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イオ

久能山東照宮 (2023/08/05 訪問)

観応の擾乱や花倉の乱で久能山に立て籠もったとする記録がありますが、恒常的な城郭としては戦国末期に駿河国に侵攻した武田信玄により築かれました。その後、江尻城の穴山梅雪が徳川家康に降伏したことに伴って開城。家康が関東に移封されると駿府城に入った中村一氏の支配下となるも、中村氏の米子移封により再び徳川方の城となり、家康の遺言によって久能山東照宮が造営されたことで城郭としての役割を終えました。

真夏でもあり日本平ロープウェイも考えましたが、比高200mくらいなら…と表参道側から登城開始。早川農園第4駐車場(一日100円)に車を駐めて歩いて行くと、そそり立つ岩山の上に一ノ門が覗いています。本殿前まで1159段あると云われるつづら折りの表参道の石段を登ること約10分で一ノ門に到着。一ノ門は久能山城の大手門跡と考えられますが、現在の門は明治に平屋で再建されたもので、かつては櫓門だったようです。一ノ門が修復工事中だったのは残念でしたが、門前からは青く広がる駿河湾が一望でき、ここまで歩いて登ってきた甲斐がありました。

一ノ門から東照宮に向かう参道の両側には削平地が設けられ、久能山城の曲輪跡と思われます。久能山東照宮博物館南東下段の勘介井戸も往時の遺構と考えられ、山本勘助が掘ったと伝わりますが、駿河侵攻は第四次川中島の戦いの後だから…?? あちこちに立てられた説明板には東照宮だけでなく久能山城の記述も見られます。ロープウェイ久能山駅から二の丸の石垣が見られるようなので行ってみましたが、構内からしか見えないようで断念しました。

そしていよいよ本丸跡に建つ久能山東照宮に向かいます。石段を上り朱塗りの楼門をくぐると、神厩、鼓楼、神饌所、神楽殿、神庫、日枝神社に唐門と建ち並ぶ重要文化財に、とどめは国宝の御社殿。絢爛豪華、極彩色の御社殿にはただただ息を呑むばかりでした。続いて御社殿左手奥から家康が埋葬された地、神廟へ。絢爛たる御社殿から打って変わって、廟門を抜けると石灯籠の並ぶ参道は荘厳な雰囲気です。神廟は天下人の宝塔としては思ったほど大きくなかったものの、ここにあの家康が…と考えると何とも言えない感慨がありました。

東照宮を退出した後は共通券を買っておいた久能山東照宮博物館にも。撮影不可のため展示品の写真は撮れませんでしたが、家康所用の金溜塗具足に大黒頭巾形兜、金扇馬標、洋時計や目器、鉛筆等の日用品、歴代将軍の貫衆具足などなど、これまで幾度となく写真で見ていた実物を目にすることができ、大変見応えがありました。やっぱり久能山東照宮は徳川家にとって特別な地なんですね。

…ということで、久能山城としての遺構についても下調べしていたんですが、二の丸の石垣は見られず、北端の愛宕郭へのルートは見出せず、東辺の土塁への道は立入禁止で、不完全燃焼のまま終わってしまいました。ただ、それでも東照宮と博物館だけで2時間弱を要するんですから、久能山全体としては見応えたっぷり大満足でした。
 

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todo94

城址碑はまたの楽しみに (2023/10/29 訪問)

高松に泊をとっての朝駆けです。感応寺は叶堂城築城によって移転を余儀なくされましたが、廃城によって戻ってくることができたとのことです。小城小次郎さん投稿の城址碑は見逃してしまいました。次回、訪れた時の楽しみに取っておきたいと思います。

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しんしんちゃん

鮎崎城 岐阜県高山市大新町 (2023/11/04 訪問)

鮎崎城は高山市の櫻山八幡宮の北に位置する丘陵上に築かれていた城で、現在は城址公園になっています。主郭と覚しき場所は公園になっていて特に遺構は見当たりません。南側にある軍人墓地も郭の跡のようで、ひょっとしたらこちらの方が主郭かもしれません。鮎崎城は豊臣秀吉の命で金森長近が飛騨の三木氏を攻略した際、松倉城を攻めるために本陣を敷いた場所とされています。遺構は見当たらないのですが眺望に優れる場所で周辺の城を見渡せる好所に位置しています。高山は紅葉が早く観光客も多く来ているようです。ですが、鮎崎城や高山城にはあまり人がいないので貸切に近かったですね。

