中城城の続き(3/3)です。護佐丸はなぜ戦わなかったのでしょうか?
護佐丸にも阿麻和利には不穏な動きがあり、いつ攻めてくるかわからないという情報は当然入っていたと思います。であるにもかかわらず、なぜ月見の宴などを開いていたのでしょうか?
阿麻和利が護佐丸を攻めている頃、阿麻和利に嫁いだ王の娘の百十踏揚は、密かに勝連城を抜け出して首里城へ行き、父(国王)を騙している本当の裏切り者は夫の阿麻和利であり、今まさに祖父の護佐丸を殺そうとしている事、また護佐丸の次は父を殺して琉球王国を乗っ取ろうとしている事を、父である国王尚泰久に伝えます。真の裏切り者を知った王は激怒し、百十踏揚の付人(後の夫)である「大城賢雄」(うふぐすくけんゆう)を総大将とした阿麻和利討伐軍を送り、阿麻和利を滅ぼしたのでした。
私は最後に、中城城から勝連城を眺めてみました(写真③)。それから護佐丸の墓を訪れてみました。日本最古の亀甲墓だそうです。中城城の入口から道路の反対側の狭い道を入り、さらに階段を100段くらい登った人目につかないような場所にひっそりとありました(写真①②)。そして墓の前に立ち考えてみました。なぜ護佐丸は戦わずして自害したのでしょうか? その理由を、墓の前に咲いていた桜が、教えてくれたような気がしました(写真④)。
護佐丸(享年68才)、彼は本当に反逆者だったのか、それとも真の忠義者だったのか? 彼の死は、今でも沖縄永遠の謎として、語り継がれています。
最後に番外編です。
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