まいと考えられ、一乗谷での儀式や宴会で使う品を作っていたのでしょうか。
瓢町からもう少し行くと下城戸に至ります。ずいぶんと日が傾いてきましたがもう一息です(続く)。
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2025/01/01 15:41
とことん一乗谷(一乗谷川東岸) (2024/10/13 訪問)
(続き)
庭園めぐりと並行して一乗谷の他の見どころもめぐっています。一乗谷川の東岸から山手にかけては朝倉氏一族や重臣の館が多く見られます。
一乗谷文化祭
この日は唐門前広場において一乗谷文化祭が開催されていました。半日のみの滞在では時間の余裕がなく出店をひととおり見て回っただけでしたが、一乗谷散策中にもステージの音声はよく聞こえてきたので、文化祭の雰囲気だけは感じられました。
中の御殿
五代当主・義景の母である高徳院の屋敷跡で、湯殿跡庭園と諏訪館跡庭園の間に位置します。北辺は朝倉館の空堀、東辺から南辺は土塁で囲み(西辺は斜面)、南側の道路に面して南門が設けられています。屋敷内には発掘調査により礎石建物や庭園が確認されていて、礎石列や庭園の水路跡を見ることができました。東辺の土塁上には展望所が設けられ、一乗谷を一望することができます。中の御殿も諏訪館も高台に設けられていて、今も昔も町を見下ろす高台は高級住宅地なんだなぁ、と。
英林塚
覆屋の中に笏谷石の宝篋印塔が建つ初代・孝景の墓所で、法名にちなんで英林塚と呼ばれます。中の御殿の展望所からさらに登ったところにあり、英林孝景はここから自らが開いた一乗谷の栄枯盛衰をどんな思いで見守っていたのかな、400年を経て町並が復原されて多くの人が訪れるようになるなんて思いもしないよな、などと考えつつ手を合わせていました。
米津
諏訪館の西麓、一乗谷川沿いの土塁をめぐらせた地区からは発掘調査により刀装具やガラス製品の工房跡が確認されています。そういえば博物館には刀装具やガラス製品の製作工具が展示されていたような……またの機会には改めてよく見てみたいと思います。
瓜破清水
南陽寺の北麓には朝倉氏の御膳水に供したと伝わる瓜破清水が今なおこんこんと湧き出ていて、生活用水として利用されています。一乗谷城の千畳敷手前にある不動清水から銅の筒で水を引いていたという伝承もあるようです。
権殿
朝倉権ノ頭の屋敷跡とされ、発掘調査では土塁と道路で区画された中規模武家屋敷と下級武士や町人の小規模な屋敷が確認されています。ほとんどは埋め戻されていますが、わずかに築地塀跡や門跡が見られます。一乗谷城への大手道の入口脇にあり、重要な位置を占めていたものと思われます。
出雲谷
下城戸の対岸南側には魚住出雲守の屋敷跡があったことから出雲谷と呼ばれています。一乗谷古絵図には朝倉斎兵衛、佐々生光林坊らの名前も見られ、北部の守りを担っていたようですが、今回は時間に余裕がなく未訪です。
一乗谷川の西岸には復原町並を含め、城下町が広がっていますので、そちらにも(続く)。
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朝倉氏の館だけでなく、城下町と周囲の山城を含む縄張までが一乗谷城と呼ばれている。織田信長の侵攻によって灰燼に帰したが、武家屋敷や町屋群が復元整備されている。また、平面表示された朝倉氏館跡でも、約80m四方の居館を土塁と堀で囲んだ当時の雰囲気が伺える。
城地種類 | 山城 |
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築城年代 | 南北朝時代 |
築城者 | 朝倉氏 |
主要城主 | 朝倉氏、桂田氏 |
文化財史跡区分 | 特別史跡(一乗谷朝倉氏遺跡)、特別名勝(庭園)、重要文化財(遺跡出土品) |
近年の主な復元・整備 | 桂田長俊 |
主な関連施設 | 侍屋敷、町家、庭園、石碑、説明板 |
主な遺構 | 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)、虎口、門 |
住所 | 福井県福井市城戸ノ内町 |
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問い合わせ先 | 福井市教育委員会事務局文化課 |
問い合わせ先電話番号 | 0776-20-5367 |