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しんしんちゃん

郡上八幡城はすごい人出だった。 (2023/11/03 訪問)

久々に郡上八幡城に行ってきました。司馬遼太郎氏いわく「もっとも美しい山城」というだけあって雰囲気は最高です。(模擬ですが)しかし人が多い。三連休の初日だからか、とにかく凄い人出で人と車で道がふさがって身動きが出来ない。えらい日に来てしまったなと思いながらも城に向かうことに。なかなか車が前に進まないのだけど、粘り強く待っていると中腹の駐車場に案内されます。山頂の駐車場はシャトルバスの影響で連休中は使えないようです。うう‥仕事の疲れが残っているのに‥。なんとか山頂の城までたどり着くと、なかなか紅葉がきれいです。一部は枯れているようで、あまり紅葉の当たり年とはいえないのですが、今年はこれで良しとしておきましょう。木造天守は相変わらず大人気で、ひとしきり楽しんだあとは天守裏の天正期の石垣を見に行きます。こんなところに人が来るとは思っていないのか足元がいささか危なっかしいのですが気をつけながら確認しました。次の日は飛騨高山です。こんな状態で大丈夫かと思いましたが行くしかないですね。熊が出るかもしれませんが秋の山城は捨てがたいのです。

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ぴーかる

安岐城 (2023/09/10 訪問)

【安岐城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅2日目12城目。国東半島までやって来ました。現地説明板によると安岐城は南北朝時代に田原氏が安岐郷に入り居館または城郭を構えたのが始まりとされます。戦国時代には田原氏は大友宗麟に攻められ落城し大友氏の城となります。秀吉の九州征伐後は熊谷直盛が15000石で入封します。熊谷直盛は城を大改修して現在想像される縄張りはこの時のものと考えられているようです。熊谷直盛は石田三成の妹婿で関ヶ原合戦に西軍として出陣中に黒田官兵衛に攻められて城は落城します。
 城跡入口から古城天満社までは主郭を囲む土塁遺構です。土塁東側の民家が主郭跡で土塁西側に深い堀跡がありますがかなり鬱蒼としています。現地説明板想像縄張り図に天満社の場所が天守となっています。主郭北側にも土塁遺構があるようですが民家の敷地になっており見ることはできませんでした。現在は城跡と海の間に国道が走っていますが当時は城の東側は海に面してしたようです。

<満足度>◆◇◇

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浅間山パパ

手入れの行き届いた城です! (2023/11/06 訪問)

管理が行き届き、説明資料も分かり安くて、お子様連れにもおすすめです。

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いんげん丸虫

国史跡 江馬氏城館跡 (2023/10/29 訪問)

標高802mの山城です。
戦国期に勢力を誇っていた江馬氏の城館跡。
山頂の主郭から派生する3方向の支尾根に
堀切、土塁など遺構があります。
麓の朝浦不動尊から観音めぐりコースの遊歩道
がありますが主郭まで1時間位歩きます。
少し荒れてるかもしれませんが、北尾根の中段
まで車で行けそうです。

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トク

77【関ケ原の26人】 (24) 島津義弘 (木崎原古戦場) (2023/10/17 訪問)

(24人目)島津義弘の続き⑧です。
木崎原古戦場へは、飯野から再び同じバスで前回の「えびの文化センター前」まで戻りそこから南へ川を渡り徒歩で20分です。古戦場見学後は、次の目的地へ行くため西へ徒歩30分かけJR吉都線「えびの駅」まで歩きました。

1571年に父の島津貴久が死去すると、日向の伊東義祐は薩摩へ進攻を開始、加久藤城を攻撃します。すると義弘は飯野城から出陣、木崎原(きざきばる)にて迎え撃ちます。しかしこの時、伊東軍3000人、対する義弘軍はわずか200人しかいません。圧倒的に不利な状況です。伊東軍は余裕なのか、暑さをしのぐため川で水浴びを始めます。これはチャンスと義弘は攻撃! しかし一撃するも多勢に無勢で反撃され、もはや絶体絶命! この状況で義弘が採った起死回生の策は・・・何とここで初めて島津家の秘策「釣り野伏せ」を使いました。 逃げるふりをして木崎原へ誘い込み、10倍以上の敵をここで取り囲んで大勝利し、島津義弘の名を全国に轟かせたたのでした!😯 そして伊東氏はこの敗戦をきっかけに没落の一途をたどっていきます。

