続日本100名城

さどわらじょう

佐土原城

宮崎県宮崎市

別名 : 田島城、田島之城、鶴松城、松鶴城
旧国名 : 日向

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佐土原城
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トク

94【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城④-豊久と日本最南端の天守台) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑦です。佐土原城の本丸に到着しました。

ここは日本最南端の天守台で有名です(写真①②③④)。ここにはいったいどんな天守が建っていたのでしょうか? 古絵図には天守が描かれており金箔瓦も出土されたため(写真⑤)、ここに天守が建っていた事は間違えないようです。しかし、その天守が二層であったか三層であったかなどの詳細はまだ解っていないそうです。金箔瓦は秀吉から許された者にしか使えないので・・・となると🤔? 発見された瓦は、家久か豊久の時代の瓦という事になるのでしょうか? 見ているだけでなぜか想像をかき立てられます。

島津豊久は、根白坂の戦いの翌年に死んだ父の家久の跡を継ぎ、18才で城主となります。そしてここから叔父の義弘と共に秀吉の命で二度朝鮮へ出兵して行きました。そして二度目の慶長の役から帰国後しばらくして、1599年大坂へ参勤中に島津家の内乱「庄内の乱」が勃発します。豊久は家康から「薩摩の当主義久とよく相談しながらこの乱を鎮めよ!」と命じられ佐土原へ戻ってから薩摩へ行き、義久とともにこの乱の鎮圧にあたります。

そして1600年5月には乱も鎮圧し、当主義久(当時67才)に代わって家康へその報告をするため再び大坂へ戻ります。しかし、そこで何と関ケ原に巻き込まれてしまう事になるのです。

私は、佐土原城の本丸から佐土原城下を眺め考えてみました(写真⑦)。義久とともに乱を鎮圧した豊久は、大坂へ旅立つ前日、どんな思いでここにあった天守から、同じようにこの城下を眺めていたのでしょうか? この後、まさか関ケ原で戦が起こり、自分がそこに巻き込まれるとは、まして生きて再びこの佐土原の地へ帰る事ができぬとは、思ってもいなかったのではないでしょうか?

乱の状況やいきさつを、どのように家康様に報告し、どうやって内乱を起こした島津家の恥を詫びればいいのか? その事で頭がいっぱいのまま、大坂へ旅立って行ったのではないでしょうか?・・・

次は、豊久が関ケ原へ巻き込まれる事になった要因で、庄内の乱の舞台となった「都之城」を訪れます。


【余談】宮崎名物「チキン南蛮と冷汁」
宮崎駅前で、以前から気になっていた宮崎名物「チキン南蛮と冷汁」の定食を食べてみました(写真⑩)。冷たい冷汁に薬味をのせてごはんの上にぶっかけ、タルタルのチキン南蛮と合わせて食べるようですが、食べてみると(うわ最高!)。歩き疲れた体に冷汁がしみわたり胃も元気回復、さらに少し揚げた南蛮に甘酸っぱいタルタルが口の中に広がり・・・思わずビールをもう一杯おかわりしてしまいました(😊笑)。
 

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トク

93【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城③-登城路) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑥です。関ケ原当時の居城「佐土原城」に登城してきました。その登城路の様子です。鶴松館の横から登ります。

大手道はまだ通れないとは書かれていましたが、ロープなどによる規制もされてなかったので、行ける所まで行ってみようと思い入ってみました(写真①)。イノシシに注意??(写真②)。確かに秋は猪が餌を求めて現れる季節なのでここは注意して登ります(注:訪れたのは秋です)。

途中の土壁に囲まれた登城路は結構な迫力がありました(写真④)。少し風化されていてVの字になっていますが、当時は垂直に掘られていたと思います(垂直に深く掘るのが島津の特徴です)。家久・豊久もこの道を何度も通ったのかと思うと、ちょっと感慨深かったです。

途中ブルーシートがかけられた崩落個所がありましたが(写真⑤)、特にロープもなく何も問題なく通れそうだったで通ってしまいました(すいません。簡単に通れたので。そしてこの一箇所だけでした。)。

帰りは中の道の方から下りました(写真⑩)。途中虎口の跡(写真⑥⑦)や城門の痕跡(写真⑧⑨)も残っていました。

次は、(豊久と日本最南端の天守台)へ続きます。


【余談】熊と猪(イノシシ)
九州には野生の熊はいません。熊本にぬぐるみを着た公務員の熊が一匹いるだけです(笑)。しかし野生のイノシシは住宅地に近い山間部でもいる事があります。私も親の大きなイノシシに遭遇した事はまだありませんが、子のイノシシ(うり坊)には何度か遭遇した事があります。例えば、大野城のキャンプ場でキャンプをしていた時、うり坊が私の足元まで来て焼けた肉を盗み食いしていきました。この時、威嚇したり攻撃したりしてはいけません。必ず近くに親のイノシシが潜んで見ているかもしれないと思った方がいいです。うり坊は人間を攻撃してはきませんので、あわてずに少し離れて距離をおき、だまって好きなようにさせて見送る事です。焼肉のたれも好きなようで、たれの皿まできれいに舐めて帰っていきました。でも内心は「俺の肉返して~😭」です。
 

