息障院の境内は源範頼の館跡とされ周囲には土塁が残っています。吉見町の安楽寺(吉見観音)には範頼が稚児僧として長くこの地に留まったという伝承があり、本堂と三重塔を建立したと伝わっています。また、範頼の子供たちは助命され、子孫が吉見氏となり源氏の名門として続きますが、執権北条氏の時代に吉見義世が謀反の疑いで処刑され、吉見氏の嫡流は途絶えてしまいます。二代義春の弟で能登国に移った吉見頼宗の子孫が吉見氏の系統を継ぎ、能登吉見氏(もしくは武蔵吉見氏)として続いたようです。
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2024/12/18 23:00
蒲冠者 (2024/05/06 訪問)
息障院の境内は源範頼の館跡とされ周囲には土塁が残っています。吉見町の安楽寺(吉見観音)には範頼が稚児僧として長くこの地に留まったという伝承があり、本堂と三重塔を建立したと伝わっています。また、範頼の子供たちは助命され、子孫が吉見氏となり源氏の名門として続きますが、執権北条氏の時代に吉見義世が謀反の疑いで処刑され、吉見氏の嫡流は途絶えてしまいます。二代義春の弟で能登国に移った吉見頼宗の子孫が吉見氏の系統を継ぎ、能登吉見氏(もしくは武蔵吉見氏)として続いたようです。
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2024/07/06 16:55
源範頼館跡と伝わる (2024/06/08 訪問)
孫の行事参加も終わり浜松への帰路、以前より高坂氏館の堀・土塁を観たいと、行って見たい城に登録しており周辺未踏の4城を探訪へ、先ずは経路上、源範頼館へ初登城。
駐車場:館跡の息障院の南駐車用利用。
参考資料:余湖図コレクショングーグルマップに依る。
圏央道川島ICから北上し県道345号線と県道271号線の交差点を鋭角に南入、傍の用水が堀跡の様子、吉見幼稚園を東入りすると駐車場が有り、息障院の白壁が北に、山門の西に皆さん投稿されてる堀跡が良く分かります、石碑と息障院由緒が有る、参道の南に門柱前に源範頼館跡の石碑、山門に戻り西側の堀跡の確認、山門を潜り本殿に参拝、本堂の前の松が二本、一本は昇龍の様な姿、素晴らしい松の造りです。
北側東側西側は詳しくは探訪して居ません、樹木が茂っていますので堀跡水堀跡土塁が残って居るようです。
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2024/02/23 07:39
2023/03/25 14:45
周囲に微かに残る堀跡 (2023/03/22 訪問)
館跡は岩殿山息障院光明寺になる。山門前の案内によれば、天平年中(730年頃)の開創、または大同年中(806年頃)の開基と伝わる。境内地は源範頼の館跡といわれ県の指定史跡、本尊は不動明王像で県指定の重要文化財、地蔵堂は室町時代で重要建造物となっている。
参道入口手前、幼稚園側に駐車場がある。本堂裏手は遠慮したが西側は竹藪となり入れない。山門左手は堀跡が西へ延びている。東は消滅。境内西には北に向かう堀跡が確認できる。北側(道路)では水路なのか堀跡か分からないが、西の堀跡が来ている。北から東に回り込むと堀跡と思える水路が続く。
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分類・構造 | 平城 |
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天守構造 | なし |
築城主 | 源範頼? |
築城年 | 平安時代後期? |
主な城主 | 源範頼、吉見氏 |
遺構 | 横堀(空堀) |
指定文化財 | 県旧跡(伝範頼館跡) |
再建造物 | 石碑 |
住所 | 埼玉県比企郡吉見町大字御所地内(息障院) |
問い合わせ先 | 吉見町教育委員会生涯学習課文化財係 |
問い合わせ先電話番号 | 0493-54-9111 |