続日本100名城

つのむれじょう

角牟礼城

大分県玖珠郡

別名 : 角埋城
旧国名 : 豊後

投稿する
角牟礼城
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

にのまる

すごくよかったー! (2025/01/25 訪問)

九州城めぐり終盤でいちばん楽しみにしていたお城です。
角牟礼城といえばコロナ禍のしりとり序盤で連方屋敷に繋いで朝田さんに褒められた(^_^;)のと、todo94 さんが早々と出された札なのできっとすごいお城なんだろうなと、そんな印象でした。

宿泊地の大分から久大本線特急利用で豊後森。駅からは城下町の風情を感じながら歩きました。(まちなか循環バスは時間が合いませんでした。)
山麓の豊後森藩資料館でスタンプを押しつつ現況を伺い、手書きの徒歩登城地図をいただきました。手書きの地図は登城の“お守り”。とてもありがたく心強いです。

御長坂を登り、久留島陣屋址を左手に見ながら登城口へ。
お守り地図に〈ロープの道〉が書かれているのが心配でしたが岩盤登りなどではなくて、道迷い防止のロープで、30分かからないくらいで搦手に到着しました。

そして始まる石垣パラダイス🪨
山上に取り残された人工物でありながら数100年の時をかけて自然と融合、一体化しています。苔むした石垣群を見上げながら、未来永劫歴史遺産として、また何者にも容喙されない史料として在り続けてほしいと思いました。

本丸は石垣の解体修理作業中で立入禁止でした。
最近こんなふうに立入禁止に遭うことがよくあるのですが、“廃城後も修復が続けられてきたから名城としての姿を見ることができるのだよ”というメッセージを送られている気がします。

展望所へ続く遊歩道の途中の角牟礼神社は鎮西八郎こと源為朝を祭っているとのことでした。東京都コンプのために渡った伊豆大島で為朝館を訪問した記憶が蘇ってきました。

もう一度大手と搦手、井戸跡、穴生積み石垣を見に行ってから最後に(伝)三の丸へ。途中に竪堀もあり、大満足の見学となりました。


そして来た道を下山し……豊後森駅へ急ぎます。
急ぐならタクシーを使えばいいのですがドケチなので走ります💨
大分に戻る特急の時間まで20分くらいしかなかったのですが豊後森機関庫公園へ行きました🚂
機関庫も転車台も機関車も眼福で大変勉強になりました🫡

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

WEST

角牟礼城探訪 (2024/12/05 訪問)

角牟礼城を訪問しました。この城は戦国時代に大友軍が島津軍を退けた難攻不落の山城で有名です。また、城跡には文禄・慶長期の縄張りや穴太衆の石垣が残っているとのことで楽しみにしていました。
登城前に豊後森藩資料館を訪れ、パンフレットを入手しました。資料館では角牟礼城に関する展示もしてありますので、時間があれば寄るのも良いかと思います。お城の理解が深まると思います。
麓からの登城もできるとのことですが、今回は三の丸駐車場まで自動車で移動しての登城です。二の丸跡に向けて大手門跡に近づくと立派な穴太積石垣が迎えてくれます。この城跡の見どころの一つですね。
次に二の丸西曲輪を経ていよいよ本丸跡に着きます。ここまで三の丸駐車場から約15分程度の登城でした。
登城時は本丸跡は整備中で一部立入禁止となっていました。整備期間は確認できませんでした。
なお、自動車での三の丸駐車場までのルートは豊後森藩資料館の方に案内図をもとに丁寧に説明してもらいました。ただ、途中から道路が狭く対向車とのすれ違いに苦労するとのことで注意が必要です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

角牟礼城(2/2):久留島陣屋と一目八景 (2024/11/25 訪問)

麓の久留島陣屋跡に立ち寄ってきました。入口には「わらべの館」(スタンプ場所)があり、館跡一帯は公園になっています。公園からは、角牟礼城を見上げる事ができます(写真①)。徒歩で登城される方は、ここが登山口です。また公園の奥には、久留島陣屋時代の庭園(写真②)や、初代藩主「久留島長親」と思われる石像(写真③)もありました。