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トク

92【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城②-天昌寺(家久豊久墓所)) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き⑤です。鶴松館・いろは館から南へ300m程行った佐土原中学校の横から奥に入った場所に、島津家久・豊久の墓所があるので先にちょっと見てきました。

ここには佐土原島津家の菩提寺である天昌寺がありました。しかし、明治政府に反旗を翻した島津家に関わりのある寺は、全て政府により破壊されたためここも例外ではなく、今では墓石のみがひっそりと残っている状態でした。

入口には説明板がありました(写真①)。その入口にはなぜか?山羊がいました(写真②)。そこから細い道を100m程行くと墓地があります(写真④⑤)。関ケ原で豊久とともに壮絶な討死をした家臣たちの墓もありました。豊久も家臣からずいぶんと慕われていたようです。でも全く人目につかないような、このような奥まった場所にひっそりとあったので、なぜか少し悲しい感じがしました。

次は、豊久の居城(佐土原城)に、鶴松館の横から登ります。
 

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トク

91【関ケ原の26人】(25)島津豊久 (佐土原城①-鶴松館・いろは館) (2023/11/04 訪問)

(25人目)島津豊久の続き④です。関ケ原当時の居城「佐土原城」を訪れてきました。

宮崎駅または宮交シティ(南宮崎駅前)から出ている橘通り経由「西都(さいと)」行のバスに乗り40分、「交流センター」で下車すると目の前が佐土原城「鶴松館(かくしょうかん)」と城の駅「いろは館」です(写真①②⑦)。

父の家久には1584年沖田畷の戦いで龍造寺氏を破った功績で、ここ佐土原の地が与えられます。そして1587年豊臣との根白坂の戦いに敗れるも、秀吉より佐土原の地を安堵されますが、翌年に突然の病で亡くなってしまいます。そこでまだ18才であった嫡男の豊久が後を継ぎ佐土原城主となりました。

当時は鶴松館の背後一帯の山が城で、山頂に天守があり、関ケ原で豊久が亡くなると豊久に嫡子がなかったため、家康から叔父の島津以久(これひさ)に与えられ、似久が初代佐土原藩主となりました。そしてその子(2代藩主)忠興が山頂は不便なため麓に館(鶴松館)を構え居を移し、その館が現在再建されています。

スタンプは(いろは館)(鶴松館)どちらでも押せますが、鶴松館は土日祝しか開館していないので注意です。私はまずいろは館に行き荷物を預ける所がないか聞くと、気さくな店員さんで「うちで預かりますよ、パンフレットもよければどうぞ!」と無料で預かってくれました(ありがとうございます)。おかげで身軽で登城する事ができました。おいしそうなお弁当が売られていてイートインコーナーもあったので、そこで食べてから登城しました(この手作り弁当おいしかったです😊写真⑩:登城後に食べたソフトクリームも)。

いろは館の前には記念撮影用のコーナーもありました。豊久は美男子だったとの説があり、それでコミックの主人公にもなったようですね(写真⑧)。訪れたのは秋で、ちょうどいろは館の前はコスモスが綺麗に咲いていました(写真⑨)。

まず登城前に鶴松館に入りました(写真③)。入口から入ると大広間があります(写真④)。ここは藩主の対面の場に使われていたようです。さらに庭園を眺めながら(写真⑤)その廊下を渡った奥の書院は歴史資料館になっていて、佐土原城の歴史(伊東氏の時代から島津氏の時代と西南戦争まで)が展示説明されています。また佐土原城登城路の様子がビデオなどで解説されてますので、登城する前に先に見学される事オススメです(写真⑥)。

次は、佐土原城に登城する前に、家久・豊久の墓が近くにあるのでちょっと先に見てきます(続く)。
 

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城郭情報

城地種類 平山城
築城年代 建武年間(1334〜1336)
築城者 田島休助
主要城主 田島休助、伊東氏、島津氏
文化財史跡区分 国史跡(佐土原城跡)
天守の現況・形態 型式不明[3重/築年不明/破却]
主な関連施設 復元御殿、碑、説明板
主な遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、天守台
住所 宮崎県宮崎市佐土原町上田島追手
問い合わせ先 宮崎市教育委員会文化財課
問い合わせ先電話番号 0985-47-8012