その木崎原古戦場に行ってきました(写真①-⑥)。古戦場跡には記念碑が建てられ、義弘が立てたという伊東・島津両軍の戦死者を供養する六地蔵塔もありました。義弘は戦に勝っても死んだ者達への供養を敵味方分け隔てなく行っていたようです(写真⑦⑧)。

そこから「えびの駅」(写真⑨無人駅)まで歩き列車を待っていると、ホームの向こうには霧島連山が見え、噴煙がもくもくと上がっているのが見えました(写真⑩:活火山のようです)。

伊東氏に大勝利してから26年後、今度は一転して義弘は根白坂で豊臣軍に大敗を喫し、命かながらこの飯野城へ逃げ戻ります。その時、どんな思いで飯野城からこの霧島連山や木崎原を眺めていたのでしょうか? 島津家はこれから一体どうなっていくのだろうか? 自分も兄とともに降伏すべきかそれとも一戦交えるべきか、もし降伏すれば秀吉からどう処罰されるのであろうか? そんな不安な気持ちで・・・いっぱいだったのではないでしょうか?

次は、JRで松尾城に向かいましたが、その前に念願の根白坂にも行ってきましたので、その様子から先にお伝えします。
 

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イオ

武田氏の駿河国支配の拠点 (2023/08/05 訪問)

戦国末期に武田信玄が馬場信春の縄張により築いた城で、山県昌景を城主として駿河国支配の拠点としました。長篠の戦いで山県昌景が討死すると穴山信君(梅雪)が城主となり、東の北条氏、西の徳川氏に備えて大改修するも改修が間に合わず徳川家康に降伏して開城。家康が関東に移封されると駿府城に入った中村一氏の家臣・横田隼人が城主となりましたが、関ケ原の戦いの後、中村氏の米子移封に伴い廃城となりました。

巴川の蛇行を本丸を囲む水堀とし、丸馬出を3か所設けた平城でしたが、現在では本丸は清水江尻小学校、二の丸や三の丸は住宅地となっていて遺構は消滅しています。小学校の南東隅には江尻城跡の説明板があり、北東側の正門は「本丸門」と表示されていましたが、周囲をひとめぐりしても敷地内にあるという石碑は見付けられませんでした。小学校の北側には「二の丸町」の町名が残っており、本丸門の少し北に町名由来の説明板があります。小学校西隅の巴川沿いには「江尻城跡・江尻城復元図と小字名」の石碑が建てられていました。また、小学校南隣の魚町稲荷神社は穴山信君が江尻城の鎮護として造営したと伝わり、境内には江尻小学校を端緒とする日本少年サッカー発祥の碑が建てられています。

江尻城に続いては、ニッポン城めぐりのイベントスポットの三保松原(みほしるべ)にも行きましたが、松原は見事だったものの、期待していた富士山は雲がかかっていてよく見えず……残念無念。
 

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todo94

桜御門 (2023/10/28 訪問)

造田城の後、献血ルームオリーブでの献血前の攻城です。目的は再建相成った桜御門。中にも入れたし、パンフレットも手に入って言うことありません。献血の予約時刻までたっぷりと時間があったので和船玉藻丸の城舟体験も狙ってみましたが、生憎、すべての枠が埋まってしまっていました。桜御門に時間をかけすぎた所為かもしれません。城舟体験はまたの機会の楽しみに取っておきたいと思います。

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小城小次郎

不思議さに拍車がかかっている (2023/04/02 訪問)

一見すると典型的な中世武家居館だが地元にも主の名は伝わらずただ「長者屋敷」と呼ばれていた。土塁の内側に堀がある構造も不可思議ながら、掘ってみたら奈良時代の遺跡と判明したことで不思議さに拍車がかかった。

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しんしんちゃん

金森長近が最後に築いた城。 (2023/11/03 訪問)