ここから北へ車で10分程走った所には、「一目八景」と言われる奇岩と紅葉の名所があり、せっかくなので行ってみましたが、紅葉はまだ色づき始めでした。それでも綺麗でした(写真⑤⑥⑦:見頃は来週かな?)。

そこからさらに西へ10分程走った所に、「後藤又兵衛」の墓という場所もありました(写真⑧⑨)。又兵衛は大坂夏の陣の時に、道明寺河原で討ち死にしたとされていますが、実は生きて落ち延びていたという伝説がこの地方にはあるそうです。それが本当なら、かつての居城「益富城」を目指していたのでしょうか? しかし、この地まで着くも、豊臣秀頼が自刃したと聞いて嘆き悲しみ、自らもここで自刃したと伝わっています。いったいどちらが本当なのか? 興味深い話です。

途中の玖珠で、大分名物「しらす丼とだんご汁」を食べました。これが大分の味! しんけんうまいっちゃ!(写真⑩:大分弁です)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

角牟礼城(1/2):三の丸から本丸へ (2024/11/25 訪問)

続100名城の角牟礼城を訪れて来ました。南側から車で登ると、三の丸まで行けました。そこから本丸まで徒歩8分です。まず三の丸の入り口には大きな巨石と櫓塀があったような跡があります。そこから二の丸へ上がる途中には竪堀の跡が・・。この斜面にはかなり大規模な畝状竪堀があったと推測されます。さらにその上には切岸も多数ありました。そして二の丸には、高石垣が今でも残っていました(これはすごい防御だ!)。本丸に着くと反対側の北側は切り立った斜面。この城は難攻不落と言われていたようですが、確かにうなずけました。

二の丸から本丸へ行く途中には小さな展望台があり、玖珠盆地や伐株山、遠くは久住山まで見渡せました。とても爽快な眺めです。本丸は工事中、発掘調査でしょうか? ここには櫓が建っていたようです。

最初の築城者は大友配下の玖珠群衆の一人、森氏であったとされています。北上する島津氏(おそらく岡城から転戦してきた義弘)の猛攻にも耐え城は落ちなかったようです。豊臣時代に大友氏が滅亡すると、直臣の毛利高政が入りこのような石垣を築きました。しかし高政は、九州の関ケ原では西軍に付くも、黒田官兵衛の説得でここを開城して東軍に寝返り、藤堂高虎の口添えもあって家康からは取り潰されず、佐伯城へ転封となってかろうじて生き残れたようです。

関ケ原後は、村上水軍の来島氏(久留島と改名)が入ります。海賊が山城に来るのは、さぞかし抵抗があったではないでしょうか? しかし能島氏は秀吉の命で小早川の家臣となるも断絶、因島氏は毛利の家臣をなって細々と生き残り、唯一豊臣秀吉から本領を安堵された来島氏ですが、その後の関ケ原では西軍に付くも、福島正則の口添えで何とか生き残り、もはや存続のためには家康には逆らえず山に上がったのでしょう。しかし1万4千石の陣屋大名であったため城を持てず、麓に陣屋を築いて居館としたようです。

次は、零汰さんおすすめ、麓のその久留島陣屋へ寄ってから、周辺を観光してみたいと思います。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

城地種類 山城
築城年代 弘安年間(1278〜1288)
築城者 森朝通
主要城主 森氏、毛利氏(藤原氏)、久留島氏
文化財史跡区分 国史跡(角牟礼城跡)
近年の主な復元・整備 毛利高政
主な関連施設 説明板
主な遺構 曲輪、石垣、土塁、竪堀、虎口、井戸
住所 大分県玖珠郡玖珠町大字森大字太田
問い合わせ先 玖珠町役場
問い合わせ先電話番号 0973-72-1111