現地案内板によりますれば、打越城は菊池十八外城の一つとされ、台城と共に守山城の西・北の敵に備える要衝とされています。代々菊池方の城で林原与三隆益一族(原文まま)が防備に当たったとのことです。天授5年(1379)三万の軍が投入された今川了俊との闘い(板井原の戦い)で落城しました。
菊池氏が滅亡したのちは怒留湯(ぬるゆ)氏が城主となりました。
丘陵先端部を南北に縦断する道路の東脇から城址碑と案内板のある場所へ道が続いています。この周辺に遺構らしきものはありません。
道路の北側から東に分け入ってしばし散策すると、林の中に土塁の様な物が見えますが、城址との関連は不明です。
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