おかわちじょう

大河内城

三重県松阪市

別名 : 大河内御所
旧国名 : 伊勢

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西の丸への堀切
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しんちゃん

鹿に遭遇。 (2024/09/28 訪問)

大河内城は阪内川に矢津川が合流する丘陵上に築かれています。「伊勢国司記略」には伊勢国の国司・北畠満雅が北朝方の足利軍との戦いに備え、弟の顕雅をこの城に籠らせて以降、その子孫は代々この城を拠点とし、大河内御所を称したとされます。
永禄12年(1569)に織田信長が侵攻して来た際に、伊勢国司北畠具教はこの城を拠点として立て籠り対峙し、信長の次男・信雄を養子に迎え家督を譲ることで和睦しました。
城址は比高40mほどの平山城で大手は北に付きますが、南の搦手から入ります。二の丸の背後を迂回し馬場を経由して直接本丸に取りつきました。ちょっと行儀が悪かったかもしれません。本丸の背後(西側)には堀切を隔てて西の丸が有ります。個人的には西の丸の方が雰囲気が有って好きです。途中で鹿に遭遇しましたが、速攻で逃げられました。う~ん、鹿肉が食べたくなってきたな‥。

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イオ

搦手側(本丸~西の丸~出丸) (2024/04/27 訪問)

(続き)

馬場を南に抜けて登城道西側の鳥居をくぐると南側に二の丸、御納戸と呼ばれる曲輪が続き、切岸に沿って南に回り込むと本丸に至ります。本丸は大河内神社の境内地になっていて、入口の鳥居の脇に大河内城阯碑、境内に大河内合戰四百年記念碑や大河内城跡の説明板が立てられています。本丸と西の丸の間にはマムシ谷と呼ばれる谷が入り込んでいて、その南端の堀切に架かる橋を渡って(その前に堀底にも下りて)西の丸に向かうと、西の丸にも社殿が建ち、周囲の切岸の下には腰曲輪が広がっています。西の丸から北と北西に派生する支尾根には堀切を設けて北からの侵攻に備えていました。

西の丸から登城道まで戻って搦手側へ。二の丸には表忠碑が建ち、その南側は切通道状の堀切になっています。切通道を西に少し行くと井戸跡がありますが、現状では井戸というより貯水池のようです。堀切から南東に続く道が搦手道で、搦手門跡の石碑が立てられていました。堀切を越えて南に続く尾根には出丸と呼ばれる曲輪があるようなので上って行ってみると、尾根沿いに小さな曲輪が連続し、幾条かの堀切が設けられていました。

「三重の山城ベスト50を歩く」の縄張図によれば、南尾根のさらに南西、高速道路を越えたところにも物見台的な曲輪群があるようなので向かってみましたが、アンダーパスで高速を抜けたところで道が途絶え、道の終端には巨大な獣のフン…。天花寺城でのクマ疑惑もあることだし、苦労して直登したところで、どうせ曲輪らしき平坦地があるだけで目立った遺構はないだろう、と自分を納得させて(すっぱいブドウ)、ここまでとしました。

よく整備された登城道や本丸周辺では城郭遺構はあまり見られない一方で、案内されている登城ルートを外れた先には堀切や竪堀などが見られますので、ぜひ山城シーズンに装備を整えて挑戦してみて下さい。あとは、火薬庫の笹藪をまた刈ってもらえると嬉しいんだけどなぁ…。
 

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イオ

大手側(大手口~馬場~火薬庫) (2024/04/27 訪問)

室町中期に伊勢国司・北畠満雅が築いた城で、弟の北畠顕雅が入って大河内御所と称しました。東は阪内川、北は矢津川、西と南は深い谷に囲まれた要害の地であり、織田信長の伊勢攻めでは北畠具教が多気(霧山城)から大河内城に本拠を移して籠城するも、信長二男の茶筅丸(後の織田信雄)を養子として家督を譲る条件で和議となりました。その後、信雄が田丸城に居城を移したことにより廃城となったようです。

大河内地区市民センターの駐車場から登城開始。駐車場の国道沿いには大河内城跡の説明板と石碑が立てられています。市民センター前には大河内城の資料や縄張図、手書きの御城印が備え置かれ、大まかな位置関係がわかる案内図も掲示されているので、ここで登城前の情報収集をおすすめします。