小倉山城は長良川の東にある標高160mの小倉山に築かれています。関ヶ原の合戦で東軍に属し功績のあった飛騨高山城主金森長近によって築かれましたが、長近の死後2万石を分知され上有知藩主となった次男・長光がわずか6歳で没すると上有知藩は廃藩となり、小倉山城も廃城となったそうです。後の元和元年に尾張藩主徳川義直の直轄となった際に、かつての館跡に代官陣屋が置かれたそうです。最高所にある展望広場が主郭のようで模擬天守のような展望台が建っています。展望台の下にある陽だまり広場がかつての館跡らしく周辺に石垣が残っているようです。東側にある忠魂碑の周辺は他の場所より高台になっていて櫓台のようにも見えます。南にある大手周辺には大手門跡と石垣が残っているようですが今回は確認していません。角櫓もあるようなので三度目の訪城の際に見に行ってみようと思います。
ちなみに次男の長光ですが長近が80を過ぎてから生まれた子供だそうです。なんかいろいろと凄い話ですが、小倉山城が築かれたのと長光が生まれたのが同年(慶長10年・1605)なので実子に跡を継がせるために、この地に城を築いたのかもしれませんね。

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しんしんちゃん

山城としてはちょっと心もとない (2023/11/03 訪問)

関城は永禄8年(1565)織田信長が堂洞城を攻めた際に、関地方を治めた長井隼人が陣を張った山城と、展望台にある案内板に書かれています。現在ではハイキングコースになっていて登り口はいくつかあるようですが、私は南側のトンネルの右わきにある御嶽神社の階段から登城しました。最高部が主郭になっていて特に遺構は残っていませんが、東側と西側にいくつか郭らしき扁平地があり、西端の郭には展望台が建てられています。主郭の北東側にも帯郭らしき箇所があり、そこに竪堀が一本残っているのが唯一山城らしい遺構のようです。

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しんしんちゃん

樫大神の石碑が目印 (2023/11/03 訪問)

松倉城は木曽川の南の堤防の周辺に築かれていたようです。加賀国の守護職富樫氏の庶流の坪内氏の城で、小網島と松倉上の島との境にあった樫の大木が水陸の交通の目印になっていたとのことです。明治に建てられた樫大神の碑は木曽川の改修工事で当時より70~80mほど南に移動していますが、かつては樫の木の下に松倉城主坪内氏の墓があって、工事の際にたくさんの土器や人骨が見つかったそうです。城跡の西にある神明神社は坪内美濃守の産土神で松倉城の鬼門に相対する神社として崇敬を受けたと神明神社の案内板に書かれています。
上ノ島神明神社‥岐阜県各務原市川島松倉町2232−1

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朝田 辰兵衛

日本遺産 Festival in 桑都・八王子 (2023/11/05 訪問)

「東京文化財ウィーク」の期間だけフェンスが開く“あの城”に行くために東京に来たのですが,昨年の八王子博物館のイベントでの予告で「日本遺産 Festival in 桑都・八王子」と期間が被っているな…と思い,ちょっと眺めてみようと立ち寄りました。
メイン会場の「東京たま未来メッセ」はものすごい人だかりでしたが,八王子博物館に立ち寄ってスタートしたスタンプラリーのコンプリートのために行くしかなかったです…<苦笑>。他に「まちなか休憩所 八王子宿」の3ヶ所で。「高尾山 天狗」,「北条氏照」,「絹の妖精 シルク」のいずれかをチョイスして投函すると,返事が届くらしいです。私は「北条氏照」をチョイス。
ラストで「東京たま未来メッセ」に行ったら,スタンプ設置場所がわからないくらい激混み…。日本全国の遺産ブースは104つ。しかも,「東京たま未来メッセ」の中だけでのスタンプラリーも。さらに,クイズラリーまで!
越後への帰還日だったため,クイズラリーまでやり遂げる時間はありませんでした…<泣>。

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いんげん丸虫

白米城 岐阜県高山市 (2023/10/29 訪問)

黒洞城から北へ尾根続きの白米城(はくまい)。
18m x 16m の主郭を中心に4方向の支尾根に
堀切、段曲輪があります。遺構は薄れてきて
ます。

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いんげん丸虫

黒洞城 岐阜県高山市 (2023/10/29 訪問)

黒洞城(くろぼら)と名前がついてますが、
すぐ南にある白米城の一部と考えられます。
細尾根に小さい平場が並んでいます。
西斜面に大きな畝堀があるのが特徴的です。
西麓に獣避けフェンスがあり、そこから
入り直登します。

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カズサン

「史跡こぶしの名水」を訪ねたら今田城登城口 (2023/10/05 訪問)

