みぶじょう

壬生城

栃木県下都賀郡

別名 : 馬蹄城
旧国名 : 下野

投稿する
精忠神社
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんちゃん

精忠神社 (2024/09/14 訪問)

壬生城は文明年間(1469~86)に壬生綱重によって築かれたとされています。戦国時代に100年もの間、壬生氏の城として存続しますが、豊臣秀吉の小田原攻めに際して壬生氏も滅んだとされます。江戸時代には日根野氏一万石、阿部氏二万五千石、三浦氏二万石、松平氏四万二千石、加藤氏二万五千石と次々と城主が変わりましたが、正徳2年(1712)鳥居忠秀が近江水口から移封してきてからは明治維新までの160年もの間、鳥居氏三万石(実質四万八千石)が代々の城主となりました。
かつては本丸の周囲を二の丸、三の丸が囲み、東郭、下台郭、正念寺郭の六つの郭で成り、各郭は土塁と堀で囲われていたようです。また東郭の先の大手門は丸馬出しのようになっていたようです。現在は本丸周辺が壬生城址公園として整備されていて、鳥居氏が転封してきた際に建てられた精忠神社は鳥居元忠公を祭神として祀っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

お堀の鯉。 (2023/10/04 訪問)

昨日 投稿した『精忠神社』の後「壬生城」へ。
鳥居 元忠さんの三河魂を教えていただき、転戦です。

「壬生城」は壬生氏が築城しました。
秀吉さんの北条討伐中に、壬生氏は病死し滅亡します。
家康さんが関東に入ると、結城 秀康さんが「壬生城」に入ります。
その後、城主がいろいろ変わりました。
日光に参詣する歴代将軍が「壬生城」の御殿に宿泊したんだそうです。
その御殿の広さ、563坪990畳。全然、想像ができません。
1712年に鳥居 忠英さんが治めました。明治の世まで、8代続きます。

『精忠神社』から水堀が見え左折。本来、駐車場がある方から入城すれば、二ノ丸表門が見られます。
水堀で何やら動きます。
鯉です。
ちょっと手を叩いたら集合しました。歩けば鯉も移動します。、、、エサないのに悪い事しました。
水堀をカクカクと曲がり本丸跡へ。土塁が見られます。敷地内には公民館や資料館、噴水もあります。芸術的な銅像もあり、何か違うと思い引き返しました。
玄関石なる古墳の石室内にあった石がありました。
なぜ、本丸に?なんだか、盛りだくさんな「壬生城」です。
鯉とばかり遊んでいたので二ノ丸表門や礎石は見落としました。
堀の石垣が、石垣風だったので、公園を散歩したような「壬生城」攻めでした。
、、、反省してます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

番外編『精忠神社』の巻き。 (2023/10/04 訪問)

大河ドラマ『どうする家康』、そろそろ関ケ原の戦いに向けてドラマが進行してきました。
その前に、石田 三成さんVS鳥居 元忠さんの、伏見城の戦いがあります。
上杉討伐に主力を注ぎたい家康さん。でも、伏見を空にする事ができない、、、。
と、元忠さんは、捨て駒になることを立候補し、伏見城の戦いで散りました。

「壬生城」の駐車場へ車を入れる時に、『鳥居 彦右衛門 元忠公』の大きな看板が目に入りました。
『なぜ、彦?』とドラマの観すぎな呼び方をして、見れば鳥居 元忠公をお祀りする『精忠神社』でした。
長い参道の先に山門があり、奥に神社がありました。
近くに、元忠公の血のつく畳が供養されてます。
雨のせいか、ひっそり寂しく感じます。

三河魂と忠誠心。
鳥居 彦右衛門 元忠公の『精忠神社』、「壬生城」と一緒にいかがでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

でっかい礎石を見逃した (2023/03/11 訪問)

保存工事の方法論はともかくとして本丸土塁はよく残っているし二の丸模擬門も本格的だし城下にもお城の遺構が点在する楽しいお城。初回訪問時にあんなにでっかい大手門礎石を見逃していたことに我ながらびっくりした。

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 壬生綱重
築城年 文明年間(1469〜1487)
主な城主 壬生氏、結城氏、日根野氏、阿部氏、三浦氏、松平氏、加藤氏、鳥居氏
遺構 曲輪、土塁、横堀
再建造物 二の丸門、説明板
住所 栃木県下都賀郡壬生町本丸1-8-33
問い合わせ先 壬生町商業観光係
問い合わせ先電話番号 0282-81-1844