案内図の順路に従って北側の大手口から登城します。大手道は城内に大きく切れ込んだ谷筋を上って行き、両側の支尾根から狙われ続けている感があります。大手道にせり出した曲輪からも麓を回り込む間ずっと横矢が掛かる造りになっていました。大手道を上りきったところには馬場と呼ばれる広大な曲輪が広がっています。馬場のあちこちに石垣が見られますが、畑地として改変された際のもののようです。馬場からは大手口の東側と西側に支尾根が派生し、東側の支尾根にはいくつかの曲輪が連なっているほか目立った遺構は見られませんでした。西側の支尾根は付け根に土塁(土壇)があり、その先には小曲輪群と堀切や竪堀が見られました。大手口を見下ろす位置にあることから、堀切付近に散乱していた石は投石用のつぶて石と思われます。

大手口西支尾根から馬場北辺の犬走りを通って北西端の火薬庫へ。馬場の北西端は堀切(石垣は後世の改変と思われます)で区画し、堀切の北側は竪堀となっています。そして火薬庫と呼ばれる曲輪の手前には城内最大規模の大堀切がある…にはあるものの、笹に覆われてしまっています。火薬庫は三方を土塁で囲んだ造りのようですが、笹藪に沈んでいてよくわかりません。それでも笹藪は堀切周辺だけかもしれない、と笹藪に突入して土塁上を半周するも、笹藪が途切れることはなく、土塁上にあるというつぶて石の集積場も見付けられませんでした…。「松阪の城50選」には笹藪が刈られた状態の火薬庫の写真が掲載されていますが、その後また伸び盛ってしまったようです。

火薬庫から馬場まで引き返して、今度は本丸に向かいます(続く)。
 

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カズサン

伊勢未踏の城廻りⅨ 北畠氏の城郭夕刻で本丸まで (2021/04/10 訪問)

 夕刻木造城を終えて南へ約15km程、途中松坂城をかすめ松坂牛で有名な和田金前を通り国道166号線を走行し大河内城を目指す。
 駐車場は大河内市民センター駐車場を利用、国道166号線沿いに在り良く分かる砂利舗装で余裕の能力、大河内城の解説板在り。
 約5年前に霧山城北畠氏館庭園登城の前に国道166号線沿いの大河内城の存在を認識していましたが当日の目的地に入れて無く素通りしてしまいやっとの初登城。
 大河内市民センターで案内資料、御城印のセットをゲット、センターの通り横に登城ルート図あり、川を渡り西蓮寺前を通り案内板が有り搦手口より登城、搦手跡の石碑、登って丸石の石垣曲輪二の丸で忠魂碑が立ってる、鳥居を潜り馬場跡枝垂れ桜が名残の咲きごろ、西に本丸の城塁切岸が見える、裾に石垣の残りか散在する、本丸は神社が鎮座、結構広い、大きな大河内城址石碑、案内解説板も有る、一部ストロボ撮影する有様で西の丸以降はパスし下城する、坂内川の西丘陵を利用した大きな城郭です、夕刻で残念至極。

 歴史:応永22年(1415年)南朝の伊勢国司北畠満雅が築城し弟顕雅を入れ大河内氏と称する、時は移り永禄12年(1569年)信長の伊勢北畠氏攻略、信長軍包囲網5万と言われ、北畠軍8千北畠軍は50日余に及ぶ籠城戦に耐え、信長も長期化を恐れ次男信雄を養子に入れる事で和議を結ぶ、大河内城は開城し北畠具教は隠居、しかし天正4年(1576年)未瀬谷の地で具教は暗殺され北畠氏の歴史は閉じた。(大河内市民センターで頂いた資料より抜粋)

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 北畠顕雅
築城年 応永22年(1415)
主な城主 大河内氏、北畠具教、織田信雄
廃城年 天正4年(1576)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
指定文化財 県史跡(大河内城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県松阪市大河内町城山他
問い合わせ先 松阪市教育委員会事務局
問い合わせ先電話番号 0598-53-4393