 今田氏館を終えて、せめて「こぶしの名水」を訪ね様と脇の道を北進約100m程で、こぶしの木の在る名水スポットに到着(34°40'03"N 132°30'11"E)、既に先客の名水汲みパーティー3名、見ると今田城の案内板と碑が在る、此処が今田城の登城口かと、その時に初めて認識しました。
 今田城は広島県史跡今田氏城館跡に成ります。
 山城への登城は考えても居ませんでしたので、縄張り図付きの解説板と今田氏城館跡の城名石碑、今田城こぶしの名水の由緒、を撮り、登城口より少し進入して終わりました。名水の試飲はせず。
 此処で図らずも広島県北部未踏、登城の城7城目と成りました。
 
 こぶしの名水の由緒によると、昭和59年今田城主の末裔の方が夫々、山口県熊毛町、横浜から訪ねられて400年の眠りから覚めるきっかけとなり、地域を挙げて今田城の整備保存がなされて保存会も立ち上げる。(由緒抜粋)
 

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カズサン

立石垣積の今田氏館跡 (2023/10/05 訪問)

 吉川元春館、万徳院跡の立石垣を充分堪能し、同じ立石垣の在る県史跡今田氏館を初登城する、今回の広島県北部未踏、登城の城探訪6城目となります。

 住所:広島県山県郡北広島町今田133
 駐車場:今田氏館跡立石垣の東直近(34°39'59"N 132°30'13"E)、旧の道利用、数台可能。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、戦国の庭歴史館入手資料

 国史跡万徳院跡を終えて一旦吉川元春館へ戻り、国道433号線、国道261号線経由して地道を今田方向へ、史跡こぶしの名水の近くにナビを合わせて走行、手前に案内板指示板があり、右折北進すると立石垣が目に入る、傍の旧道を利用した駐車場に駐める。
 
 今田氏館は史跡吉川氏城館跡群22ヶ所の内の一つ、県史跡に成っています、ただし残念な事に立石垣塁の前に産業廃棄された部材が散乱して石垣が良く見えない、写真撮影がしずらい、廃材を写らな様に撮るのも一苦労、規模は小さいが、この地方特有の立石垣積である、内部は田圃に成っている、説明板に左奥に庭園があると記載されているが畦道、奥の畔と草が茂り探訪を諦める。
 

 

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イオ

整備事業中 (2023/08/05 訪問)

江戸中期に松平信治が築いた駿河小島藩1万石の陣屋で、瀧脇松平氏のもとで明治まで続きました。明治には小学校として活用されましたが、小学校の移転に伴って解体され、御殿書院のみが移築されていたところ、小島陣屋跡整備事業の一環として、御殿書院の陣屋跡への移築復原工事が進められています。

裏門側に整備された駐車場に車を駐めて登城開始。裏門跡の説明板を確認し、裏門南側の順路の案内サインから陣屋内へ。このあたりは藩士の屋敷地で、低い石垣で区画され、東側には小島集落の眺望が開けています。大手門跡を過ぎ、順路に従って坂道を下って行くと主郭石垣に沿って順路が分岐しており、主郭石垣の上には素屋根で覆われた御殿書院が覗いています。順路をさらに下り、分岐を表門へ。表門は小規模ながら枡形虎口になっています…って、1万石の小藩の陣屋に枡形虎口!? 表門を抜けると、大手通路沿いに石垣が登り石垣状に続いています。これまた小藩の陣屋とは思えない見事な石垣です。陣屋の東下には馬場が広がっていたようですが、現在は民家が建ち並んでいます。崩落があったのか民家背後の土手にはブルーシートが掛けられていました。分岐まで戻って、今度は陣屋の南側を別当沢沿いに西側へ。主郭の南下から西下にかけては石垣により階段状の曲輪群が設けられています。別当沢はなかなかの深さがあり、西辺と南辺の天然の堀となっています。順路は西端から主郭へ続き、主郭では発掘調査に基づいて御殿書院が移築復原工事中でした。

主郭では御殿書院の移築だけでなく御殿跡・宝蔵・石段の平面表示が計画されており、大手門跡の平面表示や礎石の復元、裏門側には井戸跡の整備、多目的広場や駐車場、ガイダンス施設の整備も検討されているんだとか。真夏でも草は綺麗に刈られ、しっかり整備されていましたが、これからさらに整備が進むようですので、いずれまた再訪したいものです。

…ということで、4年ぶりの遠征です。主目的はニッポン城めぐりのイベント「家康公が愛したまち静岡 ゆかりの地めぐり」ですが、イベントスポット(清見寺)が近くにあることでもあり、以前から行ってみたかった小島陣屋からスタートしました。
 

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