岡崎城は前期と後期に分かれ、前期は岡崎義実によって岡崎神社を中心としたあたりに築かれたとされています。後期(戦国時代)は無量寺を中心とした大規模な範囲に築かれていたようです。後期の城は三浦氏の持ち城とされ、養父の三浦時高を滅ぼした(!)三浦道寸(義同)が居城としたとされます。小田原城を奪い相模平定を狙う伊勢宗瑞に狙われますが、堅固な岡崎城を攻めあぐね17年もの間にらみあいが続いたそうです。その岡崎城も永正9年(1512)ついに落城し、道寸は逃れますが、永正13年に新井城にて一族とともに滅びたそうです。位置的に無量寺が主郭と見られ、背後(西側)に堀切が見られます。西側から南に曲輪が続いているようですが、一度寺から出て、北側から細い道を回り込んでいきます。細い道から折り返すように上に道が続いているので、登っていくと堀道の右手に扁平地がいくつかあ有りました。これらが曲輪跡と見られ、一部は畑になっているようです。これらの曲輪は進入禁止になっているので、ひとしきり確認した後は、堀を登って無量寺に戻りました。
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